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2004年12月2日(木)  

ただいまー。鳥羽から帰りました。招待してくれた友人に心から感謝。名古屋から特急で1時間半で別世界の海。ホテルのお庭の砂浜を散歩していっぱい貝殻を集めました。入り口をぬけたら前方が全て海!透明のクリスタルの椅子が、クリスタルの床に5〜60脚。電子オルガンと聖書・・・これはホテルのお庭の海岸に建てられていた結婚式場です。ゆったりとしたお部屋で、心ゆくまでお喋りお喋り・・・。海の幸をじっくり味わってスヤスヤ。

 今日は島巡りの貸切船(偶然に客が私達だけだったという意味ですが)の屋上で潮風に吹かれキャッキャッと笑い、真珠のお店をひやかして、水族館ではアシカのショウやラッコやスナメリや珍しい海の生物に目を奪われて・・・。とても幸せな旅でした。

 帰ってみれば読むべきものが手紙を含めて山積みで、テレビは台風27号の接近を伝えていまして、大雨の恐れとか。ふーーーっ。

 

2004年12月3日(金)  

名東文化小劇場で朗読劇「売国奴と呼ばれても」長谷川テルの青春・・・を鑑賞しました。あの戦時に、中国から日本へ‘反戦平和’を訴え続けた長谷川テルを描く朗読劇とあります。東音研のFさんが演出。

 奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)時代にエスペラントを学び始めて退学処分になり、留学中の劉仁と出会って結婚、中国に渡ります。そして対日ラジオ放送で反戦平和を訴えた訳です。
 テルさんは私の父と同じ年なのに、テルさんは中国の北の果てジャムスで、34歳で亡くなってしまいました。人間の生涯って何でしょうね。私が大好きな彼女の詩「二つの失われたリンゴ」もクライマックスで朗読されました。

 もう1人中国から反戦の放送をした日本人女性の原清子さんには私はお目にかかる事ができました。その後1年もしないうちに亡くなったので、よくぞ間に合った!と思います。この2人のことは、もっともっと伝えていかなくてはと思ったのでした。

 帰宅してみれば、父の記録を出版した合同出版から、こんなメールが届いていました。

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 南京虐殺事件の歴史的事実を否定し、この事実を伝えることを妨害することを政治的な信念活動にしている一部の地方政治家などによって、雑誌の連載が中止されるという、言論、出版の自由をめぐる看過出来ない問題が起こりました。
 「出版流通対策協議会」(加盟91社)では、週刊『ヤングジャンプ』(集英社刊)連載、本宮ひろ志作 連載劇画『国が燃える』の休載に関しまして、声明を発表しました。
 また、日本ジャーナリスト会議(JCJ)出版部会では、本問題につきましてのシンポジウムを開催いたしますので、あわせて御案内をいたします。

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シンポジウムに飛んで行きたいのですが、東京・・・。ああ・・・。
世の中、本当に何でこんなんなの?「家族や仕事や会社を奪われたくない」という恐怖。「売国奴と呼ばは呼べ」という人間力。普遍的な愛が「力」を作っていくのかしらん。あらためて長谷川テルの短い生涯の「力」に感動しています。

2004年12月4日(土)  

名古屋市役所で教育委員会の指導主事に面会・・・って私が言ったら、きっと皆「何か叱られたの?」って聞くだろうな。CDRの仕事の件なのよ。今日は見本を届けに行きました。彼女は同窓会の時、司会をしていた私を初めて知ったそうですが、そのご縁で、ある方に話を繋げてくださったのです。うまくいくかどうかまだ分かりませんが、思いがけない人の繋がりに本当に感謝感謝。

 天白小劇場で観劇。東音研のFKさんが演出で、斎場の待合室が舞台の「煙が目にしみる」。火葬される白装束の人達も出てきて、なかなか面白く、又、奇妙なあたたかさにも満ちた、楽しい劇でした。よく笑いました。最後の挨拶でFKさんが、挨拶の代わりとして「千の風になって」という詩の朗読をされました。

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私のお墓の前で/ 泣かないでください/ そこに私はいません/ 眠ってなんかいません/ 千の風になって/ 千の風になって/ あの大きな空を/ 吹きわたっています・・・
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どっかで目にしている詩だけど、どこだったっけ?思い出せないのですが、とても気持ちが温かくなりました。

 一旦家に帰ってから連れあいと中村文化小劇場へ。「OH人生男声合唱団」と三味線やそすけさんの合同公演。K市の音楽会で指揮をしていたSさんに招待状をいただいて出かけました。抱腹絶倒のコーラスというのか、三味線合奏というのか、寄席というのか、真面目なSさんは、今回はベースで歌っていましたが、40人くらの初老の男性達の人生の悲哀をユーモラスに歌い上げた公演でした。やそすけさんと両脇の三味線の女性の3人は、東京芸術大学の同窓生だそうです。なるほどねー、こういう舞台が出来るんだア!という斬新な音楽会でした。

 さすがにグッタリ。近頃遊びすぎなのです。 

2004年12月5日(日)  

一歩も外に出ず。読書。イヤ、土日は主婦業はけっこう忙しいのですが、私が忙しいと言ったら、神仏のバチが当たります。本が読みたいのに仕事の準備もしなきゃならんのです。それがいっこうに進まず・・・。さあ、そろそろやらなくっちゃ。明日のこっちゃがな。えらいこっちゃがな。でも私の「えらいこっちゃ」は幸せすぎるのです。

 ファルージャの情報がメールで入ってきますが
 ☆ファルージャ難民が語る、殺人ゾーンでの生活と死/ダール・ジャマイルのイラク速報 12月3日 の中にこんなのがありました。こんな馬鹿なことを日本は支持していていいのだろうか。
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 「アメリカ兵は通訳を同行してなかった」とファサアは言った。「それで彼らは、民家に入ると、相手が英語を話さないからと言って人々を殺した。私が26人の住民と一緒にいた家に彼らが入ってくると、住民が米兵の)命令に従わないという理由で発砲した。もちろん住民は英語での命令を理解しなかったというだけなのに」。

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 そのうち、いつか英語を話さないからと言って、日本人がアメリカ兵に殺される日が来るかも。イエスしか知らないグッドマンが首相だから。
 友人が、昔暗誦したという詩をメールで教えてくれました。

