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2004年7月1日(木)  

 29日のH小学校の全校児童による朗読会はとても素晴らしいものでした。全部で12の動物のチームがあって、そのチームは1年生から6年生までで構成されています。むかし、縦割りで通学したり、掃除をしたり、運動会でリレーしたりは私もした事がありますが、体育館で朗読会というのは、大変珍しい催しです。これを発想された先生、すごいなあと思いました。そして、私をその朗読の講評者として招いてくださった校長先生もすごい。

 「じゅげむじゅげむ」を全員でやったり、かえるの詩でピョコピョコ跳ねたり、象さんの詩では、床をドシンドシン踏んづけたり、早口言葉をものすごく早くスラスラ全員で言ったり、タンバリンで拍子をとったり、とにかく先生はニコニコ見守っているだけで、高学年のリードで低学年を包み込むようにして、心を合わせて一つの作品にしていました。

 全校生徒の前で、全部のチームを講評するのは、なかなか大変な仕事でしたが、何とか皆の労をねぎらい、褒め、そして、ちょっとしたヒントを与えられたかなあ・・・ってとこ。

 

2004年7月1日(木)  

(その2)

 30日朝9時半。埼玉県の南羽生という駅に降り立ちました。タクシーがなく、荷物を預かってくれる所もない農村の只中の駅でした。目指すは「翁抗日反戦美術館」
 
 翁さんたちは、自分達の暮らしてきた埼玉の地で、絵画や資料で日本が行った侵略戦争をみつめ、ともに戦争のない未来をきり開くよう美術館を計画しました。
 
 資金の関係で敷地内の20坪の既存建物を美術館に、設備を整え自分達だけで作る方向で、まず工具から揃え、失敗しながらも、1996年の7月7日、やっと絵が掲げられるようにしました。展示の中心は反戦平和を描く画家として活躍してきた郭培育氏をはじめ、複数の中国人画家の作品で、日本の侵略を被害者の側から、絵筆で鋭く告発。戦争に対する平和の絵、中国的絵画も多数揃えました。他に南京大虐殺死難者遺族からの手紙、南京市より送られた石や関連する書籍や中国南京大虐殺記念館から贈られたビデオなども。
 
 パネルの展示には、毎夏南京大虐殺遇難者とその遺族の方達と交流し支援を10年間続ける銘心会、新宿軍医学校跡地で発見された人骨(731部隊関連と言われる)の真相究明を7年求めてきた「人骨問題を究明する会」、韓国人元日本軍「慰安婦」への支援と日本政府の直接の謝罪と個人補償の実現へむけて埼玉で活動している「ハルモニを支える会・チョガッポ」、チェルノブイリ原発事故被害者を支援し核の問題にとり組む「チェルノブイリと核の大地写真展事務局」の四団体の協力を得たとのこと。

 高校生や市民の学習会・討論会等にもおおいに利用してほしいと夢見て私財を投じ、多くの人々の平和への想いを濃密に込めた美術館でした。

 ・・・過去形です。電話が通じないので、私が番地からネットで調べた地図をたよりに、食い込む荷物を右肩に左肩にとしょいながら歩くこと50分。訪ね当てた所は去年の3月に全焼したという「事実」でした。右翼の放火か・・と一瞬思ってしまったのですが、草を燃やしていてアッという間に燃え移ってしまったのだそうです。近くで作業をしていた農家の方が教えてくださいました。セイタカアワダチソウが背丈ほどに伸び、ヒメジョオンが寂しげに咲いていました。どこへ行かれたのか、その後はハッキリしないとのこと。「人間が持てるものって何だろう・・・」。深々と合掌してから又50分の道のりを歩きながら、私は翁ご夫妻の無念を想いました。本当に人間が地球に遺せるものは何なんでしょう。

2004年7月1日(木)  

(その3)

 御茶ノ水駅から徒歩1分。駅の目の前にフリーの編集者のSさんの仕事場があります。黒いブラウスに汗の塩?が白く噴き出して波を描いていましたが、何とか約束の時間に飛び込めました。

 そこは又別世界。ほんほんほんほんほん本本本。スキンヘアーのSさんとアシスタントの方はアットホームで目がいつも笑っていました。優しい、ちっとも疲れない暖かい雰囲気に心が和みました。作品の疑問点をいっぱい拾い出されていましたので、一つ一つ吟味。持って行ったたくさんの写真から30点前後を選び、私が一番好きな写真を表紙に使うことになり、嬉しくなりました。

 出版してくださる合同出版も歩いて5〜6分の所。Sさんと明治大学のキャンパス前を散歩しながら出かけました。ビルの3階の一室。出荷用に梱包したほんほんほんんほん本本本本本!!!皆本の中で仕事をされていて、本の谷間におかれたテーブルで社長さんとお話しました。よく人の話に耳を傾けられる方という印象。今回、本当に私はラッキーでした。自費出版でもなく、企画出版でもなく、双方でリスクを分け合う、共同の出版で、先の出版社の提示した額の半額で済むようになったし、何よりも社長さんは、私の作品を既に3度読み直し、関連の書物も資料として読んでいてくださったのでした。

 話は尽きず皆で食事をすることとなり、もんじゃ焼きのお店で乾杯。行きつけのお店とのことで、レジには「九条お郷言葉」の宣伝がしてありました。御茶ノ水の駅までSさんと社長さんにお見送りをしていただき恐縮恐縮。深夜ドリーム号に乗って、先ほど帰宅しました。宿題がいっぱい出ましたが、やるっきゃないね。

2004年7月2日(金)  

 2時からと5時からとお客様とお話。どっちも簡単ではないけれど、気持ちに負担のない、ありままを語れるお客様。自分の心を解放できる会話は楽しいです。

 午前中はネットサーフィン。する予定がないのだけれど、調べているうちにどんどん深みにはまって行きます。やっぱり父親の軍隊体験を語り継いでいる人はいて、読んでいると私の心は安まります。気にしていない人は気にしていない。私は気になって仕方がない。そういうことだと思います。父を尊敬していたかと言われると、絶対「尊敬していなかった」と言い切れます。好きだったんでしょうと言われれば、そうでもないのです。家族の物語は複雑でした。乗り越えたいのです。責任を果たしたいと言ったらいいのでしょうか。私は私でありたいのです。

 友達がダイエットに成功しつつあり、うーむ! うーむ!
ぶくぶくと ああブクブクト BUKUBUKUTO 。なんとかしなくっちゃ。

2004年7月3日(土)  

早朝、散歩がてらに徒歩で実家へ。7時前だったのに母はもう畑に行っていていませんでした。地下鉄と市バスに乗って、名古屋の東の端から西の端までせっせと通って、旧居の余地にわずかばかりの健康農園を作っています。

 私は泥棒宜しく侵入して、父の本棚から「戦友」(昭和戦史研究会)「歩兵第六連隊歴史」(歩六史編集委員会)を盗んで参りました。母も、家族親族も、私以外の誰もそんなものに興味を持っている者はおりませんので、盗まれたとは誰も思いませぬ。A4で6cm、7cmの分厚い本を運ぶのに、又車輪つきの買い物バッグを盗んで放り込み、家まで引っ張って歩いてきました。

