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2005年10月1日(土)  

昨日の日記は昨日の朝書いたものです。一昨日の夜、書きたいのに書けなかったので、朝スッキリしてからメモ。1日中久しぶりに翻訳をしていました。途中で粟津のM社から「突然会長から、又文章の訂正がはいって・・」とメールが来て大ショック。昨日のスタジオでの努力が(ン万の費用も)水の泡となったのでした。会長おじいちゃまは、いつでも簡単に訂正できると思っていらっしゃるのでしょうけどね、こちらは生演奏と一緒に録音しちゃってるし・・・。今回は私が贅沢のしすぎと、仕事で念押しが不足だった事を反省反省。(しかし、しばらくは心臓がバクバクして、1人パニックでした)

 これも朝の事だったけど、会員のYさんから「今日は地区の道路建設問題で法廷で意見陳述する」と電話。裁判長を聞けば「内田計一」!最悪ジャン。とりあえずの対策を伝授してエールを送る。彼女はずーっと(もう3年くらいはなるかなあ)コツコツ情報開示を積み上げ、役所に質問、矛盾を突いて、地域で大きな運動にまとめて来た1人。環境保全問題として裁判を起こしたのだけど、内田裁判長のスピード裁判にあっては、せっかくの丁寧な彼女の仕事が水の泡になってしまう・・・。心の中で一生懸命応援した1日でした。

 で、夜はイラク訴訟のスタッフ会議に久々に出席。皆の話題は、もーちろん!
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小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反し、精神的苦痛を受けたとして、台湾先住民ら188人が国と首相、靖国神社に1人当たり1万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、大阪高裁(大谷正治裁判長)は30日、参拝を「公的」とした上で「憲法の禁止する宗教的活動に当たる」として違憲と認定した。
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というニュースでもちきり。裁判長は偉い。イエスマン誂えの王様のマントを嬉しそうに羽織っているコイズミ様に言論の矢を放つのは、どれほどの勇気がいることでしょう。でも当然の判決を「画期的」と騒ぐ、日本がおかしいのだとスタッフ達は言う。全く。


 さて、今日の日記は、又明日書くのかなあ。今日の夜は家族が集まるので、おおイソガシの予定。

2005年10月1日(土)  

そのA

 2人で始まった生活がいつの間にか、家族らしく集まるのが、今日から8人になりました。ヤンと姫ちゃん、ディンディンも構成メンバーです。皆で食事会。どこかレストランでとも考えたけど、どんなに下手なまずい料理でも、ここは一発、気持ちを表すべきだと、努力致しました。
 さあ、皆さん、テーブルについてね、はい、ご飯・・・あやぁ・・!ご飯のスイッチが入っていませなんだ。こんなんでも皆でニコニコ笑って過ごせるささやかな幸せ。

2005年10月2日(日)  

大正琴「錦永会」の定期演奏会まであと1ヶ月。絵本の朗読が毎年の出し物になってしまって、今年は斉藤隆介の「ひさの星」です。今日は演奏と生で練習。感の鈍い私を先生や皆さんがかばって下さるのが恥ずかしいばかりでした。やっぱり人間は疲れた体ではいい仕事はできません。へたくそだけでもいい加減恥ずかしいのに、なかなか演奏と朗読がかみあわず、皆さんに迷惑をかけました。罪滅ぼしに、帰宅後、曲目解説のアナウンス原稿を早速作り始めました。

 帰路、金山の南ビルの広場でインターコモンコンサートのリハーサルをしているのに出くわし、何となくしばらく見ていました。オペラの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の練習でしたが、ちょうど、女性がオペラの内容の説明を朗読していました。やっぱりオペラよりアナウンスが引っかかる・・・。思うに、やっぱりどれだけ深く理解しているかって事が聞く人への理解と一直線につながっていると思ったのでした。それにしても、広いからといって、あんな、自由に人が通行する場所で演じるのは大変だよねえ。オペラを市民に近づけようとする試みかなあ。

2005年10月3日(月)  

たぶんその@(朝型で頭スッキリのうちに書く)

 昨日、会員のNちゃん(40年のお付き合い)から電話。池内猪高線高架式道路反対の裁判の結果を聞きました。内田裁判長が、Nちゃんの陳述で、いよいよ泣かせどころというくだりに来たらニヤニヤ笑い出したのだそうです。人間じゃない人が裁判を司っている!