 「無知の予示」William Blake

   一粒の砂に世界を / 一輪の野花に天国を見
  掌の中に無限を / 一刻に永遠を掴む

 こんな感性を政治家が兼ね備えていたら、戦争なんて絶対おきないね。一粒の砂、一輪の野花、掌の中、一刻にキラキラと輝く宇宙の命がある。

 

2004年12月6日(月)  

トボトボと帰る。今日のH小学校6年生80人との授業の出来は大変悪うございました。50点!とにかく、45分という時間制限に頭がキリキリ舞。あれもこれも言いたいと欲張って、教案が全く練られていないので、メッチャクチャ。45分で日中戦争の話を小学生にしてくださいと言われて、戦争の経験のない私は、父のことを語る以外にないのですが、想いがあふれてきてどうしょうもないのです。父の幸せだった子供時代のことを、今の子供達に比べて話しすぎ、ふと気づいたらもう時間が刻々と・・・。とにかく、微妙な問題を孕む、難しいテーマでした。

 帰宅して夕刊を開いたら、S県知事が、「新しい歴史教科書を作る会」の前副会長を県の教育委員に要請したというニュースが出ていました。ぞっとします。こういう県だったら、私の授業なんか、すぐ通報されるのかしらん。もう絶対依頼は来ないでしょう。

 H小学校は、来週はアフガニスタンの話をしに小林豊さんがいらっしゃるそうです。私の授業でも教科書に載っていた「世界一美しい僕の村」の朗読の勉強をしましたが、教科書に載っている作家が教室へやってくるのです。宮川ひろさん、志茂田景樹さん、工藤直子さん等々、歌手や画家や、並べたら次々出てくる、教室へ現れる先生達の名。

 私なんかはそういう有名な方々とは断然立場が違って、気楽な身内の講師って感じです。又3学期に、1年生の朗読の授業の依頼をうけました。現場の先生が校長先生の前で約束取り付けちゃうんです。さすがに校長先生、「予算がもうなーい!」と悲鳴を上げて笑っておられましたが。天木直人さんでも中村哲さんでも高遠さんでも誰でも呼んじゃって!

2004年12月7日(火)  

 小沢征爾さんが新潟で励ましのコンサートをされた事が報道されていました。まのあけみも実は4日に新潟でコンサート。新潟日報には大きく載っていますがね。1つは新潟の骨髄バンク運動15周年と、ドナー登録6000人達成記念。白血病で1993年に7歳で亡くなった丹後光祐君にまつわる「命のアサガオ」の作曲を彼女がしていることから、彼の生家の鉄工所を会場として開かれました。
 もう1つは魚沼市の宇賀地小学校と小出小学校の、被災地体育館で。独楽や風船を持っていって、子供達やお年寄りとも一緒に歌って遊んでのコンサートで、大変喜んでいただいたそうです。音楽の力は本当にすごいなあと思います。小沢さんもまのさんもお疲れ様でした。(並べてしまうところがいいでしょ?)

今朝、昨日のH小学校の教頭先生から電話で、父の本を4冊、先生達が注文したいという連絡でした。落ち込んでいたので、感激この上なく、感謝感謝。
 
 午後は大須演芸場で年末恒例のスーパー歌舞伎「絵本太功記」鑑賞。明智光秀の謀反の物語で、初演は寛政11年(1799)で人形浄瑠璃の脚本だったそうです。大須の歌舞伎になると、鳴り物はシンセサイザー等を駆使したロックでガンガン。でもちゃんと太夫や三味線の語りも入り、座席は全部座布団席なのです。
 三味線は同級生のSちゃんで、座長で演出のI氏夫人でありまして、開演前は入り口でお客さんの案内をしていたのに、いつのまにか、裃姿で舞台の袖でベンベンやりだし、びっくりしました。同級生で先生にならなかった変人2名のうちの1人。あと1人は????しーらない。

 夜は東音研の忘年会。皆が一言ずつしゃべったのですが、24人もの出席ですので、まあそれはそれは賑やかしかったです。大先輩の女優さん、NHKの番組に出るのに、自前で衣装を用意してくれと言われたと憤慨されていました。何十年と仕事をしてきたのに、こんなことは初めてだそうです。矛先は、同席の元NHK放送劇団の長老や元NHKアナに向けられましたが、エビ様の責任ですね。彼の局は、現在予算がギリギリ絞られているようです。
 T市のケーブルテレビに就職したばかりというお嬢さんが初出席していたので、「新潟の震災では、ケーブルテレビが大活躍したから、頑張ってね」と言うような話をしたのでした。

 忙しい一日でした。
 

 

2004年12月11日(土)  

 入院していました。重症で、一時は退院は正月休み明けと言われ、目の前が真っ暗になりました。体が動けなくなってしまったのは、歌詞を尋ねられ、何とか探そうと、ガタガタ力ずくで動き回ったからです。大須の電化街を何回もうろいて、ご親切な治療を受け、今日、幸いにも奇跡的に退院できました。ふーっ! 患者はこのパソコン様でした。ご心配をおかけしてすみませんでした。

12月 8日(水) パソコン発症!ショック。いかにパソコン依存症か、身に滲みました。

12月 9日(木) 大須へ。3週間ぐらいかかると言われ、更に年末年始がはいるので、来年になると・・・。更に、バックアップがとっていない場合は、全部消えます・・・と。帰り道、あまりにも情けないので、自分は死んだことにしようと決めました。すると、実際は生きているのだから、これってすごい儲けもんじゃんか!って・・・思うことにしました。夜はシャンソンを聴きに東文化小劇場へ。先日中日社会功労賞を受賞された中野さんが3年前からシャンソンを習っていらっしゃって、その発表会。2曲のうち一曲は「涙」で、衣装は袈裟。そしてF&Kの手話コンビのトリオ歌唱となりました。思いもかけない情景で、感動感動。本当に素晴らしい歌でした。シャンソンってストーリーテラーだなあって思った次第。いや、ストーリー寺か。彼の人生が詰まった歌でした。

2004年12月11日(土)  

