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2005年6月1日(水)  

28日(土)

 金沢。能登島のOさんと落ち合って食事。話山盛り。駅前の音楽堂で金沢紫金草合唱団の創立5周年記念コンサートに2人で行く。・・・けど、Aさん以外に絶対秘密の参加だったので、まあ!それはそれは皆びっくりして、まるで幽霊を見るみたいに合唱団の皆さんが私を見ていました。種を南京から持ってきた山口誠太郎さんの息子さんの80歳の裕氏にも、3周年の時以来、2年ぶりにお目にかかりました。お元気で、南京に紫金草の平和公園が出来る事を楽しみにしておいででした。南京でデモをおこしたら、紫金草の皆さんに失礼だと市政府が言っていたそうです。
 
何せ全国1000人のネットワーク合唱団ですからね。仙台、東京、大阪、奈良等、各地からの応援団も駆けつけてのステージ。二胡も中国の方。金沢大学の中国人留学生も5~6人聴きに来ていて、すてきなコンサートでした。燕ちゃんが中国国際放送局からの公式メッセージを送ってくれていたので、ずうずうしく、最後の最後に突然ステージに乗って朗読、紹介させて貰いました。Oさんが私の隣に座っていて、元CBCのアナウンサーやディレクターやプロデューサーだったので、「弘美、多くの事を早く喋るより厳選した少しの事をゆっくり喋るんだよ、そして最後に『不忘歴史面向未来』を中国語で言いなさい」と言われて、その通りにしたら、皆さんの大きな拍手を戴きました。五月蝿O様、謝謝! 燕ちゃん、謝謝!

打ち上げに出て、夜はAさん夫妻とお宅へ。Aご夫妻と深夜まで議論。A氏はクラシックファンで、毎月自宅でレコード鑑賞会を開いています。BGの中で美味しいお茶を入れるのも彼の仕事。ただし、料理はさっぱりで、がま口塾便りの今月号を読んでも手に負えるものナシだって。A夫妻は蕪湖の学校にも来てくださった事があります。

29日(日)

 Aさんの畑で採れた野菜や信州から届いた山菜の美味しい朝ごはん。『はだしのゲン
プロジェクト』のAさんも駆けつけてAAAO皆でお喋り。宿主のAさんは「この子たちの夏」の公演を金沢で15年続けて来た人です。折鶴キルトに池田香代子さんのパッチワークも足されているのを見せてもらいました。
 昨晩ホテルに泊まっていたOさんと再び落ち合うことにしたら、Oさんが能登島でも「この子たちの夏」を何かの形でやりたいと言うので、皆で会うことに。蕎麦屋さんでAAOB会議?まーあ、楽しかった。その後Oさんの車に乗っけて貰って、一路能登島へ。

 ワンちゃんのソーラが喜んで飛んできて、尻尾を千切れそうに振って、車のドアを両前足でトントン叩いて迎えてくれました。ペスカトーレ全弘氏とソーラと1時間ほど海沿いの散歩。能登島水族館もあったり、とにかく海と林の空気が美味しい素晴らしい村。全弘氏イタリアに何週間か行って帰ったばかりでもあって、全てイタリアの話!

 スグ近くの温泉に3人で出発。露天風呂に行ったら、だーれもいなくて、星が輝いて、ほーんとに贅沢。脱衣所で616の札を貰って919のボックスを開けようとしている認知症風の私に可愛い少女が「大丈夫ですか?」って声をかけてくれました。能登島はそういう所なんだって。
 帰宅して、夕食はペスカトーレの腕によりをかけた品々で、もーう幸せの絶頂。OOB会議は、やっぱり「イタリアのバルティザン群像」を出版されたばかりだから、今の日本の状況に照らし合わせて、厳しい話。ふと気がついたら12時を過ぎていたので就寝。今回は、赤、緑、白のイタリア国旗の色にしてあるペンションの白の部屋に泊めて貰いました。素敵なペンションで、車椅子でも泊まれるし、犬も泊まれるし、自炊も出来るし、OO2人にベッドメーキングして貰って、夢の中。

30日(月)

 朝、散歩してからソーラと遊んで、又ベッドで本を読んでいたら「おい、まだ寝とるんか!」とドアを叩くペスカトーレ。エスプレッソとヨーグルトを出してもらって又1時間ほどOB会議。もう1人のOは朝が弱いんだって。でも、疲れてたんだよね。Bの話も本当にじっくり聞いて貰いました。バンカラで乱暴な?口のきき方。ちょっと怖いペスカトーレだけど、本当に夢は必ず実現する迫力の人。本当は人間的で優しい人。
 七尾までOOに送って貰って、回転寿司でご馳走になる。回転寿司とて軽くみなさるな!とにかく能登島の魚。名古屋弁で言うなら、デラうみゃあでかんわあ!最高のお昼ご飯でした。ペンション「ペスカトーレゼンコウ」に無料宿泊した上での狼藉でありました。

 金沢で今度は水野スウ母娘と落ち合い、加賀名物お麩の夕食。WOWネットのワークショップに参加しました。テーマは「笑い」。娘さんのマイちゃんは大学で人間のコミュニケーションを勉強していて、西宮から戻っての参加です。がま口塾とは又ちょっと違う味だけど、皆で繋がる楽しさを感じました。

 スウさんちへ行ったら、まーあ、「紅茶の時間」の特別紅茶で写真家の野寺夕子さんの写真展を片付けないまま残しておいてくれて、私とマイちゃんへのサプライズサービス!
夫さんのマアさんにいっぱい写真の解説をしてもらいました。これまた12時をすぎてしまいました。

31日(火)

 スウ・マア・マイ・Bで楽しい朝食。野寺夕子さんは元岐阜で地方紙新聞社に勤めていたというので、もしやと思ったら・・・ギャア!ってことで、早速スウさんが野寺さんに電話してくれてお話までしてしまいました。顔は知らない人だけど、岐阜放送に10年間出入りしていたBなので、クロスしているのです。
 津幡の駅までスウさんに、事情で軽トラックで送って貰う間に、夕子さんは丹波篠山に住んでいると聞いてマタマタ、ギャーッ。今、一番行ってみたいと思っている私のルーツの場所なのです。ずっとギャアギャアワァワアのままの津幡のBでした。

 8時12分発福井行き鈍行に無事乗車。小松の次の粟津で下車。創立70周年記念の社史CDR制作のため、M鉄工所で打ち合わせ会議。夕刻、社長さんのベンツで小松まで送ってもらって特急白鷺で帰名。

 帰ったところへ紫金草合唱団のAさんから電話。「大変な事がおきたの!」・・・・。
合唱団の男声として歌った方が、翌日心臓麻痺で亡くなったそうです。呆然・・・。打ち上げで珍しく饒舌で、誰もが彼らしくないと訝っていた翌日の出来事でした。

 生きている間にやることをやるぞ。

2005年6月2日(木)  

北陸で仕事の打ち合わせ中、慌てふためいてどうにかしたらしく、眼鏡が壊れてどうにもならず新しいのを買いに行きました。遠視に乱視にかなりひどい目になっていました。すべてが老い行くわびしさよ。

 その後訴訟の会のレター発送作業のボランティアに。高校の先生を退職した方達が作業をされていました。私なんか、教え子レベルで若い若い!

