がま口塾
がま口塾ってなーに? CDロム・本の紹介
がま口弘美の日記 がま口塾便り
がま口弘美の日記 バックナンバー

[ 先月 ] [ 来月 ] [最新版]

2004年8月1日(日)  

色々送っていただく通信をまとめてじっくり読みました。さらーっと読んで、又ちゃんと・・・と思っていても、なかなか読めないです。がま口塾便りもきっとそんな感じで皆さんに読んでもらっているのだと思います。自分の出す通信は、誰でも、皆一生懸命心をこめて書くのでしょうが、人から貰う通信は、なかなかそこまで舐めるようには読める時間がないように思います。読むものばかりで。

 あらためてしっかり読んでいると、皆の想いが伝わってきます。皆本当に一生懸命生きてるんだなあって。感謝。
 で、いつも演劇や朗読の案内を下さる会員さんの朗読と講演の会に、今日こそ行くぞ!って思っていたのだけれど、家族の都合で急に行けなくなり・・・、友人のやっている大須のオペラも見に行こうと思いつつ・・・今日の最終日までについに出かけられず・・・。溜息。皆さんすみません。
 「本の宣伝を宜しく」って、チラシと一緒に本も送られてきます。うーん。ものすごいプレッシャーです。がま口塾ってそんなにいつもいつも人が集まっているわけじゃなくって、1ヶ月に1回、数人が集っているだけなのでね。

 でも、私だって皆さんに「本を宜しく」なんてお願いしてるんですものね。プレッシャーをかけないように。「もしよろしかったら・・・」と、お願いしなくっちゃ。

2004年8月2日(月)  

 昨夜の我が家の夕飯のテーブルでは、男どもがジーコだの、サッカーだの、重慶だの、オリンピックだの、ナガシマだのという単語を飛び交わせておりました。私はハヤ29日の事ばかり頭にありまして、男1人をゲストの方の送迎や荷物の運搬に当てる作戦をとり、どうにか成功。今日、ゲストのKさんに早速資料をファックスで送りました。すぐお返事を戴いて感激しています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・・・当日は私どもの日本語教室の講師や学習者10名以上は参加できると思います。9月15日は地元の中学3年生のクラスで約45分間、戦争と旧満州引揚者についての体験講話を、又11月には東海地区在住の満州引揚日本人孤児裁判第5回公判の承証人としての法廷での証言の依頼を弁護士から受けて、立つ事になっています。世界で繰り返されている戦争の悲劇は、せめて日本だけでも繰り返さないよう・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 80歳代半ばで、こんなにひたむきに生きていらっしゃる! 見習いたいと思います。三峡下りで数え切れないほどの日本人が重慶を出発点として訪れているはずです。一皮むけば、何十年も前の怒りが炸裂する現実。「青年報」がスポーツの場でそのようなことはすべきではないなど、良識ある態度をよびかけていますが、それはそれで嬉しく思います。紫金草も重慶に咲かせなくてはいけないなあ。

 

2004年8月3日(火)  

昨日、金沢のAnさんに「新聞で見ましたよー」って、「はだしのゲン」全巻英訳おめでとう手紙を出したばかりなのに、今朝朝日新聞を見ていてビーックリ!「人」に彼女がカラーで写っています。素敵な顔。ウクライナのニーナさんが1ヶ月(以上)の金沢滞在交流後、小牧からモスクワに向かうのに、お見送りのためにAsさんやそのお孫さんが我が家に泊まって下さったことがあります。その時Anさんも通訳として一緒に我が家に泊まってくださいました。もちろん金沢の小学生たちとニーナさんの村の原発事故被災地の小学校との交流に多大な協力もしてくださって、現地にも行ってくださっています。

 北京にいる時に「ロシア語訳全巻完成」のパーティの知らせを受け、私はロシア語部のユーリさんたちに「はだしのゲン」のロシア語訳を読んでもらい、ロシア語の感想をもらって、パーティ会場に送ったことがあります。10巻1セット1万4000円もします。ロシアで販売してどれだけの利益が上がるか・・・、私にわざわざ中国まで送ってくれたりのように、どれだけ色々な方面に自己負担で働きかけをされているか・・・胸が痛くなる作業です。Asさんたちもパソコンに取り込んだ、漫画の噴出しを白く塗りつぶす作業など、皆でボランティアで楽しくワイワイやりながらの活動でした。私が金沢へ行くと、どんなに忙しくてもかけつけてニコニコ笑顔を下さる優しい優しい方。英語版完成の意味は本当に大きいと思います。
 
 夜、東海音声表現研究会の例会。テーマは「日本語(共通語)のアクセントはどう変わったか」レポーターはAさん。長く映像の仕事に関わってこられた方で、テレビ放送の黎明期の話などとても興味深く聞きました。アクセントについては特に昭和と平成の変わりようにスポットが当てられたのですが、平成になってガゼン、アクセントは平板化されてきたということにあらためて気付かされました。世の中の生活スタイルもここ14^5年の変化の大きさは、その前何十年間の比ではないでしょう。外来語もどんどん平板化しています。言葉そのものも、例えば、パンツとズボンなどは、今日集った人たちの間でも、死語だと言う人と、パンツは下着でしょうと許せない組に分かれてしまって大笑い。NHKの若いアナウンサーのアクセントが違ってきているので、気持ちが悪い。受信料は払いたくないという発言もあって爆笑。

 NHK名古屋放送劇団の草分け的存在の俳優のFさんが、昭和19年発行のNHKのアクセント辞典を見せてくださいました。まっ茶になった紙。縦書き。大変貴重なものです。最新版のNHKのアクセント辞典は平成10年の4月に出されています。もちろん他の出版社からもでているのですが、最新版の変化の大きさは本当に驚くものがあるのです。アクセントは生き物だし、流れているとあらためて思ったのでした。楽しい会です。 

 

2004年8月4日(水)  

北京でのサッカーが心配されています。済南での観客のあり方に対して、在日の中国人の学者は中国の友人達に電話したら、皆が恥ずかしいと言っていたとテレビのワイドショーのゲストとして語っていました。ローカルのスポーツ紙やインターネット、携帯電話の発達で歯止めが利かなくなっている事も説明していました。

 私が蕪湖にいた頃は江沢民のまさに愛国教育まっしぐらの中でした。南京の虐殺記念館にも全校生徒1200人ででかけまして、私も引率教諭として行っています。引率というより、校長先生たちは、私たち日本人を教育しようと思っていたと思います。私が蕪湖で受けた様々なことは、本当に語るに語れないことがあり、私には、今回のような状況が出てくる道筋はよくわかります。
 