「戦友」なんてすごいです。ボール紙のケースに8人の顔写真が並んでいます。蒋介石・東条英機・チャーチル・ヒットラー・スターリン・マッカーサー・山本五十六・山下奉文・・・。これを両方読むと、中部地方から出征した、かなりの兵士達の戦況が分かります。父の記録の確認作業の為に、私は拾い読みをしようという訳です。

 午後から愛知県体育館へ。NHKの大相撲夏場所中継車の裏ッ側に「ちゃんこ部屋」があって、私は今日からそこで短期集中のアルバイトをするのです。年齢制限なしの仕事。ごはんをせっせとお弁当のおり箱に詰めるのです。1ヶ月以内にに三桁にならんとする金額を突然独りで用意するはめになった私は体を張って稼がざるをえません!アーメンソーメン、チャンコナベ。

 「歩兵第六連隊は名古屋城の一角(今の愛知県体育館)に隣接し、他の兵科の連隊二、師団司令部、旅団司令部があった。何れも名古屋城の南と歩兵第六連隊は内堀に沿って東南角に位置し、周囲は堀の高い石垣に包まれ、堤防は雑木や松の林で鬱蒼としていた。現市役所の北から清水口の外堀まで東練兵場があり、国立病院の北端を号砲兵台と言った。北練兵場は黒川の流れに沿って東方に延び、とても広くかすんで見えた。勿論庄内川まで家はなく・・・」

 と父は書いています。彼は、1932年1月10日、この、今の愛知県体育館の地に軍人目指して入隊の足を運んだのでした。70年後に、彼の娘は、彼が緊張し切って立った、同じ場所で、しゃもじでご飯をよそう仕事をしています。彼の記録を世に出すために。

2004年7月4日(日)  

朝7時から夜5時30分まで。ずーーーーーっと立って、しゃもじを握っていました。あ、5分間だけ座ってカレーライスを食べさせてもらいました。今日は大相撲名古屋場所の初日。随分お弁当が出て、1000食ぐらいのご飯を詰めたと思います。忙しかったです。

 「ちゃんこ場」と言って、関取も気楽に食べに来ます。呼び出しの方も衣装のままいらっしゃったり。面白いです。相撲の裏舞台に、こんな人達がいたんだって初めて気がつきました。升席でたべていただく弁当は、2100、2800、3300円なんて種類がありますが、「親方弁当」という特別のものもあって、やっぱり親方用です。ご飯をギューギュー詰め込みました。

 出来上がると、名古屋大学や南山大学の何かのサークルの学生達が、竹網の買い物籠のようなものに入れて、走って届けに行きます。しんどいしんどい足がジンジンする一日でしたが、相撲を見る人のお弁当を作る仕事の何て平和な事!と感動しました。

2004年7月5日(月)  

大相撲夏場所2日目。楽勝! いやいや、私が相撲をとった訳ではございませぬ。「ちゃんこ場」のお弁当は、今日は昨日の半分ほども出なくて、なんと、お手洗いに行くついでに取り組みの見学を2回もしてしまいました。今日のご飯盛りの相棒は、名大経済学部4年生のA子さん。昨日のアルバイトさんたちは名大の相撲部の学生さんたちだったらしく、「ゼミで同じ子が面白いアルバイトがあるよ」と紹介してくれたという事でした。

 A子さんと最上階の入り口に行った時、外人女性から、土俵をバックにして写真を撮ってほしいとたのまれました。二人でOKしたら、そのまま外人女性どこかへ。かなり経ってから戻ってきたので「とっても心配しましたよ。ちっとも戻らなかったから」って言ったら、お手洗いで奇麗に髪をブラッシングしてたと言うのです。その後お相撲さんを捕まえて、一緒に写真を撮らせてくださいと・・・頼んであげて・・・パチリ。

 色々分かってきました。外人さんなど、ツアー客が多いんですね。若貴時代は本当に盛り上がっていたそうで、毎日満員御礼だったそうですが、このところそれほどのスターがいないという事なのでしょうか、お客さんが随分減っているそうです。その代わりやっぱり外人さんのお相撲さんがご飯を食べに来たなどと、皆が騒いでいます。選手も観客も外人さんばっかりになるとどうなるのかな?

冷房のきいた部屋で扇風機をかけながらご飯をしっかり冷ましてからよそいます。だから、けっこう硬くなってて力仕事です。今日は保健所の査察が入って検査官は、特殊な機械でおかず等の温度を計っていました。食中毒の防止のためにとにかく、よーく冷ますのが「お弁当」のコツ。

 

2004年7月6日(火)  

今日のご飯盛りの相棒は内モンゴルからの中京大学留学生Kさんでした。もう、まさに草原で採れましたって顔や性格。シリンホトへ行った話をしたら、盛り上がってしまって、おしゃべりで、あっと言う間に一日が終わってしまいました。どう考えても今日はアルバイトをしていたと言う気がしません。

 彼女の故郷はオルドス。羊を千匹飼っていて、牛や馬、山羊、犬もいます。裕福な方なので、お父さんが羊を売って、留学の費用を調えてくれたそうです。貧しい家庭の子は小学校5年を終わるともう、家庭の仕事を手伝わなければいけないので、勉強が続けられないとのこと。
 お母さんは根ッからの草原人で、首都へ出ても、空気がわるいので、すぐ帰りたい帰りたいと言うそうです。トイレも臭い臭いと言って・・・。草原でするのが、臭くなくて、一番気持ちいいって彼女も言っているのですが。私もそれはそうだろうなと思ったしだいです。

 彼女は内モンゴルの芸術大学を卒業していて、馬頭琴や二胡、四胡の演奏が得意とか。今度是非聴かせてねと約束までしてしまいました。

 今日もお手洗いのついでの相撲観戦。彼女は目がとてもよくて(モンゴルの人の視力はすごい!)いっちばん後の椅子席から、控えに座っている力士の名前を言うのには、びっくりしました。名古屋出身の力士とモンゴル出身の力士がちょうど闘ったのですが、彼女は「モンゴルダメ、あの人弱いよ」とまったく応援しません。やっぱり負けました。

 今日も半分の入り。相撲ファンは減っているんでしょうかねえ。

2004年7月7日(水)  

 『しゃもじを持って何やら忙しいらしい』という噂が飛び交っています。噂を撒き散らしている張本人は、日記を公にしている私でありますが。母が「やっと地に足をつけた仕事をしてくれるようになった」と、電話で感激の言葉を述べていたそうです。本の出版については「そんな恥ずかしい事、まあ止めやあ!」の人ですので。

 しゃもじの仕事ぐらい簡単とお思いでしょうが、皆様。これがなかなか難しい。今日は、ご飯を9個余分に折り箱によそいすぎて、余ってしまったのです。ご飯はどうにでもなりますが、1度使った折り箱は水分を含んでしまうので使えなくなります。で、おかずの折とセットですので、おかずの方の折り箱も9個ダメということで・・・・。どうしたらいいでしょぅと問えば「そんなミス、今までやった人がないのでわからない」との返事。『うえーっ!2800円の弁当9個買って帰るんかなあ』と覚悟した時、「女将さんに聞いたら、出方さんに食べてもらうからいいといってたから」とのこと。やれやれです。「出方さん」って単語がやけに心に残りました。

