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2004年9月1日(水)  

水野スウさんと娘さんの著書「きもちは、言葉をさがしている」が8月25日に出版されました。すぐ送って戴いていたのですが、気になって気になって読んでは止め、読んでは止めの読書。さあ!もう読むぞ!と思っています。発行者は本人で、東京からトラックで運ばれてきたという本のダンボールは運送会社の4人の男性が降ろしたそうで・・・!すごいなあ。とりあえず500冊は自分の家に運んで、残りはパートナーの実家に預かってもらっている様子。すごいなー。

 私は自分で500冊。出版社が200冊です。幸いまもなく500冊はなくなりそうですが、「ハリー・ポッター」シリーズ第5巻(上下セット4200円)が今日発売されて、初版発行部数が日本国内出版史上最多の290万セットですって。ピンキリとはこのことね。

 報道ステーションで関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件についてレポートしていました。「朝鮮人だろうが、日本人だろうが、何人だろうが人の命に変わりはない!」と言って300人の朝鮮人を守りぬいた警察署長さんがいたという話。虐殺の事実と並列で教育していく事の大切さを言っていました。とても感動したレポートでした。

 台風でおっこちたお向かいさんの家の毬栗を拾って、玄関に飾りました。(置いただけ)
相変わらずの本の発送や礼状書きなどでちょっと怠け癖が出始めた私。今日は頑張るのやめよーーーーっと!

2004年9月2日(木)  

悪い事が一つと良い事か色々あった日でした。ぎっくり腰なのですねえ・・・・。困ったものです。平行移動はできますが、立ったり座ったりがややこしい。太りすぎでもあるのでございましょう。

 慰めのメールを色々戴いて、ハッと我にかえることもできました。交流会について、「もっと中国の普通の方の話が聞きたかった」と。だから、中国の方の話が聞けて良かったと言って下さる方もあり、『そうなんだわ。普段、こんなふうに両国の普通の人たちが、まともに歴史問題を話し合う場面はないもんね!』とやっと気がつきました。それにしても私のミスは多かったですけどね。気配りが足らないんです。私。

 突然、日本のどこかの見ず知らずの方からメールで尋ねられた「やさしいおかあさま」事件。会社の役員で車椅子の生活をされている、私より3〜4歳年上の女性。満州からの引揚者と分かってきました。何度かメールのやりとりをして、ビックリ。我が別宅と同じ町にお住まいでした。Yさん、あまりのことに感動。Yさんの会社の製品を送りますなんて話にまで盛り上がって・・・・。(だって、あまーいお菓子の会社!)不思議事件ばかりの今日このごろです。続きをお楽しみに。

 お菓子を送って欲しいところは太りすぎの弘美のとこじゃなくて、イラクやチェチェン問題にからむ人質になっているロシアの南、オセチア共和国の人質の子供達の所です。

2004年9月3日(金)  

「より安全な世界」掲げる・・・帰宅して、玄関で見た夕刊のトップ見出しは、共和党大会でのブッシュの指名受諾演説。

 腰を曲げにくいので、蟹の横ばいよろしく裁判所へスローモーションで行きました。第二回口頭弁論に原告として出廷した訳です。今日もやっぱり原告が入りきらず、前半・後半に分けて出廷。もちろんそれでも入れない方がいっぱいあります。
 ところがどういうわけか、スタッフの方が、前半を聞き終えて退出しようとする私を引き止めて「坂東さんは出なくていい」。「????」今でも理由が分かりません。それで「私ばかり優遇しないで下さい」と抗議しようと思って一番後ろの端っこの席に移動していたら、一期のO市の会員Oさんが横に座りました。双方、何年かぶりでびっくり。それで私は抗議をするタイミングをなくして、そのまま後半も聞いてしまいました。

 被告である国側からは、8月5日付けで反論が出ました。「原告には、具体的な権利侵害等がないから裁判所で審理するまでもない。だから国は原告の言い分にいちいち反論しない」という、土俵に上がろうともしない失礼なものです。

 今日の原告の意見陳述のトップは天木直人氏。私は本当に真後ろに当たる最前列の中央で聞きました。何度もハンカチで口をぬぐっておいでてしたが、静かで凛としたものでした。レバノン大使だった時、小泉氏と福田氏に米軍の攻撃を止めさせてほしいと打電して首になった経過、取り返しがつかない日本の過ちと自衛隊イラク派遣の違憲性を誠実に淡々と述べました。

 二人目は全盲の女性。他国の人に障害を負わせてはいけない。祖父が満鉄で軍属として働いていて結核になり帰国。初孫だった彼女に感染して高熱が出て生後10ヶ月で失明。1950年生まれの彼女が戦争被害者に数えられることはありません。戦争中「戦争の役にたたない障害者は非国民だから防空壕の蓋になれ」と言われたという知人の話は、胸えぐられる思いで聞きました。

 三人目の女性は自分が戦争を反対する原点として父親の戦争体験を話しました。それも死の直前に語られたことで、長い間心の中に封印していた戦地での辛い体験です。又、沖縄の写真取材を続けていて、在沖米軍を支援することの加害性も訴えました。セイブ・イラクチルドレン名古屋のイラク人医師支援活動にも携わって、戦争が1人の人間の上に落とすものの心身の傷の大きさを話しました。

 圧巻は今日が85歳の誕生日という水田洋名大名誉教授の意見陳述。日本学士院におけるただ一人の社会思想史研究者だそうです。従兄弟も妹の婚約者も戦死。そういう経歴から今の世の中は本当に昔に似てきたと言われます。国会で首相は、権力を信託された者としての答責義務を果たしていない。従ってそのようにして行使された権力は違憲であるという訳です。若い裁判官を教え諭すような響きがありました。

 3000人以上の原告がいるのに、全員が出廷出来ないのは裁判を受ける権利が侵されている。そういう会場を提供すべきだという陳述もありました。

 先週ニューヨークで50万人の反戦デモに参加してきたという、イラク派兵はあきらかな国際法違反だと訴える若い弁護士。事務局として徹夜作業で膨大な準備書面を作成した弁護士も30歳前後の若い方で、全く反応しない冷ややかな被告(国の代理)席に向かって、「組織としての対応でなく、頭と心をちゃんと使って全人格で対してください」と真剣な眼差しを向けました。ものすごい迫力です。