 でも、燕ちゃんをはじめ、藍ちゃん、又他の中国人の友人達など、紫金草合唱団やSARS救援活動の時、一生懸命あらゆるメディアに連絡して取材を依頼してくれたこと、その結果青年報などの賀カメラマンや東京支局の蘇さんなど、深い理解、誠実さを示して、感動を戴いた方たちにめぐり合えました。私ができていることは、私がしたことだけです。他にも誠意を尽くして謝罪し、頑張っている日本人も大勢います。

 両国のメディアが冷静に事実をありのままに報道、取材することを願っています。もちろん私たち、庶民も冷静に見守る事。

 一つだけ小泉さんに注文があるのです。ニヤニヤ笑って呑気な答え方をしないでほしいのです。自分から、中国の若者たちと議論する場を持って欲しい。話し合う努力をして欲しいということです。話し合うこと、触れ合うことでしか、解決はできません。

2004年8月5日(木)  

甲子園も、アテネも色々ですけど、私はスポーツができないので、全員が勝てばいいなと思います。そんなことより、北京にいる友人達が心配になってきました。大使館から在留邦人に色々注意が出されています。ま、皆賢明な人達なので、大丈夫でしょう。試合そのものは両方勝ったら一番いいのにね。人間は何故戦いが好きなのでしょう?

2004年8月6日(金)  

朝日の朝刊の国際面にでっかい記事。チャオハイドンがにっこり笑っています。五十川さんの記事、Aさんのこと、ミュージックステーションのこと・・・こんなにすべての活字が隣人のように感じる記事も珍しいです。だって、私がいた頃の北京市内向けのFM放送の番組だったし、ワタシもFMで日本のニュースやってたし。何よりハイドンとは日本向け短波の「お便りの時間」を2人で一緒にやってたもんね。今彼は、放送局を辞めて日本大使館に勤めていますがそれが書いてない。

 Aさんはドキュメンタリー作家・・・。いっぱいいっぱい複雑な経緯は、紙面が限られているし、テーマに関係ないし、省かれてます。書く必要もないし。でも、この春に紫金草合唱団の100人の人々が、清華大学の100人近い学生とまともに真っ向から日中戦争について話し合っていることも、こういう時にこそ報道してほしいなあ。

 Aさんは帰国してから2冊本を書いています。朝日の「人」にも紹介されて、ドキュメンタリー作家・・・。私は「アナウンサーです」と言っても絶対「もとアナウンサー」と紹介されます。「旅チャイナ」のホームページのリンク欄に紹介してもらう時だって、一緒にCDRを作って朗読したのに、「羊飼い」さんは、私に「もとアナウンサーでいいですね」と確認されました。もちろん猛然と反論して、「仕事をあんまりしないアナウンサーです」と申し上げました。皆さん!人の職業を外見で決めることは止めましょう!私はアナウンサーというには信じがたいスタイルをしているだけのことなのでっせ。声で勝負なのじゃ!
 
 私が本を何冊書いても絶対ドキュメンタリー作家とは言われないでしょう。万が一私が錯乱して「作家です」と言っても「書くことが趣味の主婦」と書かれるに決まってます。ナンデダロー。さすがに今日は自分のチャランポランの生き様を考え込んじゃうわ。中国ではいつも私は「ツオジャー」(作家)と自己紹介していました。必ず大爆笑が起こります。「ツオジャー」は(座家)と発音が一緒で、私は座りながら言う事にしていましたから。

 90歳になってディスクジョッキーやってたら・・・その時の私の肩書きやいかに。私の理想としては「陽気なおばあちゃん」。でも、これって仕事の肩書きじゃないよね。それでイインジャー。 
 8月6日はいつも暑い。生き抜くことジャー!言いたいことを言うのじゃー!書きたいことを書くのジャー!それでイインジャー。
  

2004年8月7日(土)  

戦いは嫌いと言いながら、初めてといっていいくらいですが、心配で、サッカーの中継を見てしまいました。「選手達はいい体験をしました」という解説があったけれど、逆境の中で冷静にプレイをするという事は、甘やかされるよりいいこと。本当の戦争でなくって、どれだけ幸せなことか。これでいいのだと思います。

 29日の出版記念会に、内モンゴルのお嬢さんが踊りを踊ってくださることになりました。友人の親しくしているお嬢さんで、2人は彼女の故郷へ一緒に行って帰って来たばかりです。日本への飛行機の中で、友人が私の事を話したら、「踊ってもいいよ」って自分から言ってくださったとのこと。2人からのプレゼント。派手にはしたくないと言い続けているんですが、主催してくれるHさんと相談して、遠慮なく芸術のプレゼントを戴く事にしました。重い内容だもの。踊りがあったら、きっと参加者の皆さんもホッとされると思います。感謝!

秋の大正琴の演奏会の打ち合わせ。朗読と曲を合わせてみましたが、今日は自分のヘタさ加減に落ち込みました。一本調子。何を朗読しても一緒の雰囲気。だめだなあ。とにかく、バックに演奏が入ると、何だかしらんのだけど、リキが入っちゃうんだわね。冷静さに欠けるんだわ。アーア!本当にサッカーの選手達は偉い。

2004年8月8日(日)  

6日の記者会見で中国メディアからジーコ監督に辛辣な質問。

 「中国には『幸運は3度は続かない』ということわざがあるが、決勝も運に恵まれると思うか」。ジーコ監督は「コイントスなら単なる幸運だろうが、球にはいろいろなものがこもる。運とは練習を積んで呼び寄せるものだ」。
 
 「中国の大観衆のプレッシャーにどう勝つのか」「中国に来た時から感じていて、すでに克服した」。

 「中田英らの主力の不在が優勝を逃した時の言い訳になるか」「断言しておくが、これが今の日本のベストメンバーだ。彼らの資質と気持ちの強さを信じている」。

 工人スタジアム内外での騒動よりも前に、言葉による挑戦もあったんですね。素晴らしいプレーがお互いに出来るように、素晴らしく闘った互いのチームを負けても勝っても讃え合うように。そんな関係に1年も早く(一刻も早くではない)なれますように。壊れたものを直すには時間がかかります。焦らずにジーコ氏のように落ち着いて冷静に対すること。民族の誇りは、相手をけなすことで確立されないと思います。人は人を愛するために生きているのだと思います。そして日本は過去にしたことを忘れない事。