 Nちゃん、以前この問題でとても怒っていた時より、充実感のある、穏やかな話し方になっている。問題発生まで、近所に住んでいる人達をお互いが全く知らなかった都会の暮らし。でも、この事で老人から若者、あらゆる職業の人達が知恵を結集し、皆で「反対するだけでなく、じゃ、どういう町にしたいか、自分達の想いで町を作っていこう!」と素敵な町創りの運動になりつつあるというのです。素敵な人がいっぱい住んでいるってことが分かり、皆、町で出会うと声をかけあうようになったというのです。

 ドイツ連邦行政裁判所が9月に、イラク戦争は国際法違反であるし、ドイツがNATOに基地を提供しいる行為も不法な戦争の準備行為を禁じているドイツ憲法第26条に違反するという判決をだしたそうですが、地球も皆で声をかけあって、素敵な地球にしていかなくっちゃ。基本的にそういうことだと思うのです。素直な気持ちを「語り合う」こと。この事が出発点でしょう。武器や言葉で威嚇することで、平和な暮らしは創造されないのだなあ。

2005年10月3日(月)  

そのA(そのBもありそう・・・)

 小学校の校長先生をしているYちゃんから、「がま口塾便り」が届いて、色々思ったのでしょう、「職員会議が始まるまでにちょっと時間が空いたから」って、電話をくれました。やっぱりなあ。学校の廃品回収のお金の使い道や、ボランティアのお金のことや、学校の内申書と生徒のボランティアのことなど、誤解を招きそうな事が色々あるという指摘だった。

 「がま口塾便り」は絶対に読み物じゃないと声を大にして言いたいです。参加物です。そして、「がま口塾では、正しい意見にまとめました」という事でもありえません。人が参加して、一生懸命、誰とも分からない人と、まっすぐな気持ちで正直に話し合っているのです。人はコメントする。「今こそ話し合う時」「もっと理解しあわなくては」と。で、じゃあ、そのためにどうしてるの?私はだから、愚直にデカイ邸宅でもない、普段のみすぼらしい生活の部屋に、恥を忍んで、どこの誰とも知らない人に自由に来て頂く機会を提供しているのです。

 自分と違う意見、誤解だと思うなら、誤解している人がいるという事実がわかることから始まるでしょう。みんなさあ、「人は誤解されている」のが普通だと思うよ! だから、がま口塾で話し合いたいのよ!自分の考えを、他人は(あるいは家族は)当然分かっていると思うことが、そもそも誤解なんじゃわ。たった、たまたまその日集まった7人が、正しく全世界、社会を論じているなんて、どうか思わないでくださいな。

 誰が来ても来なくてもいい「がま口塾」。誰かと「話し合ってみたい」と思った人が来る所。正しい意見にまとめる所じゃございませぬ。参加して頂戴!自分の意見を、後から、私にだけ言わないでね。自分の意見が人の意見に揺さぶりをかけるんでしょう?

 自分の意見が出ていない「便り」だと、私を責めないでね。「話をする」というのは、たぶん、ご飯を食べたり、音楽を聴いたりするようなことだと思うよ。心にふれた所を知らないうちに積み上げて栄養にしていくんじゃないの?下痢したり腹痛もあると思う。でも、でも、それでも生きてる人間と話してみたい人は来てね、手紙やメールで参加してみてね。

 正直、疲れてめける時があります。

2005年10月3日(月)  

やっぱりそのB

 昨日のアナ原稿を書き上げてキリがついたので、今日の夕方から始まった、地裁前と栄でのビラ配りに参加しました。栄ではN大学の学生も4人ほど参加。今日はイラクのDVDも三越前で野外上映という画期的な試みもして成功!内田裁判官の担当を辞退して下さいという署名活動も始まりました。

 正直に言えば、家で翻訳の仕上げの仕事をしていたかったのです。でも、広島のジュノーの会の甲斐さんからの通信「ジュノーさんのように」88号が届いたので、じっくり読んだところ、昨年末ですでに36回を数える、チェルノブイリ訪問などの記事とともに、活動の仲間の方の死に際し、友人代表で弔辞を読まれた文面が掲載されていて、大いに考えさせられたのでした。明日私にも訪れるかも知れない「死」。それを思ったら、やっぱりビラ配りをしようと思ったのでした。私はジュノーの会の皆さんをとても尊敬しています。