 その後は自宅で歌手を迎えました。福岡から飛行機でくるというので「何時ごろに来るの?」と問うたれば「夕食に間に合うようにいきまーす」。この人は多分死ぬまで年齢不詳。明太子を所望したらちゃんと質より量のを買ってきてくれて、4人で夕食。我が家は福岡在住2年半。明太子が懐かしいのです。とっても美味しかった也。

2005年6月3日(金)  

歌手と新曲「プロフィール(ディケアルームにて)」の初練習。老いて尚輝く女性の物語がテーマになっていますが、それは恋心? 

 午後ギタリストの渡辺のりおさんのスタジオ、グルービンブルースへ。ステージ演奏の他、音大の講師や昨秋から開業されたレンタルスタジオの社長さんでもあります。今度の福岡のコンサートではのりおさんのギターだけというシンプルなステージなので、朗読がつく「プロフィール」「百日紅」のあわせ練習。
 私から見るとのりおさんはギターの魔術師です。今度のCDRのBGMはのりおさんの生演奏で、このスタジオでやってみようというアイディアが突然湧き上がり、のりおさんは快くOKを出してくれました。歌手も著作権はいらないから、どれだけでも曲を使っていいよと言ってくれます。魔術師に頼めば、アレンジしだいで如何様なBGMも作れそう。即興も多分いれて・・・。北京からの見積もりも届いて、良い作品を作りたいという意欲が自分の中で盛り上がって来ました。

 姫ちゃんもコツコツと翻訳したものを送信してきます。本当に真面目な人で感心してしまいます。私もこちらも追いつかなくっちゃ。仕事がたてこんできたことと、体調維持のため、今日の訴訟の会のスタッフ会議は休みました。皆も忙しいのに申し訳なく思いつつ。

2005年6月4日(土)  

 今日は仕事をしてから衣装探しに大須へ。歌手に華やかなのを着て欲しいと言われて、ありあわせをと思っても、ブクブクに太ってしまって、何も体に入ってくれなくて。ほんと不経済きわまりない体です。やっと自分の還暦パーティ?に着られそうな真っ赤の無国籍風のを見つけて買いましたが、サンタクロースにもなりかねない。ちょっとパンツを作ったほうがいいと思って、今度は合う色の布を買いに。これで11日の「百日紅」はOK。

 おっと・・その前の9日は日比谷公会堂で全国公害被害者総決起集会でナレーション。陰アナだったら嬉しいのにチラとはステージに出るらしい。こっちは派手ではだめでしょう・・。衣装だけで頭がイタイ。 鏡の前で子豚のファッションショー。

 暗いニュースは書きたくないので書かないのだけど、公害の被害者の30年の歴史のナレーション読んでても、本当に暗くなります。人間は弱いし強い。強いし弱い。期せずして個人的仕事で企業の歴史を取材してるわけで、明治以降、やっぱり公害や軍需産業とからみつつ、日本の企業は生き抜いてきた一面があります。頭もファッションもグチャグチャ。とりあえず新しい眼鏡は、今日、超特急で手に入り、ホッとしました。

2005年6月5日(日)  

見積書だの契約書だの作って家族に見てもらい、ポコポコ叩かれまして候。仕事とは難しくてめんどくさいものだなあ。

 午後から万博会場の近くの長久手町文化の家ホールへ母と兄と夫と行きました。義姉が出演するミュージカル「サラサとルルジ」の鑑賞。ヒロシマがテーマ。親と子のみどりの杜合唱団というだけあって、6歳から67歳までほぼ100人くらいの出演者で圧巻でした。義姉はバックコーラスだけですが、仕事をしながらよくもまあ頑張ったものと感心してしまいました。他の出演者もそうでしょう。

 小さい子供達も、よくもまあ、ここまでというほど、可愛らしく懸命に歌い、演じていました。作曲は藤村記一郎先生。先生も数学の教師だったのですが、定年を何年も残して退職して、音楽一筋に生きていく決心をされ、その記念の作品になったようです。皆が「人を殺してはいけない。愛すること、励ましあうことが大切」「偶然がいくつも重なって必然になっている」「いくつもの偶然が重なり、平和と希望に満ちた奇跡がおきますように」・・と、心を合わせて歌っている姿は温かくてとても気持ちのいいものでした。

 その後、我が家族4人と母で食事に。家族がいっこうに増えない家族ですけど。母はいつも「私は幸せだわ」と言っています。さんざん苦労した人生だったもんねえ。

夜、ステージ衣装のパンツを縫う。

2005年6月6日(月)  

 パンツにベスト、長いリボンを制作して衣装完成。学芸会のノリじゃなかろか。
 東京から午前中に届いた資料のビデオに目を通しました。朗読の雰囲気を掴むのに、資料は心に焼き付けないと。

 気分転換に学生センターに発送作業のボランティアに行きました。毎度思うのですが、原告3148名に何種類かの書類の原稿書き、原稿依頼、編集、印刷、発送するのは本当に大変で、たいてい最後の内職的作業は3人くらいがほそぼそとやっているのです。何かお手伝いしなくっちゃと思うのが自然。そして誇りをもって言えます。今回の差止めNEWS6号も素晴らしい内容です。

 名古屋大学から家まで久々に散歩。暑くなったけど、そよ吹く風が気持ちいい!八事の丘陵地帯のお墓群の中を歩くのです。今日も生きている自分さん、ありがとう。

2005年6月7日(火)  

 がま口塾便りの今号がとても役にたっているというメールや手紙をたくさん戴いています。それから、紫金草がよく咲いて種が出来たという手紙も。嬉しい限りです。あっちやこっちやそっちの整理整頓、仕事の準備を夢中でしているうちに『ハッ!』。東海音声表現研究会の例会日だったことを忘れてしまった!朝までは行く積りで覚えていたのに・・・。最近ボケがひどい・・・。

 「僕はジグゾーパズルのような人間。一つ一つのピースはなんだかさっぱり訳がわかんないでしょうけど、時間が経つと、いつかはきっと絵になるんだよ」『・・・』「それは貴女にそっくりで」『!???』。そうかあ・・・。私はあれやりこれやりそれやりのチャランポランの人間だとは薄々感じていたけど、そうもはっきり我が子に言われちゃあね。いつかは・・・っていつよ!!!