 金沢のAnさんからメール。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7月3日朝日新聞を皮切りに、なぜか読売、毎日、共同通信、中日それにNHKまでが取材に来ました。全国版で報道されたものですから百数十件の予約申し込みがありました。皆さん熱い思いでいろいろと書いてこられます。マスメディアの力はすごいですね。
 多くのかたがたのエールに感動ばかりです。草の根運動も捨てたものではないと思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 第3巻以降はこれから編集に入るのだそうで、順次発売されるとのこと。全巻発刊の時はパーティをするので、そのときの司会は私に・・・ですって!やったあ!かくて私はたまには仕事をするアナウンサーになれるのです。草の根運動の。ただし、今朝、このメールに対して私が送信した内容がAnさんの言葉をかりれば、アハハアハハと笑いっぱなしだったかららしい。何かおかしい。私をコメディアンとまちがえてるみたいだぞ。

 暗い話は、明るい未来を思い描く事で、きっと克服できる。信じること。

2004年8月9日(月)  

  イラク暫定政府がアルジャジーラのバグダッド支局の閉鎖を命じたというニュースに耳を疑ったのですが、わずか2〜3日間のナジャフでの戦闘で、300人のイラク人民兵が殺害され、米兵は2人死亡。コレだけの死亡があるのに、アメリカではニュースになっていないそうです。これはいったい何???? ニュースにする事、知らせること、黙っていたら本当に分かってもらえない。 ちゃんと伝えない限り、聞いてもらえるはずがありません。何かが動いたり変わったりするはずがありません。伝えられないもどかしさや悔しさに、涙している人が世界に大勢いるのだと思います。私たちが知っていることって、本当にわずか。ニュースキャスターや新聞が世界のすべてを知ってるわけではないのですよね。

  とにかく、私からあなたへ、手から手へ、心から心へ伝える努力をする事。そう心に命じて・・・まではカッコいいのですが、何せ暑い。出版や出版会のお知らせをミニレターにして送るべく、200人以上の方へ手紙を書いているのですが、どうもダラダラ。又、不二家レストランに避暑に出かけました。お昼ご飯を食べてから夢中で書き続けていて、ちょっと外が暗くなったなと思ったら、6時になっていてもうホントたまげました。延々5時間は手紙を書き続けていたことになります。それでも、やっと半分の方に書けただけ。

 伝えたから伝わるわけでもなく、受け止め方も様々であるわけで、迷惑に思われる方もあるかも知れないのだし、伝えるという事も簡単ではありません。とにかく心をこめて、一生懸命手紙を書いています。

2004年8月10日(火)  

美浜原発蒸気噴出事故。定期検査の登録ミス。想定不能とされる過酷事故はおきるのだってことです。だって、人間がすることです。間違いはあるってば。

燕ちゃんから「中国便り8月号」が届きました。胸が痛くなりました。燕の気持ちがよく分かるからです。だって私達はいっぱい話し合っている親友だから。中国便りを読んでくださってい皆さんも既に燕ちゃんは、友達感覚でいてくださると思っています。でも、個ではなくて、国家の立場で、お互いに、デフォルメしない報道は本当に難しいと思います。

 日本だって、街宣車や靖国神社をお参りする小泉さんや日本軍の映像ばかり報道されたら、嫌になりますし、中国だって、乱暴なことをしたマナーの悪い人たちばかり報道されたら嫌でしょう。お互いに信頼できる関係をコツコツ作っていくことでしか解決できないと思います。死者がでなかっただけ、いいじゃあないですか。「これだけふれあえた」のは偉い!って、前向きにとらえたらいいじゃないですか。これを振り出しにして、少しずつ少しずつ皆が個と個の関係を作っていけばいいんじゃないかなあ。
 
 人と人はそんなに簡単に理解しあえないというのが普通のことで、すべてがこちらと同じ価値観や感性で反応するという思い込みが一番危険だと思います。いやな事は互いに「止めてね」と伝える事。なぜ嫌なのか、よく話を聞き、こちらも言う。それができない時は、そーっとしておく。無理はしない。

 何か小学校の授業みたいな表現で恥ずかしいんですけど、それができていないんですもん。ほんと、小泉さん、問題の本質を知ってください。後にいないで前へ出て、中国の若者たちと話し合う機会を作ったらどうですか?まともに話し合わない限り、こんなことは続きますよ。

2004年8月10日(火)  

そのA

 何と、張陽から、「劉さんが日本人と交流したいと言っている」と連絡が入りました。日本にいる中国の人たちは、皆サッカーのことで心を痛めているのです。話し合えば理解できるのに・・・。これは私が思っていることと同じです。早速「29日にぜひお友達いっぱい連れて会場にいらっしゃい!皆でぜひ話し合いましょう!」って言いました。良い会にしたいです。

2004年8月11日(水)  

ケビンさんがロスアンゼルスから突然来日。急遽服部家にYOSHIの会の集まれる人だけ集まって、食事会と秋の10周年行事のゲストの問題の話し合いをしました。ケビンは毎年のように会っているので、ずっと日本にいるんじゃないかと思うくらい自然です。ハリウッドの子役達の家庭教師というカリファルニア州だけの独特の教育制度で仕事をしています。「むらさき花だいこん」の英訳を引き受けてくれているので、ハッパをかけておきました。

漫画「戦争中毒」を描いたジョエル・アンドレアスさんもロスアンゼルスなので、本を持って行ったら、やっぱりケビンもちゃんと英語版を買って持っているそうで、ジョエルさんとは話したことがあるんですって。アメリカと遠く離れていてもケビンとは心が繋がってる んだなあと嬉しくなりました。

ジョエルさんの「Not in our name」まで書いているサインを見て、「よくここまでサインしたね。アメリカではそうとう覚悟の要るサインなんだよ」と言っていました。グローバルピースキャンペーンも仲間のグループとのこと。

アメリカの動きを色々聞いて、日本では自衛隊の派兵に対して差止めの裁判が色々な形で北海道・東京・名古屋で起きてること、名古屋の裁判は、すでに3000人の原告がいるんだよって教えたら、それはロスの新聞でニュースにしなくっちゃと、びっくりしていました。派兵反対のバッヂをプレゼントしたら、即、シャツにつけて、嬉しそうにしていました。名古屋の訴訟のニュースはこれからネットでずっと送る約束をしました。

 秋の行事のゲストは「ボーリングフォーコロンバイン」に出ていた犠牲者の家族を予定していて、ケビンさんに電話をしてもらったりと進めていますが、色々問題もあって、なかなか走り出せません。やっぱり資金の問題が常に浮上します。ボランティア街道ばく進の十数年。私はスッカラカン。皆も似たり寄ったりで苦笑。何とかしなくっちゃ。

 

2004年8月12日(木)  