 山梨の訴訟団からも弁護士と代表二人が参加していました。保守的な小さな所で225人という驚異的な数の原告が集まったということでした。

 今回も原告団から何度も拍手がおきたのですが、裁判長が「ここは劇場ではない。これからもしたら陳述をやめてもらうかもしれない」というような発言をしました。すかさず「感動して思わずしてしまう人間的な自然な行為」とI弁護士が反論して助け合うなど、とにかく映画より小説より、絶対にドキドキする素晴らしい法廷でした。被告や裁判官以外は・・・。

 まだまだ書きたいことばかり。素晴らしい陳述に、帰り道に見た空のように心洗われる清々しい日になりましたが、被告の態度を思うとむなしい。もっともっと原告が増えることを願うばかり。非暴力でやれることはある。

2004年9月5日(日)  

昨日は下呂膏の生薬を火であぶって貼り付けてはウンウン。YOSHIの会の会議に出席。口だけは上下左右よく動く(と、皆思ったろうな)。

 共和党大会でのジュリアーニ前NY市長は「ブッシュ氏が大統領であることを神に感謝したい」と言い、出だしは「世界の首都ニューヨークへようこそ」だったそうです。新聞でケリーさんのポイントが下がっているという記事を見て気分が沈みました。

 と、刻々と犠牲者の数が200人・・300人・・・膨らむオセチア共和国の学校占拠事件。憎しみが憎しみを生む何と言うむごいニュース。イラクで人質が殺されても、そんなのちっぽけなニュースになってしまう、この異常なニュース。「対話」はどこへ行ってしまったのでしょう。子どもたちはどんなに怖かったことでしょう。悲しい日でした。

2004年9月5日(日)  

そのA

 すごーい雷雨。大正琴の演奏会のプレリハに出かけたのですが、帰り道の車道は、まるで車が北島康介みたい。車高と同じくらいの高さの水しぶきを上げて、車たちがコースを飛ばす飛ばす。前が見えやしない。
 
 先日の台風でベンケイソウの一番大きいお兄ちゃんの葉っぱは、大きいゆえに風当たりが強かったのか、2~3枚千切れちゃいました。末っ子は小さいお陰で無傷。人生何が身の助けになるか本当にわかりません。雨風に打たれて人は人生の対策を学んでいくのですね。自然のものであればいいのですが。憎しみの弾丸が雨霰・・・だけは学ぶものがないですよね。人の感情の風雨の受け入れは、本当に難しいものです。

 昨夜の夢で私は一生懸命リモコンを探していました。やっと見つけて、必死でボタンを押しまくるのです。相手はテレビではなく人間で、「笑え!」ピコピコ。「怒れ!」ピコピコ。」「真面目になれ!」ピコピコ・・・・。どうも裁判所の原告席で弁護士席や被告席、裁判官に向かって一生懸命ピコピコやっていたようです。かなりリアルな夢でした。

2004年9月6日(月)  

ベスランの悲劇。怖い。これの100倍、200倍、1000倍・・・もっともっと多くの人たちが戦争で殺されているのだと実感します。怖い。

 「憎しみ」という感情をどうやったら昇華できるのでしょうか。わからないので、私なりにやれることをやりました。義理で買ったとはっきり言う友人があって、(同じ年の親しい男=連れ合いには耳にタコがあたる程「ほとんどの人がギリギリギリギリ買いだよ」と言われています)、素直にそうですね、ありがとう・・・と思う自分。義理の入り口から私の真意が伝わりますように。

 昨日、友人は、私と同じコースを夕方運転、冠水の道路でエンジンが止まってしまって、そのまま修理工場行きになったそうです。気の毒でした。物凄い雨だったものね。その後2回も地震。深夜のは、さすが家族に呼びかけ、玄関に向かって歩き始めました。何事もなくて、本当に良かったです。良くなかった人もいると思います。お見舞い申し上げます。

2004年9月7日(火)  

台風。警報下、東海音声表現研究会へ。今日はがま口塾の会員でもあるUさんのレポートだったので、楽しみに出かけました。ところが当然ながら出席が9人ほどで少なかったのです。帰宅困難になる恐れもあるねえ・・・資料もいっぱいコピーしてきてくれたのだから少しで聞くのももったいないし・・・でもせっかく来たのだし・・・と迷いに迷って、少しだけしたのでした。又来月あらためてUさんの当番となりにけり。かわいそうなUさん。

 「マザーグース」がテーマでした。イギリスでは、上流社会へのチケットを得るには、聖書・マザーグース・シェイクスピアをマスターすべしっていうのがあるそうです。つまり言葉の基本をそこから学びなさいということなんでしょうね。
 
 マザーグースは1000とも2000とも言われるほどあるそうで、日本でも北原白秋や谷川俊太郎なと、色々な人が翻訳しているれど、英語の音を翻訳するわけには行かないわけで、Uさんの発音できいた何篇かの歌は、本当に楽しくて気持ちの良い音でした。日本で発音練習に使う「これはジャックのたてたいえに・・・」というのもマザーグース。何百年もかけて伝えてきた民族の財産は既に世界へ浸透しています。

 私達は前の世代から受け継いだ歌を、次の世代へ歌い渡しているのかしらと考えてしまいました。文化の基盤として、共有しているマザーグースという宝物。今まで関心がなかったのですが、ちょっと認識を新たにしました。マザーグースのタイトルや言葉を簡単に引用するだけで、英語圏の人なら、たちどころに、例えば何を皮肉っているか分かってしまうとかね。民間伝承の底の深さをちょっぴり覗いた気分。来月の本番が楽しみになりました。

 

2004年9月8日(水)  

やっぱりね、ポジティブに書こうと、そりゃあ、かっこつけて書いてるわけです。この日記は。でも、とてつもないものに出くわしてポーッ(注:帽子のポーッじゃないの、ポコペンのポ)とする時があって、ここんとこ腰も心もギックリで・・・。でも、不思議に私の中に怒りの感情はありませんでした。どうしてこうなっちゃうんだろうという不思議。なんでだろう・・・どうしてだろう・・・逆にものすごく冷静になるんです。

