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2005年9月1日(木)  

今日は防災の日。玄関の非常持ち出し袋を改めて点検しました。まさに自然災害にあわれたばかりの、心配だった、ルイジアナの賀茂さんからメール。勤務先の大学からの発信です。
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 ここバトンルージュは、市内で木が700本だか倒れたものの、雨は大したことがなく、大きな被害は逃れました。〜中略〜家の回りの道は色々な所で寸断されていますが、
幹線はすぐに復旧しました。
 わが家の停電は3日目に入りました。そろそろ冷凍庫の中身が悪くなり始めます。水が出ているのが救いですが、停電が長く続くと、ポンプが使えず、水が止まるかもしれません。家が停電しているのでこのメールもオフィスから書いています。クーラーがないのが一番つらく、夜、暗くなるとまだ電気のある大学のオフィスに家族で避難しています。

 僕の大学はニューオーリンズから避難して来ている人たちの医療基地となっており、再開は来週の火曜です。テレビなどでご覧と思いますが、バトンルージュの東、ニューオーリンズとその郊外は大変なことになっています。住民が戻り、学校が再開されるまでに
は2ヶ月以上かかると言われています。昨日の夜、新たに堤防が決壊し、まだニューオーリンズに残っている何万人を避難させるべく、バスが出発しますが、その観光バスが何台も大学のキャンパスに結集しています。バトンルージュのダウンタウンにあるスタジアムは避難所として開放されました。さらに4時間かかるヒューストンのアストロドームも避難場所に指定されています。
 
 この先、ルイジアナ州はニューオーリンズの復興で大変なことになると思いますが、とりあえず僕と家族は無事であることだけ、お伝えします。
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 とにかく命あればの想いです。バグダッドでは900人以上もの人が亡くなったんだって!
地球は重い。私の心も今日はとてもとても重くてドンヨリしています。

2005年9月2日(金)  

イラク派兵訴訟の会のスタッフ会議に久々に出席。9月9日の口頭弁論の日に、どうやら結審はされなさそうで、(あることも否定はできないけど)更新弁論がやっとやれるし、原告の意見陳述も4人、今度こそできそう。毎週毎週、裁判所前で朝に夕に抗議のビラ配りをした効果があったようです。

 そして、今日初めて被告国から、弁護団事務局へ21頁に上る反論の書面が来たそうです。最終的には「平和的生存権の主張は認められず却下すべき」というスタンスは変わっていないという報告が弁護士さんからありました。でも、やっと反応した被告国。でも、どうして平和的生存権が抽象的概念で、裁判すべきものじゃないって言えるのかしら。どうして憲法にはっきり書いてある平和的生存権を主張すると却下されるのかしら。本当に不思議な国。

 新聞各紙のイラク関係の記事をせっせと皆で手分けして切抜きして、情報の収集・記録を頑張っているのですが、ボランティアでやっている人が、高齢で目を悪くされてしまったり、色々事情があってできなくなり、「誰か引き受けてくれませんか?」私は手を挙げられないで、黙ってしまう・・・。辛い時間です。ついに暫定的に、2紙引き受けることになってしまったスタッフがいます。だれかボランティアで新聞の切抜きをしてあげるって人を探す事になりましたけど・・・辛い辛い。今日の昼には、立候補者へのアンケートの結果の発表の記者会見を代表がしました。一刻も早い撤退を!

2005年9月3日(土)  

昨日の議事録を書いて送信。気がぬけてダラダラと読書したり。小さな子もお年よりもいなくて、私1人を私一人が面倒を見れば良いひととき。結構な身分です。精神的にしんどい時は散歩に出たり。なんとか自分ぐらい面倒みなくっちゃ。

 ニューオリンズを見舞ったブッシュを見ていて、イラクの空爆をした後をあのように見舞っただろうかと、ふと、思ったのでした。

2005年9月4日(日)  

 ルイジアナの状況を見るにつけ、いかに私達の日常が危ういものの上に成り立っているか、思い知らされます。ルイジアナで学校にも行けず不良をしている貧困層の子供たちに楽器を与えて、見事に更生させているという、ルイジアナらしいニュースを、銃規制の運動をしている時知ったけど、あの子達はどうしているのかしらと気になります。ジェノサイドだってインタビューに答えていた住民がいたけど、「人が生きる」って大変なこと。

 「長岡輝子の四姉妹」をやっと読了。会員Uさんが、長岡家の縁戚という事で「すぐよめるよ」って貸してくれたんだけど、やっと読めました。「おしん」が奉公した家のおばあ様って言ったら、長岡輝子さん。宮沢賢治の東北弁の朗読なんか、ぜひ生できいてみたいとおもっているのですが、もう96歳になられてる!時々はお仕事もされるようだから、驚異的な人。一番のお姉さまが、この本が出版される直前に101歳で亡くなっています。

 姉妹の・というより長岡家の人々の心温かさ、人間らしさに感動しました。朗読や演技の深さは、計り知れないほどの喜びや悲しみの体験や思考の蓄積によるんだなあ。

2005年9月5日(月)  

ルイジアナどころか東京も床上浸水!救命ボートで助けられている人を見て、本当に驚いています。
 と、言っている私は明日北陸に向かいます。3度目の打ち合わせと図書館での調べ物。台風から逃げるけれど、逃げ切れない日本海側。外へは出ず、注意深く行動します。

 恐怖の母が自分で作った「野菜をとりにいりゃぁ」と言ってきかず、孫が夜取りに行くことにしました。夜になると「まんだこんがね」と電話攻め。遅くなったら外の自転車の籠に入れておくことにしたので、そのままにしておいてくれればいいのに、婆ちゃん、心配で家の中にいれちゃったので、孫は、夜遅く、その辺にあった袋を疑いもなく持って帰りました。

 朝の清清しいリビングのテーブルの上、私が見たものは、まぎれもなくゴミ。野菜屑ばかりでした。認知症とは言えないけれど、超心配性で生きてきた恐怖の母。旅行中も孫に叱られないように相当我慢した様子。それでも「お婆ちゃん、×△□言ったら運転できないよ」等と諭されておりました。ゆったりと生きてほしいんだけど。まあ、電話でゲラゲラ笑えるうちは、幸せというものでしょう。生きているという事は貴重。感謝。