 毎日新聞の社会面「かなしみの星にうまれて」(04年平和の自画像)シリーズの12。今朝載りました。H記者さんは大阪から新幹線に乗って4回も我が家に来てくださいました。15時間くらいはお話をしています。最後の夜は名古屋のカメラマンさんも。「平和」を語りたいのだという記者さんの思い。その執念が限られたスペースにギュンギュンにつまっています。

 何も私でなくてもいいのです。私のような「娘」は団塊の世代ですから、ゴマンと存在します。どうしてこういうことになったかと言いますと・・・話は本屋の一角に遡ります。「憲兵だった父の遺した物」という本がふっと目に止まり、買って帰って読んだはいいのですが、あまりにも私の気持ちに通じるものがあって、どうしても出版社に感想を送りたくなったのでした。すると、作者の倉橋綾子さんに連絡が行ったのはもちろんですが、出版社の担当の方が、逆に私に、ちょうどそんな特集をしているので、月刊の冊子にその思いを書いてくださいと言われて、書かせていただきました。

 倉橋さんからも丁寧な手紙やメールを戴きました。倉橋さんのお父さんは、亡くなる寸前に娘に一片の紙切れを渡しました。そこに書きつけてあった文字は、中国へのお詫びの言葉。それを自分の墓に彫りつけなさいという遺言だったのです。
 倉橋さんは広くテレビや新聞で紹介され、その記事を書いたのがH記者さんで、その取材の時のノートに私の電話番号が書いてあったとか。倉橋さんが私の話もされたのでしょう。そんなことで、今年、お鉢が私にまわってきたわけです。私は私で、偶然本の出版に頭を悩ませていた頃で、どうなることかと思ったのですが、こんな事になりました。すべては作為も何もない、自然発生的な出来事です。

 ディンディンが可愛いです。父が名古屋城の中の歩兵第六連隊に入隊して72年目。平和の中で孫が笑っています。こんな可愛い赤ちゃんまで殺した狂気の時代は終焉を告げたはずなのに、今も地球に現実にあります。戦争は絶対に避けなければいけないこと。こんな無垢な子供まで殺してしまう軍隊は許されるものではありません。どんな言い訳も、絶対私は認められません。

2004年8月12日(木)  

そのA

 新聞を見て「つづく」と最後に書いてあったので、明日が楽しみというメールをいただきましたが、あれは、平和のシリーズがつづくという意味で、私の話題はもちろん一回で終わりです。記者さんからも連絡がありました。全国の支社によって「見出し」は全く違うのだそうです。記事の内容は一緒。

 同じ年の、親しい男性に、毎日新聞を読むようにメールをしたら、「左の男は一瞬誰かと思った」とだけ返事が来ました。参ったね、自分の息子なのに。本500冊も本日無事届きました。ダンボール6箱もあります。これ以上簡素にしようがないほど、白いシンプルな本。これ1470円じゃ高いのじゃないかと心配になってきました。

 皆さんに新聞をコピーして、記念交流会の案内と書中見舞いと・・という随分欲張った手紙を出すことと、大口注文をうけているところから早速発送をと、必死で作業をしていたら、中学と高校の同級生から電話。いっぺんに同級生2人の訃報でした。ショックです。生きているって何なのか・・・。父の本を傍らに、私だって明日逝くかもしれないのだと思いつつ郵便物を作っています。結局、予定の作業は半分程度しか出来ませんでした。明日やります。明日生きていたいです。

2004年8月13日(金)  

その@

 本日の朝日新聞の社会面「hito-koto@asahi.com」に、がま口塾一期からの会員の志水さんがニッコリと出ています。「麺処らく楽」の「つぶやき帳」の話題です。朝早く、ご本人から電話をもらいました。偶然いらっしゃったお客さんが記者さんで、ノートに感動して記事を書かれたのだそうです。中部地区だけかしら。皆さん是非読んでくださいな。もちろん名古屋の栄にいらしたら、彼女のお店に行って、ノートに書き込みしてきて下さいね。私の手を触りたがる女将さんで、食べに行くと、私の場合は必ず、ノートより先に手を触られるのでありますが。

2004年8月13日(金)  

そのA

 何とか今日も生きていられました。朝、燕ちゃんからサッカーアジアカップのレポートが届きました。なかなかの力作です。燕も私も、そして、がま口塾の人たちも、そして、このサイトを見てくださっている人たちも、皆、こうやってお互いを手探りででも理解しあえるのはラッキーですよね。お互いに善人なのだと思います。ゆっくり理解しあいましょう。うれしかったので、忙しかったのですが、アップしました。

 どうやって1日が済んだのか・・・よく分かりません。家族全員お盆休みなんて、殺生やわあ。目がまわる。郵便局に3^4回通った記憶はあるのですが・・・。

2004年8月14日(土)  

友人の葬儀に列席。12月に同級生が突然死んで、その時に一生懸命とり仕切った彼女。その彼女が全く一緒の場所で棺に眠っていました。寂しいものです。
 
 がま口塾の会員さんの藍染めの作品展が県美術館でありましたので、途中で服を着替えて見てきました。親子3人展。素敵な家族です。岐阜の山奥にアトリエをもって、本格的に作品を制作しているのですが、普段は名古屋で小学校の先生をしているのですから、どうやって時間のやりくりをしているのでしょうね。作品を制作している時間が「休憩」時間なのかしら。デザインが個性的でシンプル。素材は天然の優しさが100%だもの、気持ちいいに決まっています。素敵な作品でした。作品集を2回ほど出版してるけれど、作るたびに赤字だから、もう止めるって笑ってました。わかるわかる・・・なんちゃって。

 夜は張陽も来てお盆の夕食会。そしてその後は中日新聞の取材。時間が汗を流しています。

2004年8月15日(日)  

蕪湖の学校の時の教え子が、来日してからすでに6年の月日が流れました。9月には大学院を卒業して国へ帰るのだそうです。それでお盆休みの旅行の途中に名古屋によって会いたいと言ってきたので、今日は1日連絡を待ってじーーーーっとしていたのに、連絡来たらず。何かのミスで会えませんでした。残念無念。

 母と食事会。本を見せたら、言下に「見たくない」。信じられないでしょう?これが我が家の現実です。母と父の間に入って娘役を半世紀務め上げました。父が亡くなって10年。本当に幸せな、穏やかな日々なのです。母は思い出したくないのですね。わかってはいるのですが、ここまで冷たく言い放たなくてもいいのにと、今日は久々に父が生きていた頃の色々なことを思い出しました。これがお盆なのかなあ。仏壇に隠すように一冊置いてきました。父よ!ちゃんと成仏しとってよ!もう夫婦喧嘩はやめてえね。