 仕事の暇な時、皆のお喋りが弾みます。「今日は七夕祭りで私の故郷のニュースを絶対やるから見てね。すっごく賑やかなの」なんて。

 私は一人で『盧溝橋事件の勃発した日。中国の中央テレビや人民日報の今日のニュースはどんなかなあ』なんて思っていました。8月8日には、日本軍が北京に入城。8月15日から南京の爆撃が始まります。父のいた師団に動員下令があったのは、8月19日。この名古屋城の体育館辺りに勢ぞろいして、名古屋港から上海に向け、大勢の若者が兵士として帰らぬ悲運の旅(?)に出たのでした。そして中国軍と日本軍の若者たちの累々とした死体の山。

 7月7日。体育館で両国の平和を願って合掌。

2004年7月8日(木)  

お相撲の取り組みは、朝8時半からちゃんと始まっているんですね。いえいえ、ちゃんこ場の仕込みをする人たちは、朝、3時4時から出勤してきて、料理の準備をしています。
警備の人達、ゴミの整理の人達(毎日ごみ収集車が来ています)。私が出勤する6時50分頃には、6軒くらいの案内所にはっぴ姿の人達が準備を始めていますし、玄関には、「今日のストラッププレゼントは朝青龍」とかと張り紙がしてあります。そして我がちゃんこ場では、朝ごはんを食べている、出方さんたちの姿。NHKの中継車も、三台の車が並んで、その屋根と周りをまるで車の家のように葦のすだれがとりまいています。もちろん準備をしているスタッフも。

 私の仕事が終わる午後5時30分は、いよいよというか、やっと取り組みが盛り上がる時間。今日は雅山の面白い相撲を見学しましたが、最上階からざっと見回しても、本当に多くの人達が支えてできあがっているイベントであることを思い知りました。

 テントの屋根に葦のすだれだけの「ちゃんこ場」でご飯をたべている浴衣姿のお相撲さんが、「死にそうに暑い」とおっしゃったので、「死なないで頑張ってください」と言うと、「有り難うございます」とにっこり笑っていました。

 お相撲さんではない私にも、皆さんから激励のメールが続々です。有り難うございます。最高傑作は今日届いた郵便物で、「お金がたまる飴」という「どうでも医院」が処方した薬袋。用法は、お金を使いたくなった直後1回ずつおなめ下さい。効能は、ほしいものを買ったつもりで飴をなめれば、お金を使うのをガマンできる・・・など。笑わせて頂きました。

 もっと笑ったメールの話はもうしばらくして書くことにします。とにかく有り難うございました。服部美恵子もダメ元で、マイケル・ムーアに手紙を書きました。人がどう思おうとどうでも良く、やりたいことをやってみる事に価値があるんですよね。ワガママな奴と言わば言え! 暑いけど、気持ちはとっても涼しいです。

2004年7月9日(金)  

たかがしゃもじ、されどしゃもじ。なかなかお勤めするということは、皆さん誰でも厳しいものですよね。のろいとか下手とか言われようと、私はアングリー状態になれる身分ではござらぬよって、ハングリーにて踏ん張っておりますです。何とかなるさ。

 夜は、来客とともにお相撲さんの食べる鶏弁と親方弁で夕食。張陽が取材を受けました。幸せいっぱいだという彼。愛情をいっぱい受けて育った子だなあといつも思います。毛沢東が亡くなった時、国中が悲しみ色に染まって、教室でも先生が色々偉大な毛沢東の話をしたそうです。すると皆が泣き出したのに、クラスで2人泣かない子がいたそうで、張陽はそのうちの1人だったとか。「どうしても悲しいという気持ちが湧かなかった」とあっけらかん。それで先生に後で呼ばれて、何故泣かないのだって叱られたそうです。

 幸せとか戦争とか、国家とか、個とか・・・ずーーーっと皆で話していて、静かに幸せな夜はふけていきました。

2004年7月10日(土)  

朝も夕方も雷。何かが潤えばいいのだけど。
今日は満員御礼が出まして、体育館は満席の大賑わいでした。私達の忙しさといったら!!!私のタイムカード、6:50~17:58まで、座ったのは、食事中の6~7分だけ。ずーーーーっとご飯を折り箱に詰め続けたのでした。でも、昼食にお相撲さんとちゃんとお話したもんね。

 「お部屋はどちらですか?」「境川部屋です」「宿舎は遠いですか?」。「1時間くらいかかります」「大変ですね。故郷はどちらですか?」「青森です」「お相撲さんになったのは、先輩なんかを見て憧れたからですか?」「先生に勧められて入りました」「頑張ってくださいね」・・・。恥ずかしがり屋の学生と話してるような感じ。強くなってほしいものです。

 へとへとになって、体育館の出口である名古屋城の東門を出ると、地下鉄市役所駅の入り口まで、お堀にそって、ずらーっと参院選の各候補者が最後の陣を張って、まるで花道のようです。満員御礼のあるじ様たちをキャッチできたのでしょぅか。

 ああ。もうだめ。眠いです。

2004年7月11日(日)  

参議院議員選挙は千秋楽ですが、相撲は中日。中日祝いという風習があって、ちゃんこ場からは出方さんたちにお赤飯が振舞われました。私達にもそれはまわって、おにぎりにして頂いてきました。

 しかし、まあ今日も満員御礼。よくお弁当が売れるのです。とにかく恐ろしいまでの忙しさ。昨日を上回って、相棒と2人で、1200~1300食は折り詰めをしたようです。あったかいご飯なら、本当にサクサクと盛り付けやすいのですが、何せ、よく冷めて、しっかり固まっているご飯を、エイッエイッとほぐして盛り付けるのですから、手が腫れてしまい、右腕が痛い!立ったまま、11時間。昼ご飯を掻きこむ他は完璧に休む時間なしの、ひっきりなしの作業なのです。えらい仕事でござりました。お弁当作りの舞台裏はこんなだったのかと、よい勉強になっています。

 で、お手洗いに走って、そのついでにパッとみたのが偶然高見盛の一番。会場のすごい反応は、やっぱりナマならでは。ものすごい声援でした。

 帰宅後投票に行きました。開票速報だと、喜納昌吉さんは、晴れて国会議員になられたようです。市民派の候補も気になるのですが。ですが、今のあたいはネムーイ。ので、お休みなさい。これを堕落と呼ぶのでしょうか。

2004年7月12日(月)  

 昨日の事が嘘だったような静かな日でした。でも、又又大失敗。ご飯を15個よぶんによそっちゃったもんね。いくら何でも一番安いお弁当といえども、15個もお弁当買って(2100円×15)家に帰れないもんね。「弁償します」と言ったら「弁償すればすむと言う問題じゃあないでしょう。折り箱は木だから、高いのよ」ときつーいお言葉・・・ほんとにトホホの私でした。昨日の失敗は、呼ばれて振り向いたら大笑いされた程度だったのにな。私のほっぺにご飯粒がついていたんです。