2005年9月7日(水)  

突如出張が決まって、粟津へ朝一(自宅5時40分出発)で出けました。それでも到着は10時30分。ちゃんと米原と粟原温泉の間は「しらさぎ」に乗ったのだけどな。忙しい社長さんを捕まえるのも大変なのです。結局夕方会長さんもひょっこり現れて、5時過ぎまでお喋り・・いや・・打ち合わせ。

 そして夜が又接待していただくので、これが酒の飲めない私は苦手。でも、ウーロン茶で技術屋さんの話をきいていると、感動も貰います。今回の台風の被災地の後片付けのテレビニュースを見ていたら、遠い九州の、全然知らない町で、自分の作ったアームクレーンが写ったんですって。「感動でジーンとしました」って聞いて、私もジーンとしました。延々3時間、加賀の海鮮料理を戴きながら、そんな話のてんこ盛りなのです。

 社長さんは、「神戸と淡路島のお得意先の復興支援に、即刻パワーフォーク10台と100万円持って飛んでったの。そしたら、後から後から注文が応え切れないくらい来て・・・パワーフォークが被災地に続々と投入されて、震災の復興にすごく役立ったんだよ」と。こういう話は楽しいよねっ。

 今日は朝から小松の市立図書館で粘りに粘って資料をコピーし、鈍行で福井へ。県立図書館を目指しました。タクシーの運転手さんが、何をどう思ったのか「県立図書館」と言ったのに「市立図書館」へ走っていたらしく、途中の私との会話で「???」と気がつき、全く逆の方向へ走りなおしてくれました。つまり最近、郊外の田んぼのど真ん中にどえりゃあデッカイ図書館が建って、あんまり遠いので、無料バスが一時間に一本ずつ駅前から出ているのです。はーっ、びっくりしました。本当にデッカイの。時間がなかったので、郷土資料のコーナーだけしか見られなかったけど、何か広すぎて疲れました。

 帰りは午後6時の無料バスにちゃんと乗って、30分かけて駅に戻りました。敦賀まで普通、米原までしらさぎ、大垣まで普通、名古屋まで快速、鶴舞まで普通、塩釜口まで地下鉄で、家にたどり着いたら午後の11時!北京より絶対遠いね。

 でも、これで仕事の峠は越えた感じで、ゴールに行ける道が、遠くだけど見えてきました。はぁーーーー苦しかった!でも、嬉しいです。明日も頑張ろう。今日は寝る!

2005年9月8日(木)  

今日は四日市市立図書館へ。戦時中日本一の石油備蓄基地だった海軍の燃料廠があったので、1945年の3月から、ものすごい空襲をうけているのです。今回社史CDRを作っているM社の会長さんは、工学部の学生だったので、学徒出陣として、この工場に来ていたのです。「敗戦があと1週間延びるていたら、確実に死んでいた」と仰っているのですが、今日図書館で調べてみて、本当に実感できました。

 郷土史は、昔からの災害もよく記録しています。昔から人々は本当にこれでもか、これでもかという悲惨な災害にあっているんですね。ニュースで各地の被災状況を見るにつけ、本当にお気の毒に思います。ニューオリンズの状況も賀茂さんから第2弾メールが来ました。賀茂さん、日本のメディアを案内してバトンルージュからわざわざニューオリンズへ出かけています。あまりの惨状に声もでません。イラクの軍隊、もう全部帰しなさい!

で、派兵阻止の訴訟で、明日は名古屋の公判があります。大阪のゼニカネ訴訟の判決は、今日あって、裁判官が判決を言い渡しますといって、1.原告らの請求の趣旨第1項(差止め請求)に係わる訴えを却下する。2.原告らの請求の趣旨第2項記載の請求(損害賠償請求)をいずれも棄却する。3.訴訟費用は原告らの負担とする。ーーを読み上げ、それで終わったそうです。この間10〜15秒であったと名古屋から傍聴に行っていたNさんが報告してくれました。

明日は更新弁論に4人の意見陳述など。弁護士さんたちは200ページ以上の準備書面の印刷で、今日だけでも4000枚印刷したそうです。まるで、作家と印刷屋さんを1人でやってるみたいじゃないですか。明日、充実した裁判が出来ますように。

2005年9月9日(金)  

自衛隊派兵差止訴訟の第6回口頭弁論が名古屋地裁で行われました。傍聴席の人数制限で前後半入れ替えせざるをえない方たちがあるわけで、その方たちに、どうやって待っていていただくかという問題があります。
 
 私はその方達の担当で、前後半とも「イラクの子どもを救う会」代表の西谷文和さんと、フリージャーナリストの土井敏邦さんのイラクレポートのDVD放映会の機械操作と司会。そして、裁判が終わってからの報告集会での司会。

 年をとったなあとつくづく思うのは、集中力に限界があるという事。続けて2種類のDVDを見ること2回。普通の映画じゃないですものね。劣化ウラン弾被弾による障害で苦しんでいる子ども達や空爆で死んだり障害者になった人たちの映像ばかり。フツフツとアメリカ政府に対して怒りが湧いてきて、気持ちが重くて仕方がありませんでした。

 報告会では、弁護団長さんや弁護団事務局長さん、意見陳述をした池田香代子さん、梶岡マリリンさん、岡崎勝さん、大塚英志さんの言葉、傍聴された原告の皆さんからの言葉で法廷の様子を知りました。更新弁論もやっとできました。今やれることをどうしてあの時、やってくれなかったのか、いったいどれだけの抗議が必要だったかと、本当に皆の力の結晶でここまでこぎつけたのだなあと感慨を深くしました。裁判長、普通では絶対言わない「次回結審」ってポロリと言っちゃったそうです。そうは絶対させないと、またまた明日から戦いが始まります。

 今日、何度も繰り返し映像を見て思ったのは、こんなことをして平気でいられるのは人間でないという事です。戦争は、皆人間でなくなるのです。爆撃し、銃撃する兵士は命令されて動く駒。命令を企て欲深くほくそえんでいる奴が自らの手を血に染める事はないのです。父も駒として人間ではなくなっていたのだと思いました。私の背中には本当に重い重い荷物があります。