2004年8月16日(月)  

幼馴染のSちゃんは一級上で、中学から私立へ行ってしまったけど、小学校時代はほとんどベッタリ状態で仲良しでした。カール人形、ミルク飲み人形遊びから始って、両家を行ったり来たり。夏休みともなると、ほとんど40日、2人でどっちかの家に泊まっていました。私には兄2人。Sちゃんには兄4人。2人とも末っ子の長女。お兄ちゃんたちに海水浴に連れて行ってもらったり、トランプしたり、楽しい思い出がいっぱいです。

 おばさんには泊まった日にはシャンプーまでしてもらった記憶があって、おばさんの話言葉がとても好きでした。「弘美ちゃんにお菓子とってあーまして」・・・これは名古屋のとても上品な美しい言葉で、今では話す人は皆無でしょう。うちの母なら「とったりゃぁ」もしくは「とったげやあ」となります。お女中さんといっしょにお嫁にきたというお姫さまでした。でも、戦争で焼け出されて田舎にいらっしゃって、それでワタクシドモと親しくなりました。とても広大な工場の敷地で、工場と自宅の間の庭を、私達は自転車でグルグル乗り回して遊んだものでした。

 おまけに伊勢湾台風で、堤防の決壊ヵ所から50メートルだった彼女の家も工場も屋根まで浸水で、濁流の中、とっさに梅干を放り込んだおひつを頭に載せて、泥水のビショビショの服とはだしで、命からがら我が家まで逃げていらっしゃいました。我が家はまだ二階が水が来なくて、(1~2ヶ月、満ち潮引き潮にあわせて毎日床上浸水が続いていましたので・・・)、両家は3ヶ月ほどいっしょに我が家の二階で暮らしたのです。Sちゃんのお兄ちゃんの1人は、そんな時もミカン箱の上で勉強してたなあ。お医者さんになりました。

 大好きだったおばさんが亡くなったのは、私があちこち転々としている頃で、私はお見舞いもせず、お墓もお参りした事がなくずっと気になっていました。でも、今日Sちゃん夫妻が八事のお墓参りに来て、ついでに本を欲しいということだったので、一緒にお墓にお参りさせてもらいました。おばさんやおじさんの思い出話をお墓の前でいっぱいしてから我が家に来てもらって、本も10冊もって行ってくれました。お兄ちゃんたちに配るだけでも数が要るって。表紙の父の顔が懐かしいと言ってくれました。
 
 宜野湾市の米軍ヘリの墜落事故。昔、劉さんの留学する大学を決める時、沖縄の大学案内を色々集めましたが私はこの大学はやめました。基地の隣にあるからです。何かがあった時、申し訳が立たないと思ったのです。実際事故があってみると、アメリカのやり放題。沖縄の人たちの悔しさ悲しさはいかほどかと思います。

 ワシントンポスト紙がイラクの大量破壊兵器に関する報道で「自己批判」の記事を1面に掲載したとか。遅すぎる。沖縄の事故はアメリカではニュースにもならないでしょう。されど世論はメディアによって作られていきます。

 金沢からさらに50冊の追加注文。メディアを市民が超えそうな、ニュースは私たちが創るのだッ!って感じ。ものすごいパワーで動いています。色々感動の1日でした。

 そうそう。母から電話。「本が見つからんのだわ」だって。「冷たいこと言ったから仏壇の隅に隠しといたわ。見たくないんでしょ!」「えへへ」。素直でないんだわ。

2004年8月17日(火)  

フェアトレードの店をしている会員さんが、東チモールの話題の会を開いたら、94歳のおじいちゃまがお孫さんの付き添いで出席されたとのこと。毎日新聞の平和シリーズ「かなしみの星に生まれて」のステファニーさんの記事ももちろんごらんになってのことだそうですが、私の時の記事も読んでおられたそうです。

 店長のSさんが、私が送った本を読みかけで何気なく机に置いていたら、「どうやったら買えますか」とたずねられたのだそうです。「私は昭和19年まで満州にいたし、弟はチモールで戦死した」とのこと。Sさんは、それでその本をわけてあげたんですって。「あなたは若い人に読んで欲しいって言ってるけどね」とSさん。とんでもない。感激しました。義理に読んだり買っていただくのが一番辛いこと。拙著でも、読みたくて読んで戴くのが嬉しいです。

 色々な所でみんなの心の中に入っていける本・・・だといいのですが。オリンピックもすごい。懸命さは見習うべし。勝ち負けじゃないです。自己のベストかどうかということでしょうね。

2004年8月18日(水)  

金沢の西南部小学校の金森俊朗先生の講演会に、出かけようとしていた少し前に、運成から電話で「3時ごろ名古屋に着きます」「ええっ! 15日じゃなかったの?」「えっ?」「15日に一日中電話を待ってたよ」「15日に千葉を出て、大阪、京都、神戸を回って今日名古屋ですよ」「じゃ、私が聞き間違ったのかア?」「いえ、僕かも」。

 というわけで、東別院での講演会の直前に、彼の携帯に「大須観音の観音様の前で4時15分に待っているように」と伝え、4時の講演が終了するやいなやすっ飛んでいきました。奮発して名古屋駅のホテルの20階で夜景を見ながら日本料理、そして地上の歩道沿いのデパートへの階段に座ってストリート演奏に耳を傾けながら、ずーーーーーーーーーーーーーーーーっと2人でお喋りをしました。エクアドルから来たと言う4人組みのフォークローレが、珍しく吹き渡る風に心地よく、運成も大好きだと言っていました。

 幸せな夜でした。18歳で来日。日本語学校にも入らないで、いきなり大学生になって6年。大学院をちゃんと卒業したのです。「よく頑張ったね。偉かったね」と百回くらい言ってやりました。10月末に中国に帰って就職の予定。10時30分に別れる時、二人ともちょっとウルウル。蕪湖の結果が一つ私の胸にしっかり落ちました。あとは、元気に生き抜いて欲しい。そしていつまでも仲良くしよう!私も90までは生き抜くからね!