 でも、しょげてても、ちゃんとお手洗いにも行くし、帰り道にひょいと土俵を覗く事も忘れません。今日もちょうど高見盛の取り組みでした。場内が揺れます。ああ。私、呼び出しになりたい。かっこいいなあ。

2004年7月13日(火)  

「がま口日記」がいつのまにか「ちゃんこ日記」に成り果てていますが、今日は見ましたぞ。ちゃんこ場へ貴乃花がやってきました。何か痩せてちっちゃくなっていました。私達がじろじろ見るせいもあるでしょうが、たちまち簾がスルスルと下ろされて、やっぱり特別扱いでした。
 夜、コンサートのアナの仕事の打ち合わせに出かけるまで時間があったので、ちゃんこ場の仕事が終わってから、初めて最後の二つの取り組みと、弓取り式、そして、関取達が車で帰るのをファン達が見送る場面まで、お付き合いしてしまいました。ガードマンのおじさんが「皆さん、正直言って窓に黒幕張ってますからみえませんよー」。でも、ファンは必死に見送ろうとするのです。ありがたく、又、迷惑なものでしょうか。終了の太鼓の音が軽やかで、暑さをいっとき忘れさせてくれました。

 最後の取り組みが終わったら、すぐ会場でパソコンの写真を見ながら記事を送信していた記者さんがいました。私もずーーーーーっと以前、中京テレビ時代の先輩で、その後テレ朝に移られて、大相撲ダイジェストを担当されていた山崎アナに記者席の近くに入れていただいたことがありますが、相撲には、しゃもじを握る仕事からマイクやペンを握る仕事まで、実に多くの仕事があるものです。

 先日「燕の中国便り」の燕ちゃんが、私の日記を読んで何を思ったか、

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「どうして弁当屋さんになったのかよく分からないのだけど、何はともあれ、さっそく、勝手ですが、式守与太夫さんという中国公演の際、お世話になった気さくで、人間味に溢れた行司さんに報告して、もしお弁当おもらいに行くことがあれば、坂東さんという人は私の友達なので、尋ねてみてくださいねとメールに書きましたよ」。
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 たまげたたまげた。そしてひっくり返るほど笑いました。与太夫さんは今日は海鵬と琴龍の取り組みなどの行司をされていまして、とても位の高い行司さんです。そんなあ!お弁当を自分で買いにいらっしゃるはずないし、私がお弁当売ってるわけでもないよお!朝8時45分頃から始っている取組の行司さんたちは素足です。でも、取組が後になるほど、白足袋をはいて、美しい衣装の行司さんになります。今日の最後の木村庄之助さんは、紫の煌びやかな衣装で、本当に威厳のある、フォームの美しい行司でした。

 それで、私はやっぱりこちらから、燕がお世話になったご挨拶をしておかなくちゃ、どうして、北京のアナが名古屋でしゃもじを持っているのかと頭が混乱されないように、お手紙を書きました。そしたら、こりゃ、土佐の海さんにも、伊勢の海親方にも、無断でホームページに登場していただいてもいるわけなので、挨拶しなくっちゃと思って、計3人に手紙を書いて、相撲協会の方に託けました。ちゃんと渡しますと約束してくださったので、今頃は、もうお三方は、私の手紙を読んでくださっていると思いますが。はて。
そんな訳で、今日も眠いです。お休みなさい。

2004年7月14日(水)  

暑い暑い一日でした。お昼過ぎの事です。いつも私に注意をして下さっている(叱っている)部屋の責任者の女性に呼ばれたので行くと、Sさんという男性が、私の名刺や手紙を持って私を尋ねているところでした。何と式守与太夫さんがSさんをお使いにして、私から親方弁当を買って来て上げなさいとおっしゃったのだそうです。そして、「平成16年名古屋場所の絵番付」という関取がずらりと絵で描かれたものをプレゼントして下さったのでした。Sさんも北京へ行かれたそうで、「王小燕さんのお陰で、私たちもとっても楽しく過ごす事が出来ました」とお礼を言われたのです。ちょっとの間のことでしたけれど、お弁当も一つ売れて、背後の女性に『へん!どんなもんじゃ!』って感じでございまして、私はいつもの失敗の汚名を返上。ありがたいことでした。王小燕にも感謝感謝。

 それにしても何て優しい行司さんなんでしょう!電光石火の対応に感激してしまいました。「実るほど頭をたれる稲穂かな」と、昔から家でうるさく言われて育ちましたが、心配するほど実っていない我が人生。式守さんに改めて教えられた気がしました。

 もう一人、ちゃんこ場にいるシェフがすごい!一流ホテルの料理長さんだった方だとの噂ですが、今は退職されて、頼まれた短期の仕事や、学校での講師の仕事以外はもうしていないという70歳ちょっと前くらいの方。とっても優しいのです。ピーマンを切っていらっしゃったので、横でジーッと見ていたら、「主婦は全部使うでしょう。捨てんよね」とにっこり笑って振り返られました。頭をたっぷり切り取って、縦半分に切ってから千切りにするんですけど、その前に半分のピーマンをまるで魚を三枚におろすように白い芯を切り取っていました。同じ材料なのに、魔法の「手」にかかると、見て、食べて美味しくなるんですねえ。

 それで、夕方になると審判員の方たちのお弁当の注文が入って、日に日にその数が増えています、シェフの腕がいいからだと皆が言っていました。夕方はまるでショーが始るように皆がシェフの作る豪華弁当の折を見守っているのです。作り方を聞くと、とっても気さくに教えてくださるので、本当にちゃんこ場に来てよかったなあと思います。
 それにしても、この眠さ!でも、あああぁぁぁぁ。今からまだお洗濯が・・。あと4日。頑張るぞ。

2004年7月15日(木)  

  がま口塾の会員さんから、汚名返上、名誉挽回の誤用を指摘され、ゲエッ!そんな事書いてたんだあ!ほんと、自分の頭の中では、汚名返上だったのですが、何度見ても、汚名挽回になっています。笑っちゃいました。

 昨日、この日記を書いている最中に色々電話がかかってきて、頭はもう眠くて眠くて朦朧としていて、「高見盛のストラップがほしいんだけど」という依頼に、『えーーーどうしよう、そんな時間全くないもんねー』などと考えながら、フラフラ布団に向かって、ドターッと豚睡(こういう言葉があるかどうかわかりませんが)したのでした。先日の「拝見していただいて」でしたっけ、どう間違えたのかも分からないくらい奇怪な誤用をした時もそうでした。クタクタになっている時、そんなもんですね。コレが実力でしょう。ただただ恥ずかしいし、指摘してくれる友達・会員さんに囲まれている自分は本当に幸せです。又、読者の皆さん、私の間違いを色々教えてくださいね。

 芥川賞・直木賞が発表されましたが、私は何回生まれ変わっても受賞できないでしょう。しゃもじも後3日。再びペンを握る日が来るでしょうか。このまましゃもじ関連作業に勤しむことになるでしょうか。