 「どうして?」ってずーーーーーーっと反省の時を過ごしていました。

 で、全く別の事なんですけど、発売日がほとんど重なってて、ずっと気になっていた水野スウさんの本「きもちは、言葉をさがしている」を今日やっと読み終えることができました。しみじみ読めていい本です。
 で、全く別のことと思っていたのですが、スウさんの本にいっぱい私の気持ちが言葉になっていました。

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●自分だけの人生の辞書を、どの人も持っています。自分の見たもの、聞いたもの、経験したこと、学んだ事、からなる言葉がいっぱーい並んでいる、その人だけの辞書。人はその辞書を使って他者とコミュニケーションするので、ある人の言った言葉は常に、その言葉を聞いた人が持っている辞書で翻訳されてしまう。それって言葉の宿命みたいなもの・・・

●ある日の事。私は、ヴィクトル・フランクルという、ナチスの強制収容所を体験した精神科医の書いた『夜と霧』という本をひさしぶりに読んでいて、ある言葉にはっと目がとまりました。それは「人間は、人生から問われている」という言葉です。
 初めて読んだ時は何だかぴんとこなかったし、そして今回もかなり難しいのだけれど、同じところをくり返し読むうちに、これはふつうなら、生きることにいったい何の意味があるんだろう、とか、私は何のために生きてるんだろう、というふうに言っている問いを、逆の方向から問いかけているのだと分かってきました。・・・

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 スウさんの本は私の本の倍の分厚さで366ページ。で、産直なのでかな、値段は税込みで1500円とほぼ同じじゃん!何か恥ずかしくなっちゃったんですけどね。そんことはまあ忘れることにして、20年間毎週水曜日の午後をオープンハウスして、話す「場」のもたらすもの、それによって変化していった、不思議な不思議な家族の物語をユーモラスな、ありのままの言葉で、しぜーんな表現で書いてます。スウさん丸かじりの本です。うん。いい本です。さっそく10冊注文しよう。ほしい人はがま口塾においときますので、ご自由に。

2004年9月9日(木)  

なんか家の中でごそごそと過ごしてしまった1日でした。ゴキブリのように。でも、これは最高の幸せだと思っています。もったいないくらいの。腰も心も次第に回復しつつあるし。

 皆さんからの感想メールに笑わせてもらったりウヒャーと驚いたり。

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★すごい本でした。戦争とはどういうものか。映画では分からない、そこに日常と非日常があって、ウンチを撒き散らしながら進行していき、上官も殺してしまう。同僚議員にも買ってもらいました。

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★買って頂いた方の中に、私の友人で元大阪城天主閣館長で(大阪市長候補になられた方)文筆家でもあるWさんがいます。この方をはじめ、数人の方に感想をお願いしています。頂き次第そちらにおとどけします。

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 もちろん他にもいっぱい戴いているのですが、世代によって随分感覚が違うので、とっても面白いです。

 どんぐりがコロコロ転がっています。お池にはまってサア大変!どじょうが出てきてこんにちは。ぼっちゃん一緒にあそびましょー。・・・どんぐりは男の子なのか・・・なんてどうでもいいことを思いながら、北京も秋だろうな・・・なんて。これを幸せと言わず何と言いましょう。 
 野球もあまり興味なくて、お相撲さんはストしたことないなあ・・なんて思ったり。私は主婦をストしたことあります(置手紙を部屋の真ん中において、押入れに一晩隠れました)。でも、つけは絶対まわってくるし。

 対話は難しい。みんなどじょうさんのようになれたらいいのに。本日支離滅裂日記也。

2004年9月10日(金)  

本日はI市にて交流会。昔々その昔、I市に6年住みまして、その頃の悪友達に頼んでスポ文センターの和室で、ビデオなども見ていただいて話し合う会を開いてもらいました。さっすが。引っ張ってくる人たちはシルバーカレッジの素敵な方々。他の勉強をけって駆けつけてくださったりしたのです。30歳の看護士さんも何があるのか分からぬまま参加してくれました。30代半ばの会社員の方も(本だけ求めて、差し入れもして、すぐ帰ったけど)仕事中に覗いてくれたりの場面もありました。10人ほどの話し合うにはちょうどいい会でした。

 戦争で親兄弟、叔父叔母・・・皆、戦中派の人は誰彼を戦争で失っています。12歳で満州で両親と死別、小さい弟妹など、5人をつれて日本に引き揚げ、日本で受け入れてくれる所もなく、さんざん苦労しながら苦学して生き抜いてこられた方・・小学校の時、戦後の天皇の行幸に、鉄道に沿って並んで日の丸を振るように言われて、一人だけ、それはおかしいと先生に言っていかなかった。そのときクラスの半分も行かなかった・・・などと言う話。どっちの国にとっても戦争は悲惨で、大人も子供も誰の心も傷つけたのだという話にかわりはありません。

 満州で仕事をしていた養父母は、生涯満州のニュースは見たがらないし、言いたがらなかったとか、中国の人たちが日本の子供を育ててくれたその心の広さも話題に上りました。皆さん、素敵なカレッジ生?でした。若い看護士さんが、「いままで家族の中で戦争について聞かせてくれる人は皆無だった。731部隊ってなんですか」って質問したのも良かった! おじ様たちから直接聞けて。話し合いの時間はたーーーっぷりでしたもん。日本人は、現代史をきちんともっと勉強し、両国とも歩み寄って、少しづづでも理解しあっていくべきだ・・・。今日は私も先輩たちから、生の体験など、いっぱい貴重な話が聞け、いい日だったなあ。悪友達の友情に心から感謝。

 夜、千葉にいる大学院生の陳さんから電話。先日私が運成と内緒で?デイトしたといって焼き餅をやいていました。彼女は日本で就職が決まったとのこと。蕪湖の頃の同級生が白血病で苦しんでいるので、皆が募金して応援していて、陳さんも1万円贈ったそうです。私も問われたので、直接の教え子でもなく、全く知らない学生なのですが「いいよ」と言ったらば、何と!私は陳さんに貸していたお金があるそうです!!全く記憶にないので、ならばそこから適当に出しといてね・・・といい加減な話ですが。

 ひとつひとつ片付いていく。嬉しい日々です。

2004年9月11日(土)  