そのA 

12月10日(金)中小企業センターの「1937上海上陸戦−南京大虐殺」名古屋証言集会へ。証言者は上海黄浦区の王雲弟さんと金山区の藩永良さん。3歳、5歳の時の記憶、親族から聞かされた話をされました。2人とも思い出すのも苦しそうで泣きながらはなされましたが、特に女性の王さんは、3歳で、家族の目の前で、日本軍がお父さんの首を切り落とし、頭をそばの沼に蹴り落としたそうです。日本軍が去ってから、お母さんはお父さんの頭を拾って、靴を縫う針と糸を持ってきて、首に縫いつなげてから土に埋めたそうです。そして、日本軍がやったことを永久に忘れるなと言いつつ王さんを育てたということでした。2人だけの特殊な話ではなく、それが上海・南京の各地で繰り広げられた事実なのです。

 抗日記念館の研究員と副館長の話もあり、4人の中国人の方の話の後で、私の話を10分という事で出席したのですが、まさに私は被告です。人生でこんなに辛い時間はありませんでした。話す前に、お2人に謝らせて欲しいと言って、中国語で、「父が死んでいるので、お詫びが言えません。私が父に代わって謝ります。ごめんなさい。どうか、お許し下さい」と言いました。そして父の本を差し上げました。本当は、私は父の本を中国の人達に読んでもらうのは、辛いのです。父の、陸軍教導学校で叩き込まれた、日本軍としての勝手な論理がちりばめられているからです。でも、それ含めて、事実を語っていることは「事実」なので、両国の証言があって初めて正しい裁きとなるのです。天国か地獄か、『お父さんは今日の私の行為をどう思ってるかなあ』と考えながら帰宅しました。私の仕事は、若い人たちに伝えて行くことです。

2004年12月12日(日)  

そのB 昨土曜日ですが、「自衛隊イラク差止訴訟全国原告交流集会・名古屋」が名古屋市教育館でありました。2時から6時までという長丁場で、昨日は被告でしたが今日は原告。どちらにしても大変悲しいのですが、原告の皆さんの中にいる時が私が一番癒される時です。とても呼吸が楽なのです。

 昨年3月19日以降、イラクで起こっていることは、国連憲章違反、安保理決議不容認、武力行使の正当性は嘘、ジュネーブ条約違反、憲法第9条違反、憲法前文から権利侵害、国際法違反、イラク特措法違反、自衛隊法違反・・・というトンでもないもの。原告が切々と訴え、どうやら裁判官の心は動かしているようだと、見えはするものの、門前払いの構えの被告を目前に、裁判官に訴訟上の判断をせまるだけの材料が有効的に出し切れていないというのが現状である訳で、それを全国各地で訴訟をしている原告や弁護団が集まって情報を共有して、一緒に連絡をとりながら進んでいこうという趣旨で開かれた会議でした。

北海道:かつて自民党タカ派代議士、郵政相だった箕輪登氏(80)1人が原告ですが、大勢の支持者がいます。11月5〜6日にオランダのハーグの国際司法裁判所で「中東の正義と平和のための国際会議」でされた演説(体調不良で代理が出席)はシンプルですが、とても簡潔明瞭。素晴らしい内容です。

栃木:憲法は見直しより読み直しというスローガン。報告された方(市会議員)は、小学2年生の孫に残してやれるものは憲法だと思って、この訴訟を始めたとのこと。私はとても感動しました。孫のクリスマスプレゼントに「憲法(を守るおじいちゃんの真心)」なんて、最高ではないかと私は思いました。

東京:今、日本は法治国家かと問うています。毎日一人一人提訴する方法。

山梨:原告にアラビア語が堪能なジャーナリストがいる。アンマンにフセイン裁判の取材に行ってアラブの弁護団とコンタクトがとれ、そこには多くのファルージャの虐殺の証人が訪れているとのこと。その弁護団や証人を招待できないかと考えているそうです。

静岡:全国原告団でイラク現地調査団の派遣を検討したらどうかという提案が出されました。今の状況だと、サマワの活動など、正しい情報は全く入ってこないのです。マイケル・ムーアを証人に申請。

愛知:国会議員を永田町に訪ねまわったり、緊密な情報交換・共有を進める中で、共同して行えることを探って行きたいという提案。原告の数は、どんどん増えていて、もっともっと増やす事が、弁護団の「何を侵害されているか」という原告の苦しみの類型化に役立っていくという話。

ゼニカネ:いかにも大阪人のネーミング。元自衛隊員が呼びかけた。議員さんの報告では、予算会議で四苦八苦しているのに、自衛隊派遣に関しては、出費すればするほど日本の評判が悪くなるという現実にいたたまれないと吐露。いかに税金の無駄遣いをしているかを浮き彫りにしたいとのこと。

関西:小田実さんが中心。阪神淡路大震災で家族や同僚達を亡くしたり、リストラされたりのとても辛い状況の中で頑張っています。不景気で就職率が非常に悪く、そういうところを狙って、自衛隊の勧誘がきているという報告に愕然としました。

岡山:名古屋の訴訟に入っていたが、地元でもやろうと立ち上った。たった一人の想いから、既に205人の原告になったとのこと。弁護団もできました。

和歌山:マイケル・ムーア氏にヒロシマ・ナガサキの記録映画を作って貰うよう、既に打診中とのこと。すごい!

仙台:12月8日に提訴したばかり。原告は3名なのに、弁護団は101名だそう。仙台市には200人しか弁護士がいないそうですから、これは、ものすごい数字です。ちなみに名古屋は800人の弁護士がいるのに、弁護団は80名。ちょっと考えちゃいますね。各地で弁護団の数が違います。

 法廷にギターを持って、歌で意見陳述をし始めて、裁判長から停止させられた原告の話とか、色々面白い話を聴きましたが、私が一番悲しかったのは、「非戦闘地域」という英訳が、理解してもらえる訳がなく、小泉さんは「ヒセントウチイキ」というカタカナをそのまま英語として使用しているということを聞いたことです。長々とレポートをしましたが、本当に素敵な方達ばかりでした。原告になりたくなってきた方、ぜひ近くの訴訟に参加してください。全国で今4500人が原告として名をあげています。もっともっと増やさなければ、弁護士さん達の論戦の後押しになれません。

 ニ度と3歳の子に、父親の首を母が胴体に縫いつける姿を見せるようなことがおきてはなりません。いや、それが今、イラクで起きています。

2004年12月12日(日)  

 知人から電話。昨日のメーテレのニュースで私が出ていたそうで、名札も読めたから、絶対間違いないと。とても小さな名札だったので、いかにアップで写ったかということですねえ。メーテレが来ていることは知っていましたが、全く討論に没頭していて、写されていたことも知らなければ、ニュースを見ようとも思わず、全く知らないことでした。

 それで、「何をしていたの?」と訊くのです。説明して「原告になって下さいよ。費用は年間3000円だけですよ。原告を増やす事が一番力になるんです」と言うと、「OK!」。ああ、ビックリした。勇気も出してみるものです。私はなかなか人に言えないのです。書くのはけっこう平気ですが。

 夕食時、息子と自衛隊問題で論争。はっきり不愉快。別の息子が行司の顔をする。私がブツブツ訴えると「貴女にそっくりじゃん」と! もっと不愉快に。息子ども!もう一度おなかに入れて、そして出して、もう一回育てなおしたる。今度は絶対上手に育てて見せるワイ!