 どうして選挙でイラク派兵が話題にならないのか、これがおかしくなくて、何がおかしいのでしょう。本当にアメリカの追随をシャーシャー決めている日本は許せないことをしているのに!何故その私達の罪深さを想像できないのでしょうか。

 イラク派兵反対を訴えて立候補したのは、全国でたった1人。小泉首相に「イラク戦争を始めてはいけない!」とレバノンから打電して外務省をクビになった、元大使だけです。「歴史」はこういう人や、裁判で丸腰の平和活動を訴えた、訴えている名もなき大勢の人たちを未来永劫に刻め!。 

2005年9月10日(土)  

 今日は鶴舞図書館へ。阪神淡路大震災で活躍する建機の写真を探したのだけど、なかなかないものです。でも、とびきり可愛いのがありました。子供がパワーショベルのバケットの中に3人ほど入って一休みしているの。しかも全員スコップもって。BGMもそろそろ決めなくてはと、あれこれ、頭の中は仕事をしています。でも、他人から見ると、ぼーっとしているだけ。

新聞閲覧室で70代と思われるおばあちゃんと、60代と思われる女性が言い争っていました。おばあちゃんは、みんなが新聞をみているところへ近寄っては「私が見たいところ、みせて」と聞きまわっていました。そして最後にいきついた女性にも「一緒に読めばいいでしょう」と言うのです。言われた方は「私が先にみてから見てくださいよ。待っててください」としごく当然のことを言いました。「私が見たいのは、猫をただであげますというところだから、そこをみせてくれればいいでしょう」と、あきらめず、ずーっとそばに立っていました。

 きついやり取りを聞いている回りはみーんなシーン。私は縮刷版を見てたから、おばあちゃんは近寄ってこないと思えたけど、私だったらどういう対応をするべきかを考えていました。おばあちゃん「私はこの後、買い物に行かんならんのだわ」「それはあなたの勝手な都合でしょう」とまたキンキン浴びせる60代。

 何かとっても悲しい光景でした。理論的に、社会道徳的に、まともなことを言ってるけど、人格がともなわない、冷たい「しゃべり方」に人間的なものを感じませんでしたし、図書館でしか人と接するチャンスがないのかもしれない、「個」の世界で生きている孤独。人生の終末に向かうにつけ、過去が露呈していくのかもしれない。

 思いやりとか譲り合いというのは、本当に難しいと思いますが、結局はそれがない限り良い世の中にはなっていかないのだろうね。「お願いします」も今日で終わりました。たとえば、各党首にこんな場面のロールブレイをして貰って、平和力を計ってみたいものです。

 

2005年9月11日(日)  

選挙。チラッとテレビを見たら、田中真紀子さんがサマワの自衛隊のことについて、ハッキリと撤退すべきと言っているところでした。あんまり楽しくないので速報は見ない。裁判官は皆×にしたけど。

2005年9月12日(月)  

9時から12時30分までA市の男女共同参画の企画で講演。いつもながらの恥かき弘美でした。でも、どこでも、真摯に生きている人々は大勢いらっしゃることを実感しました。人前で偉そうに講演する私。ありのままを話すのですが、どうもセカセカと早口の私。神さま、仏様、どうかお許しを。

 名古屋に戻ってギタリストの、のりおさんのスタジオにこもる。CDRのBGMを朗読に合わせて生演奏してもらうのです。即興も含めて職人仕事。神業でこなしてくれました。とにかく、右に朗読原稿、左に楽譜を見て、そして私の息遣いに合わせて演奏してくれるのです。朗読だけ別録りにすればいいようなものの、のりおさんは、朗読を聴きながらでないと息を合わせた音やメロディーならないからと、生合わせをしてくれるのです。贅沢なひと時でした。今月末に本番を録音することにしました。今日はデモテープだけ作ってCDにしてもらって帰りました。

 家についたら9時。今から、CDをちょっと編集して、それから北京へ行く準備です。なーんもしていない。徹夜かも。TVのニュースを見なくてもいいので、それはきっといいことでしょう。新聞も読みたくないのです。
 

2005年9月18日(日)  

12日の夜、いや、ほぼ徹夜の13日の早朝、パソコンが動かなくなってしまって、どうにもこうにも仕方なく、そのまま北京へ出発。本日帰宅して、すぐ大須へ出かけて入院させました。明日の結果待ちということだったので、しょんぼりと家に帰ったら、電話がかかって、夜8時から9時の間なら、本日退院できるとの朗報!又大須へと走りました!

 13日。飛行機に乗る時、声と言語で「?」と思ったら、何と、お相撲のお弁当のご飯を盛るバイトを一緒にした格さんでした。彼女も私にびっり。4年ぶりにモンゴルに帰るのだそうで、本当に嬉しそうでした。前後の席に座って北京着。
 
 雀のお宿ではなくて、燕のお宿に居候するため、国際放送局の門で燕を待っていたら(職員以外絶対自由に入れない)、燕ちゃんが、今月の「便り」で紹介している内モンゴルのブレンバーヤルさんと一緒に来るではありませんか!偶然降りてくるエレベーターで一緒になったので、私を紹介すると言いながら向かって来たそうで、私は私でさんざん写真を見ているからすぐに分かって「私のホームページであなたを紹介してますよ」って言ったら、すぐカバンからCDを出してサインしてくれました。
70元くらいする、中国でも特別に高いCDだそうです。親子3人で歌った「吉祥三宝」は今夏、中国人で知らない人はないくらい流行ったとか。感激。それにしても何で今日はモンゴル人ばかりに会ったの?