 終わってから、近くのうどんの「らく楽」へ。会員で、女将のSさんから朝電話があって、今月15日で閉店すると聞いて、びっくりして会いに、いや、食べに行ったのです。諸々の事情あり。残念。

2005年10月4日(火)  

ずっと翻訳(の日本語の翻訳)。姫ちゃんはもう2冊目に入ったので、私の仕事が遅れに遅れています。はーあ。
 でも、「がま口塾便り」で募集した新聞のスクラップボランティアの申し出が、毎日と中日、ともにあって感激の1日になりました。がま口塾の皆さんの優しさに涙が出そうです。感謝あるのみ。

 夜は東海音声表現研究会の例会に出席。先日の食事会の時、ディンディンがエプロンの忘れ物をしたので、女性会館で待ち合わせて届ける。姫ちゃんも姫ちゃんの妹さんも来ていて、そこへがま口の会員さんで研究会にも参加しているUさん、そして、今日から新しく参加する、やはりがま口会員のSさんも現われて、美女達に囲まれたディンディンは照れていました。

 今日のテーマはやはり「群読」でしたが、レポーターは「劇団うりんこ」のいのこさん。北原白秋の「祭り」の群読のワークショップをやった時のことや、高校で群読を指導した時のことを話してくれました。プロの劇団員の視点からの話は、ドキッとさせられる事も多く、今日は本当に勉強になりました。みこしを担ぐのは大人か子供か。何人で担ぐのか、どれくらいの道幅を担いでいくのか、道は砂利か舗装か・・・次々と出される問いかけで、言葉のイメージが様々に膨らむ。問いかけることと育てることは大いに関係がある。
 
 私は「祭り」は発声練習として何万回朗読してるかわからない。でも、40年間、この詩についてはリズムの事しか考えた事がなかったのです。今日の参加者の14〜5人で一行ずつ読み回したら、まーあ、面白い事!皆個性派ぞろいだから、壊すことしか考えていない。わっしょいわっしょいだけでもものすごい迫力で、「違う」こと、「合わないこと」の素晴らしさを納得したのでした。

2005年10月5日(水)  

午前中翻訳された日本語の日本語訳(笑)。午後訴訟の会の便り発送準備に・・・学生センターの部屋に入るや否や、わあわあわあわあわあ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!30分ほど椅子に座るタイミングもないほどに女性3人が話しまくりました。一昨日のビラ配りの時に、Kさんから「坂東さんに会ってほしい人がいるの」って言われて、「いいですよ」と承諾していたものの、まさか、こんなに早く、今日、突然、学生センターで会うとは、ついぞ思わなかったのでした。
 
 彼女はハルピン出身の留学生Tさん。英語が堪能で(日本語も通訳できる程の力)将来は国連で平和のために働きたいという夢を持っています。たまたまKさんから、父の書いた本を貰い、Tさんの父親の出身地の東北の事が書かれていて、もーうびっくりして、私に会いたくなったのだそうです。ところで、日本人のKさんのお父さんは戦死されていて、私とは同じ想いで訴訟の会のスタッフになっているのです。今日も話しながら、Kさんは何度も涙ぐんでいました。

 毎日新聞のスクラップのボランティアを引き受けてくれたゆったり工房へNさんと行ってから、帰宅するやいなや、電話のベル。可愛いお嬢さんの声で「本が買いたくてインターネットで調べたら、この電話番号に行き着きました」ですって。傍らにはお祖父ちゃまがいらっしゃる気配で、孫との暖かい関係が伺われる話し振り。お祖父ちゃまが、今日、本屋で探したけど見つからなかったということでした。

 「祖父も歩兵第六連隊だったそうです」「戦地はどちらですか?」「ばひょうだと言ってます」「マーピンでしょうか」「はい!」「・・・・! 」。86歳だそうです。私の父と同じ駐屯地で、よくぞ生き残って下さった事。感動の日でした。夕方の最終取集時間に間に合うよう、私は本を掴んでポストに突進したのでした。