2004年12月13日(月)  

一日中読書。大変幸せ。

 燕の中国便り更新しました。オウェンク族の話、『何か、よっく分かるうなあ・・・』と思いながらアップしました。燕が私のPCが故障した遠因になった?罪滅ぼしに?ブレンバヤールさんの「藍色のハンガイ」の歌声を添付してくれましたので、うっとりと聴きました。私のバヤイ、帰る故郷は名古屋に決まってるけど、沖縄でもいいと思ったりします。又、近頃は、カイラスを眺めながら死んでもいいかなあなんて思ったりもして、名古屋に強烈な郷愁を感じるということもありません。ただ、多くの友人・親族は確かに名古屋近辺に集中しているので、人間に対して郷愁はあるかも。オウェンク族の自然を恋うる気持ちは素晴らしいし、羨ましいとも思います。

 PC事件で書くのを忘れていたのですが、8日に、癌で入院中の古くからの友人の見舞いに行ったのです。会員でもあるので、手紙参加もしてくれていますが、抗癌剤の治療に入っていて、頭に自家製のタオルの帽子をかぶっていました。とてもサバサバとした明るい患者さん。学生時代から、彼女が笑うと部屋が揺れると言っては皆が笑ったものですが、ベッドの上でもよく笑って、私を笑わせます。学校の先生ですから休職中で、来年4月から復帰するそうで、子供達のことをあれこれ語っていました。夢を失わない彼女に圧倒されました。

 何民族でも人間は皆夢をもって生きる。夢があるから生きられる。ブレンバヤールさんの歌声には生きている喜びが、滲み出ていると思ったのでした。

2004年12月14日(火)  

 「憲兵だった父が遺したもの」の著者、群馬の倉橋さんから、「派兵差止訴訟ニュースであなたの陳述書を読みました」というメールをいただきました。私の出版に当たっても色々励ましていただいたので(私が勝手に励まされているのですが)、とっても嬉しかったです。実は、古い古い会員さんや思いもかけない所からも、「読みましたよ!」ってちょこちょこ電話や手紙を戴いているのです。原告が全国に3000人もいると、親しい友人達もいるわけで、語らずして繋がっているんだなあと実感しています。

 今日も学生時代の友人から電話。「日記を読んで、原告になろうと思ったわ」って。感激しています。意見陳述書は何を書いてもいいのです。一行だっていいのです。他は何の煩わしいこともありません。自分の気持ちを歴史に刻んでおけるのは素敵なことだと思っています。言葉も集まれば必ず「力」になる。

図書館へ。河原にタンポポがちょこちょこ咲いています。タンポポが強くなったのか、気象が変なのか。ちょっと歩くと汗が出る冬。 
 河原を歩きながら、100年前、艱難辛苦を乗り越えて、日本人として初めてチベットに入った川口慧海のことを考えていました。橋を渡らないで、あの辺りなら水の中を歩いてショートカットできそう・・・とか。色川大吉の「わが聖地放浪」も「カイラスに死なず」という副題の通り、何度も死線をこえて生還しています。カラスを見ても聖地に飛んでいたという鶴の話を思い出し、まあ、これは病気かも。友達にもカイラスという恋人ができたって言ったら、本当にスペイン系の男性と付き合いだしたのかと思っていたそうです。人間のことは、想うと哀しすぎます。

2004年12月15日(水)  

先日「戦争の授業」?!に行ったH小学校6年生の全児童から授業の感想文が届きました。イベントがあると感想文を必ず書かせられるのは、文章を書く事が嫌いな子には苦痛だろうなと思いつつも、受け取ってみると嬉しいものです。感激して一人一人に、一行ずつの返事を書いていたら、いつの間にか外が真っ暗になっていました。時間がどっかへ行っちゃったって感じ。書き上げて投函。明日、学校に届くといいな。
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 ★人を愛する事が大切だよって、どうして教えなかったんだろう。人々は殺しあうために生まれていないのに、どうしてこんな戦争をするのかなって自分で自分にいつもきいていました。(フィリピンから来た子)
 ★お祖父さんは戦争に行った事があるので、よくを話してくれて、いつも最後に「戦争はどんな事があってもするものではない」と言う。なんで何回も戦争の話をするのかよく分かった。
 ★今年沖縄から引っ越してきた。沖縄も昔は琉球という小さいけど一つの国だった。沖縄のお年よりは今でもヤマトを恨んでいる人もいるし、戦争のむごたらしい傷は深く、何百回もこれでもかこれでもかと聞いている。戦争は避けられると思った。中国の人に謝ること、戦争への反対、戦争で傷を負った人のことをこれからも心にとどめて生きていきたい。
 ★戦争の話は聞きたくないと思ったが、歴史を知らなければいけないと思った。戦争では軍馬など、動物も協力させられた。イラクで戦争をしている人も一人一人はいい人だろう。良心をもって、武器を捨てて言葉で解決していくべきだと思った。
 ★坂東さんが、中国の人と、仕事を一緒にして仲良くできるよと言ってくれて良かったと思った。
 ★中国人と日本人の立場が逆だったら、どんなに辛いか想像もつかない。戦争の残酷さがよく分かった。
 ★坂東さんのお父さんは鬼になって人を殺して勲章をいっぱい貰って悲しいと思った。戦争は自分の気持ちが消されて鬼の気持ちで埋め尽くされていたと思う。日本は色々な国と戦争して負けた。私はそういう国の人に会ったら、まず「ごめんなさい」と言いたい。
 ★「人類が戦争から逃れる術はない」というお父さんの言葉が心に残った。イラクのニュースを聞いていてもとても悲しい。自分と同じ人間をどうして殺せるのだろう。
 ★昔はお風呂をよその家に入りに行ったり、わらぞうりで学校に通ったりして驚いた。鬼になった兵隊達のことを思ったら、胸が痛くなった。坂東さんの「私の命は中国人が流した血と涙でできている」という言葉は、殺された人の命を大切にする言葉でいいなあ・・と思った。
 ★アメリカで暮らしていたが、戦争について謝るということは考えたことも無かった。
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・・・。書き出したらきりがなく、こんな感想がぎっしり続いているのです。私はとりたてて言わなかったけど、天皇の戦争責任に触れることを書いている子もありました。子供達の感性のやわらかさ、質の高さに、正直驚嘆しました。来年も来て、今の5年生の子に話してやってくださいという記述もあり、青春の入り口に立っている子供達との交流を大切にしたいとしみじみ思ったのでした。感謝。