 夜、燕が階上に住む、旧知の、ミャンマー語部のウースンルン夫妻(夫人は中国人)を招いてくれて、4人で遅くまでにぎやかに議論をしました。派兵反対のビラを渡したら、「他の国の専門家にも渡すから、もっと頂戴」と言われ、感激。ぜひ皆に説明してねとたくさん渡してお願いする。「ヒロミは他の日本人の女性たちと違っていた。いつもガハハと笑っていたし、いつか部屋に遊びに行った時、トイレットペーパーの芯をたくさん集めて椅子を作っていた」と、トンでもない思い出話しをする、ミャンマー。またガハハと笑った楽しい夜でした。燕は毎日私が寝るのを見届けてから、深夜まで仕事をしていました。すんまへん。

  14日。燕がまるで私の両手と口のようにバチバチ手配、連絡をしてくれて、まずは今回制作をお願いするSさんの事務所へ。先回とは違う所への発注なので、色々打ち合わせが必要なのです。

 15日。見積もりが当初の2倍になるとの連絡を受け、仰天して再びSさんの事務所へ。私も悪いよね。仕事が後手後手になって、時間切れで北京へきてしまったんだから。話し合いで試作品は今回は作らないで、日本に帰って、私が作業の一部をすることにする。それでも当初の予定額の1.5倍で妥結。
 Sさんの試算の仕方が、今の北京の様子をとてもよく現していると思いました。今の北京では、1万元の月給がないと、ホワイトカラーの生活はできないというのです。皆広い快適な家を買って、自家用車に乗るのが夢だというのです。それから日当を計算するとこうなりますというわけです。当初は、プログラミングがいくらだとか、デザイン料がいくらという計算の見積もりだったのになあ。まあ、一生懸命説明するSさんは悪い人でもなく、誠実な態度なので、話しを飲みましたが、大変なことになりました。

 夕方から子豚1号2号と呼び合う日本人の先輩Sさんとレストランに入り、延々4時間のおしゃべり。北京ではめったに雨は降らないのに、外は雨でした。

 16日、午前中燕の宿に子豚が立てこもり、制作の進行表を充実させる。午後コピーに出たついでに鶏肉の串焼きを買って帰ったら、燕が「どこで買ったの?そんな店、近くにある?」とびっくり。
 夕方、放送局の日本語部に出かけ、キャーキャーワアワア、ガハハ。隣のイタリア語部がそーっとドアを閉めておったぞ。そのまま豚足の鍋料理を皆で食べに行く。集まってくれた皆に感謝。それにしても満腹満腹。食べすぎじゃー。

 帰宅路、燕と団地の入り口に立ったら燕が「建物がなくなっている! 」と呆然。「パワーショベルで今朝壊してたよ。埃がすごいので水をまきながらね」と言うと、「何で来たばかりの子豚がそんなことを知ってるの?」と、更に呆然。燕の部屋は15階ですが、サンルームから見ていると、本当に目の前30cmの所をクレーンの腕が回っていくのです。

 17日。燕が「焼き鶏の店は昨日できたんだって」と、中国人もびっくりの顔をします。ことほど左様に北京は日々ものすごいスピードで変化しています。毎晩燕と日本の選挙結果や経済の話しを議論しました。通訳で、日本の色々な立場の経済人や学者の話を聞く燕は鋭くついてくるので、タジタジ。Sさんの事務所へ。

 18日。いつもお願いしているMさんのタクシーで飛行場に。Mさんはとても誠実な運転手さんで、私のことも覚えていて下さるので、本当に嬉しく、安心できます。謝謝!順調に名古屋到着。とにかく気を遣わなくてもいい私に、一生懸命手料理で普段どおり歓待してくれた燕ちゃんに感謝。番組の録音もいっぱい聞いて、あれこれ話は尽きず、彼女はいつも私を寝かせつけてから?また仕事にかかるので、今頃疲れ果てているのではと心配です。

 今宵中秋の名月。きれいな月です。北京では、赤い袋に入れた月餅を持って歩く人ばかりでした。被災地の人たちはどんな顔をして月を眺めているのかなあ。カトリーナのレポートが賀茂さんから続々。14日の東京・中日新聞に、電話インタビューを受けたのが載ったそうです。
 www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050914/mng_____tokuho__000.shtml
月刊の文芸春秋にも来月号に書いているそうです。賀茂さんも運命的な人だなあ。

 

2005年9月19日(月)  

美容院へ。北京へ行く前に行きたかったんだけどね。それから「ぞうれっしゃがやってきた」を来年南京で公演する藤村先生の合唱団の総会に出かけて、事前学習の講演。1時間だけだったのですが、皆さん、吸い付くように聞いて下さってこちらが感激。20人そこそこの集まりだったのに、13冊も本が売れました。もちろん、講演しても1冊も売れない時があるので、恥ずかしいので、3冊しかもって行かなかったので、帰宅後荷造りして送る。象列車の物語は直接中国、とりわけ南京市には関係ないけど、子供たちも一緒に合唱するので、歌は世界共通語になって、きっと平和を守る心で共鳴しあえると思います。

 姫ちゃんが一冊目の翻訳を終えたので、二冊目の本のコピーに出かけ、ついでにCDRのための縮小コピーもしてくる。片道徒歩40分は良い運動になるけど、さすがに疲れモード。体と頭がもう動きませぬ。

 さて、燕が特別に寄稿文を送ってくれてびびびびーっくり!なんというスピード!私の日記の裏側を中国人の目で書くとこうなるのかと思うのですが、お互いにゴマすりをしているお見苦しい部分は、親馬鹿子馬鹿。笑ってやって下され。長いですけど、ここに掲載します。

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がま口特別投稿 〜弘美人さん北京訪問・つばめの補足編〜
2005年9月18日

 9月18日。中秋節。晴れ。
 朝6時、弘美人さんを空港行きタクシーに放り込み、15階にある我が巣に戻ったとたん、窓の外はいくつも重なっているクレーンの腕の隙間から、のっしりと大きな太陽が丁度昇ってきました。やさしい、ソフトなオレンジ色の太陽でした。
 朝に弱い私は、再び眠りについたのですが、ひどい金縛りにうなされました。 枕元の携帯電話に時たま、ピーという音と共に、中秋節お祝いのジョークメッセージが入ってきました。この種のお祝いは、4、5年前だとトレンディーでしたが、今はダブった内容も多く、負担と思う時もあります。夢か現かの中、弘美人さんが鈴のような声を転がせ、ガハハの笑いを飛ばしながら、元気良く家の中を飛び回っていました。
 「冗談じゃない。速く空港に行かないと、せっかくの安売り航空券が紙切れになり、後悔するよ」と言いたかったのですが、目も口も開きませんでした。
  