2005年10月6日(木)  

翻訳をしていると、自分の日本語の語彙の少なさと、覚えていたはずの日本語がでてこないのに愕然とします。歳のせいかと思うのだけど、姫も同じ事を言うので、2人で深刻に「情けないねー」。姫も中国語の諺なんかがパッと浮かばなくて仕事がとまってしまうんですって。お互いに、翻訳というのは、自分の国の言葉が分かってないとできないねーと、当然の理に行き着いております。

 昨日投函した本が届いたとメールで連絡がありました。父の本名をちょっとだけ書き添えておいたら、何ということでしょう!お祖父様は、戦地での父を知っていて、話しをした事もあったのだそうです。私の旧姓(父の苗字)はとても珍しいので、すぐに分かる人には分かるという特性があります。鳥肌がたつ思いでした。

2005年10月7日(金)  

家族の一人の出張出国フライトが10時30分。ヤンの両親の長春からの直行便到達が12時30分。ヤンの出張帰国到達が14時30分。本日1日に、めったにない事がセントレア空港でありまして、家族はほっといて、やっぱりヤンの両親を姫と迎えに行きました。

 ヤンを待つまで、ちょうどいいから空港の、海を見ながらの銭湯に入ろうと、姫と化粧道具もしっかり持って出かけたけれど、ヤンのマーマが「着替えがすぐ出ないからいい」と遠慮され、初体験かないませんでした。

 ヤンのパーパは20年ほど前に大阪と広島、東京に来た事があります。英語は少し話せますが、日本語は全くダメ。日本でラーメン屋に入ったけれど、一杯では足りず、「もう1杯下さい」という事がいえないので、外へ出て、ラーメン屋を又探して、そこでラーメンをもう1杯食べたのだそうです。中国の人から見ると、日本人の食事は小鳥の餌のようらしい・・・。それで皆で空港のラーメンを食べました。マーマはとても小食で、(たぶん犠牲心からの習慣だと思うけれど)ラーメンのチャーシューもポーンと私のラーメンに入れてくれます。

 長春のヤンの家に1ヵ月居候した時、小さな丸いテーブルにギュンギュンに皆が集まって、賑やかに食事をしていた日々を思い出しました。皆が私のご飯の茶碗にポンポンおかずを放りこんでくれるのです。強烈なカルチャーショックでした。今日は何だか中国人の家族になったような懐かしさが蘇りました。。

 

2005年10月8日(土)  

山梨の訴訟の東京高裁の判決を読む。虚しく悔しい時間。

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裁判官忌避の申立却下決定に対する抗告事件決定
主文 略 理由の1略 理由の2〜〜略〜〜〜

 〜〜証人などの採否については、あくまでも双方当事者の最終的な意見を確認した上で決定するとの前提であったことが認められる。そして、証人などの採否や、口頭弁論の終結は、本来、裁判所の専権である訴訟指揮権に属する事柄であり、裁判所が不必要と判断した証拠調べを実施すべきでない事は言うまでもないところであるから、その結果、裁判所が直ちに弁論を終結して、判決言渡期日を指定したとしても、訴訟指揮権の行使として、何ら「裁判の公正を妨げるべき事情」があるという事はできない。
 又、抗告人らの主張に照らして、更に検討してみても、本件訴訟の担当裁判官らが、司法権の独立を害する介入、圧力に屈した可能性がある事情は何らうかがわれず、他に、担当裁判官らに、「裁判の公正を妨げるべき事情」をうかがわせる事情も認められない。

理由の3  よって本件抗告は、いずれも理由がないから、これを棄却することとし、主文の通り決定する。
 17年10月4日  東京高等裁判所第7民事部 裁判長裁判官   横山匡輝
                       〜〜〜略〜〜
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明日、この文書の名古屋弁訳をしようと思いました。本日は例の日本語の日本語訳でひねもすよもすがらで、腹を立てる時間ももったいない・・・が、やっぱり、人間の書いたものに思えないので、ポカーンとしてしまいました。日本はこんな国。

2005年10月9日(日)  