2004年12月16日(木)  

TBSワシントン支局長のHPを愛読しています。12月7日の後半の日記は
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今、この国を覆っているロジックはこうだろう。戦争には「よい戦争」と「悪い戦争」がある。アメリカのは「よい戦争」である。核兵器には「よい核兵器」と「悪い核兵器」がある。アメリカの核兵器は前者である。処刑には「よい処刑」と「悪い処刑」がある。アメリカの裁きは前者である。メディアには「よいメディア」と「悪いメディア」がある。アラブのメディアは後者である。宗教には「よい宗教」と「悪い宗教」がある。アメリカのは前者である。この単純な、愚鈍な、そして残酷な二分法。
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 「価値とは相対的なものだ。文化、宗教、国によって違ってくるし、個人によっても違う。価値というものは、結局のところ、その個人の魂の問題にかかわってくるのものだ。人間の行為のどれが価値があって、どれが価値がないなどという客観的な視線は、この世には存在しない。五体投地は、見る者の心の中にそのような感慨を抱かせる」(『西蔵回廊』より夢枕獏さんの言葉)・・・
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 風と雲を友にああ。旅に出たし。

2004年12月17日(金)  

お歳暮で蟹が届いたので、姫ちゃんに食べさせてあげようと思いつき、それならば、最短距離を歩いて行こうと決意しました。地下鉄と市バスを乗り継いでも、待ち時間を入れたら4~50分は掛かってしまうのです。挑戦!マピオンの地図で研究して、一直線に進むことにしました。年末のおしゃれな街の様子を楽しみながら、1時間15分で高辻に到着。やったあ!ディンディンの可愛い寝顔を見て、今度は鶴舞図書館までテクテク。ほんとの目的は図書館だったのですが、第3金曜日は休館日で残念無念。地下鉄で帰宅しました。
 
 姫ちゃんは既に鶴舞図書館でディンディンの図書カードを作って、楽しんでいました。コッチビの話などをしたのですが、延吉でも、絶対いるんだけど、どの子かよく分からないそうです。そうかなあ。寒くなって本当に可哀想。
 ディンディンの言語は、基本的にやっぱりママの朝鮮語。こんにちわ、さようなら、ありがとう、いただきます、は日本語で習慣づけています。テレビの子供番組は、もちろん日本語。中国語は完敗状態で、パパが姫ちゃんに朝鮮語を教えてもらいながら、我が子と話しているとのこと。

 全部の言葉が使える人になって、平和の中で、今のままに、ささやかに幸せに、そして人々の幸せにもなるよう暮らして欲しいと思います。 

2004年12月18日(土)  

 母宅の大掃除。ご本人は何やらのお稽古事に外出。いつものようにカーテンの洗濯から始まって、窓拭き、雑巾がけに庭掃除まで、這い蹲って肉体労働をさせて頂きました。往復も勿論テクシー。2年後に恋人に会うために、肉体改造を本格化させなければなりません。恐怖ではありますが、ありがたい母です。

 私は掃除をしながらこんな歌を歌っていました。

 もしも私が家を建てたなら/ 掃除し易い家を建てたでしょう/
1つの部屋に1つの花瓶/ 窓の外では小鳥が笑うでしょう。
 もしも私が家を建てたなら/ 埃が積る家具は何もないでしょう。
 1つの部屋と1つのパソコン/ 服は3着、質素な食事・・・

・・・・それも辛いかなあ・・・。さすがに本日はくたびれ候。
       

2004年12月19日(日)  

 年賀状のデザインをやっと終えました。いつも写真を入れるのですが、ブクブクに太ってしまって、惨めなものばかり。ついにあきらめまして、恋人の写真にしました。再来年の年賀状には横幅だけはナイスバデイの写真を貼り付けたく候。それにしても年賀状が書ける幸せ。1年、生き抜きました。感謝。

 家の大掃除をしなければいけないのに・・・何かをしなければいけない時、何かに全く関係ないことをしたくなるのが私の悪癖で、今日はふと、表札を作り直したくなって、先日鳥羽の海岸で拾った貝殻に名前をマジックで書き込み、布に透明の糸で止めてアレンジ。また玄関の壁にはめ込みました。変な表札。今一の出来だけどまあ、いいや。好き勝手なことをしても誰にも怒られない。私の主は私也。
 

2004年12月20日(月)  

年賀状書き。極めて日本的な生活だなあと思いつつ。手紙を受け取って筆が止まりました。ジュノーの会から会報。もう14年送って戴いています。

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スイス人医師マルセル・ジュノーは、広島への原爆投下の報を聞くや直ちに広島救援のための活動を開始し、1945年9月8日、15トンもの医薬品を携えて広島に入り、被害者、医療従事者を励ますとともに自らも治療活動を行い、数万人の被害者の命を救ってくれました。
 ジュノーの会は、ヒロシマの恩人=ジュノーさんに対する感謝の気持ちを共にするヒロシマの人々によって作られた市民団体です。ジュノーさんにしてもらったように、との思いを込めて、世界のヒバクシャの即時救援を目指していますが、今はチェルノブイリ被災者(ウクライナ)に対する支援活動に力を入れています。数百万人と言われるチェルノブイリのヒバクシャのために、ヒロシマの全ての経験をとどけたいという悲願をもっています。・・・・
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この文章をもう私は87回、通信が届くたびに読んで来ました。今回は2004年ウクライナ甲状腺検診の報告。現地アンケートの翻訳に想像を絶する努力をされていたことが読み取れます。ただただ敬服。結びにYさんと代表の甲斐さんの言葉がありました。
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先日、「セイブ・ザ・イラク・チルドレン広島」代表の0さんが事務所を訪ねてこられた。(Y)
1991年以来追い求めてきた「検診システム=モデル」が完成した。ヒロシマ・ナガサキの犠牲者がこのモデルを支える筈だ。イラクで更に磨きがかけられるに違いない(甲)