9:11。特集番組を見る。なにせあの時日本にも北京にもいなかった私。砂漠の真ん中にいて何も情報が得られなかったのです。だから、謎だらけの9:11 がもっと謎だらけなのです。FBIやペンタゴンのことは謎だらけ。でも、犠牲者の家族たちの中で、その哀しみを戦争の口実に使ってほしくないと思っている人たちが大勢いることは確か。

 油断しました。腰痛が再発。元の木阿弥状態。左半身が腰砕け。そろりそろりと天白川の河原沿いに天白郵便局へ。川には大きな鯉がいっぱいいますし、亀も悠々と泳いでいます。ススキが夕陽に初々しい穂を光らせていました。何を見ても幸せです。生きているという奇跡。有り難いと思うのです。死にたくなくて死んでいった人達の無限量の哀しさを思って。

2004年9月12日(日)  

腰砕けにも5分の魂。引きずるように足を運んで瀬戸市の定光寺のギャラリーKまで。
中央線の駅はがけっぷちにあって、無人。タクシーもバスもないので、迎えにきてもらいました。なんでそんな山の中で今井画伯、個展をするのだあ・・・と半分恨めしかったのですが、行って見て納得。空気、緑、ロケーションが申し分のないギャラリーでした。

 だいたいが曼荼羅画家なのですが、立体曼荼羅というのを考えて作ったとのことで、なかなか面白い個展でした。画家はちょっと気難しいところがあって、先々週の私の交流会の時に、私が先生に失言してつむじを曲げられておりましたので、今日は這ってでも行くと決めていました。先生は、赤ちゃんのような可愛い?ところがあってニコニコニコニコ。仲直りするまでもなく以前の通りのおしゃべりをしたのでした。又来月上海ですって。上海でも個展の話が進んでいるとのこと。楽しみです。

 

2004年9月13日(月)  

 内モンゴルのサランさんがTさんと来宅。お相撲さんが食べていた鶏丼をご馳走すると約束していたので、約束は果たしたのですが、いつも私は画竜点睛を欠く。きざみ海苔をたっぷりのせるはずが、話に夢中になっていてド忘れ。業者さんに戴いて大事にしていた「タレ」を全部投入する気合の入れようだったのに、残念無念。でも3人ともご飯よりお喋りに夢中でした。

 サランさんは北京の放送メディアで活躍する記者やアナウンサー・タレントを養成する大学を卒業しています。「実話実説」の人気司会者崔永元さんもその大学の卒業生で、大学は多くの人材を輩出しています。今後協力して何かできないかという若々しい話で、私も何歳も若返った一日でした。サランさんの内モンゴルのお母さんは「この子の心が純粋なのが誇りです」と仰るとか。そういう我が子の褒め方を私達はするかしら。ひさびさにちょっと胸がキュンとしました。中国にも素敵な若い世代がいっぱい育っています。

2004年9月15日(水)  

「愛・地球博」の展示スペース引渡し式の取材に、中国国際放送局東京支局特派員の藍さんがやってきました。中国からも代表団が20数人きていたそうです。昨夜のテレビニュースでは、やっぱりアメリカの代表の記者会見を主に取り上げていたれど、中国も頑張っていました。もちろん他の国も。やっぱりアメリカ中心の報道になるんですねえ。

 長久手で取材が終わってから、我が家に来て、ついでに私の取材もするということで、当初遅くとも、夕方5時には到着すると思って、ベランダに歓迎の文字を書き込んだ、がま口塾の旗も立てて今か今かと待っていたのですが、藍さんが辿り着いた時は旗も文字も見えなくなってしまった真っ暗の7時過ぎ。さあ夕飯・・と張り切ったら、すぐ北京へ写真と記事を送信したいとパソコンを取り出して。たーーーいへんだなあ、特派員って。
 
 世界各国の国際放送局の特派員は、北京の本局のニュースセンターに送信。そこで中国語のニュースがまず掲載されます。そして、内部の43言語部の言葉に翻訳されて、各国語で世界に発信される仕組み。私のパソコンで確認したら、藍記者の送信した記事と写真がCRIのHPにまたたくうちにニュースとしてUPされていて、2人で拍手しました。ついでに、新華社と人民日報も調べたら、まだUPしていなかったので、藍ちゃんニッコニコ!東京から個人的スケジュールで名古屋入りしたので、午前中の名古屋国際ホテルでの記者会見に間に合ったのは、中国人特派員仲間では、彼女だけだったそうで、インタビューもいっぱい出来たって喜んでいました。

 結局最終新幹線で帰る予定を変更して、今朝の始発で帰ることにして、深夜0時半まで、取材とおしゃべり。それでも朝5時半には2人とも起きて、ちゃんと私の写真と本の写真を撮って、朝食中も彼女は聞き漏らしたインタビューをして、記者魂モリモリで東京へ帰っていきました。今日の午後も横浜で取材があるそうです。友人が元気で仕事を頑張っているのは、本当に嬉しいです。世界で良いニュースばかりあれば最高にいいけど、今朝もバグダッドでは、47人死亡の記事。「愛・地球博」はバクダッドで開いてほしいと思いました。

2004年9月15日(水)  

 そのA コンコンと眠る。只々眠る。途中メールを開けたら、北京の燕探偵に頼んでおいたタイのチャットさんのアドレスを知っているという連絡が、燕の友人の友人から英語で入っていたので、感激して、Poor English でチャットさんに初メールを入れ、又コンコンと眠ったら夜になっていました。よくまあ親切に皆が協力してアドレスを知らせてくれた事と本当に嬉しく感謝感謝。

 又寝ようと思ったのですが、ジンネットから
◆9月15日(水)TBS「ニュース23」特集「65年目の“帰還”―隠された『ノモンハン事件』の真実―」の連絡が入っていたので、news23は見なくっちゃ。

 左腰と左上腕の痛みは、薄皮を剥ぐ様に日々治っていきます。もう再発させないぞ。

2004年9月16日(木)  