 パキスタンの地震の犠牲者の多さに息を呑みます。合掌。
 歩兵第六連隊史を調べていたら、出征した馬にも、全て名前が付いている事に気がつきました。日本馬には英星とか海勇とか・・・中国馬には双久とか大富など・・・。皆、地球で生きている同じ命なんだなあと思ったのでした。ひょっとしたら、数えられた事の無い犬や猫や虫も。

 さて、今日も一日中、日日翻訳作業。もう何曜日かも忘れてしまいました。ちょっと気分転換に、昨日の文章の名古屋語訳。

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 証人を採用するかせんかは、ぜったゃあ、両方の原告と被告が、さゃぁーごまでトコトン話し合ってから決定するいうことが、前提だったって事はちゃんと分かっとるよ。
 そんで、証人を採用したり、せなんだりっていう事や、「口頭弁論が終わってまったよー」って言う事は、だゃあたゃあ、さゃあばんじょの専門の権利の訴訟を、音楽みたゃあに指揮棒ふってやる事柄だでね、指揮者がやりたゃあようにやりゃ、ええでしょ?私んたちの権利だでね。

 偉ゃあさゃあばんじょが、「まあ、そんなもんいらん!」って判断したら、証拠調べなんかやらんでもええって事は分かりきっとるがね。ほんだもんで、その結果で、さゃぁばんじょが、すん、弁論を終わらせて、「判決を言うよー」って日を決めて言っても、訴訟の指揮者をやる権利を使っただけだがね。「さゃぁばんを公正にやらないかんのに、じゃまする、何ぞかの理由」があったいう事は言えんよ。

 そんで、検討してみたけどね、この訴訟を担当したさゃぁばん官達が、司法の権利が、ちゃんと独立しとるのに、邪魔者にいじめられるで、おそががって、「まあ、さっさと、はやーとこさゃぁばんを止めよかね」って言ったかも知れんって事はにゃーよ。にゃーでかんて。 
 ほんだで、この原告達の抗議の理由はなーんもにゃーってこったでね。ほんだで、これは、まあ、終わり!
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難しい言葉を、難しい言い回しで使わないと、賢い人達のやる事に見えんらしい。

2005年10月10日(月)  

ふーーーーーーーーーーーーーっ終わったあ!やっと、まだ一冊だけど、姫+弘美の翻訳。寝食を忘れないで、怠け怠けでようまあ辿り着いたワイ!

 恐怖の母から電話がしょっちゅうかかります。やれ、「野菜を取りに来い」やれ、「年賀状を買って印刷して欲しい」やれ、「夏物のいらない服をやるからとりにこい」やれ、「押入れの布団を片付けて欲しい」「掃除がやりたくないからやって欲しい」・・「いそがしいもん」と言えば、「何が忙しいのお」とブツブツ、暇そうに言えば「ブラブラしとったらいかん」とノタマウ。母よ。親というものは、もう子供を支配できないと思うべきなのである。いったいあなたの子供はいくつになったのじゃ。

 CDRの件で、本日粟津へ行く予定が、連絡の手違いで中止。でも、朗読のやり直しも今度は大丈夫。最終原稿が本日決定。やれやれが重なった嬉しい日になりました。

 夕方、先日会ったばかりの留学生のTさんが、下宿先のKさんちで餃子を作ったから、私に食べさせたいとて、Kさんの運転で、一緒に餃子を届けてくれました。ハルピンの餃子は、トマトや卵の餃子も、セロリのもあります。中国で餃子と言えば水餃子。日本のような焼く餃子はほとんどありません。ご飯の代わりの主食の地位にある、立派な餃子で、おなかがポンポン。有難う、TさんとKさん。

2005年10月11日(火)  

昨日、母の悪口を書いたら、とても悪い夢を見たので反省。多分母の口が動かなくなったら、「どうして、いつもの恐怖のコメント集を言わないの!」って泣くだろうなって思います。幸せすぎます。

 翻訳の全体をもう一度点検して、送信。一冊分の文字が瞬時に東京へ届いてしまう不思議。それで、突然明日、東京に行くことにしました。前々からの計画であれば、あれこれ友人知人にも連絡をとるのだけど、いつも突然で・・・。誰かれに迷惑をかけるのも良くないので、静かに出かけます。

 訴訟の会の会報の発送作業が始まって、皆、学生センターに詰めています。何か、申し訳ないのだけど、やっぱり仕事をする事にします。

2005年10月13日(木)  