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ノーモアと願いながらモア!モア!の世界。ヒロシマにこんな人たちがいることを世界は知ってほしい。名もない普通の素晴らしい人々です。

2004年12月21日(火)  

今日は障子の張替え。あまりうまく出来なかったけど、ま、いっかあ。年末の行事だから、やった事に意義があります。
 
 昨夜の「ヒューマンD」。イラク人質事件から8ヶ月・・・高遠菜穂子ヨルダンでイラク青年の学校再建の夢手助け〜を見ていて、ポロポロ涙を流していました。知らないうちに涙があふれてくるのです。あの人をバッシングした人たちって何だったんですか?辛い辛い中、少しずつ成功してるんだと、自分にいい聞かせるようにして、命がけで頑張っているイラク青年達との信頼の姿。自衛隊は、イラクの青年達と、あんな交流が出来ているのでしょうか。、自分達の運命を一緒に泣いてくれる自衛隊でしょうか。いや、自衛隊の人たちはみんなそんな気持ちで行っていると思います。でも、「日本」を背負っているから動けない。高遠さんは「地球」を背負っている。

 その後、NHKスペシャル「イラク駐留・アメリカ州兵部隊」を見ました。突然召集された普通の人たちが現地でさせられていることは・・・。牧師だった人の自己矛盾の苦悩が、つい60年前までの日本の善男善女の姿でもあります。誰も殺したくもないし殺されたくもないのに、気がつけば、それをしているのです。アメリカ兵の死者も増えるばかり。
「イラク戦争は戦う価値がなかった」とするアメリカ人は58%に達した。


 丸山真男が日本人の歴史意識の基底に「執拗低音」が流れていると言っているそうです。「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉。ズルズルとアメリカに引きずられ、次々に勢いをもって泥沼に入っていく日本。この執拗低音を消すものは何?それは私達の泥沼に行かせないという努力の重なりでしかないと思うのです。

 フルトヴェングラーに空爆下でのライブ録音(45年)があるそうです。空爆下でも演奏を聴こうと集まってくる客がいて、その録音には、その人たちの「気」が伝わってくるそうです。私達は本質的に、人間でありたいのだと思います。

2004年12月22日(水)  

がま口塾。6人とメール、ファックスが2人。何せ年の瀬ですからね。こんなに参加があってありがたいことです。我が家がダラダラなので、他所様も片付けない人が多いのだろうなと思っていたら、「まあ、聞いてよ、私の長年の苦労・・・」から始まった片付け魔夫さんとの暮らし・・・。とにかく「へーっ!」と驚くばかりでした。ノミやダニとの格闘を話した男性は、あとから電話をかけてきて「がま口塾の品性をけがすといけないから、カットしてください」ですって。大笑いです。勿論カットなんかしません。あるがままが、がま口塾のいいところだと私は思っているので。

 夜、合唱組曲「ゾウ列車がやってきた」で有名な作曲家の藤村さんからお知らせメールが来ました。長いので、一部だけ貼り付けます。

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お知らせです。最近発行した、ぼくの「すうがくソング&教育基本法のうたCD・歌集」についてマスコミからの取材がたくさんありましたので、マスコミ報道予定をお知らせします(中部地方限定ですが・・・)。

テレビでは、学校の教室での授業風景やぼくの家での様子が出てきます。
●NHK・・・12月24日(金)夕方「ほっとイブニング」の中で。
●CBC・・・1月4日(火)夕方「ユウガッタCBC」の中で。
●名古屋テレビ・・・1月12日(水)夕方「スーパーJチャンネル」の中で。
また、新聞は12月18日(土)毎日新聞夕刊に出ました。朝日新聞もそのうち出ると思います。
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「ゾウ列車」の中国語訳で何度か張陽や姫ちゃんたちと我が家や高校で集まってワイワイやったのですが、数学の先生って言うのが可笑しいですね。ピアノは大学時代に「これなら自分でもやれるかもしれない」と思って自分で勉強されたそうです。人生とは何が起きるかわからないものです。

2004年12月23日(木)  

朝、階下のSさんが手土産を持ってピンポーン。上下に住みながら、ほとんどお喋りをする機会がなく、いわゆる都会的なお付き合いなのですが、ピアノの教室をされていて、音楽療法も世間に先駆けて手がけていらっしゃる方であること等は承知しています。それは毎日、階下からの曲を聴いていれば、色々な事が分かるのです。

 「今日はクリスマス会を4時間ぐらい続けてやりますので、ピアノの音が喧しいと思います。申しわけありませんが、宜しくお願いします」とのこと。何とご丁寧な!私はいつもピアノ教室の音楽を只で楽しませてもらっているのにね。本当に幸せだと思っているのです。

 中国の福建省にはピアノが聞こえる島というコロンス島があります。別荘地で、昔々、各国の領事館が建ち並ぶ共同租界がありました。異国情緒の漂う町で、車は一台も入れません。1時間もあれば、島を歩いて回れてしまう小さな島の人口は2万人。ピアノの数は1000台以上。世界で一番『ピアノ密度』の高い所だそうです。コロンス出身の人に案内してもらって回った事がありますが、本当に絶えずどこからともなくピアノの音が聞こえていました。
 そのことを久しぶりに思い出しました。階下の音楽教室に集う子供達の幸せが末永く続きますように。メリークリスマス!