 彼が高校生の頃、私は学校に呼び出されました。「宗教を起こして教祖になりたいと言っておられる。そんなことはやめて、良い大学へ入って良い会社に就職して、定年になってから、やりたいことはやればいいのです。それをハッピーリタイアと言うのです」と担任の先生は私と息子の前で諭されました。2人とも先生の仰ることをまもりませんでしたねえ。皆がはっぴリタイアだっていう時期になって、まだウロウロ。

 「百日紅」を歌うか歌わないかという問題が急浮上。はーあ・・・。これも生き方の問題でしょうね。食べていくには譲らねばならないことあり。でも、食べるために譲りたくない「本当にやりたいこと」も人生にはある。いつ死ぬかわかっていれば、調節はきくものを。

2005年6月10日(金)  

8日上京。駒込で迎えて貰って「むらさき花だいこん」「紫金草物語」の作者の大門さんのお宅へ。9日の「第30回全国公害被害者総決起集会」の構成を大門さんがしている関係で、ステージで紹介する映像のナレーションを依頼されて上京したという訳です。30年の公害訴訟の歴史をニュース映像などでまとめてある間間に隙間にあわせて生でナレーションを挟み込むのですが、きっかけと秒数あわせがなかなか大変でした。

 9時過ぎからは、紫金草合唱団の記録を映像で色々まとめてくださっているOさんが合流、合議。もう一つ。私が北京から短波にのせた「むらさき花だいこん」の朗読にあわせて絵本がビデオになっていて、感動しました。あの時は夢中で皆を説き伏せ、協力を仰ぎ、燕ちゃんにもBGMを担当して貰ったのだけど、すこぶる評判のいいBGMで、懐かしさに浸りました。

 Oさん、12時過ぎになって帰られ、こんどは又公害の映像に戻って練習と打ち合わせ。気づけば1時を回っていました。バタンキュー。

 9日は日比谷公園。全国から公害と闘っている被害者、家族支援者、弁護団など、1300人、180団体が参加して集会とデモ、政府や関係各所を回るのです。自分達だけの訴訟では有効な動きが見いだせなくても、皆がまとまって頑張ると大きな影響力を持つということを30年の歴史が語っています。6月は環境月間という事で毎年今頃に全国から三々五々東京に集結、皆で励ましあって闘ってきたのです。とにかく、およそニュースで耳にした事のある公害が勢ぞろい。日本の公害のデパートのようです。
 もっとも遠くからの参加は沖縄で、嘉手納基地公害。もっとも古い水俣は、もう50年になるのですね。名古屋からは新幹線公害対策同盟が来ていました。ヤコブやイレッサ等の薬害公害は新しいところです。

 日比谷公会堂に入るのは勿論初めてです。紅白歌合戦など、かつては高嶺の花の舞台だったのですね。古色蒼然、なかなか重みのある内部で興味津々でした。太鼓にトランペットギターに最後は消防の出初式でやる様な、はしごの軽業も披露されて、辛い運動をしている人達の集まりで、胸は痛むのですが、なかなかの力強い盛り上がりでした。

 私の朗読は一ヶ所トチリ、力みすぎの所もあったから80点かなあ。全部終わって舞台の袖に戻ったら、名前も知らないスタッフの方が満面の笑みをたたえて「良かったよ!」っという顔で迎えてくださったので、とても嬉しかったです。これが私のギャラ。

 打ち上げにちょっとだけ参加し、最終ののぞみで帰名しました。つくづく思う。こんなにも公害があるのに、わざわざやっている戦争。これを地球の最大の環境汚染と言わずして何と言おうぞ。 

2005年6月12日(日)  

(6月10日)

 夕方ギリギリに松坂屋本店の中日いけばな芸術展へ。お目当ての96歳、嵯峨御流の藤井先生の活花をしみじみ拝見。大きな松と白い蘭を使った、清楚かつ大胆、すっきりとした細やかな優しさを感じる作品でした。キクさんのように生きたいと、いつも思います。

 セントレア空港に初めて出かけ、仕事を終えてからハーハー駆けつけた、ゆったり工房のKさんTさんと最終便で福岡へ。地下鉄祇園駅のすぐ近くにあるY旅館をネットで発見して予約していたのですが、まーあ、傑作なお値打ち旅館で、昭和時代にタイムスリップしたような、昔の自分の家に帰ったような不思議な夜。3人一室でバタンキュー。

(6月11日)

 Y,Tさんを観光に送り出し、私はゴロゴロと読書。仕事のために読まねばならぬ本なのにちっとも読み進められず、ハードカバーの分厚い本を福岡まで持ってきた次第で悲しい・・・。4時前に早良市民センタホールへ。歌手まのあけみと渡辺のりおさんは既にリハーサル真っ最中。私の立ち位置も決めて貰って、リハ。歌手とは本番までいっさいトークの打ち合わせをしませんでした。もう何が出ようが、彼女には太刀打ちできます。K市H小学校の子供達の作文を取り上げる算段にしました。Y,Tさんも早めにホールに到着して客席に。
 
 コンサートはアットホームに笑いと涙のうちに終わる事ができました。私の衣装も、靴カバーまで同色布で作ったので、意欲を買われ、パリで買ってきたというまのさんのスカートにも負けず?文句はなかったなあ・・・。まのあけみ、福岡で3回目の定期コンサートをやりとげ、人間的にもマアルクなったとの評しきりでした。6月19日は福岡の大空襲があった日で、この日にあわせて、平和学習や行事が色々行われているということで、すんなり件の「百日紅」も歌い朗読、トークもぶっつけでなんとか・・・。皆さんに「良かったよ」と受け入れられ、ホッ。
 
 20年前、2年3ヶ月半暮らした懐かしい福岡で、私の本来の仕事の姿で友人達に会うのは初めてのこと。皆に知らせてあったので、あの頃のPTAや読み聞かせボランティアの仲間、小学校でお世話になった先生等まで、忙しい中続々駆けつけてくれて感激しました。懐かしかったです。「バンちゃんは福岡に何年おったとね?」「2年とちょっとやけん、短かか」「エーッ!10年くらいおんしゃった感じするとよー」「すみません。色々騒がしくして色々ご迷惑をかけました」・・・。ほんと、福岡にいた頃の私は若くて元気モリモリ、色々皆さんを騒がせたのです。反省。(まあ、今回も騒がせたといえなくもない・・)