その@ 

 まず、昨日の日記から。結局昨日は新幹線の終電車に間に合わなくなって、今朝6時20分の東京発のぞみで帰名しました。

 昼有楽町で燕とWさんと会食。北京から1年間の留学に東京に来た燕と、北京へ赴任する友人の3人で若干の連絡を含めた歓送迎ランチ。皆忙しくて、会って1時間もしない内に解散。夜、編集者と会う前の時間をG放送の同窓生?WさんとMさんが、突然にも関わらず、早朝、連絡を取り合って、仕事の合間を縫って時間を分担しあって私のお守りをしてくれました。感謝!がま口日記をしっかりチェックしている2人、その対処の早さにびっくりしました。そして変わらぬ友情にも感謝!ありがとう。いっばい語り合っても尽きぬ程久々の再会。

 夜、燕と再び合流して編集者のSさんの事務所へ。C出版社の社長さんも待っていて下さいました。翻訳したもの、来年に出版されるとのこと。まさか私が翻訳者として名前が載る本が出るなんて!信じられません。姫ちゃんの名前も出ます。姫ちゃんもきっと恥ずかしいと思うでしょう。私たちは2人で一人分の翻訳者なのです。何か、申し訳ない感じ。

 出版界は今、とても大変で、以前S出版社は50万部売った本があるそうですが、なかなかそんな事はないそうで、とても大変そうでした。私が頼まれた3冊は、中国の情報を受けて、燕ちゃんに依頼して入手してもらって、日本に送って貰った経緯があるので、燕ちゃんも一緒に会食という事になったのでした。

 4人で明治大学の傍のもんじゅ焼きのお店に入って、それはまあまあ、賑やかな(燕の笑い声が大きくて、話が可笑しい故・・・)会食になったのでした。ふと時計を見ると10時半を回って・・・あやや・・・新幹線乗れまへんがな。燕の寮は友人知人の宿泊禁止とか。どっかホテルへと思ったら、Sさんが、「僕はもう帰りますから、徹夜の時に使う布団で良かったら、泊まっていって下さい」と。感謝!編集室の本本本本本の隙間の通路に布団を敷いていただいて、ころりと寝たのでした。私は一分あれば寝息をたてて眠ってしまう特技あり。エキサイティングな東京でした。

2005年10月13日(木)  

そのA

 午後3時過ぎに学生センターに駆けつけたら、もう何と7〜8人いらしていて、バンバン封筒をセットしたり糊付けしたり発送の仕事をしていました。何より驚いたのは、がま口塾のMさんが手伝いの中に入っていた事。ボランティアのテーマで、興味を示してくれていたので、葉書を出しておいたら、彼は本当に参加してくれたのでした。人の輪の中に入るのも、彼の病気のリハビリになるとの事、皆とワイワイ世界情勢を話しながらの作業、楽しい時間であった事、祈るのみ。感謝。

 そう言えば昨日の新幹線の中で、国勢調査を受けました。国土交通省の若い職員2人が皆に紙とボールペンを配って、移動状況の調査をしていました。仕事は本当に様々。

2005年10月15日(土)  

昨日の日記シリーズ(笑)
 その@
 家庭環境整備日と朝、緊急閣議決定(掃除大臣のみの閣議)。まず衣服整理。恐怖の母が「夏物をやる」と言ったなぁとイマイマシクナル。つくづく物の多さに呆れました。欲望のままに、用もないのに期待(着たい)だけで不要な衣服を買い集め、体が膨らんだり萎んだり。もうこれからは死ぬまで衣服は絶対買わない(と、毎年衣替えの季節に思う)ぞ。シンプルイズベスト。

 夜、訴訟の会のスタッフ会議。内田裁判長への裁判長回避請求の署名をしていますが、原告がこういう署名活動をするのは裁判闘争史上前代未聞とか。静岡でイラク派遣差止め請求の第5回法廷があって、Nさんから参加報告。結審にはならなかったという嬉しいニュースでホッとしましたが、Nさん曰く「裁判官の顔が内田と違うもん。普通の裁判官達が普通に仕事やっとるって顔だわ。提出したファルージャの証拠CDVも、ちゃんと別室で見るって言ったよ。ほんなもん当たり前っちゃ当たり前だけどね」。