 弘美人さんの滞在はわずか5泊6日。しかし、いつも静かだったつばめの巣にとって、その巨大パワーはとても大きな波紋を投げ、ついに、つばめの夢にまで登場した次第です。
とにかく太陽よりも明るい性格の持ち主。大きくて、若々しい声、常に笑顔と良く響く「ガハハ」の笑いで相手を包み、一座の雰囲気を改造していきます。しかし、「美人」という言葉に含まれた淑やかなニュアンスとは程遠く、電光石火の行動力と暖かい心で美を感じさせる人なのです。
★「この人、中国語分かんない」。王府井の売り子になめられた発言をされ、ただちに、「分かるさ」とにらみつけて反撃を加える。★放送局玄関で偶然に邂逅したモンゴル族歌手のブーレンさんを見て、飛び上がって黄色い声を挙げる。★洗濯物を干すとき、こっそりと腰掛をもってきて、その上に立って、何も不便はしていないと上手に装う。★胴体の深い鍋をガスコンロにかけると、「中が見えないわ」とつま先を立てる(笑)。★ゼラチンたっぷりの豚足鍋を「共食いだ」と笑いながら、それでも「スカートがやぶれそう」に召し上がって帰宅。★しかし、気づいたら、果物を口に運び、月餅にもナイフを入れる。ダイエットを叫びながら、たまには食べ物の誘惑に負けてしまう。
 
 とにかく年相応に振舞う点が少なく(爆笑)、人間らしさに溢れているため、つばめは大好きです。ははは。。。もちろん、家をきれいに片付ける知恵を一緒に考えてくれる点や、近所の地理をすぐにマスターして、上手に色んな店を利用すること、好き嫌いはなく、何でも食べる(とにかく私の手料理を努めて誉めるようにしているところ)ことなど、つばめが大いに見習うべきところが多々あります。
 
 一方、しゃべるのも、歩くのも、笑い出すのも、食べるのも、寝るのも、意思決定するのも、どれも速い弘美人は、いざという時、寝食も忘れるほど仕事に夢中になります。雑談が終わり、夜が更けたのに、「今から仕事だ」と宣言したのにはびっくりしました。丸でスーパー(ウー)マンのようです。敬服敬服。

 そう言えば、弘美人さんの北京到着は日本総選挙の翌々日でした。感想を尋ねたところ、すぐさま顔を正して(?)、「もう腹が立つ。テレビも新聞もみたくはない!」とがっかりした表情を隠しませんでした。

日本の総選挙の結果を受け、ある中国人学者は両国関係への影響の視点から、こう見ています。
「被害国の再三の反対にもかかわらず、靖国を参拝し続けた人を、民主的な選挙で再び首相に当選させる。これが日本の民意の現われだと考えると、悲しく思う中国人が多いかと思う。」
 
 自民党や小泉氏を支持した大多数の日本国民の「民意」とは相反した意見を持っていても、外国に身を置く以上、人からは十把ひとからげに「日本人」だと見られてしまい、そして、その「日本人」への非難を浴びざるを得ないのです。概して楽しげでしたが、もしも、弘美人さんに中国滞在の悩みはないかと尋ねたら、恐らくこの辺の事に関わってくることでしょう。

 もっとも、この悩みは何も弘美人一人だけのものではありません。大多数と少数、個人と国、局部と全体。これら両者の関係をどう見つめればよいのか、戦後60年の節目の年にこそ、中国と日本の間、際立った問題となっているようです。
 「今日はどこそこで、誰かが何かで微笑んだ。殺人や悲しい事件だけがニュースと思わないで、人にほんのり微笑みを与える、何気ないニュースも、毎日一つは取り上げて報道してほしい」・・・かつて弘美人さんが日記に書いていた提案は、私に強い印象を与えました。
 
 ところで、弘美人さんを暖かい抱擁で歓迎した元仕事仲間の中には、退職した人も相次いで飛び入りしました。彼女たちは「太極拳に、ダンス、合唱、登山など。人生をようやく楽しめる余裕ができた」と充実した毎日を送っています。しかし、そう年が変わらない弘美人さんは疲れも知らずに、せっせと打ち込んでいる事業があります。平和憲法を守る活動です。
「国を相手取り、自衛隊の海外派兵反対の訴訟を起こしても、出てきた被告代理はつばめのような若者。原告団が一所懸命に陳述したり、弁護団が感動的な弁論をしても、全然聞こうともしない。本当に頭にくる。」
 かつて、兵士として中国戦場に赴いた父親への思い、平和な国・日本を守り通す固い決意。多様化する日本社会で、自分の声を大きくするため、旅の疲れをほぐすこともなく、今日も頑張り続けている弘美人さん。後輩として、そのエネルギッシュさと心の美しさ(顔もです・・・ははは)を手本に学びたいです。(北京放送・王小燕)

2005年9月20日(火)  

姫ちゃんとディンディンと、仕事デイト。名古屋市女性会館で待ち合わせ、図書室も紹介して翻訳する本のコピーを渡しました。昨日は上海からの万博見物のお客様4人を大阪まで迎えに行ったそうで、大阪を車で往復して、ホテルに入れて自宅に帰ったのが、今朝の3時だったとか。「お金持ちの中国人が多くなったねえ」と、貧乏な私達は下世話な話をしましたです。ディンディンにはっきり日本語で「おばあちゃん」と言われ、ショック!「ハルモニ」の方が日常的でない言葉なので、無神経でいられたのですが、お婆ちゃんとはねえ・・・あぁショック。

 24日の土曜日、美浜でまのあけみのコンサートがあります。私も朗読ででしゃばることになっています。名古屋の星が丘と赤池からバスで行けますが、もし参加してもいいという方がいらっしゃったら、どうぞご一緒に。要領は以下です。とっても素敵な美術館も一緒に見学できるとの事。なかなか時間がとれない日々ですが・・・。たまにはゆったりとした休日を自分にプレゼントしてやってください。ぜひどうぞ。