 座布団が飛んだ話。升席に税金対策を睨みつつ、自分が負担して招待する話。老人会、企業、○○会議所、PTA、人脈の限りを尽くして人集めをしている人達がいることも知りました。お茶子さんたちが、ここ2〜3年ですっかりフリーターの若い女性達の仕事になってしまって、昔の年配の方たちがすっかり総替えになったこと。ひいきの旦那衆につけば、心づけがけっこうな収入になって、お客さんをとりあうデッドヒートが繰り広げられる事、お弁当を、テリトリー外に売ってはいけない取り決め・・・エトセトラ。

 色々、相撲界の周辺事情もだいぶ耳に入ってくるようになりました。野球もファンをつなぎとめるためにアレコレ苦労をされているようで。

 59年前の日本軍の毒ガスが日本の各地にあって、その被害に苦しんでいる住民の方が「どうして戦争の被害を今頃になって受けなければいけないのか」と言っていますが、戦争とは、まさにそういうものですね。時の政府は絶対責任を取らない。取れない。当時戦争に反対した人々はいつまでもマイナーなまま。本当におかしな日本です。しゃもじをもったり、座布団を投げていられる幸せ。

 こんなに暑い中を、政府のいう大東亜共栄圏建設の為出征して行き、亡くなっていった人たちを想いながら、今日も蝉のジージーという鳴き声を聞きつつ、名古屋城のお堀ばた歩いたのでした。

2004年7月16日(金)  

新潟の豪雨、大変ですね。ボランティアに駆けつけられる方たちを心から尊敬します。私はあいもかわらぬちゃんこ場生活で呑気すぎるような気がします。

 今日は二子山親方とすれ違いました。すっかり痩せて小さくなられ、ごくごく普通の街のおじいちゃんって感じ。何はともあれ、相撲一道、『いいなあ・・・』とおもいました。

 キョゥも満員御礼。明日明後日は想像を絶する忙しさだと皆に脅されています。いざ・・・寝ましょ。

2004年7月17日(土)  

編集のSさんから、メールで表紙が送られてきました。月曜日には初校が入る予定です。涙がポロポロ出てきました。

 今日も満員御礼で1000食以上出ました。夢中で働いていて、5時15分頃お手洗いに行ったらお手洗いにズラーッとながーい列。仕方がないので、ちらりと会場へ。ちょうど式守与太夫さんの行事でした。土俵下に転がった負けた力士の様子を伺う与太夫さんのしぐさに、何故かとっても暖かいものを感じました。人間性が滲んでいたといったらいいのでしょうか。相撲はあまり興味がないし、今まで行司さんにそんな事感じたことないのに。人を知るっていうことは、とても不思議なことだと思いました。

 冷房のきいた寒いくらいの部屋とも明日でお別れです。指令の女性が1人。焼き鳥を包む係りが2人。シェフと3300円の弁当、親方弁当などを作るパートに2人。2100円と2800円のお弁当を作るパートに2人。全ての弁当にごご飯をよそう係りに2人。包装に2人。案内所に配達する係りは大学の相撲部の学生など2人。これだけがチームでM店からのお弁当を出していた事になります。ほかに厨房にも大勢の人。現場でのお茶子さんも大勢。

 明日は午前中に1200食の予約弁当を作ってしまって、午後からは片づけを始めるそうです。又来年の夏、このプレハブハウスが建てられ、ちゃんこ場が甦るというわけ。で、明日は30分早く出勤することと言い渡されました。部屋で1人だけ皆より1時間早い出勤だった私は更に早く、5時半の地下鉄の始発に乗らなくてはならないみたい。ホント怖い怖い。2人で1200の折り箱にご飯を詰めます。それで終了。頑張る!

2004年7月18日(日)  

ドサッドサッと業務用の大きなパッドから、業務用のゴミ袋に食べ物が投げ込まれます。さっきまで、一個一個、けっして数を間違えないように慎重に折り箱にセットされていた海老や唐揚げやフライやタコや筍や・・・衝撃の終末でした。

 毎日清掃車が何台か来ていましたが、夕方になると、自転車に空き缶等をいっぱい乗せて帰る初老の男性達が10数人たむろしていました。中にはゴミ箱からお弁当ののこりものを拾って食べていた人たちもいたとか。ならば、千秋楽の残り物は彼らにあげたらいいのに、それはできない事らしい。ほかに予めどこかの施設に話しておいて、とりにきてもらうとか、色々ゴミにしない方法もあると思うのですが、私達だけが戴くには、あまりにも多い量で、考えさせられました。

 お相撲さんたちがお昼に食べていた鶏丼があんまり美味しいので、どうやって作るのかと興味津々。タレが決め手らしいと睨んでいたのですが、何と、タレ1リットル入りを業者さんから戴いてしまいました。これもダンボールサイズの残り物。

 重いお土産?をぶら下げながら仲間とお城を出る時、雅山関がお供をつれて歩いていました。さっきまで朝青龍と優勝争いをしていて、負けたのでしょう。くやしそうにカッカッと歩き、うしろから、追いかけるように荷物を持った付き人のお相撲さんが歩きます。一般の人と同じタクシー乗場から帰って行きました。優勝力士はそのままオープンカーでパレード。これぞ勝負の世界なのですね。勝ったと負けたの違い。

 私だって選に残れず、突然出版の為の費用が必要になってこうしてバイトをするハメになったんだもん。雅山の気持ち分かる。(比較の対照ににするにはスケールが違いすぎるのでござるが)一等賞になっていたら、今頃賞金100万円で「チベット1年のひとり旅」なんてやってるわい!

 バイト料を戴いて、皆と「又来年も会いましょうね」という挨拶もモゴモゴ。とにかくハングリー精神で頑張りました。今年初めて参加したアルバイト広告を見て来た仲間は私を入れて4人でしたが、うち2人は3日目と5日目に辞めていきました。とてもテキパキ働く人達だったのですが、人間関係に潔癖だったのです。もう1人も、休みなしの仕事がきつく、もう辞めよう辞めようと言いつつ、ついに千秋楽を迎えることが出来ました。昔、ガングロのオネエチャンが2人バイトに来た事があったそうですが、仕事中すれ違うのに「ババア、ケツがじゃまだあ」とか食事に誘えば「テメエが行きてぇからだろ」とかの暴言を連発。外で煙草をふかして有名になって3日間であえなくクビになったことがあるそうです。もう何年も続けている人たちから、貴重な話を色々聞かせてもらった日々でした。確実に時代が変わって、相撲はかつての勢いはないようです。

 私も仲間の皆の励ましで、無事、休みなしの立ちっぱなしの労働に耐え抜く事ができました。感謝、感謝。新しい世界を見ることもでき、有意義な15日間でした。

 帰宅したら、初校が届いていました。なんというタイミング!感動です。さて、明日からは又、原稿と取り組みます。

2004年7月19日(月)  

福井や新潟の豪雨、本当に自然災害は恐ろしい。ニュース画面を見ていると、伊勢湾台風の時を思い出します。
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<伊勢湾台風>