 公正な裁判をして欲しいのです。私達は。新聞社の世論調査だと77%の国民が自衛隊の派遣に反対してるって言うのに、この国のマスコミは、1人の韓国スターの来日記者会見には400人の報道陣が押し寄せるのに、5300人が裁判の原告となり、800人の弁護団がサポートしているイラク派兵問題には、群がってくれないのです。

 17日から1週間連続で毎日地裁前と栄で抗議活動が始まります。18日(火)には夜6時半から第一法律事務所で、アメリカのナショナルロイヤードギルド、ハイケン弁護士の講演会をします。イラクへ行くのを拒否する兵士の法的サポート活動について聞けます。拒否する兵隊が増えているそうです。皆さん大勢の参加を呼びかけ中。なかなか通訳が決まらず、最後の手段で池住さんがする事に。なんでこういう素敵な人が知事選で負けたのかしら。 

2005年10月15日(土)  

そのA
  家庭環境整備第二日と、又、緊急閣議決定(家庭環境大臣のみの閣議)。My書斎の建設。恐怖の母が「押入れの中、片付けに来て」と言ったなぁとイマイマシクナル。マタマタ本の多さに呆れました。読みもしないのに、『いつか読む日が来るだろう』と買ってあるだけの本本本本本!自分の欲望の深さと無知に愕然とします。シンプル・イズ・ベスト!但し頭の中以外の話。

 明日は大変な日になるので、とにかく表面だけザーーッの偽大臣。「改革!」と叫ぶ私の姿は勇ましく自分でも自分に惚れ惚れするけど、本当にきちんと考えた書斎の自由化は難しい。

2005年10月16日(日)  

10時に東別院へヤンのパーパ、マーマとディンディンを迎えに行く。何故とならば、ヤンは姫を眠気覚ましに助手席に乗せて東京出張。朝4時に出発したそうで、本日は我が家がバトンタッチになったのです。

 パーパ、日本の地下鉄初体験。自動改札の切符の入れ方、とり方からオロオロ。しかし、しっかり路線案内図を確認、乗り換え駅も頭に入れ、今度は自分達だけで来られると胸を張る。さすが「男子漢」(中国男子)。

 通訳のY駆けつける。彼に話し相手になって貰っている内に昼食を制作。Yは2年3ヶ月程の留学時代、我が子のように可愛がって頂き、帰国後初めての再会です。Yの弟Dも加わって、6人の昼食。

YDの父親Sも赴任先から帰って合流。ディンディン。パーパ、マーマ、SYHで東山へ。スカイタワーと動物園で一日過ごしました。ディンデイン1人に5人の大人が金魚の糞。まさに小皇帝とはこのことです。
 夜Y+Yも加わって中華料理店で会食。パーパはハルピンよりもっと北の生まれ。真冬は零下44度ほどにもなったそうです。それでも暖かいオーバーがあったわけでなく、粗衣粗食で皆生き抜いていたと大きく笑うパーパ。白菜などはトラックで売りに来るのを買ってキムチ等いっぱい作ったけれど、今は1年中マーケットで売っているので、自分では作らなくなった人が多いそうです。

 私はこういう話を聞くのが大好きです。時代は本当に大きく変わったのだと実感する会話が多々ありました。今度はパーパに水餃子を作っていただく約束をして楽しい1日を終えました。
 

2005年10月17日(月)  

昨日流れたスタッフメーリングが2つ。1つは訴訟の会代表の池住さんの東京在住の父様が逝去された事。連続抗議行動に入った途端の事、朝夕の地裁前や栄の街宣は何とかなるとしても、明日18日のアメリカからの弁護士の通訳はどうなるんだ?誰もが思ったのでしたが、ご本人は毎日東京と名古屋を往復するとメール。もうたまげました。本当にすご過ぎる話です。

 と、思っていたら2つ目のメール。今日17日の夜の「緊急報告と抗議集会」に聴覚障害者が参加されるので、要約筆記を緊急募集とのこと。初めてのことでできるかどうか分からないけど、事態が大変な状況なので、今朝、名乗りをあげました。さーあ大変。もう仕事どころでなくなり、資料の復習!