 紅茶の時間の掲示板にスウさんがこんな事を書いていました。

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9・11の夜、香林坊の中央公園時計台のちかくの、一本の木をぐるりと囲むベンチにろうそくを灯しました。キャンドルの輪です。
はじめはmilkyさん(「戦争のつくりかた」の作り手の一人です)親子と、
私たち夫婦と、あと一人二人、という感じでしたが、だんだんとろうそくの数も、ひともふえてきて、9時までの間にきっと30人くらいが参加していたと思います。
たまたま通りかかったアメリカの若者4人、この灯が9・11のピースキャンドルだと知って驚いて、そして何度も、ありがとう、と。
1人の男の子は、NYに住んでいて、あの朝、弟をおくって学校にむかっていました。WTCの前をとおりすぎたその15分後、飛行機がつっこんでいったそうです。弟さんの学校の親御さんの中で亡くなった人も。

その時高校1年生だった女の子は、想い出すだけでもすごくつらそうに、ほんとうにひどいこと、、と声をつまらせるように気持ちを語りました。

もう一人のNYの若者は、クラスメイトのお父さんが4人も亡くなったそうです。
911のあとはあまりにも激しい怒りがわいてきて、アメリカが仕返しをすることを望んだけど、でも一年後には気持ちが変わっていた、それは間違っている、って思うようになった、と。

最後の一人は、私たちを指して「ニホンジン」、自分たちを指して「アメリカジン」といってから「アリガトウ」って。

9時近くになって、長い長い黙祷をそこにいたみんなで一緒にして、この夜のピースキャンドルは終わりました。

金沢に来て3ヶ月、日本語を学んでいるという彼らは口々に、ここでこういうことをしてること、こういうことする人たちに逢えること、全く予想もしていなかった、amazing!と、何度も何度も言っていました。たとえばもし私が外国の地にいて、8月6日にその街で誰かがろうそくに灯をともしてて、今日はヒロシマの日だから、というのをきいたら、どんなにか胸が熱くなるだろう、と思うのです。お別れのハグのときは、ほんとに彼らの目もうるんでいて、胸がいっぱいになってしまいました。

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 奇跡はおきる。スウさんから学ぶことは本当に大きいです。やれることを静かにやっていこう。

「ボーリングフォーコロンバイン」、本日テレビ放映。ここに出ている子供を亡くしたお父さんを10月17日に名古屋に招きます。皆さんぜひ講演会に参加してくださいね。はるか彼方のどうにもならない事ではないと信じること。日本にもマイケル・ムーアのような映画人が現れることを信じたい。

2004年9月17日(金)  

94歳のキクお母さん(私の母ではないのだけど)が骨折で入院されたのだけど、順調にリハビリをしていらっしゃるので退屈しのぎにとお喋りに出かけました。とてもお元気で、来週には一次退院して、お茶席の仕事があるので、準備しなくっちゃとか、来月早々には本退院とかと、いっぱいお話できました。こんな「おはなし」の仕事は私の理想の仕事です。キクおかあさんの前向きな姿勢に私が励まされます。

 その後ウィル愛知へ。---バウさんこと山田和尚さんという方が、アメリカで制作された9.11に関する常識を覆す映像を撮ったビデオをもって、全国行脚をされていて、GAIAの会が、山田さんことバウさんを名古屋に招いたのです。先日のタケシの番組を見ていたのでそんなに驚かなかったけれど、私が一番感動したのは、和尚さん(お坊さんではないそうです)が命をかけて真実を伝えていらっしゃる姿と、アメリカで「パワーアワー」というラジオ番組のキャスターをしているデイブさんが、ラジオで自分の疑問を語り続け、それに呼応してリスナーから写真や証言が集まったりという、事実の積み重ねを語り続けていることです。

 「戦争中毒」を描いたジョエルさんがきくちゆみさんと講演をした時、私は「政府に異を唱えたメディアは無かったか?」と質問したのですが、ジョエルさんは、皆無だと回答しました。でも、ちゃんといたのです。彼は大手のメディアが放送した映像や、自分で集めた、皆がどこででも買える雑誌、リスナーからの写真などを集めて、ビデオで丁寧に検証していくのです。そして、答えは出さない。見るものに任せる。結局著作権の問題で、各局から販売の許可がおりなかったのですが(当然・・・)、あまりに重要な映像なので、ビデオをダビングしまくって、皆に渡し、みんなはカンパをするという形になりました。
アメリカでも8月に相談があって、始ったばかりです。 
 
 日本では、3週間前から、和尚さんが始めたばかりです。日本語版を10月末までには完成させるそうです。英語版を戴いてカンパしてきました。そのお金で日本語版を作るのですって。そして、ハングルや中国語など、アジアの言語にも訳して広めて行きたいと言っていました。ブッシュのポイントが依然としてケリーを7ポイントほど上回っているので、とても心配しているのですが、これであと、1ヶ月何とか押せないか・・いや、押さないと、世界は暗くなるばかりだと思うのです。いっぱいダビングしてアメリカの友人達に送りたいと思っています。

 和尚さんは、沖縄のコザのバーで、28人の米兵にこのビデオを見せるという快挙をしたのですが、全員が兵士を辞めると言ったそうです。この話には本当に感動しました。何のアジもとばさず、にこにこ仲良くなって、真実を見せる。それでいいのです。がなりたてなくてもいいのです。平和はそうやってやってくるのです。ああ。いい夜でした。

 帰宅してメールをあけたら又々いい話!タイのチャットさんから返事が入っていました。何てハッピーな夜!奇跡です。

2004年9月18日(土)  

賑やかな1日でした。午前中はサランさんと、大学で教育ロボットの研究をしているNさんが来宅。番組作りの打合せ。何を焦点にするかで3人で口角泡を飛ばす議論をしました。漢族とはまた一味違う歴史観をもつモンゴル族。Nさんとサランさんの議論が沸騰しだすと、私が行司役のような感じ。やっぱり同じ日本人でも、20代最後のNさんとは年齢も違うし、かの国で暮らした経験があることで、意見も違ってきます。なかなか面白いひとときでした。昼は野菜カレーで簡単に。Nさんは、最近米アレルギーになってトーストで。色々なアレルギーがあるものです。でも3人は、意見は違ってもお互いにアレルギーになることもなく、しごく仲の良い・・・ま、親子みたいな・・・・。年をとったものです。