 昭和34年9月26日。5000人を超える死者・行方不明者を出した伊勢湾台風は、正式には台風15号である。災害対策基本法制定のきっかけにもなった。伊勢湾の西を通過したのは夜。名古屋市南部は満潮時と重なり水浸しとなり、流木で埋まった。名古屋台地は水にはつからなかったが、一抱えもある大木が根こそぎ倒れた。
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 港区や天白区は特に死者が多かったのですが、港区に隣接の中川区の私の家も床上浸水。生活の糧であった工場は倒壊水没して倒産しました。一ヶ月の疎開生活。市内中村区の叔母の家から豊臣小学校に通いました。私の人生もこれで随分変わったと思うのですが、ご丁寧に結婚後も岐阜の安八郡の堤防決壊で、またまた床上浸水。泥水災害の辛さは身に沁みています。人生が変わったのではなく、これが人生なのでしょう。現地の皆さんのご苦労を思うと、どうか頑張ってほしいと思います。

 初校を涼しい近所の不二家レストランで4時間粘って読み通しました。いっぱい訂正箇所が出てきて、編集のSさんにもご苦労をおかけしています。こんなものよくもまあ応募したもんだと、今更ですが、冷や汗が出て来ました。でも、後戻りは出来ません。精一杯良いものにしあげなくっちゃ。

 私の隣には、私より先に来ていて、私が去るときもまだいた若い男性がいました。イヤホーンで何やら語学の勉強をしているようでしたが、コーヒーを何度も堂々と大声でおかわりしていましたので、内心可笑しかったです。パソコンを持ち込んで打ち続けていた若者もいます。私、今度引越しをする時は、絶対に図書館のそばにする。冷暖房完備。無料で図書読み放題。最高じゃない?

 夜、コンサートのお手伝いの打ち合わせ。私の一番楽しいひとときです。

2004年7月20日(火)  

いったんお布団に倒れこんだのでありますが、思い直して行水して又パソコンの前に戻って参りました。どうも日記を書かないと気持ちが悪いのです。何を書くという訳でもないし、受信ボックスにはいっぱい返事を書かなきゃいけないメールがあるのに書かないまま。

 沖縄の劉さんからお中元が届きました。沖縄のお酒のようですが、私はアルコールにはアレルギー体質なので、困ったものです。律儀な劉さん。でも、今回はパソコンからプリントアウトした家族の写真付きの手紙が入っていて、それがとっても嬉しかったです。

 私が蕪湖にいた頃に生まれたしゅぅちゃんがもう小学校1年生。お爺ちゃんとお婆ちゃんに育てられていましたが、春に沖縄に連れて帰って、今は沖縄の小学校に入学。学童にも通って、家族3人、忙しいながら、元気に幸せに暮らしているようです。保証人となるには、沖縄に留学してもらわないと、何かと困るということで、たまたま沖縄に留学。その途端、私は北京へ行くし、その後又我が家は転勤で名古屋にもどりで・・・人の運命は偶然とはいえ、何か気の毒に思っているのですが、たくましく困難を一つ一つ克服して琉球大学の大学院に通っている劉さんとパートナーの王さんに拍手。沖縄も猛烈に暑いそうです。

 暑い! 一日中校正作業で、記述の最終確認の為に日本軍の戦史を読んでいると、当然日本軍の立場からしか書いてないので、あきれてしまいます。特に女性に関して、「兵の性の処理」という言葉で、簡単にモノ扱い。「2~3日清めてありますのでどうぞ」等と将校に差し出すモノとしての記述にふれると怒りがこみ上げます。60年、70年経っても、そんな感覚のままの人もいます。戦争は人権に対する最大の暴力。進化してほしいのに、戦争を繰り返してばかりの人間の世界。

2004年7月21日(水)  

朝、お布団の中で目覚めかけて、仰向けになったまま空を見ると、白い雲が静かに流れて行って、開け放した窓から風が入ってきてとっても幸せな気分になりました。夏もいいものです。

 今日は四回目の取材で最後。写真撮影でした。張陽と息子と私とディンディンの写真と。よくよく思い出したら、張陽が新聞配達のアルバイトをしていたのは、この新聞社でした。ご縁があるのでしょう。

 朝4時頃電話がかかってきて「張君がまだきませんが・・・」「すみませーん。すぐ起していかせまーす!」なんて、ちょくちょくあったっけかあ。夜は中華料理店でアルバイト。早朝は新聞配達してから大学へ行って。忙しい日々だったなあ。それが今では、パパになって、会社で部下も出来たそうで、とっても張り切っています。時も雲のように流れていくのですねえ。

 こんなに記者さんやカメラマンさんにお世話になって、どんな記事になるのでしょう。楽しみにしていましょう。

2004年7月22日(木)  

母の家の掃除。掃除機がかけたくないそうです。それで、「外出している間に掃除しといて」ですからね。ヘルパーとも言えない、やっぱりつかいがってのいい「娘」の役どころでしょう。家中の窓を開け放ち、半日洗濯機を回しっぱなしでカーテンを全部洗い、はいつくばって雑巾がけをし、庭に水をうち・・・。うーん。確かに83歳の老人にはきつい作業かもしれない。こうやってアレが出来ない、コレが出来ないって衰えていくのでしょうか。私は20数年するとどれくらい衰えているのでしょうか。体がガンガン動くうちにしておくべき事はなんでしょうか。

 さて「ボーリング・フォー・コロンバイン」に出ていた高校生に繋がりました。服部美恵子は「剛丈が動いていてくれるような気がする」って言っています。そうよね。不思議な事ばっかり。私もいつも父が何かをさせようとしているような気がしてばかり。変だよね。後は天に任せることに。

2004年7月23日(金)  

がま口塾。本当に心配でした。こんなに暑いのに来て下さる方があるのかと。でも、ちゃんと年休を取って10年ぶりに汗をふきふききてくださった会員さんがあり、又、大きな手術をして退院したばかりの方も体の鍛錬のためにもと来てくださって、本当に感動の1日でした。参加するかどうか迷いつつ、バスに乗っても、地下鉄に乗っても、歩いていても何を話そうかと考えながら、気がついたら、やっぱりがま口塾に来ていたという可愛い人も。皆さん、本当にありがとう!

 どうも昨日の母の家の掃除の疲れか、馬力がでません。途中ですが休みます。ほんと、暑くて体力がなくなっています。情けなや。でも、母からは本当珍しく感謝の電話が2回もかかってきました。奇麗な家に帰宅するのは嬉しいって。私だってそりゃあ、そうです。でも、誰も私以外に家を掃除する人はいません。母は毎月一回は私に掃除にきてほしいそうです。かくて私はそうじ大臣。疲れました。おやすみなさい。

2004年7月24日(土)  

昨日の朝、1時から4時頃まで、本のあとがきを書いていて、ちょっとでも寝ようと思ってウトウト。そしてがま口塾をして・・・。どうもそれが堕落のもとだったようで、体がダラダラになってしまいました。でも、何とかトロトロとテープ起しはしています。あと少し。(これも冷や汗物の失敗。カセットの方は速度を2倍速にしていなかったために早めに終わっており、MDの方はどう間違ったのか、途中でロックされていて半分の録音。両方で何とか全部カバーできていて、本当にドキドキでした)