2004年12月24日(金)  

又ピアノの話ですけど、クリスマスのせいか、ここんとこ階下からやけに「アメージング・グレイス」ばかり聴こえてくるんですよね。今年の大正琴の朗読のBGM演奏だったので、流れてくると、私はついつい絵本の「風切る翼」の朗読バージョンに気分が入っちゃうんです。練習って恐ろしいものですねえ。それでついにネットで楽譜や試聴サイトを探し出してしばしボーッとして・・。ついに久々にピアノに向かってしまったのですが、弾・け・ま・せ・ん。全ては長い年月のうちに退化していますし、もともとバイエルに毛が生えた程度だもん。

 先日、「千の風になって」の詩をどこかで聞いたけど覚えていない・・とか何とか日記に書いたら、すぐ、大正琴の先生のFちゃんから「私が朗読の候補として見せた詩でしょ!」ってメールを貰ったんです。ほんと、どうしてそんな事も片っ端から忘れて行くのでしょう。退化し続けている自分が怖い。
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<アメイジンググレイス>

おどろくばかりの神の恵み/ なんてうるわしい響きだろう/
私のような哀れな人間までをも救ってくれた/
一度は見失っていた自分を再び見つけ
盲目だったのに/ 見ることもできるようになったのだから/
多くの危険や苦闘や誘惑を/ 私は乗り越えてきた
恵みはこれほどにも安らぎを与え/ 私を故郷へ導いてくれた
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多くの危険や苦闘や誘惑を私は乗り越えてきただろうか。
人間はいつ、どこに帰するのだろうか。今、がま口塾のテープ起こししていて、自殺の話が出てきたので、よけい今夜はクルシイマス!ネアカですからご心配なく!多くの友に感謝のクリスマスです。

2004年12月25日(土)  

気ぜわしいですね。テクシーでがま口塾便りの印刷にコピー屋さんへ。
「白黒両面お願いします。」
「6番へどうぞ」
「きゃーっ!」
「どうなさいましたか?」(笑っている)
「原稿を家に忘れて来たの・・・」
「ふふふふふ」(3人のスタッフがメチャ愉快そう)

 まあね、先日の「トイレ(トレイの間違い)に紙がありません」事件よりはよかっぺ。
笑われながら又45分テクシーで帰りましたの。印刷は明日に持ち越し。
どうしてこんなに退化してるのでしょう。

2004年12月26日(日)  

印刷完了。でも、普段は送っていない人達にも久々に賀状代わりに送るので、いつもの1.5倍の数。一筆書き添えるだけのことだけど、かなり根をつめて、やっぱり年末の疲れ。でも、何となく峠超えの感じで、ホッとしています。完了は明日か明後日かな。無理はしない。やれることを欲張らずにコツコツとすること。

 最近色々考え事があって・・・。うーむ。天に任せましょう。100年前に鎖国のチベットにビザなしで「中国僧」と偽って入境した川口慧海は、旅の中で、理論上で決められない事があったり、進退極まった時、必ず「断事観三昧」に入って事を決めたそうです。事柄が道理で決められる時は、その道理において善悪の判断を定めるのは難しくない。ところが理論上では決められず、将来どういう事が起こってくるか、未定のことを決めておかなければならない状況の時、無我の観に入るのだそうです。座禅を組んで方針一決。

 私はそんな高等技術は持ち合わせておりません。座禅も30秒で音を上げます。まあ、天に任すぐらいが身の丈の処世術。行き当たりばったりとも言いますが。はい。そういうわけの煩悩の一日でした。

 

2004年12月27日(月)  

 巨大津波。タイのチャットさんに即メール。今ところまだ返事なし。スリランカ人の知人バンダーラさんは、昨日のうちに連絡をとって、兄弟の1人のお嫁さんの実家一軒以外は一族無事を確認したとの事。バンダーラさんの奥さんであるAちゃんは、私の娘のような友達のような存在で、夫婦の家が海岸にあるので心配していたら、西海岸にあるので無事だったとの事。東海岸には貧しいタミール人が住んでいて、その人達が大きな被害を受けたようとの事。Aちゃんの母であるYさんは、プーケット島で一週間遊んだ事があるし、バンダーラさんがしょげていて、ショックと伝えてきました。心が沈みます。

 父の故郷は知多の海。偶然友人のHさんの故郷で奉公をしていた時代があり、今日は彼女にそこへ連れて行ってもらいました。伊勢湾が一望に見渡せたという弥勒寺のある山にも登ったり、奉公先の跡地の医院がある町並みや海辺を散歩したりしました。小僧だった若き日の父の悶々とした吐息を想ったりしたのでした。

 夕刻から名古屋に戻って、YWCAで高遠菜穂子さんの講演会。セイプイラクチルドレン名古屋の主催で、イラク人医師の研修受け入れや、白血病治療のアッバース君支援活動で、名古屋弁護士会の今年の人権賞を受賞していますが、もともと、高遠さんには助けていただいていたのだそうです。
 会場が狭い事もあって、扉の外までどっと人があふれ、私達は年末の渋滞にぶつかって、開演ギリギリに駆けつけたので、あふれ組。スクリーンも高遠さんもチラッとしか見えませんでしたが、声はバッチリ。ファルージャで何があったかという事を初めて知って、悲しくてたまりませんでした。又、明日書くつもりです。彼女はとても元気になっていまして、とりあえずそれは良かった事。貴重な存在です。

2004年12月28日(火)  

<高遠さんの講演>でのファルージャで何がおきていたか。私的メモ。

●検問所でアメリカ軍兵士の「止まれ」の手の合図はイラク人の「こんにちは」の合図。空に向かって撃つのも「こんにちは」の祝砲。「go back!」と米兵が叫んでも、イラク人は分からない。抵抗していると思って撃つ。撃たれると報復する。又撃つ。たった一言の言葉が通じないだけで、殺されなくてもいい命が散った。

●スンニトライアングルという表現で「潜在的に凶暴なテロリストがいる」としてマスコミが使うのはイラク人はとても嫌。言葉が通じずコミュニケーションが出来ない事が米軍の凶暴化に拍車をかけていった。デモがだんだんピースフルでなくなり、抵抗運動が広がっていく要素になった。

●若い米兵がイラク人の子供達にポルノ写真を見せた事へのイラクの人達の怒りは、文化の違う米兵には理解の範囲外。アルグレイブ刑務所の虐待の話、クラスター爆弾の悲劇(妊娠中の女性に当たって陣痛が始まり、出産した赤ちゃんに11個の破片が刺さっていた等)・・・。

●イラクで殺された10万人のうち、半分は子供と女性である。総死者の3分の1がファルージャの人である。燃える憎しみに武器やお金を与えられたら、報復の凄絶な連鎖になる。レジスタンスと外国人武装勢力は違う。外国人武装勢力がイラクに入り込む事によって、イラクで英語を人前で喋る事が危険になってきた。イラク人自身が誘拐・拉致され、殺されるようになった。