帰宅したら、東京で会社を経営している中国人(女性)の友人からファックスが入っていました。本の注文です。「お盆の休み中、普段より多くのテレビ番組を見たけれど、馬鹿馬鹿しいものが多かった。戦争のことがあっても、空襲と原爆のことのみで、まるで中国での8年戦争が存在しなかったように見えて、悶々としていたところ・・・」と。感動してくれたのはいいけれど、私は気が重い。運成にも一冊プレゼントして、いっぱい話し合ったけれど、中国の人は読んで腹立たしいと思うのです。くれぐれも「後書き」を読んで欲しいと念を押しました。もちろん運成は200%理解してくれています。サッカーの件では恥ずかしいと言っていましたから、話すことは山ほどあったのです。山は全部2人で食べました。満腹。

 もう一つ友人から転送メール。きくちゆみさんからの。
「世界貿易センターに突っ込んだ2機の旅客機も、実際は違うもの(おそらく軍用機)であったこと、機体の下にミサイルか何かを積んでいること、それがビルに突っ込む直前に発火して、その直後に飛行機が突っ込んでいること、などを映像と証言で明らかにしていきます。」という、最新のビデオを日本で公表するというニュース。

 タイタニック号も実はオリンピック号を替え玉にして沈めたという説があります。莫大な保険金が目当てだったという仮説。

 お金の為なら人を殺しても平気という人間の性の醜さ罪深さ。今日の金森先生の講演がずしんと響きます。これは又明日。

2004年8月19日(木)  

 岐阜のメルサのカルチャーセンターでNHK岐阜の話し方教室の講師のピンチヒッター。Tアナが用があって私にふってくれました。何をしてもいいって。本を宣伝していいよと言ってくれました。ので、夜は流れて、同じ年の親しい男性の家に久々に泊まって掃除と洗濯をします。じっくり日記をかけなくて、日記さんごめんなさい。

2004年8月20日(金)  

昨日、珍しく兄から電話。いよいよ本を出版した事がばれてしまったかと、一瞬ドキドキッとしたのであります。『断りもなく父親のことを世間様にばらしてしまったから怒ったかなあ・・・』。したらば「ハマチを釣ったで持ってってやるわあ」。もうへなへな。

 兄が父から受け継いだものは「海」だけ。父とは最後まで心の交流はありませんでした。留守にするからと言うと「三枚におろしたから冷凍しとけばいい」とすぐさま車で魚を持って来たのです。それでドアの隙間から差し出すようにして帰ろうとするので、私も負けじと本5冊をガッとつかんで「あんたっちの家族分」と言って押し付けました。「は?うん?」と言って、さっと帰って行きました。はて。今頃読んでるかなあ。

 昨夜の岐阜のNHK文化センターの話し方教室はスゴイ生徒さんたちでした。73歳のお婆ちゃまは耳が聞こえないので、隣の生徒さんが筆記通訳。それでも発声練習の声は誰よりも大きく可愛らしい。本業お医者さんの生徒さんは、ご自分が明日講演をするというのでその話をされますし、無口で人前で話をするのが苦手という菓子職人の若者・・・。私は30分くらい話しただけですが、その若者が「今日は来て良かった」とぼそぼそっと言ってくれたのがとっても嬉しく心に残りました。面白かったです。

 別宅で親しい男の部屋の掃除と洗濯に明け暮れた1日ながら、合間合間に本を一冊読みました。「碧のミューズ伝説」。毎日新聞で記事を見たとて、ご自分も8月15日に出版され、出来たての本を私に送ってくださったのです。全く見ず知らずの方です。アマチュアでオカリナナやアコーディオンや色々な楽器を演奏され、ミクロネシア・ロシア・スリランカと平和を願う音楽交流をされているようで、チェンバロを製作して寄付される奇跡的な物語が核。お父様はビルマで戦死されているとのこと。「ビルマの竪琴」の水島上等兵のことを書いていらっしゃいます。ロシアで抑留されていた日本兵の写真もあって、三味線や尺八やバラライカを持っているのに目が止まりました。

 捕虜になりながら、白樺の木で三味線を作ってやっぱり故郷の曲をかなでていたんですね。沖縄でも、悲惨な戦後の混乱の中、真っ先に出来た楽器は空き缶で作ったサンシンでした。音楽の力は本当にすごいと思います。私もすぐに一冊父の本を贈らせていただきました。表紙を見て、尺八を吹いているので、きっと驚かれることでしょう。不思議なことがあるものです。

2004年8月21日(土)  

 いつのまにか蝉の声もか弱くなって、トンボが飛ぶようになったし、夜は鈴虫の音に秋のしのびよりを感じます。詩人になってもいい季節かも。

 贅沢な贅沢な日でした。料理の一品持ち寄りパーティというのはあるのですが、詩の一編持ち寄りコンパはあまり経験したことがありません。「暮らすメイト」のコンパなのですが、Hさん(がま口会員)に魅惑の?誘いを受けて、読んでみたい詩がふっと心に浮かんだので、フラフラと出かけました。10人くらいだったかなあ。思いがけない詩が出る出る。幸せなひとときでした。

 谷川俊太郎の「なんにもない」/加島祥造のタオから老子の「静けさにかえる」/森忠明の「処女懐胎」/シャンソンのサントワマミーや李政美の中原中也の詩の歌があるかと思えば吉野弘の「生命は」・・メーテルリンクの青い鳥の一部から・・・あるいは、自作の詩、萩原朔太郎の詩の暗誦、太宰治の手紙の朗読までありました。詩でなくても短い文章でも良かったのです。私は何故か最後になってしまって、長谷川テルがエスペラント語で書いた「失われた二つのりんご」を朗読しました。もちろん日本語訳で。とても長い詩なのですが、隣に座っていた方が泣き出しちゃって。

 昭和14年に重慶で書かれた詩。マイクで日本に向かって反戦を呼びかけていたテルとは対照的に軍刀と銃を持って揚子江を遡った父。聡明で人間的であったテルの詩を読みたいと思ったのです。

 会ではたくさん本が売れました。別に企図したわけじゃないけど、嬉しかったです。そのあとはタイ料理。マンションの20階の、スカイラウンジでの詩と食事会で、色々お喋りしながらなので、よけい美味しかったです。22階にお住まいのUさんは、1日1組だけお客さんの予約を受けていて、ご自宅がそのままレストラン。題して「我が家のタイ料理」。それにしてもゴージャスなマンションでした。

2004年8月22日(日)  

ちょっと食べ疲れています。今日も夕食会。甥が渡米するので壮行会。2年間帰って来ないそうですが、果たして・・・。お婆ちゃん(母)がしきりと心配しますが、本人の意思なので景気良く送り出しました。大統領選を見届けるチャンス。昨日「華氏911」を見たとも言っていましたので、覚悟はしたことでしょう。