 午後からは、やってきましたぞ、ディンディンが。先週延吉から帰ってきました。まあ、何と! サッサカサッサカ歩き回るのです。物まねもいっぱいして1歳1ヶ月は世界の中心になってしまいました。パパはアッパー、ママはオモニ、私はハルモニと言う具合で、姫ちゃんは絶対朝鮮語で育てると言ってるし、張陽は中国語で話しかけるし、私は日本語だし・・・。どうなることやらと思っていたら、3ヶ国語でメチャメチャでどうにでもなっていました。どうにでもなっていくのでしょう。でも、姫ちゃんがディンディンに童謡を朝鮮語で歌っている姿はとっても美しいと思いました。マイクをもって早速録音。

 ディンディンが寝ている間に昨日のビデオを皆で見ました。張陽は英語がわかるので涼しい顔。私がおぼろげな記憶で日本語で解説したのですが。はやくダビングして、見たい方に回したいと思っています。今日は朝から夜までハルモニは全く時間がありませんでした。9時にバイバイするときのディンディンのちょっと哀しそうな顔と紅葉のようなバイバイの手がまだ目に残っています。

2004年9月19日(日)  

腰が痛いのは癌なんかの疑いもあるよ。早くお医者さんに見てもらったほうがいいよと強く勧められると、それなりに気持がグラグラします。人間って(私って)強そうなこと言っていても弱いものです。とにかく長くワープロに向かう意欲や根気が出てこない。腰がぐらつくとこんなにも精神もぐらつくのかと、色々な病気と闘っている人の気持に思いが行きます。今日は訪問者がないので、もうゆっくり床で本を5冊流し読み。読み疲れると、私が死んだら、この家はゴミの山になるんだろうなあ、困ったなあ・・・AさんBさんCさんDさんEさんは私のこと許してくれるだろうか・・・とか、人間関係がまずくなっている人たちとの修正問題にも心がいきます。後はあんまり悩みなし。皆さんに感謝感謝だなあなんて、そんなことを考えていた1日でした。

 栗をびっくりするほど沢山いただいたので、「栗の皮の剥き方」と検索をかけました。ちゃんと出てくる出てくる。ただ今水にひたして皮をやわらかくしているところです。でも、これも根気が要りまして。

2004年9月21日(火)  

栗の渋皮を剥くのに、わざわざ包丁を買いに行って、たぶんやるだろうな・・・って思っていたら、案の定、ちょっぴり自分の親指の皮を剥いてしまいました。こんなの美味くないよね。それでふてくされて寝てしまった、こどものような弘美さんでした。

 おっと・・・昨日はこどもじゃなくてお年寄りの日。恐怖の母を忘れマジ。ちゃんとお昼は3人でひつまむしを食しました。102歳で踊りのお師匠さんだったり、スキーヤーだったりのテレビの敬老特番を見ていたので、意欲的になっていました。おしゃべり以外はすべてハーフサイズの人なので長生きしそうです。孫の行く末ばかり心配しています。

 ビデオをダビングに出しました。5本作りましたので希望者はお知らせ下さい。1本1000円くらいかな。英語の勉強にもなります。話しているのはラジオのキャスターなので、聞きやすいです(私は英語がよくわからんのが問題)。午後福岡のFさんやTさんが出品している形象派展が最終日だったことを思い出して、あわてて栄の県美術館へ。いつもだけど、人の心象風景の多様さに驚きます。音楽や美術など、芸術鑑賞を日々して、色々な人の心にふれてゆったりと皆が仕事ができたらなあ。防弾チョッキ着てヤンキースで始球式なんて、寂しい話。あ、家の男1&3も名古屋ドームへ行ったっけ。ストの痛みにふれてくるのかなあ。

 帰り道、せっかく栄に出たのだからと思って、色々舞台の衣装になりそうなものを物色。でも、正すべきは我がボデー。何も買えずに帰宅せり。いや、下呂膏だけドラッグで手に入れて。疲れてふてくされて寝てしまったのでした。

2004年9月21日(火)  

ちゃんとした有名なアナウンサーになれなくて良かったと思う時があります。昔はどうしてそなふうに思わなかったのかと不思議ですが、哀しくてやりきれないニュースばかり読みあげなきゃいけない。人質が殺される映像なんて、平然と伝えられない。それに自衛隊の派遣をもっと延ばしてもいいってニコニコしているわが国の代表者のことを、いちいち伝えなくちゃいけないこと・・・・きっと暗〜〜い気持ちになると思うから。

 思わないかなあ。お給料もらっていると、麻痺して、平気で哀しい殺人のニュースを読んでから、イチローのヒットのニュースにニコニコするんだろうか。そんな私を見るのは怖いからね。仕事だったらしなきゃいけないものね。名もない、本人だけがアナウンサーですと言っているアナウンサーでよかった!

 明日はがま口塾。全く未知の方から電話があって、道順を聞かれました。だれが来ても来なくてもいいがま口塾。ひさしぶりでちょっとドキドキします。

 あ、そうそう紫金草合唱団から通信が来まして、ホームページができまして、色々ニュースが載っています。お暇かある方はおひまな時にご覧くださいね。
http://www.geocities.jp/shikinso/

 あ、YOSHIの会のイベントのチラシも出来てきました。皆頑張っています。チケットもありますので(無料)、宜しくお願いします~~~。
 

2004年9月22日(水)  

8月がお休みだったので、忘れている人もいるかもと思いつつ、念のためにコップは1ダース用意しました。なーんと、ぴったりの参加。大勢の参加にびっくりしました。

 一番遠い人はカナダのトロントからですが、もちろんがま口塾の為に来日したわけではなく、向こうに赴任中で、日本に来る用があってのこと。ならばがま口塾においでよと誘った訳ですが、一期の頃からの「便り」の読者です。「何も喋れないよ」と言いつつ、フーフー坂道を上がってフーフー言っているうちに、カナダから日本につくまでのトラブルを話し出して・・・、気がついたらいっぱい不幸?な話を語っていたのでした。911以後、アメリカではトランクの検閲がかなり、どんどん厳しくなっているようで、鍵が壊されてしまったとのこと。鍵をかけず、ベルトだけにした方がいいようです。

 ジャンケンで負けて司会をしていた人も「禍を転じて福にしましょう」なんて、こちらもいやいや司会をし始めた割りに好調。

 
 「先日の朝日新聞を見て、出版交流会に出て、その時のがま口塾という言葉がひっかかってしかたがなくてきてしまいました」という方。ずーっと来ようと思っていて、勇気が出なかったけど、思い切ってきましたという方。忙しかったけどやっと来れたという方。4人も初めてという方がいらっしゃったのです。