 11時近くまで居酒屋さんでスタッフの女性達10数人と打ち上げ会。博多の女性は本当にお祭り好きで威勢がいいのです。こういう実行委員の皆さんに支えられての成功で、感謝感謝です。ホテル満席のため、歌手、ギタリスト、マネージャー共に、私達のY旅館に宿泊。深夜のご帰還とあいなりまして候。

(6月12日)

 旅館のチェックアウトのために玄関に出たら、歌手が子供づれの2人の女性との会話でオタオタしていました。ニイハオで通じたというので、私がしゃしゃり出たら、シンガポールから福岡に到着したところで、安い旅館を探しているのでした。それで、ここの旅館は一泊いくらだとか、風呂はあるかとか、もっと安いところはないか色々きくので、怪しい通訳に早変わり。
 シンガポールから来た華僑の方達のようでした。私は言下に「これ以上安い宿は福岡にないし、旅館で値切る事も、日本では絶対出来ないことだよ」って教えてあげました。6日間泊まりたいって言ってたのに、値段をきいて4日にしてたけど、いいのかなあ。英語もできるって言ってたけど、旅館の主はニコニコ笑って「英語できないよ」。外人さんもあまり泊めたことないらしい。とにかく通訳代?に、旅館のタオルを5~6枚お礼にくれました。後は野となれ山となれ・・・で、私たちは退散。

福岡空港で帰りの便のチェックインを済ませてから、久留米へバスで。電車に乗り換え西牟田へ。ディケアセンターの美智子おばあちゃん(歌手のお母さん)のお見舞いに皆で行きました。何も言ってなかったので、それはそれはびっくりして喜んでくださいました。同じ話をエンドレスで繰り返されるので、歌手が自分の新曲の詩「プロフィール、ディケアセンターにて」のテキストを持たせて、おばあちゃんに歌詞を朗読させ、笑い声と笑顔に満ち満ちた平和なひとときを過ごしました。病気も治ってお元気になられており、ホッとしました。
 
 久留米から列車で博多に出て、地下鉄で空港へ。搭乗までの時間を、ゆったり工房のコンサートの打ち合わせ。1時間遅れの飛行機に乗っても朗読する文章の書き換えと打ち合わせ。アッというまに、セントレア空港に到着していました。Yさんのお連れ合いに迎えに来てもらったのですが、又明日に近い時間のご帰還とあいなりました。

 楽しい旅でしたが、本当はもっともっとのんびりした旅がしたーーーーーい!

2005年6月13日(月)  

東京の大門さんのお宅で新聞を見たのですが、最近皆が話題にしてくださるので、このおじいちゃまの投稿を転載させていただきます。ちょっとニュアンスの違う、詳しい事情も聞いているのですが、デモが起きなかった直接的、基本的な原因は、南京市の職員の皆さんのお力によるもので、紫金草ネットワークの皆さんもとても喜んでいます。市民の力を侮ってはいけません。小泉さん、読んだかなあ。

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朝日新聞2,005年6月7日/声」欄より「南京でデモがなかった訳は」
 無職 稲田 薫 (神奈川県藤沢市87歳)

友人から嬉しい話を聞きました。北京や上海で激しいデモがあったのに、南京でなかったのはなぜかということでした。日本人が中国人を多数殺害したという地なのにです。
 日本の心ある人々が贖罪のために毎年、南京に木を植え続けて20年になります。友人がこの春、その一員として訪れた時、虐殺祈念館の庭に、北京や南京で公演したこともある日本の紫金草合唱団が贈った紫金草の花壇がありました。
 紫金草は、日本では「花だいこん」とか「紫花菜」と呼ばれています。陥落後の南京を訪れた日本の軍人が紫金山麓の瓦礫の間で見つけ野草の種を持ち帰り、犠牲者への供養の花「紫金草」と名づけて国内に広げたといいます。
 合唱団はこの紫金草の物語を合唱組曲にして中国と交流合唱会をしているのです。来年着工される南京市の平和公園にも日本からのカンパで紫金草の花壇が造られるそうです。
友人たちには、植樹活動の窓口になってくれている南京市の職員から便りが届きます。今回も南京でデモの申請がたくさん出されましたが、市長はこれを押しとどめて許可しなかったと知らせてきました。ただの雑草として見過ごしていた花がこのような働きをしたのでしょうか。

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言葉を使わなくても、動かなくても、立派な仕事をするものがあるんですね。ありがとう。紫金草。


2005年6月14日(火)  

  H小学校で3年生の音読授業。2,3,4限と、3クラスぶっ通しでやるとさすがに声がかすれてきます。1年生の時に「ゆきの日のゆうびんやさん」で既に授業をやっている子たちなので、「今日はりんご持って来なかったの?」なんて言われてしまいました。

 昨日は一日中案を練っていました。ちょっと長い「すいせんのラッパ」というお話ですが、B紙に書き出したら、小さい字でも5枚も要ってしまって、どうやって処理しようか、不安でしたが、「ラッパを楽しく吹こう。蛙の3匹の区別ができるように表現しよう」という風に、今日の音読の目標を二つ立てたら、案外すっきり進んだような気がします。欲張ってあれもこれもじゃ、子供もコンガラカルもんね。団扇の大中小に蛙の顔を貼り付けて、可愛い小道具もシンプルに用意しました。もう子供は蛙になりきって机からはみ出して飛ぶ子もいます。なかなか表現力が出てきました。

来週の水曜日、24歳の青年教師、研究授業で、この音読をするのだそうですが、たぶん大丈夫でしょう。でもねえ・・・先生からして音読の時の、独特の抑揚をつけてリードしてるもんねえ・・・。いつもいつも音研で問題になる点なんだけど、どうしたらいいのか、まだまだわかりません。

 特殊学級でもやってほしいので、ちょっと予め見て下さいと言われ、給食の準備時間に教室へおじゃまする。2年後には「特殊学級」という言葉から「特別支援学級」に変わるんですって。学校には色々な子達がいるってことを校長先生はしみじみ話していらした。家庭的な問題を被っている子もね。今日のクラスにもブラジルから来ている子で、ほとんど反応を示さない子がいました。先生も大変な職業です。

 バンダーラさんが、スリランカの紅茶を送ってくれたので、いつも美味しいお茶を戴くお礼にと、学校に持って行きました。私のことだから、早口で津波の件やボートが買えたことなど、バタバタ話しながら・・・。帰り際、教頭先生が、校庭のびわの木からとれた実をたくさん土産に下さいました。ホンワカとあったかい学校です。

2005年6月15日(水)  

雨も好きです。燕リポート、「雲南そのA」に更新しましたが、雲南は雨がなくて、棚田が干からびているそうです。自然というものはとてつもない意志を持っているのだなあと、いつも思います。

 紫金草の金沢と全国ネットの両方から、通信用の原稿を書くように依頼を受け、金沢は即日送信。全国ネットの方も締め切りが今日だったので、大阪へ送信。バリバリやっつけました。
 Tアナから「むらさき花だいこん」の絵本の注文があったので、直接出版社に頼んで10冊取り寄せ、5冊送付。朗読の輪を広げていてくれるようで嬉しい。あの絵本は本当に綺麗だし、皆に受け入れられるので、野にあって生き抜いた紫金草に感謝!