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まのあけみコンサートとティレク&ティレセク5大陸絵画展を楽しむ会
ライブ開場 16:30 開演 17:00
ライブのみ3,000円  ライブ&軽食(ワイン付)4,800円
バス利用者(ライブ・軽食付)9,000円

*まのあけみHPで紹介しているパリの画家、ティレク・ティレセクご夫妻の美術館の旅
とライブの企画です。名古屋星ヶ丘・日進ゆったり工房からバスがでます。
星ヶ丘三越前10:30集合。 日進ゆったり工房11:00集合。
美術館の旅

(問・申し込み)
小林/090−7863−1493
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2005年9月21日(水)  

明日、がま口塾。でもずーっとCDRの仕事。そうなんです・・・今から北京へ行っていたら、もっとしっかり費用をダウンできたのに。そうなんです。今から中学校に入学していたら、私はもっとしっかり勉強ができる人になっていたのに。後悔先に立たず。政治のことを書く気にもならず。とにかく、今は仕事。やりとげなくては。

2005年9月22日(木)  

がま口塾の例会。1年ぶりに2回目の参加の方や、タチアナさんもひょっこり現れて、何だか話の展開が可笑しかったです。今日はあまり笑わなかったけれど、閉会してからが俄然言いたいことが火山のごとく噴出し、ここだけの世界だと気持ちいいのに・・・という政治のはなし。尽きることなく、結局第二ラウンドほどの時間を皆で過ごしてしまったのでした。

 ビデオの一部をCD-Rにしてくれる人をずっと探していたのですが、Uさんに紹介して頂いて大阪の方に頼みました。今日、それが出来上がってきて感謝。でも、ファイルをあけるのが難しくて、又四苦八苦。家族動員の騒ぎです。
 女性会館の録音室を予約しようと思ったら、貸す条件が変わったとかで、厳しい返事。はて。色々難問が次々起こって、何から手をつけていいか分かりませぬ。放送局さながらのスタジオと編集室が我が家にあったら、家の中だけですべてできてしまうのになあ。

 2人の友人から電話で長く話す。世の中は矛盾と悲しみに満ち満ちているように思うけど、元気と勇気を生産しながら前向きで!がんばれがんばれ。

 昨日、図書館で平成になった時の新聞記事を探していたら、平成天皇が「憲法を守り・・」と明確な言葉を述べている見出しが飛び込んできました。17年の間に日本はなんともまあ、とんでもなく右傾したものです。

2005年9月23日(金)  

1日中CDRの仕事。写真と文章をうまく組み合わせるジグゾーパズルのようなもので、写真も多すぎたり少なすぎたりでなかなかうまく当てはまらず、又、写真そのものも何なのか(特に機械は)、さっぱり分からないので、情けないことこの上なし。四苦八苦です。縮小コピーに出かけたのと、お昼ご飯を作った時ぐらいが休憩で、さすがに今はボーーッとしてきました。目が痛くなりますねえ。そういう時は寝る!ナメクジぐらいの歩みはしているので、粘るのみ。がんばれ。

 訴訟の会のスタッフの皆は、相変わらず忙殺の中、無理無理で頑張っててくれます。何もお手伝いできなくて本当に申し訳ない!でも、寝る!明日は生身の仕事があるので。

2005年9月24日(土)  

  5大陸(アジア・アフリカ・オセアニア・アメリカ・ヨーロッパ)があります。知多郡の美浜町で5大陸絵画展をやっているという事を聞いていたのですが、本日その絵画展に出かけて、意味がやっとよーく分かりました。

 美浜町に1819年に生まれた音吉は、1832年に船で遭難、1年2ヶ月の漂流の後、アメリカのワシントン州に漂着。時代に翻弄されながらも、世界初の聖書和訳に協力、日英和親条約の際にはイギリス側通訳として参加、自分と同じ境遇の日本人漂流民の救済に尽くしたそうです。

 フラン人のティレク、ティレテク夫妻は、もともとはチェコスロバキアの画家でしたが、フランスに亡命して、現在ではパリのホテルリッツにギャラリーをもつ著名な画家。
その夫妻が日本に来て、音吉のことを知り、自分たちも絵画を通して音吉のように世界をつなぐ生き方がしたいと、美浜に自分たちの美術館を今年完成させました。歩いて10秒ぐらいで海岸。暮れなずむやわらかい陽と打ち寄せる波を見ながらの本当に素敵な美術館です。

 夫妻は万博に共鳴して、5大陸を、美浜町の今では倉庫になりはてている埃にまみれた、中電の空きビルやら、明治時代に建てられた元郵便局や、もとユースホステルをそれぞれの大陸とみなして、美術展の会場に変身させ、そこで大陸のイメージの絵画展をしたのです。明日が最終日の展覧会。全部無料です。TOYOTA等の協賛があってできたことのようです。

 そこで、今日はゆったり工房からバスを出して、それらの各会場の5大陸展を回ったり、美術館の小さなホールでまのあけみのライブをし、その後、フランス料理のコースを頂くというとっても贅沢なイベントがあって、私はコンサートに「プロフィール」という新曲の朗読をする仕事のギャラとして、無料でつれてって頂いて、料理もしっかり味わったという訳です。

 絵は文句なくすばらしかったです。母国のプラハを去らねばならなかった夫妻の平和への想いも伝わってきました。

 ライブは50数人の参加で、会場が小さいので、ぎっしり。観客の気を貰って、とても朗読に身が入りました。のりおさんのギターにルベン(ペルー人)さんのパーカッション。2人とも旧知の親しい仲なので、全くのぶっつけ本番でも、気持ちよくスーッとできました。高い舞台から、大勢のお客様の前でやるのと違う、ライブの生き生きした感覚をとても新鮮に感じました。朗読って聴いてくれる人に支えられ、気をもらってやるものだと、初めて気がつきました。

 あーあ。楽しい1日でした。がま口塾便りのテープ起こしもCDRの仕事も完璧に忘れて・・・。

2005年9月26日(月)  