 幸せを感じる時っていうのは、特別な時ではなくて、何気ない、あたりまえの時間であるという人が多いようです。日本人は、豊かになりすぎてしまったのではないかという意見にも頷く人が多かったように思います。特別にゲラゲラ笑いっぱなしといった会ではなかったのですが、何か時間を共有している事が幸せと思えるような、穏やかな時間の流れでした。

 時間のある人は残って、一緒に「911 Plane Site」を見ました。最後まで残った5人で野菜カレーを食べ(私はこれしか作れない・・・)、ビデオをおつまみにして、コーヒーを飲み、4時近くまで別枠がま口塾が続いたのでした。そのあとは、カナダからの友と又「ふたりがま口」。ぜひ赴任中にカナダにおいでと言われるのですが、実現しやあ、そりゃあ幸せというものだわね。アメリカよりは行きたいなあと思う国。

 

 

2004年9月23日(木)  

夜の雷雨。名古屋で古田選手会長大活躍。39歳。人として蓄積された経験エネルギーが充満、爆発できる年代かなあ。稲光の後の夜空を転がるような雷の音。

 難病患者さんたちの集いが色々あって、ある講演会のテープ起こしを引き受けました。患者さんたちは患者同士で情報を共有して治癒を目指すのに、病を得ている自らが役割を分担しながら頑張らねばなりません。過酷としかいいようがありません。

 かく言う私。やっと普通の速さで歩けるようになりました。まだ左腰、左脇、左上腕に違和感が若干あり、何だろう?って思うのですが、多分大丈夫。なかなかがま口のテープ起こしも集中できませんが、ゆっくりやります。お許しを。

2004年9月24日(金)  

  一人超多忙の友人を風の様に迎えて送り、相変わらず怠けているワ・タ・シ。昔からこうなのです。やらなければいけないことがある時、必ず他ごとをする。その言い訳をダラダラと心でつぶやく。この病気、何でしょうね。自分が恥ずかしくてメールを戴いても返事も出来ないでいます。ごめんなさい。待っててやってください。

 タイのチャットさんは「はだしのゲン」のタイ語訳にやる気満々。中沢啓治さんにも日本にいる時訪ねて翻訳の許可をとっていたのですから、当然なのですが、不安もいっぱいあるようです。金沢のANさんもアメリカからの出版にいろいろ立ちはだかる困難もあるようで、最後の苦しみにあるようす・・か。皆頑張ってる。私はまだ怠けている。がま口塾便り、テープ起こし、怠けています。

2004年9月25日(土)  

 YOSHIの会。愛知大学車道校舎で10月17日の会の下見をしました。3階のコンベンションホールの素晴らしい施設に目を見張りました。車道校舎はこの4月に改築なったばかり、それはそれはホテルのように立派です。

 豊橋や三好の校舎ともテレビ会議で大いなる交通費と時間の節約。電力は徹底的に省エネ工夫。部屋は皆カードで開け閉め。ホールの椅子はボタン一つで出たり引っ込んだり。スクリーンは二面あって、それぞれ違うメディアも使えます。後席の人たちにも、拡大テレビが用意。先週竹中大臣がここで講演したとか、とにかく最先端の設備が揃っていました。世界の国際学術会議もここでOK。
 さて、さてさてさて。一番大切なのは、お客様。当日大勢の方に講演を聞いていただかないと意味がありません。ホールをご覧になるだけでも面白いです。ぜひご参加を!

姪が来週アメリカへ3ヶ月の修行に出かけます。夕食とコーヒーの何気ないお別れ会。小さい頃から犬や猫が大好きで、ずっと動物病院で働いていました。アメリカなどでは、犬の内科とか、外科とか、心療科(飼い主の為)まで専門病院が分化しているそうです。ひえーっ!って感じ。彼女はドッググルーマ─(トリマ─)なのですが、犬の美容って、シャンプーして乾くまで1時間半とか2時間かかって5000円くらいもかかるんですって。東京なんかでは、犬の種類によっては、1回で6~7万円もとるトリマーもいるそうで。いわゆるカリスマ美容師。何の道にも極みというものがあるようです。

 今回のがま口塾で、アメリカでは女性の自爆テロを警戒して、出入国の検査が女性に特に厳しくなっている事が話題になったので、私の鍵をなくしてしまったスーツケースを貸しました。どうか無事に帰ってきますように。

2004年9月26日(日)  

O市文化センターホールで、O市文化協会設立25周年の記念公演として、モンゴルの「白い馬芸術団」の公演があり、サランさんにチケットを2枚戴いたので、母と出かけました。サランさんは、先日の出版記念交流会とはうって変わって1000人ホールの広い舞台で、それはそれは伸び伸びと可愛らしく、優美な舞踊を披露していました。

 李波さんの二胡、四胡は、とにかく素晴らしい。ハスチチグさん、ボウジンゾウーさんの歌も謙虚で素朴で声量たっぷり。心に沁みるものでした。ジリンバイヤルーさんの、モンゴルオルティドー(長歌)というのは、音が途切れないように息を吸いながら笛を吹くという、不思議な不思議な演奏法。びっくりしました。又、張照翔さんのホーミーという楽器の演奏も弾きながら、一人で同時に二つの共鳴音を出して歌う(リンベ)、世にも不思議なミックス演奏で、伝統音楽の魅力溢れるものでした。
 ジリンバイヤルーさんは、竹田の子守唄がとても好きだそうで、バウーで演奏しましたが、これも心に響くものでした。李波さん作曲の「荒城の月に寄せて」も深遠な演奏。
 一番感動したのは、公演終了後、すぐロビーでサランさんやハスチチグさんが市民の皆さんと握手したりして、丁寧な交流をしていたこと。母も握手してもらって大喜び。行くまでは疲れるのではないかと心配していたけど、大満足で帰宅の途に。素朴な舞台だったけど、素晴らしかった!堪能しました。