 仕事の見積書、契約書、日程予定も無事本日間に合わせました。個人ではなく、会社相手なので、色々素人の私は勉強しなくては行けないことばかりです。恥をかきつつです。
 ゆったり工房の朗読原稿も第3稿で何とかOKになりました。みんな、色々会議の日程に合わせて攻めてくるので、こっちも火の玉です。

 昨日、ペスカトーレから電話があって、能登島でも議論した話の続編を聞きました。超有名な作家が初めてイタリア旅行して書いた本の、レジスタンス等の記述に対する疑問。有名な作家が書けば、それは真実なのか。あちこちの本の切り貼りでも、権威として疑われずに受け入れられるのか。

 例え、市井に没するささやかな通信であっても、万を発行する雑誌であろうと、無名である私は自分の体が知っていること、感じていることをありのままに書けます。この有難さ。神様仏様有難う。無理をすれば必ずいつかしっぺ返しがくるはず。三井物産だって、なんだって。

2005年6月16日(木)  

N社の上司・部下の2人の女性を迎えて打ち合わせ。講演を引き受けるのに、何故わざわざおいで戴くのか、何だか大げさな感じがしますが、その会社は講師をニーズに合わせて派遣、コーディネートする会社です。先回、まあ、四苦八苦でも何とかやったことでご縁が出来ました。

 企業にとっては営業。大切な講演だし、加えて、誇れる学歴も肩書きもない私。どこの馬の骨ともわからぬ人物で、担当の方も冒険なのです。私はこれから講演が出来るように猛勉強をして抜擢に応えなければなりません。ほんとは開き直ってるんですけどね。テーマを言えばわが家族も絶句、絶倒ものですので、しばらく秘密也。

★岡山で自衛隊派兵差止訴訟の第1回口頭弁論がありました。名古屋の裁判にもいつも来ていらっしゃる方も意見陳述されました。彼女の報告です。
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私は、中3と中1の息子たちを連れて行きました。なんといっても彼らの「僕たちには暴力を振るってはいけないというのになんで大人はあんなことしてるの!」の怒りの質問
に突き動かされての私の訴訟への取り組みなのですから。学校を休ませて傍聴参加となりました。

名古屋から、札幌から、大阪からと足をお運びいただき大変感謝しております。弁護士さんが訴状を交代で心を込めて読んでいただき、休憩5分。そして、意見陳述です。Yさんの弁護士より固い(弁護士さんいわく)、25分にわたる熱い思いの陳述に始まり、Iさんの女性として取り組まれてきた反戦の活動りんとしたお話とWE SHALL OVERCOMEの歌、(裁判官は止めずに歌わせてくれました。)傍聴席からも一緒に歌ってくれました。そしてさだまさしさんのうたの朗読などを織り込んで、本当に心にしみる陳述でした。

そしてKさんの中国からかえってきた体験を通しての平和を願う陳述でした。そして私は、子どもにもわかる言葉での、平凡な親としての思いを陳述するつもりでした。途中思いがこみ上げてきてしまって、言葉が出なくなってしまって弁護士さんに「この人もう話せないんじゃないか?」と心配をかけてしまいましたが、何とか話しきりました。子どもには「感情出しすぎ!」とお叱りを受けてしまいましたが、止められませんでした。

弁護士さんの意見陳述も、岡山の弁護団長のおもい、そして札幌の佐藤弁護士さんの箕輪訴訟の熱い思い、そして川口弁護士さんのヨルダン報告。平和を願う思い溢れる心震える第一回口頭弁論でした。これが、裁判官陪審、そして国がわの人に届いてほしいと思
います。国側の人が一人ほろりときていたといううわさもあります。しかし、次回の公判決めのときに国側の検事が「訴状にないことを主張したり」「歌なんか歌ったりして」意見陳述は今後要らない、とさめたこといったひとがありましたが、裁判官はそれを聞き流し、いちおう提出してください。と私たちの代理人に返してくれました。
次回は9月21日水曜日です。名古屋の○○裁判官の対応を見ていたあとでしたので、なん
と人間的な!!と私は思ってしまいました。

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 私は裁判の原告になって、本当に嬉しいです。こんな人たちをいっぱい知る事ができたのですから。

 

2005年6月17日(金)  

「ワウーーッォッ」「ギーャウウウッー」「ウゥウゥーオッ」「ウウゥゥゥーーオッ」10分くらいも続く猫の異常な叫び声に、思わず窓の下を覗き込みました。いたいたっ!お隣の老猫モモちゃんとどこかの青年猫が、竹やぶの隣の崖っぷちで睨み合いです。お互いの鼻先が20cmくらいしか離れていなくて、お互いに尻尾をガチガチに曲げてゆっくり振りながらの対峙。そうとうな時間叫びあって、徐々に5cm近くまで顔を近づけた・・・と思った瞬間、取っ組み合い、喉元をかぶりつきあい、2匹の毛が綿毛のように周囲に舞い散りました。『どっちか死ぬんじゃないかしら』と私はドキドキしてきました。

 くんずほぐれつ・・・離れて睨み合い。青年は「ハアハアハァハァ」とずーっと息遣いが荒いままモモちゃんを威力の萎えた目をして見ていましたが、やがてくるりとお尻を向けてゆっくり去っていきました。モモちゃん少し後を追いましたが、悠々の勝利。

 『どうしてどっちかが大人になって逃げないの?愛し合えとは言わないからさ、とりあえず、冷却の距離をおいたらどうなのよ』と私はテレパシーを送ったんだけどね。

 夜、訴訟の会のスタッフ会議。6月の26日(日)に栄のYWCAで土井敏邦さんの映像とお話の会があります。「米軍はイラクで何をしたか」を岩波ブックレットから出されました。現在アメリカで取材中で、帰国してすぐ名古屋へ駆けつけて講演です。スタッフ様々な仕事を抱えていて「忙しい」と言うのが禁句になっています。私もこれ以上仕事は引き受けられないけど、やっぱり現場の肉体労働の司会をふられ、他の事が出来ないから引き受けざるをえませんでした。