 姪がお婆ちゃんに「脳を鍛える大人の計算ドリル」と「脳を鍛える声を出して読むドリル」というテキストブックをプレゼントしていました。毎日5分ずつやるといいのだそうです。なーーーるほど。老人向けの小学生並のドリルの出版!!! 皆にやれと言われて、今の所問題なくやれています。私もやらされましたが大丈夫。そこで母の一発。「弘美もこういう本を出版すればいいんだわ。あんな本、もう絶対だめだよ!」
「・・・・・・・・・・・・」。

2004年8月23日(月)  

今日も夕食会。と、言っても「むらさき花だいこん」の作者のOさんと2人です。紫金草合唱団が秋に沖縄の歌声祭典で歌うので、その打合せ等に各地から集まるのに、名古屋が真ん中で集まりやすいということで、Oさんは東京からいらっしゃったのです。話し合いが終わった後呼び出され、いっぱいいっぱい話しました。3月の北京での清華大学などとの交流コンサートの時のヒヤヒヤの裏話、秘密話?など。Oさんは、今館山の「海蛍」にまつわる児童文学を書いている最中。

 「むらさき花だいこん」は、実話に基いた創作です。種を持ち帰った山口誠太郎さんと息子さんの裕さんは2人でぴったりと1人の人生だとOさんは言いました。父親にこうあって欲しかった、こうであったろうという期待や夢が少なからず裕さんの言動に、あたかも誠太郎さんがそうであったかのように現れる。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。よーく分かります。だから、弘美も要に対して同じで、つながった1人の人生を生きているんじゃないかという解説をもらいました。な〜〜〜〜〜〜〜〜〜るほど。Oさんは、やっぱり作家だわあ。

 銅メダルをとっても、インタビューにお通夜のような顔で答える選手達をテレビで見て、辛くなっちゃいます。いいんだよね。一生懸命(時にはずっこけても)やってれば、ちゃーんと次の世代へ連綿と続いていくものってあるんだからさ。自分は銅でも、金をとった人を讃える余裕を持ってほしいな。試合中に死者が出たわけじゃなし。試合が終わったらどの選手もホッとした顔をしてほしいな。こっちは、どの選手にも拍手したいんだからさ。

2004年8月24日(火)  

大正琴の錦永会の会長である友人が、家元のN先生をはじめ、生徒さんたちに紹介してくれて、何と36冊も注文。電話で「義理に買ってくださるんでしょう?」「違うよお!」と押し問答してしまいました。本当にみんなの気持ちが有り難いです。これで完全に封をしたままのダンボールは一個だけになりました。売れ残りを私の死に際して、棺桶に入れることは避けられそう。皆さん、有り難うございます!!!!

 先日の講演会で買った金沢の金森俊朗先生の著書、「いのちの教科書」読了。私はNHKの番組を見ていないけれど、本当にこんな学級かできるのだと、びっくりすることばかりです。9月早々のNHKスペシャルにもナマ出演される予定とか。このクラスの子はどう育っていくのかしら。

 本日はちょっと眠いです。眠ります。アテネの選手達とは月とスッポンの私也。

2004年8月25日(水)  

全く未知の方からの手紙はびっくりします。記事を見て本を送って下さったので、私も本をとりあえずお送りしたら、今度はご自分やお仲間とのコンサートのビデオテープを送って下さいました。私のことをひょっとしたら忙しいアナウンサーだと間違えていらっしゃるのではと心配になってきました。

 全く未知の方からのメールもびっくりします。「やさしいおかあさま」の歌詞を全部知っていたら教えてくださいという依頼。日記に大智院のおしょうさんの法話を書いたことがあるので、ネットで引っかかったのでしょうか。それとも何かの悪戯でしょうか。とても心配ですが、一応調べてお伝えしました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「やさしいおかあさま」稲穂雅己作詞・海沼実作曲

わたしがおねむに なったとき/やさしくねんねん こもりうた/うたってねかせて くださった/ほんとにやさしい おかあさま/

夏はねびえを せぬように/冬はおかぜを ひかぬよう/おふとんなおして くださった/
ほんとにやさしい おかあさま/

わたしが大きく なったなら/ご恩をお返し いたします/それまでたっしゃで まっててね/ほんとにやさしい おかあさま

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と、書いていたら、ムラムラとこんな歌詞が浮かんで来ました。

わたしが おとなになったとき/ひまに まかせて でんわくる/ あれがああだよ こうだよと/どうでもいいよな母の愚痴 

と、ここまで書いたら、友人から電話。87歳のお母様が骨折で入院されたとのこと。ああ。私、バチがあたるかも。皆さん内緒にしてくださいね。 

2004年8月26日(木)  

朝日新聞の記者さん来宅。必ず最後に聞かれるのは年齢で。そして続けて「母と同じです」。まあいいや。明日の夕刊らしいです。(東海か中部地方だけと思います)

 30歳の記者さんに「実話実説」を見てもらいました。ものすごく興味を持って、「おもしろいですね」と。うん。29日に皆さんに見てもらうのに元気が出てきました。劉さんも劉さんの奥さんも、その友達も、もちろん最近仕事がメチャクチャ忙しく、前日は徹夜になるかもしれないと言っている張陽も来ます。どんな会になりますやら。

2004年8月27日(金)  

29日の出版記念会で、燕の中国便りを皆さんに読んでもらおうと思って、今日はコピー屋さんに行きました。B4、4枚裏表。15ページの大作だったことに、あらためて気がつきました。あと、紫金草の種が金沢から大量に届きましたので、それを皆さんにお土産にしようと、小袋につめたり等と、けっこう仕事があります。そうそう朝日新聞は明日の夕刊に載るとのこと。

 昨日、8月26日に、東京都教育委員会は来春開校する中高一貫校・白鴎高校附属中学校で、「新しい歴史教科書をつくる会(略称:つくる会)」の『新しい歴史教科書』(扶桑社発行)を使用することを採択したそうです。歴史の真実はどうしても手から手へ、私達は伝えて行かなければなりません。若い人たちに。

 カーテンを全部はずして洗濯。カーテンの陰に蝉の亡骸がコロッと転がっていて、『しっかり土になるんだよ』って外の竹藪に投げてやりました。夏は終わりぬ。

2004年8月28日(土)  

朝日新聞の夕刊に載りました。何とまあ大きく!ありがたいのですが、何とまあだらしのない洋服の着方!泣けてきました。「オリンピックの選手より大きな顔に写っとるでいいがね」と笑ってくれたHさん。

 室伏選手が金メダルになったら、扱いは小さくなりますと午前中に連絡を受けました。まさかハンガリーの円盤投げ選手のドーピングの問題が、私に関わってくるなんて夢にも思っていませんでした。