 そして、明日初校の点検、つけたしや削除部分とあとがきを宅急便で送ることになっていますので、チラチラとそちらの方もやりながら、どうもしっかりしません。

 日記というものは、夜寝る前に書くものと決め込んでいた自分に気付きました。ねぼけまなこで頑張ってでたらめでも書くからダメなんですね。日記は書きたいことがあったら書けばいいのにね。ネバナラナイにまだまだ支配されている自分。ああ。それでも早く塾だよりもあとがきも書き上げたい!・・・私の堕落は暑さのせいでしょうか。あつ~~~~~い!たらんとろん。

2004年7月25日(日)  

あとがきなどを含めた初校の訂正を書き込んで、宅急便で送りました。締切日ぎりぎり。
 がま口塾便りの印刷をすませまして、ただ今辞典2冊で寝押し中。あす、発送できるかなあ。何かバタバタ。又とんでもないミスがなければいいけど。気がついた点があったら、読者の皆さんにどんどん指摘していただきたいです。さすれば助かりますです。

 午前中の雷。昼食の冷やしそうめん。夕食の焼きなす、インゲン、カボチャ、冷奴、トマト、キュウリ、梅干。何か本当にすべてが夏らしいメニューの一日でした。しその葉、生姜、みょうが、ねぎをたーーーっぷり刻んで。これに風鈴、縁側、うちわ、線香花火、蚊取り線香、蚊帳があったら、40数年前の我が家です。むしょうに懐かしく思い出されます。

 豪雨被災地に千人のボランティア。気持ちがいいニュース。私は何もしないで自分のことばかりに関わっているんですけど。みんながやれる時に、やれることを、お互いに順番にやりあえればいいねと・・・夕食のテーブルで話し合っただけの我が家でした。早く復興するといいですね。

2004年7月26日(月)  

一晩かけて塾便りの寝押しはしっかり出来たのですが、何か皆さんにお手紙を一言でも・・と思ってお顔を浮かべては走り書きを書いていると、どんどんどんどん時間がたって、おまけに最近字を書いていない(パソコンばっかり!)ので、手が痛くなってびっくり。退化しています 
 
 昔、NHKの鈴木健二アナウンサーが、巨人ファンか何かで、「巨人が負けたあくる日の朝刊では、他の新聞なら勝っているかもしれないと、あちこち探す・・・」とかなんとか言っていたような気がするのですが、私も封筒の山を見ていて、「そうだ、書き終わったのだけでもポストに入れてきたら、後のは減っているかもしれないぞ」と思って、半分書き終わったのを持ってポストに行って、帰って来たのですが、やっぱり山はそれなりで、ちっとも減っていませんでした。2回ポストに通って、おまけに又、本に差し込む資料を付け足したくなって、コピーして3回目のポスト行き。つくづく今度引越しするならコピー屋さんと郵便局の隣にしようと思ったのでした。

 どこかに戦争や紛争やテロや汚職や事故や災害のない新聞があるかもしれない・・・幸せなニュースばっかりの新聞があるかもしれない・・って思うのですが、考えてみたら、そんなのは北朝鮮みたくコワイものがあります。ちょっと辛いけど、たいていは感動があるって新聞かテレビないかなあ。

2004年7月27日(火)  

かま口塾の会員さんでもあるAさんの主宰するミュージックルームのコンサート。Aさんは朝からリハーサルでたーーーーいへん!(いやいや、昨日の夕方だって、いっしょにコピー屋さん行ったもんね。ぎりぎりまでハプニング続きで、準備準備でした)。

 午後から本番でした。夜の部もあって、陰アナをお手伝いさせていただいたので、私もたっぷり音楽を楽しめた1日でした。小さな子たちのリトミックの時、ちょっとアナウンスのタイミングをはずして失敗してしまいました。申し訳ない。ごめんね、Aさん。
 息抜きの時間、Hさんのパネルシアター「はらぺこあおむし」を、子供達がノリノリで楽しんでくれたのにはびっくりしました。Hさん制作・作動のパネルがアイディアに富んでいて素晴らしいからですが、これだけ反応があると、これは、病み付きになりそうです。子供達って本当に集中して見るんですよ!朗読は私がしましたが、2人のコンビネーションは今までの練習のうち、一番うまく行ってホッ。

 ショパンやリスト、グリーグ。そしてAさんのメリカント・・。いっぱい堪能させてもらい、仕事といえども、癒されているようで、全く疲れません。不思議です。人間って好きなことをしている時って、本当に幸せなんですね。

 本に関しては、訂正が多すぎると行がはみ出てしまいます。1行くらいなんとかなるでしょうと思っていたら、本というのは、16ページ単位なんですって。1行多くなって、16ページ増やすと、又高くなりますよと言われてびーっくり。餅は餅屋と言いますが、本の世界も決まり事が多いって事が色々分かりました。企画出版、共同出版、自費出版に分類するなら、どうにか有り難くも「共同出版」の形態をとって戴いたのですが、本当に色々編集の方にお世話になっています。昨夜も資料をコンビニから宅急便で送りましたが、ぎりぎりまで、まだまだ検討することがたくさんあります。

 でも、とにかくとにかく、今日で、峠は越えました。明日からはちょっとのんびりします。皆さんにメールのお返事も書かなくっちゃ。

2004年7月28日(水)  

ジョエル・アンドレアス&きくちゆみジョイント講演会に女性会館のホールに行ってきました。「戦争中毒」(日本語版は合同出版発行)の著者と監修・翻訳者の来名。きくちゆみさんはニューヨークタイムズやワシントンポストに意見広告を出す原動力になった人で、イラク攻撃反対のデモが世界中で一千万人規模で行われた時、彼女はサンフランシスコの10万人と20万人デモに、1才と2才のお子さんを抱きかかえて参加していました。すごい。

 ジョエルさんは、アメリカには四分の一のいつも戦争には絶対反対する人がいる。そして、絶対賛成する、政府よりも四分の一。後の二分の一が、どっちでもない無関心層だそうだ。今、その無関心層が反対になってきている。つまり75%はイラクでの戦争は間違っていたと思い始めているという分析をしていました。私は「じゃ、メディアでも、四分の一は常に戦争に反対の立場で報道したか」と質問しましたが、反戦の立場を最初からみせたメディアはゼロだったとのこと。金平さんの日記でだいたい把握していたけど、やっぱりショックでした。
 大学教師だという方の質問はネオコンのことでしたが、面白いことを質問の前におっしゃってました。「大学生はちっとも勉強しないので、私が学生から学ぶことは何一つないが、例外がひとつだけある。『戦争中毒』を学生が見せてくれた」と。小林よしのりも読み、ジョエル・アンドレアスも読むというわけか。ジョエルさんは、「華氏911」がアメリカでものすごいヒットで、大きな影響を与え始めているって言ってました。大統領選では絶対ブッシュjrは退却してもらわなくっちゃ。

 本のサインをしてもらうために並んでいたら、きくちさんもいらしたので、「私も今度合同出版から本を出すんですよ」「なんて本ですか」「私は戦争から生きて帰ったです。坂東と言います」「えっ?坂東弘美さん?私知ってますよ」「?!」「私も八月書館から本出してますから。弘美さんも素敵な本だしてらっしゃるじゃないですか」
えええええっ!思いもよらぬ展開で感激でした。