 平和に暮らしあうのは、本当に智恵と勇気と努力と時間が必要です。猫じゃないもんね。

2005年6月19日(日)  

(6月18日)

 M社の歴史をCDRにするのに、読むべき資料が山とあります。7月に入ったら又北陸に行くので、何としてもそれまでに骨組みを作りたい。関連の本を3冊読み終えました。

「沈黙の巨星」(北陸新聞出版局)「明治の一青年像」(講談社)「ビジネスに日本流アメリカ流はない」(東洋経済)・・・こんな仕事に出会わなかったら、絶対読んでいない、私の趣味とはかけ離れた本たち。中でも「明治の~」は、30年以上も前から我が家の本棚にあったものですが、30年前に、パラパラッと読んですぐ頭が痛くなったものでした。ところがドッコイ!目的意識を持って読んでみると、これがいっきに読んでしまえ、面白いのです。

 沈黙の巨星TM氏は1860年の生まれで、それは桜田門外の変が起きた年。明治の一青年KY氏は1886年の生まれ、「ビジネスに~」の著者は1942年生まれ。この3冊で、一会社の歴史だけではなく、日本が幕末からどうやって世界の中で生き抜いて来たかが本当にドクドクと脈を感じるように伝わってきます。戦争特需も避けて通れない。そして現在のグローバリゼーション。

 「身を浮草の根をたえて、誘う水あらばいなんとぞ思う」という生き方をしたと明治の青年が人生を振り返っていますが、スケールの点で、彼と比較するのは、あまりに卑小な私ですが、私も浮草。昨日の猫の喧嘩が頭から離れないのです。2匹とも可愛い首輪をしていましたから、飼い猫で暮らしに不安はないはず。なのに何を欲して血しぶきをあげんほどに、身の毛が舞い散る戦争をするのか?

 私も無意識の中で闘っているのだなあと思う。自分の毛を無作法に舞い散らしているのだと思う。

2005年6月19日(日)  

そのA

 午前中大正琴の錦永会で「話し方」の話をして欲しいと言われ、先生のふーちゃんの命令?には逆らえず、30人くらい集まっていらっしゃる中で、とりあえず、小学生?並みになっていただいて、楽しい発声、発音練習をしました。「話し方」なんて、私にできるわけもなく、ただ、いつものごとく、国家としてでなく、人として、良心から出た言葉が美しいんじゃないでしょうか?という話です。一つの趣味を極めていらっしゃる、ステキな皆さんで、趣味のない私からすれば、恥ずかしいような、そんな会。89歳のおばあちゃまもいらして、こっちが励まされもします。

 午後は名古屋市教育会館ホールで広瀬隆さんの講演会「日本のゆくえ アジアのゆくえ」。歴史を幕末維新に遡って検証。今の政治家にもその血は脈を持っているのですね。琉球と日本、明の関係、日清日露戦争の本質。日本がいかに傲慢になっていったか。ゆっくりと説明されました。もっと仲良くやれる方法を考えようということなんだけど。
 
 私が今日どうしても出席したかったのは、15年前、チェルノブイリから帰った時、記録を本にする時に出版社の八月書館を紹介してくださったのが、広瀬さんでした。私は一度もお目にかかったことがなく、今日こそ15年来のお礼を申し上げなくっちゃと、軽い名古屋名物を持って、ご挨拶したのでした。とても恐縮してお土産を受け取ってくださいました。あの「危険な話」の広瀬隆さんにやっとお目にかかれ、本当に気持ちがすっきりしました。世の中はどんどん危険になりつつあると思うけど。

2005年6月20日(月)  

9時~10時。裁判所前で抗議のビラ配り。池住さんはいつも穏やかに紳士的に拡声器で1時間を話し続けています。私たちは個人攻撃をしているのではない。間違いを正して、公正な裁判をしてほしいと訴えているのだと。本当にこんなことがまかり通ってしまうと、日本は危ない。いつまででも私たちは抗議を続ける・・・けど・・・時間的に厳しいで・・す。できればこんなことしたくない。今日はU弁護士に久しぶりに会いました。彼は自転車ベンツで駆けつけてビラ配り。

 ビラ配りをした日は、いつもKさんの車に乗せていただいて帰るのですが、Kさんのお父さんはフィリピンで戦死・・・と言っても死んだ姿は誰も見ていないので、先日のように日本兵が生存というニュースがあると、ひょっとしてなんて胸がざわついてしまうそうです。「戦争」という言葉だけ聞いても見ても、心臓がキューんとなるということでした。トラウマになっているんでしょうね。苦労して子供達を育てられたお母さんの話を聞きました。Kさんは、中国の留学生達のお世話も色々されています。言いたいことはきちんと言い、やって次の世代に見せてから死にたいと。彼女の笑顔で言うのだけど。

 今日の韓国のニュースも悲しいです。KBSが東条英機のお孫さんを取材しているのを、取材している日本の報道を見ました。戦犯だって認めていないんだなあって、彼女の人生を律しているものを想ったのでした。7月7日が近づいています。中国も又、昨日戦争があったように厳しい報道をするのだろうなあ。

2005年6月21日(火)  

 一宮市(4月まで尾西市)の三岸節子記念美術館へ行きました。三羽烏の一員のYさんの水墨画が展示室で発表されているからです。去年より格段に上達していて感心してしまいました。両親の介護に明け暮れ10数年。先月お母さんを天国に届けて、やっと解放の身になりました。やり切ったという悔いのない、すがすがしい顔をしていた友。そんな顔で絵を描いたんだね。

 三岸節子さんは20代で夫に死別。3人の子供を抱えて、尚、画家として生きる決意をして、50代の末に渡仏。80代で日本に帰って、90代で日本に帰国。天才の絵でした。

 帰宅したら電話が鳴って「えっ!いるの?」と友人。
突然ドアベルが鳴って「えっ!いるの?」と別の友人。通りがかりで、10分お茶がのめそうな時間ができたからですって。
 「はーい。私はいつも家にいますよー」。

2005年6月22日(水)  

企業の歴史を辿る事は、きっと退屈なことだろうと予想していたのですか、いつのまにか熱中しかかっている私。社長や会社が綴る歴史と労組の綴る歴史を突き合わせると日本の歴史が立ち上がって見えてきます。あぁ!日本は頑張ってきたんだなあ・・・と思うし、それは様々なものを踏みにじってきたことも否めない。企業は多面体。

 日曜日の土井敏邦氏の講演と映像「アメリカはイラクで何をしたか」の背ビラを描きながら、私は家族に何をしたか、私は地域に何をしたか、私は日本に何をしたか、私は世界に何をしたか・・・と考えていって、随分罪な人間だなぁ・・・と思ったのでした。

2005年6月23日(木)  

友人からパワハラの深刻な話があって、とても心が痛んでいます。N社の方が、講演に参考になる良いビデがあったので、ぜひ見てみて欲しいと、届けてくれました。職場で起きる様々な問題。ビデオを見て思うことは、基本的に人間性の問題であるということ。難しいです。私は友人の話を只聞いてあげられるだけです。

 サマワで自衛隊の車列に爆発物!これでも安全と言い張るのでしょうか。派遣されている隊員の家族の思いはどんなでしょうか。一国も早い撤退を!