●ファルージャの30万人の内、10万人は郊外に逃げた。9月には更にバグダッドまで逃げる人が出てきて、初めてバグダッドの人々は、1年半の間にファルージャでの何が起きていたかを知る事が出来た。死者としてカウントされない殺人が、街の中、至る所でおきていた。救急車や消防車さえ、テロリストが爆弾を運んでいるとして攻撃された。

●友人のイラク人の家は一ヶ月に5回も米軍の家宅捜査を受けた。突然ドアーを壊して入って来る。床でウンコをして、コーランをバラバラにして、それでお尻を拭いて、更に壁にこすりつけていった・・・その写真も高遠さんは見せてくれました。

●11月のファルージャの総攻撃は、高遠さん達が取材して援助した病院が攻撃された。結婚式で41人が誤爆されたりの放送も、せいぜい1分か1分半のニュース映像でしか伝わらない。私達の得る情報は、黙って見ているとアメリカ側の情報になって、イラク側の情報はかなりの努力をしなければ得られない。

●私達はフェアな目で見て冷静に判断したい。現地の人に託された映像をいたずらに残酷だという事で見せるのではない。日本にいる私達は何が出来るかという事を考えて欲しい。今のファルージャは携帯も繋がらなくなって、NGOもフリーボランティアも危険で入れない。赤十字さえ米軍に阻止されている。本当に何が起きているのか分からない。

●そんな中で、イラク人青年16人とプロジェクトを進めている。(そのうち2人は惨状を世界に伝えるための映像をハンディカムで撮影中、米軍に殺された)。今井・郡山、高遠さんの3人が人質になった時全国から寄せられた寄付金で800万円の余剰が出た。そのお金で学校を2つ建設する。もう一つは路上生活のティーンエイジャーの自立に使う。小さい子供は赤十字が収容できるが、それより上で、かつ未成年が問題。彼らを職業訓練して自立させ社会へ返していきたい。「イラク支援ボランティア高遠」で活動を続けて行く。大晦日に又アンマンへ行く・・・という事でした。

★私は思います。帰って来た自衛隊の皆さんが、私達に(会場から人が溢れるほどの・・・)現地の報告会をしてくれてもいいではないかと。機密事項を喋れと言うのではありません。イラクの復興の為に何をしてどうなっているか、何がおきているのか。率直に説明をしてほしい。それが日本人同士のコミュニケーションとして必要な事。小泉さんの説明ならもっともっと人は耳を傾けるでしょう。私達は愛の連鎖こそ創らなければいけない。まず家庭の中から。友人から。地域から。それが世界へ広がっていく。平和は難しい事でも簡単な事でもなく、自分の心の世界に原点があり、絶えずそれを忘れない事だと思うのです。自分は何も出来ないと決めず、皆が少しずつ勇気を出して、高遠さんにはなれなくても、隣の誰かと話あったり、寄付をしたり原告になったりという事で平和の山に一歩から登っていける。そう信じています。だって明日死ぬかもしれない我が身だもの。生きてる意味があるように。

 今、天災で何万の人々が死んでいます。わざわざ人間同士で殺しあってる時じゃない!

2004年12月30日(木)  

  別宅の掃除に出かけて一泊。本宅にもどってお掃除。加えて男どもが三匹口を開けて餌を待っています。土曜日、日曜日、祝日は私は好きになれません。本当にぐたぐたであります。それにしても汚い家。こすっても拭いても掃いてもちっとも奇麗になりません。いかに普段サボっているかって事を骨の髄まで思い知らされる、辛い辛い年末です。

・・・でも何はともあれ命のある嬉しさよ。津波による死者の数に驚愕。つい2~3週間前まで「はだしのゲン」の翻訳のことで連絡をとっていたタイのチャットさんから何の音沙汰もなく、とても心配。

 Aちゃんに電話。皆から電話が殺到しているだろうと思って時間差をつけてのお見舞いをしたわけですが、何と27、28日ぐらいからスリランカへ行く予定でチケットをとろうとしたけれど、チケットが取れずに諦めていたところだったそうです。運の強い子です。行っていたらかならず海へ行っていたと思うって。

 中国にいる時、よく唐山地震のことを聞かされました。文革が終わったのが77年なので、1976年7月28日の地震の詳しい情報は、日本ではあまり入ってこなかったのではないかしら。唐山市域は約100万人の人口といわれていましたが、死者は、唐山市で148000人。全体で24万人余であったそうです。この大地震で市の97パーセントの土地建築物に被害があり、55パーセントの生産設備が破壊され、交通網、給水、給電、通信網などはすべて切断され、人口百万の都市が廃虚となったのでした。
 北京で行われた日本語のスピーチコンテスト等では、この災害から立ち直った故郷への想いを語ったものがあったりして、いかにすさまじい被害であったかを知りました。

 今回のスマトラ沖の津波の恐ろしさや、日本の中越地震の恐ろしさを、私達は子々孫々まで伝えていく事になるのでしょう。合掌。
 

2004年12月31日(金)  

  大晦日に初雪。とめどなく。とめどなく。天の原から涙の様に。流そう、流そう。思いっきり泣いて。地に滲みて緑育み、天へ向かって立つ。泣いて泣いて地に滲みて。緑立つ。

 昨日連れ合いと、黒田さんと紀宮ごっこをしながら掃除をしておりました。それでスローテンポになってしまって。本日我が家はまだ掃除。それからお買い物に行ってディンディン一家を迎えて、皆でお婆ちゃん(母)の家に行って、アメリカから無事ドッグトリマーの修行から帰って来た姪たちと年越しそばです。正月を皆で迎えられる幸せをありがたく思います。

 1年間、私の惚け防止策の一環であります「がま口弘美の日記」を覗いて戴きまして有難うございました。何とか1年続けることができました。支えて下さった皆様に感謝あるのみです。
 来年からは肉体の衰退防止策にも一歩進みたく思っています。相変わりませず、宜しくお願い申し上げます。そして、がま口塾へも、ぜひ遊びにいらして下さい。奇しくも12月例会のテーマで「生活臭のあるホッとする家」という評価を戴きました。質素ながま口塾ですが、どなたでも自由にいらして下さるのを心からお待ちしています。

 来年こそ、明るい年になりますように。皆様良いお年をお迎えください。

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Akiary v.0.51