 母と栄で別れて名古屋駅へ。旅チャイナの掲示板仲間のTさんが、鈴鹿サーキットで宅配ドライバー(ピザなんかの)の安全運転コンテストの実行委員長をされ、その仕事の帰り道にある名古屋駅で、夕食を兼ねて面会。サーキットでは、全国から100人以上の若者の参加があって、大成功だったというお話や、豪華客船「飛鳥号」に乗って世界一周三ヶ月の船旅を奥様とされたお話を、又(前にも伺ったので)いっぱいお聴きしました。お値打ち価格の部屋でも1人350万円以上しますんや!スイートルームに何ヶ月もずーーーーっと住んではるご夫妻の話も伺って、山本屋の味噌煮込みうどんが(2,500円やったのに)100円ショップのカップラーメン並に思えたのでございました。

 でも、今日のモンゴルの音楽は感動したし、サランちゃんが私を見て抱きついてくれたから幸せだったわーーー。ひがんでえへんてば。ひゃー、疲れたあ。寝ます。又怠け者。
 

2004年9月27日(月)  

昨日の朝。お向かいの桜の木の上の方の枝で3羽のカラスの喧嘩がありました。体当たりで1羽のカラスが苛められていたカラスをドタドタッと地面に叩き落しました。桜の枝や葉っぱの間をかすりながら、本当に落ちたのです。そして2羽は飛び立っていき、しばらくすると電線に仲良く止まっていました。今日は空をくっついているのか、離れているのか、分からないくらい複雑に絡み合って飛んでいました。落ちたカラスは傷口を自分でなめながら飛んでいたのかしら。いずれにしても、世間は(私は)日常のどうでもいい景色を見ただけとして、そのうち忘れてしまいそう。内閣改造。

 やっとがま口塾便りが完成。スローペースです。これをそのままB4に落としますと、15ページ、両面使って4枚になってしまいます。すると、重量超過になって面倒なことになります。で、今から減量作戦です。明日印刷に行って発送できれば、バンザーイです。

 

2004年9月28日(火)  

がま口塾便り、今日は都合で失敗。明日印刷・発送です。気分転換にウィル愛知へ行きました。風'sのDさんに用があり、資料室で借りた本とビデオも返す必要があり、ついでに17日の講演会のチラシを置いてもらうよう、事務室にも頼みに。
 本は休みが多くて、うっかり返却が3日遅れたので「すみません」と謝ったら、「これくらいはいいですよ」と思わぬ優しい答え。その後がぶったまげました。「先ほどは2001年に借りた本を返しに来た人がありますよ」。

 張陽から永住ビザをとるための嘆願書を書いてほしいというメールが来ました。「僕がどんなに良い人間か、どんな良いことをしたか、いっぱい書いてね」という次第。「日本に来ていっぱい片想いをして振られました。でも、最後に素敵な人とめぐり合って良い結婚をしました」と送信したら「振られたことを具体的にいっぱい書いてね。でも姫にみつからないように」だって。・・・冗談はさておき、急遽A42枚にノーベル嘆願賞受賞もありえそうな、感動的作文を書いて送りました。「涙がとまりませんでした」の返事あり。
ほんまかいね。彼の大笑いの声が聞こえてきそうでした。母国以外の国に永住するって気持、どんなかなあ。私は多分できない。

2004年9月29日(水)  

傘をさしてコピー屋さんに行く途中、キキーッってすごい音がして、トラックが追突寸前で止まるのを目撃してしまいました。雨が降るので滑りやすくなっているんでしょう。追突を避けるために、トラックは半ば歩道の方にハンドルを切っていたので、クワバラクワバラ。ぶつけられないように歩いていました。

 家に戻って、今度は郵便局に行く道で、横断歩道の真ん中でツルリと滑ってスッテーンとみごとに転んでしまいました。袋に入れていた「がま口塾便り」だけは、無意識に、しっかり抱き抱えていましたので、路上に散らかるブザマだけは避けられました。封筒が雨で泥に塗れたら目も当てられませぬ。やれやれ。

 すごい雨台風ですね。被災地区の皆さんが気になります。

 17日の「安全・安心な子供たちの未来のために 愛知大会」のチラシをいれて、ちっちゃいメモ紙を入れて量ってみると、何と恐れていた重量オーバーで10円切手を足さなければならなくなりました。コンビニでは10円切手100枚はなかなかありません。それで、雨が少ない安全なうちに郵便局で買って、ついでにポストに入れてしまおうと、調子の良過ぎる事を考えたのがいけなかったのか。
 
 今日、まだ10人ぐらいの方に、発送できませんでした。途中で、安全な熟女たちの未来の為に・「今日出来ない事は明日しよう!」って考え直したからです。

2004年9月30日(木)  

地下鉄に乗れば「いよいよ」「いよいよ」「いよいよ」だけの字が車両じゅうにぶら下がっています。ドラゴンズの実況放送を聴きながら書いていますが、何だか悲壮・・。
 アメリカではイチローが秒読み・・・。なんでみんなこんなに夢中になれるのかしらねえ。

 私はテープ起しと一日中格闘していました。一刻も早く仕上げてあげたいのですが、何せ医学用語。おまけに講演の名誉教授は、どうも東北地方のご出身のようで、アクセントが違うので、言葉がピンと入ってこないんです。微妙な時差があって『????---ああああん?あーーーーっ!』って感じです。もう1人のお若い助教授は、れっきとした名古屋弁アクセント。すいすい頭に入ってきます。言葉は本当にオソロシイ。語尾までしっかり話すことが、日本語の場合、いかに大切か、身に沁みました。神が与え給うた修行也。

2004年9月30日(木)  

そのA

 筑紫哲哉の番組、北京から生放送の「チャイナインパクト」。日中の記者の交流についてレポートしていました。CCTV東京支局の孫さんがインタビューを受けていましたが、私が「実話実説」に出演した時、東京五反田で街角インタビューしていた人がこの人で、本番中にいきなりこの東京の取材を見せられて終わるやいなや、突然私にふらたので面食らったのでした。

 劉徳有さんもお元気に登場されていました。周恩来の通訳をしていた方。「むらさき花だいこん」の絵本を真っ先に読んで戴いた方です。北京での紫金草合唱団の演奏会でも招待してお聴きいただきました。

 日中の記者交流会の司会は燕ちゃんがしていました。こんなに日中が、親しく平和に、近くにあると私には思えるのに・・・。孫記者が言っていたとおり、草の根の交流が大切だということ、全く同感です。月は満月から又痩せていく。

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Akiary v.0.51