 明日はがま口塾です。メール参加はただ今タチアナさんまだひとり。ウクライナにはないから、ぜひ日本の学校では残してほしいと言われて、へーっ。当たり前に思っていることが、外国の習慣から見ると珍しいことなんですね。がま口塾は面白くて、止めたくてもやめられません。

2005年6月24日(金)  

 がま口塾。10人の参加。有難うございました。本当に近頃はそんな気持ちです。暑いのに坂道を登ってくださって、はるばる訪ねてくださるんですからね。ただし、今日は山のてっぺんから下りて来た人が道に迷ってしまいました。ったく、この山は人を迷わせます。ごめんね。音聞山と八幡山と御幸山。そして八事裏山もあって山だらけ。ごめんなさい。

 10人寄るとなかなか自分の話す順番が回って来ないのですが、皆が皆の時間配分を考えながら、キャッチボールを楽しんで話すことと、皆が話し手の気持ちをじっくり聞き通すという姿勢も大切で、がま口塾は、その良い訓練にもなると思います。

 メール参加、手紙参加も又思いがけない方面からの意見だったりして、会話に新しい流れが入ります。どっちにしても本当に楽しい!もう1回、皆さん有難う!ただ今テープ起し、頑張り中。これも私の山。

 

2005年6月25日(土)  

張陽のお引越しの日。一番のお荷物はデインディンですので1日弘美ハルモニお預かりとなりました。朝、一緒に洗濯物を干してから(洗濯籠を一緒に持ってくれます)、名古屋市農業センターに出かけることにしました。ところが、アッパーが持ってきたベビーカーの開き方が分かりません。困っていたら、お隣のIさんが教えてくれました。3歳のナミちゃんが姉ちゃんらしくデインディンをかまってくれました。Iさんは、ベビーカーもけっこう荷物になるので、考え物ですよとアドバイスしてくれましたので、結局負ぶい紐
をもって歩くことにしました

 農業センターは広くて安全で、鶏やひよこ、牛、豚、山羊等がいて、お花もきれい。ほとんど人がいませんので、本当に穴場です。地下鉄とバスと徒歩で、2人でゆっくりゆっくり自然を満喫しました。帰りのバス待ち中にコトンと寝てしまったので、バスに乗ってから負ぶい紐を出して負んぶの準備をしていたら、初老の女性が「負ぶいなさるかね」と言って手伝ってくださいました。感謝。母が戦時中に私の兄を背負うために手作りした、古い古い負ぶい紐です。それでデインディンも背負ってしまいました。

 塩釜口についてから、あんまり喉が渇いたので、自動販売機で缶コーヒーを買って、お行儀悪くもその場で飲んでいたら、背のたかーい外人の青年が「30円30円」と言って私にくれるようです。意味が分からなかったのですが、アッ! 私、おつりを取る事を忘れていたのです。「オウ!アイムソーリー、サンキュー、ベリイマッチ、フォーユアカインドネス!」。しどろもどろの英語を話している私はディンディンを負ぶい紐で背負って、最低の状態。恥かしい事この上なしでした。と、そこで孫は目を覚まし、えっちらこっちら手をつなぎ、歩いて帰宅したのでした。

 小さい子をもって、人の親切にあうと本当に嬉しいものです。感謝の1日でした。アレアレ、小さい指でパソコンは叩きにくるわ、アヤヤ、机に登り出しました。これにて。

2005年6月26日(日)  

今朝の1時半頃デインディン泣き出す。ビックリしてご近所迷惑にならないよう、必死であやして何とか寝かす。朝5時。又泣き出す。いつもほとんど泣かないでぐっすり寝る子なので、やっぱりお布団が違って異様に感じたのかと、焦って寝かすけれど、泣き止まず、ついにアボジ起き出して、外に散歩に連れ出す。

 アッパーとオモニが8時半頃迎えに来るまで、なんとかご機嫌に過ごしてくれました。アッパー、2tトラックをレンタルして昨日は1日中大奮闘。引越しの最中に、仕事のお客さんから電話がかかって、その用件もやりこなしたというから、すごい! でも、もうこれからは業者に頼むことにするとクタクタの様子でした。独身時代の引越しと違って家族が増えて、知らず知らず荷物も増えてたんですね。10年前、言葉も話せぬまま、不安げな顔でボストンバッグ1つで名古屋に留学したヤン。たくましいアッパーになったね。

 講演会の背ビラが完成していなかったので、必死に書き上げて栄のYWCAへ。20分ほどスタッフの集合時間に遅れ、もう汗がポタポタ。フリージャーナリストの土井敏邦さんの取材撮影編集の「ファルージャ2004年4月」(55分)の上映と土井さんの講演と質疑応答で5時過ぎまで3時間の長い集会でした。私は司会を担当しましたが、タイトルからして、アメリカとイラクをいい間違え、しかも全く気がつかず、訂正されてから笑われて・・・いいとこなしでした。
 
 アメリカのファルージャでの6000人以上と言われる殺戮。ほとんどが子供、老人、女性でした。大変貴重な映像証言です。「私は確認できていません」と何度も言われたのですが、確認できたことの重さに打ちのめされる内容です。今のイラクの状況は、ベトナム戦の終焉期に非常に似ていると感じるそうです。
 ただ、どこが違うかというと、マスコミ。ベトナム戦では、ジャーナリストがまだストレートに報道していて、政府はマスコミのこわさにきがついていなかった。今は、政府はマスコミを利用するしたたかさを持ってしまった。而して、自由にジャーナリストが動くことを、マスコミ自身が自主規制してしまっているという事を報告されました。体をはり、現地の人たちを救援することで信頼関係を作っての取材がどれほどの恐怖と危険の中で行われたものか!