 朝目覚めてから、エンジン全開で机に噛り付いてCDRの進行台本作り。写真のキャプションつけをしていて、せっかく石川や福井の図書館でコピーしてきた写真が、どこの出版社の本からのものだったかメモを失くしているものもあり、大ざっぱな性格の己を反省。

 大阪のKさんからは、実に丁寧で親切な仕事が送られてきて感激。請求書を何度もお願いしたけれど、やっぱりこないので、適当な金額と心ばかりのものと手紙をそえてBOXにしました。

 粟津のM社へのラフな進行作品と、Kさんへの宅急便を夢中で送り出して、もう腑抜け状態で、昨夜は寝てしまいました。24日にのりおさんのスタジオで本番録りをするので、もう時間がギリギリなのです。これからがま口塾のテープ起こしにかかります。こちらもやらないと、次の例会がきてしまううううぅぅぅぅ(笑い)。

 さて、ルイジアナの賀茂さんからは以下のメールが届きました。10年前の色々な想いがよぎって複雑な気持ちだったのですが、日本人の方が困っていらっしゃったり、服部君の事件後、日本・ルイジアナ友好基金で若者達が交流を続けてきたことを考えれば、やはり友好の絆を持ち続けなければと思ったのでした。賀茂さんも本当に不屈の精神にあふれた人。尊敬します。
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  カトリーナが終わったと思ったら、今度はハリケーン・リタの襲来です。家の回りはまたも木の枝だらけで、金曜の夜からはまたも停電し、いつ戻るかわかりません。子どもの学校は金曜日が事実上の休校、月曜は正式に休校です。うちの奥さんの学校も金曜は休みでした。今回はより風雨の強いハリケーンの目の東側に位置したので、バトンルージュ近郊の被害はカトリーナ以上かも知れません。それでもリタがもたらした被害は全体としては大した事がなく、胸をなで下ろしています。
  いずれにしても、これまで観測史上24個しかなかった「カテゴリー5」のハリケーンが一年に2回もくるというのはどう考えても異常で、やはり地球の温暖化の影響と考えるのが妥当なようです。これからはこのクラスのハリケーンが数多くやってくると考えた方が良さそうでもあります。
  ところで、恐縮ですが、今度は「日本人被災者のためのカトリーナ基金」のご案内です。ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマの3州では、日本人の被災者も数多くいます。今の所亡くなった方はいないようですが、家が消失した人、家財道具をすべて失った人、車が浸水した人などは数多くいます。さらに、ニューオーリンズなどから避難したために仕事がなくなり、生活に困っている人もたくさんいます。
  アメリカや日本の各方面から「日本人の被災者に寄付したいのだが」という申し出をいただいたのですが、これまでその受け皿がありませんでした。そこで、「日本人被災者のためのカトリーナ基金」を設立しました。僕が代表、うちの奥さんが副代表をやっていますが、方針などは主にバトンルージュの各方面からお願いしたあと3人の運営委員と決めていきます。また、ニューオーリンズ総領事などには諮問委員になっていただき、被災者への連絡に関しては、ニューオーリンズ総領事館(現在はヒューストンで執務中)にご協力をお願いすることになっています。
  日本人の被災者は、総領事館によるとニューオーリンズ地区で約350人、ミシシッピ州で約100人ということです。募金活動が本格的に始まった際には、カトリーナの取材で知りあった記者などを通じてマスコミにも広報をします。今書いている文芸春秋の記事でも広報をしています(10月7日発売ですので、良かったら立ち読みして下さい)。在米の企業にも寄付を募る予定です。もしよろしかったら、下記までご援助方お願いします。なお、運営委員、諮問委員を含め、運営はボランティアで行います。被災者への連絡など、人件費が発生する場合は、募金総額の何パーセントまでとあらかじめ決めておいた金額の範囲で、ニューオーリンズなどから避難してきた方々にお願いすることとします。
  それでは、よろしくお願いします。
*「日本人被災者のためのカトリーナ基金」(別称「カトリーナ基金」、「ハリケーン基金」)東京三菱銀行草加支店、普通預金口座1330766番(残念ながら振込手数料がかかります)

2005年9月27日(火)  

  昨日、坂道を大声の中国語が登ってきてびっくりしました。すぐベランダに出てみたら、留学生風の男女4人。何か小さい同形の紙袋を皆が持っています。垣根の間に止まって日本語で誰かに話しかけて消えて行きました。何かをアルバイトで売っているのかなあと、ずーっと昔、韓国からの学生だという訪問販売の子に飾り物を買ったことを思い出しました。『よしっ!家へ来るならおいで。誰かに騙されてやっているのではないか、ちゃんと訊いたる!』っと思って、さっそく服を変えてお化粧をチャチャッとして待っていたのに、まるで座敷童のようにどかへ消えてしまいました。

 夕方、訪問調査の声が聞こえて来ました。皆、何だか長々と玄関先で話している気配。『家も来るな』と思って、こちらも心の準備。・・・ピンポーン。来た!

「ビデオリサーチのものですが、新聞の配達の時間や配達人の態度の状況をお尋ねしています。お宅は何新聞をとっていますか?このままでもいいですので、お聞きできますか」と女声。「もう一度会社の名前を仰ってください」「ビデオリサーチです」「どうして私がそういう事に答えなきゃいけないのですか?個人情報に関わるプライバシーです。お答えできません」「わかりました」と暗い声を残して去って行きました。

 街でのランダムなインタビューならいざ知らず、住居者の名前の分かっている所で、あんまりの思想調査じゃござんせんか。「赤旗です」とか「聖教新聞です」とか「自民党新聞です」(そんなのある?)とか・・答えるのかい?読売、朝日、毎日、中日、日経、産経・・・あ、「人民日報です」って言えば良かった!いったい何だったのかしら?怪しい
時代になりつつあるのか。

国会の様子をテレビでチラッと見て、この映像のBGMは平家物語の琵琶の音にしようと決めました。
 ♪祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。♪


 

2005年9月27日(火)  

がま口塾便りテープ起こし完了、印刷完了。やれやれ・・・と思ったら、38号なのに、37号の数字のまま印刷してしまった事に今気がついて!たーいへん!手書きで修正しなくっちゃ。発送は明日。今から三つ折にして封筒に詰めて、皆に短信を添えて、多分そのうちうつらうつらで寝てしまうでしょう。HPにもアップしたので、随分気が楽になりました。

 私は不思議に神様(仏様でもいいけど)に守られています。今日、テープ起こしの仕上げでまもなく終わる〜〜というところへKさんから電話。「病気とか聞いたから」ですって。はあ?何のこっちゃと思えば、ずっと以前の目眩の事らしい。で、ハッと思ったのは、お医者さんに、3ヶ月ぐらいで自然に治ると言われたこと。ほんとに治っちゃったではありませんか。全くそのことにも気がつかないくらい追われっぱなしの日々だったもの。夜、床につく時もすんなり寝られるようになっています。あぁ有難い。治った治った!