 帰宅したら、合同出版のU社長さんと編集のSさんのお2人から電話。講演会の話で盛り上がりました。今日の午前中社長さんは、ずっと東京で記者会見につきあっていたのだそうです。明日は東京とか。とてもいい企画ですので、東京方面で行ける方はぜひ参加してみてください。

■東京/講演会
 「戦争しない国」をつくろう  ジョエル・アンドレアス&きくちゆみジョイント講演会  応援トーク:柳田耕一(『アメリカ中毒症候群』著者)

 日 時:7月29 日  午後7時 開演(開場は30 分前)
 場 所:国立オリンピック記念青少年センター  参加費:前売1000 円、当日1300 円

2004年7月29日(木)  

昨夜、「戦争中毒」の講演会からの帰り道に夜空を見上げたら、月が猫の目のようで、じっと私をみているような気がしたのでした。今日はその目がもっと大きく丸くなっています。漆黒の闇は巨大な猫。宇宙は猫。夜は色々創造できて楽しいです。

 いっぱい電話がかかって、金沢からの「とりあえず30冊ね」なんてのにもたまげていますが、皆さんに心配をおかけして申し訳なくも思います。本日めでたく、「契約時に料金の半額。印刷に入る時に残りの半額を支払う」という契約通り払い込めました。この1ヶ月たらずの短い期間によくも1人でこんなにお金をかき集めたもの。自分でも信じられません。大相撲の踏ん張りで、私の本気を確認したのか、完璧に無関心だった連れ合いも、最後の最後にちょっとだけ助けてくれました。ちょっとだけ感謝。

 Hさんが出版記念会をしようと一生懸命考えていてくれます。華やかなのはもう本当に恥ずかしいので断りました。怒られましたが。でも、ちっちゃい会なら、どうせ郵送するなら、直接お渡しする機会があってもいいから、便利な場所で集まっていただくのをやってくださるなら・・・とお願いしたのでした。

 くたばって布団でごろごろしていました。ウトウトしては目を開けて、又ウトウトして「戦争中毒」を読み終えました。すごい本です。これを出版したいけれどお金がないという連絡を受けて、きくちゆみさんは、その時、自分が持っていた5000ドルをすぐアメリカに送って「すぐ出版して!」と言ったのだそうです。やっぱりそれだけの価値のある本です。漫画といえば漫画ですが、イラストの多い本という感じでもあります。今、これをアニメーションにしようとしているそうです。

 夏休で家にいる子が、がま口塾便りをお母さんより先に読んで、色々お母さんに内容を教えたというメールを貰って微笑ましく、笑ってしまいました。その男の子はバックナンバーも読みたいと言ったそうです。年齢も性も職業もみんな超えて、色々思っていることが伝え合えたらどんなにいい事でしょう。父は、それがうまくできませんでした。軍隊の暮らしのシミがいつまでも残っていたような気がします。死んでしまってから、父のことを理解してあげれば良かったと思っている親不孝な娘。あるがままの、父の兵隊の姿をまずは受け止めるという所からです。今の学生さんや生徒さんたちがそんな昔の青年の姿を受け止めてくれるのは、私の心からの願いです。二度と戦争に参加しない国であるように。

 

2004年7月30日(金)  

 先日、金沢のAsさんから「Anさんが『はだしのゲン』の英訳を全部完成させたよ」と、7月3日の朝日の全国版に載ったことを教えられました。このところゆっくり新聞も読んでいなかったので、今日は1ヶ月分の新聞をドサッと積み上げて読みました。あったあった。ボランティア翻訳グループ、「プロジェクトゲン」の代表である、金沢のAnさんはロシア語を勉強されていることから、チェルノブイリの救援活動の頃から、ずーっと助けていただいていました。それから『はだしのゲン』全巻のロシア語訳を完成、その後英語訳の全訳に取り組んでいたのです。中国語訳も取り組もうとされていて、私は中国の日本語のトップ級の方に日本語全巻をお届けして、その方から親切にも、出版社にも持っていって戴いたのですが、「時期尚早」の答えでした。中国としては、政治問題が横たわっていて、まだ受け入れられないという事。

 今までの英語版は4巻までで、やはりアメリカに対して随分気を遣った経緯があるようです。それがAnさんたちの努力、粘りで、全訳に成功、8月6日までにアメリカで2000冊、日本で1000冊刷り上って、両国で売り出されるというのです。

 国際放送局にいた時、タイから来ていたチャットさんと仲良くしていました。彼女は日本の長崎に1年暮らしていたことがあって、「トコロテン」という長崎の原爆の悲劇がテーマの童話をタイ語に翻訳出版していて、「バンドーさん、トコロテンが二刷りになるってタイの出版社から今日電話があったよ!」ってとっても喜んで教えてくれたことがあります。中沢啓治さんにも会いに行って、「はだしのゲン」のタイ語訳をする約束をしているとのこと。でも、彼女は日本語ができないので、英語訳からしかタイ語に訳せません。全巻英語訳されるのをとても待ち望んでいたのでした。私はAsさんからAnさんがチャレンジしている事をきいていたので、本当にびっくり。チャットさんとは会うべくして会ったのだと思ったほどでした。このニュースは真っ先に、今はタイに帰国しているチャットさんに知らせなくっちゃ。

 自分の出版にばかり没頭していましたが、皆が信念をもってやりたいことをボランティアでやっている姿に本当に胸打たれる思いです。皆、余裕のある中でやっている人達ではなく、時間的にも経済的にもギリギリの暮らしの中でやりとげています。すごいなあ。

2004年7月31日(土)  

昨日の岡田代表のアメリカでの発言、ケリー候補の発言にゾッとして、本日極めて不愉快也。やっぱりデニスさんでなきゃいけなかったんだ。やっぱり喜納昌吉は騙されたんだわ・・なんてぶつぶつ。いえ、私のことです。武力行使をしたい奴は、まず自分が刀を抜いてエイエイオーッ!って出かけなさい。それが怖くてできないのなら、人を行かせることを止めなさい。

 台風も上陸して、本当に不安定な1日でした。

 Hさんが熱心に出版記念をやろうと言い続けてくださって、とうとうすることに。でも、絶対地味にしたいからと。そして、閃いて、南区で中国帰国者支援友の会の会長をしていらっしゃるKさんのお話を聞いて、みんなでがま口塾のように話し合う会にしたらどうかしらと提案。すぐ電話をしたらとても気持ちよく引き受けて下さいました。父と同じ馬坪に駐屯していらした方です。我が家を2回ほど訪ねてくださって、戦地でのことを色々話してくださいました。現在は、献身的に帰国者のお世話をされています。

 8月29日午後。名古屋市女性会館。がま口の皆さんでも誰でもいいのですが、皆さんが法事のように集まってくださって、戦争で亡くなっていったすべての人たちの御霊に安らかにと念じ、祈る会になればと思うのです。夏休みなので、子供さんもいっぱい来たらいいと思います。戦争に行ったおじいちゃんの話をナマで聞けるチャンスはめったにないですもの。

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Akiary v.0.51