 死者のカウントで戦争を感じるのでなく、一人一人の個人名で死を感じること。共感を覚える講演でした。私達は本当に一方的な報道しか知らないのです。そうです。父は一人一人の個人の名の中国人を殺したのではないのです。牢獄に入れられなかった、憲兵に捕まらなかった、あの頃の日本人の全てが負うべきことなのに。

 終了後の交流会には出席せず、飛ぶようにして帰宅して、すぐに夕飯の支度。単身赴任の家族は、日曜日は貴重な接触の日です。息を切らして1日が終わった感じがします。テープ起しはいつ出来上がりますやら・・・。

 そうそう。土井さんは、韓国の従軍慰安婦の取材もされていて、「ハルモニの家に1ヵ月ほど泊まって・・・」という話をされました。ディンディンが2歳にもならない、舌足らずの声で私を「ハーモニ・・ハーモニ・・」と言う、可愛い顔まで思い浮かんでしまいました。大切に大切に育て上げる命。殺していいはずがありません。殺されていいはずがありません。殺させていいはずがありません。
 
自衛隊も映像証言で、全く歓迎されていないどころか、アメリカの追従者として軽蔑されている事が明確に映し出されていました。一刻も早い撤退を!アメリカの兵士達に残虐な行為をさせているのは、その本当の人間は誰だ!兵士も一人一人個人の名前を持つ、ジャックだったり、マークだったりの筈!

2005年6月27日(月)  

6月例会アップ。バンダーらさんの6月22日の県内版の記事をリンクさせたいのですが、今しばらくお待ちあれい。

 がま口塾の会員で、ゆったり工房所長のKさんから真っ青の電話。分かっていた事で覚悟もしていたけれど、ちょうど第10回のチャリティコンサートをする7月16日が、万博の「日進市の日」に当たっていて、皆そちらへ行くという事で、チケットが全く売れないというのです。1000人のホールを毎年ほぼ埋め尽くしているのですから、彼女が冷や汗を出している状況、さもありなんなのです。

 私も朗読で出演しますので、今までにKさんの話をまとめて原稿を書き、明日はピアニストの所に打ち合わせにも出かけ、チラシを配り、チケットも売って頑張っていますが、
ショックです。どうか、この日記をのぞいて下った方で、日進市の市民ホールなら行けそうという方は、ご協力ください。ぶくぶくに太った坂東が、ゆったり工房の「さをり織り」の服をまとってピアノの生演奏をバックに朗読をするというだけでも涙が出ます・・・はずです。途中で精神障害者自身が自分の体験記を朗読するという場面があります。これはとても貴重な珍しい事で、大きな挑戦でもあります。皆さん!16日、時間のある方は、日進市の市民ホールへぜひぜひ起し下さい。

 昨日の映像と講演の会は80人ほどの参加があって、カンパも沢山戴いて、どうにか軽い赤字で済んだそうです。土井さんの本やビデオもたくさん売れまして、彼の取材活動の応援にもなったと思います。社会の片隅で、ささやかな幸せを願って、一生懸命頑張って生きている人たちを応援してください・・・と、私は皆さんにお願いばかり。本当に申し訳ないですけれど。16日はぜひぜひ日進市にお越しください。

 ああ、どうして政府は私がお願いする事はしないで、私がお願いしない事をいっぱいするのかしら?

2005年6月28日(火)  

 がま口塾便りの印刷と発行完了と書きたい所ですが、半分の方の分は投函できましたが、半分の40人近くの方にお一人ずつのメッセージがまだ書き込めず、本日手元に残っています。明日には完了するでしょう。ホームページにアップはできていますので、ちょっと気が楽になりました。

 さてさて、気合の入った「ゆったり工房あじさいコンサート」の打ち合わせ。所長のKさん、職員で、当日さだまさしの「奇跡」を歌う職員のTさん、、自分の病歴、その克服の軌跡について自ら朗読する予定のTさんの4人でピアニストの八幡さんのお宅に伺いました。

 八幡さんのスタジオにあった「ベーゼンドルファー」のピアノは、1912年、タイタニック号が沈んだ年に作られたという貴重なものだそうです。ピアノというのは、災難に遇う時、大きいので持ち出せないという事情から、なかなか古いものが残りにくいのだそうで、このベーゼンドルファーも1918年のウィーン事件でハプスプルグ家が持っていた大部分がなくなってしまったとかという物語も教えて戴きました。

 一般的にピアノは88鍵あるのですが、4鍵余分にあって、黒く塗ってあるのには、本当にビックリしました。実際には弾かないのだそうですが、低い音の響きを良くするのだそうです。6鍵多いのもあるそうです。
 そのピアノの足もまたおしゃれな奇妙な格好で、足ごとねじ込み式になっていて、とても珍しい造りだそうです。ベーゼンドルファーは女性的な音で、スタインウェイは男の人に向いているとか言われるそうですが、本当にやわらかい音でした。(私、よく違いのわからん女でござるが)

 八幡さんのピアノもメンバーTさんの朗読も職員Tさんの歌も素晴らしい!私の朗読は相変わらず下手で恥かしいけれど、私は皆さんに来て頂いても、きっと何かを感じて戴けるステージになると確信が持てたリハーサルでした。音痴の母も誘おうと決心しました。とにかくとにかく多くの方に聴いていただきたいコンサートです。 

2005年6月29日(水)  

雨上がりの空。空って画家だあ。様々な雲に色を塗って、身を破って夕焼けの茜の光を放ち、えもいわれぬ美しさ! 大雨の災害にあわれている方達にも早く光を!
 

2005年6月30日(木)  

朝から見知らぬ声で電話。「Aさんの事ですが」「・はあ・・?母です」「C新聞のU販売店ですが、今朝配達した者が、昨日の夕刊が取られてなかったので大丈夫かと心配しております」。ははーあ。1人住まいの老人へのサービスで、母は登録していたのです。一昨日、お小遣いなんてあげた事もない私に「旅行に行ってくるわね。お小遣いありがとね」と悪態はしっかりついたのに。母は新聞店に留守をする連絡を忘れたんだ!それにしても有難いシステム。販売店の方の優しい口調に感激してしまいました。感謝。

 K市H小学校の群読大会の講評に。1年生から6年生までの縦割りチームで詩を朗読しあいます。昨年に続いて2回目ですが、それはまあ、すごーい進歩。びっくりしました。何より、子供達が朗読が好きでたまらないという雰囲気。やらされているのではなく、上級生が色々アイディアを出して、皆で誰がどこを読もうとか決めて、お互いを思いやりながら、本当に大きな声、小さな声、手や足も使って表現を工夫。一生懸命創りあげているのです。12チームもあるので、全校児童の群読のあと、講評をするのは瞬間技のようで、昨日から私は緊張していたくらいですが、とにかく子供達をほめて、励ましました。

 年寄りも、若い児童も、皆で支えあって生きるのが理想だと思います。素晴らしい場面に出会える幸せ。

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Akiary v.0.51