 高校の同級生の友人から電話。中国からの引揚で、自分も中国生まれで、軒下で生まれたとかいうすごい話があるのに、亡くなったお父さんから何もきかないままだった。すごく刺激を受けたから、こんどお母さんに会うとき、いっぱい聞くと言っていました。良かった。嬉しい電話でした。大学時代、彼女の家に遊びに行った時、お母さんが、とっても美味しい餃子を作ってくださったことを思い出しました。本当に突然思い出したのです。

 明日は良い会になりますように。神様仏様、皆さんが安全にいらっしゃって、安全にお帰りになられますように。台風が本当に心配です。

2004年8月30日(月)  

29日。出版記念交流会に参加してくださった方、応援しててくださった方、皆さん、有り難うございました。予想をはるかに上回って、80人以上の方達が来て下さいました。

 千葉から、東京からはるばる駆けつけて、そのままスタッフを手馴れた様子でしてくださったTさんとMさん。金沢から駆けつけた紫金草の種の贈り主のAsさんや、「はだしのゲン」のロシア語や英語訳を完成させたAnさん達。遠くから来てくださった方に発言をしていただく時間もなく、交流会では中国人、日本人から本音の話が出たと思います。もっとたっぷりの時間が必要だと痛感しました。講演してくださった神原さんも高齢で、短い時間に語るには、あまりに過酷な戦地の体験だったに違いありません。実際に戦争に行って、生きて帰った「おじいちゃん」が、平和憲法は守らなければいけないときっぱりおっしゃったことは、心に刻もうと思いました。

 サランさんの内モンゴルの踊りも心が和みました。もしも昨日の会場が地球だったら、どんなに誇れる世界でしょう。素敵な方達の集まりだったと思います。皆さん、本当に有り難うございました。燕の中国便り8月号も100部印刷しましたが、全部出ました。切り絵に紫金草の種をくっつけたものを皆さんにお持ち帰り戴きました。花が咲く来年の春が楽しみです。

昨日、そのまま我が家泊の金沢のお2人、今日見送ったのですが、無事に帰りつかれたかしら。心配。すごい台風ですね。

2004年8月31日(火)  

やっと冷静になってきたような気がします。そして交流会の反省ばかり。忙しい中駆けつけてくださったお客様達に対して、本当に失礼ばかりしたような気がします。

 紫金草合唱団で何度も中国公演、日本での公演を成功させ、交流会に皆さんに配った紫金草の種を庭で大量に作って送ってくださったご本人を、金沢から来てくださっているのに、皆さんに全く紹介することもなかった私。「はだしのゲン」の翻訳をしたAnさんもせっかくいらっしゃっていたのに一言も発言していただかなかったこと。東京から、千葉からSARS救援の活動を一緒にしたTさんMさんも本の売り子にしてしまって、立たせっぱなし。一言も発言してもらいませんでした。

 ただただ時間が大幅に延長していたことばかり気にしていて、本当に私は馬鹿だった!あまりにも身近な人になってしまっていて、私が知っていることは皆さんが知っているという錯覚をおこしていたんだと思います。ごめんなさい。

 来てくださった一人一人ともゆっくり話せませんでした。ごめんなさい。今頃そんなこと思ったって仕方がないのですが、皆に一言ずつ絶対言ってもらおうねとHさんと言い合っていたのに・・。30分とお願いしていた講演が1時間近くになろうとしていた事、最初の方の発言がとても長くなってしまった事。予め想定できたこういうことを、何故もっと考えてプログラムを考えなかったか。大失敗。

 癌の宣告を昨日受けて、今週入院すると言った友。3日前、救急車で病院に担ぎこまれたという会員さんの親子3人づれ。25年ぶりに会った友。岐阜から来てくださった北京放送のリスナー。私の大学時代の同窓生も誘い合ってきてくれていました。それを会場でちょっとだけちょっとだけ聞く私。多治見の劉さんはもちろん発言してくれましたし張陽もマイクを握りました。でも、中国残留孤児の帰国者の皆さんを神原さんが6~7人連れて来てくださったのに、それも紹介する事が出来ませんでした。平和の為の活動を一生懸命されている様々な会の方。中国語教室の先生を連れて来てくれた会員さん。留学生の手術のため、入院に付き添って、抜け出しながら、他の仕事の合間を縫って来てくれた会員さん。そうそうたる方達がいらしていたのでした。

YOSHIの会の服部夫妻は、お菓子の調達とお茶だし係り。お客で来たはずが、突然プロジェクターの係りにされたKさん。そして着物を着て戦争で亡くなった方達の御霊を慰めたいと、面倒な主催をかってでてくれたHさん。みんなみんなありがとう。私の甘さで、色々行き届かず、本当にごめんなさい。皆さんのさりげない優しさに、心から感謝しています。有り難うございました。
 

2004年8月31日(火)  

そのA

反省で悶々としていたらHさんから長い長い慰めの電話をもらい、二人で電話反省会をしました。その後又あっちこっちから電話。

 山口裕さん(紫金草の種を持ち帰った誠太郎氏のご長男)の電話にはもう飛び上がるほどびっくりしました。南京での平和の花園構想が、広島や長崎の平和公園のような形で実現するそうです。来年の春に鍬入れ式にいきたいとのこと。石碑には、平和の鳩が、オリーブではなくて紫金草をくわえたデザインが刻まれるそうです。オリーブの冠はオリンピックで充分見たからもういいよね。

 そして・・・思いもかけないことを仰いました。本の中に出てくる、父が可愛がって戴いた「かわなみ連隊長」さんが、茨城県石岡市の山口さんの故郷のご出身で、誠太郎さんとは親しくされていたのだそうです。その娘さんは裕さんと小学校・中学校が一級上の幼馴染で、81歳。老舗の書店に嫁がれて現在もご健在とのこと。早速ご住所をお聞きして、お手紙と本をお送りすることにしました。登場人物は私以外は父もすべて仮名ですが、かわなみさんは川と河の字を変えただけ。終戦の時は日本軍の通信総監で中将であったこと、すべて山口さんがご存知のことと一致。間違いありません。

 密かに、父は満州へ行きたかったのに静岡の通信隊に突然行かされたのは、この総監の心遣いではなかったかと、私が考え始めていた時でもあり、どうしてこんなことが起きるのか、本当にびっくりしました。父が生きのびたから私が生まれたのです。満州に行っていたら、おそらく私は生まれていなかったでしょう。
 
 人間の「魂」の作用は時空を超え、奇跡を起こします。もっともっと良き事が起こりますように。停戦が各地で実現しますように。

[ 先月 ] [ 来月 ] [最新版]
bdk@dp.u-netsurf.ne.jp


Akiary v.0.51