それと、彼女も9月はとても忙しくて、仕事の他に万博のボランティアに5日間出たんですって。ちょうど、話し合ったばかりだったので、(電話をかけてくれても、会員のくせに、がま口の日を全然気にしてないんだから!)色々訊いたら、これが又別の内容。ボランティアも色々あったのだと分かり、早速便りの末尾に一言添える事にしました。間に合って良かった。神様と仏様、いつも私を守ってくださってありがとう。

 彼女の万博を総括する一言が印象的でした。「結局、壊したものは絶対戻らないと思ったよ」。「来月28日のカレンダーに、すぐ○をつけやあ!」と命令しました。会員で万博のボランティアをした人はけっこういるんです。来月のテーマはきっとテンコ盛りの話になるでしょう。

2005年9月28日(水)  

 郵便の取集最終時刻ギリギリまで、「がま口塾便り」に手紙を書き添え続けました。やっぱり全員に書くには、1日では足りません。何せ2ヶ月ぶりの便りですもんね。うっちゃらかしていた手紙の返事が山と溜まっていて、ほーんとあらためてごめんなさいの世界なのです。メールで「がま口塾便り」を読んでいて下さっている方にはお手紙が書けませんが、もし、もし、読んで下さっていたら、「あなた」に感謝を申し上げます。有難うございます。家族で読んで下さっている方もけっこうあって、家族の団欒の材料にもなっていると聞くと、本当に幸せです。

 しかし、話し合うことが罪になる「共謀罪」というものが、国会の審議で新設されるかもしれないという穏やかならぬニュースが入ってきています。犯罪を防ぐのに良さそうな臭いをふんぷんとさせながら、ふと気づくとトンでもないという事態では困ります。がま口塾のあり方を、ぶれないで貫きたいと思う日々。

 A大学K名誉教授から電話がかかってびーっくり。シエドンをテレビAの方に紹介したいと仰るのです。先生が番組出演を通して知り合われた方なのですが、シエドンは、もう、ここ2~3日中に帰国。残念!

でも、すぐに代案を口走っていた私。「燕がまもなくW大学に1年間留学に参ります。彼女を紹介させて頂きたいのですが・・・」。OK!即刻HPの「燕の中国便り」の中から若干の論文?を印刷し始めたら・・・何と、A4で33枚に達しました。今までの全部まとめたら、すでに十分一冊の本になりうると実感した次第です。塵も積もれば山となる。イヤイヤ、塵とは失礼!で、ひとまずK先生宛てに、ポストに33枚の中国便りを入れたのでした。

 思いついたら、楽しそうな事はすぐやり、めんどくさそうな事はダラダラ無責任に放っておく、この私流。いかなる結果を招くやら。お楽しみに。(私も全く予測がつきません。何にもならなくて元々)燕の了解は全くとっておりませんが、彼女が今日の日記を読めば、『あーあ、弘美人のやりそうな事、しょうがないなあ』と苦笑いでしょう。K先生、有難うございます。燕、一緒に夢みようね。

2005年9月29日(木)  

 のりおさんのスタジオにこもってオペレーターをつけて3時間半近くかけて録音。生演奏にあわせて朗読をするという贅沢な道を選択したため、大変しんどい思いをのりさんにも自分自身にもさせ・・。
 とにかく天才的な仕事をしてもらっていることだけは確か。私も20ブロックぐらいには分かれている文章ではあるけれど、各文章を1ヶ所も間違えずに、しかも満足できる朗読をすることは至難の業で、コテンパンに疲れました。年ですね・・・。のりおさん、オペレーターさん、本当に有難うございました。本日は・・・おやすみなさい。

2005年9月30日(金)  

******** 目覚めのスッキリした頭で書く日記*******

 山梨の地裁前で座り込み抗議をずっと続けている方からの報告。【2003年に県下の地方自治体に対し、自衛隊のイラク派兵に反対するように、請願活動をしましたが、韮崎市が、長いこと継続審議としてきた請願を20日、15対3で採択しました。こちらは、当初あんなに力説したのに、風見鳥を決め込んでいた議会もさすがに危機感を持ち始めたようです】。

 愛知県武豊町議会が21日、小泉首相の靖国神社参拝に反対する意見書を賛成多数で採択したというニュース。【議長を除く19人による採決の結果、賛成10、反対9で採択した。賛成した共産・公明以外の町議の一人は「中国から抗議を受け、緊迫した状況にある中、首相の立場で参拝するのはいかがなものかと率直な気持ちを示した」と話した。】と中日新聞に。

 9月24日、ワシントンで反戦デモが行われた。25万人規模であったらしい。

という元気の出るニュースだけ心に暮らしています。佐世保で自衛隊が示威行進したニュースはショックで心臓が止まりそうだったけど。訴訟の全国チラシをがま口塾便りの配信で、一部の方に同封したら、便りが届いたという連絡とともに、「皆に配りたいのでもっと欲しい」という連絡もきて、本当に嬉しく思いました。押し付けにならないよう、極力注意しているので。

 生きている人間の死亡率は100%。いかに死ぬか。人を殺すことに加担せずに死ねますように。平和を願う中で死ねますように。それが私が子供達にしてやれる唯一の事。


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Akiary v.0.51