YWCAでの集会は雨も降って少人数になってしまいましたが、田巻弁護士と川口弁護士の内田裁判長に対する「忌避」と「回避」の話と経緯の説明に続いて内川弁護団長の説明。会場との質疑応答。全く休む間もなくパソコンで筆記したのでした。だいたいこういう筆記は手話のようにちゃんと訓練を受けた人がやるのです。

 開始前に「不戦へのネットワ−ク」の水田洋代表(名古屋大学名誉教授)の、小泉首相の靖国参拝に対する緊急抗議声明を配布した人があって、聴覚障害のOさん「僕は大学でこの先生の授業を受けたことあります」「えっ?名古屋大学のご卒業ですか。どんなお仕事をされていたのですか?」「NECで、こういうパソコンの営業をやっていまして、大病で高熱が続いてから聞こえなくなったのです」・・・。始まる前にこれだけのプレッシャーを受けて、1時間半。無我夢中でした。途中で変換を間違えると、指で指摘されるし、声を出されたり、相槌を求められたりして、まあドキドキ物でした。

 終わって笑顔で去って行かれた途端、足がガタガタ震えだしました。人生で足が震えたのは、今日が2回目でした。1回目は、服部君射殺事件を朝、テレビのニュースで見た時。
 
 初めてパソコンに触ったのは北京です。スタジオで録音するのも編集するのもパソコンができなきゃ、お話になりません。ある日、燕ちゃんに「協力はするけれど、それくらいは自分でやってからにしてください」と言われて一晩泣いて、それから日曜日や深夜の皆がスタジオを使わない時間に懸命に覚えて、どうにか、自分ひとりで番組は録音・編集できるようになったのでした。だから、パソコンの基礎が自己流でめちゃくちゃ。悲しいくらいです。

 燕ちゃんが、あの時、ああ言ってくれなかったら、私はきっとパソコンができないままの人だったと思います。卑怯に逃げて辻褄を合わせる人間になっていたと思います。そして、燕ちゃんと今日に至るまでの信頼関係は絶対結べなかったはず。

 今日の仕事も、多分、本当に恥ずかしい内容だったと思います。でも、発展途上の弘美なのだから、許して欲しいです。

2005年10月18日(火)  

「米・ナショナル・ロイヤーズ・ギルド」のハイケン弁護士と、一緒に兵士のためのホットラインの活動をされている奥さんの講演会が第一法律事務所でありました。30人に満たないほどのこじんまりした集会でしたが、通訳がやっぱり大変でした。

 結局、又東京から戻って夕方の地裁前の抗議活動をしてすぐ会場に来た池住さんと、最初から、駅へお迎えに行って、司会をするだけのつもりで、全く通訳なんて考えてもいなかった、事務局の若いOさんの2人で通訳をしました。Oさん、「皆の前で恥をかいて、私は当分社会復帰できないわ」って言ってたけど、もーーーーう、ものすごーくよく分かる。その気持ち。昨日の私ジャン。でも、池住さん、そうとうシンドそうで心配。東京での父親のお葬式?の日の夜に名古屋で集会の通訳なんて・・・。お2人とも本当にお疲れ様!

今のアメリカでイラク戦争を支持している人は30%。民主的法律家団体ナショナル・ロイヤーズ・ギルドはベトナム戦争当時からGIホットライン(兵士が兵役拒否などの悩みを相談できる窓口)を開設しています。2003年には3万件、04年には、3万2千件、05年は、1ヶ月に3千件、電話がかかっている。劣化ウラン弾による後遺症は数年後に顕著になるので、今はPTSDで悩んでいる人からの電話が多い。ベトナム戦争の時は兵士の20人に1人が子供を殺した現場に関わっていたが、イラクでは兵士10人に1人が子供を殺した現場に関わっている。等々。精神的におかしくなって当たり前でしょう。

 兵士募集がとても困難になっているそうで、ブッシュは「ストップ・ロス!」と言って
1人残らず軍隊に入れろとばかりに高校で勧誘活動をしているそうです。軍隊は学校に入れるが、平和活動家は絶対学校に入れさせないとか。そしてミリタリーポリスの組織が着々と進められているようです。

 アメリカには「正義と平和のための統一」と「アンサー」という大きな市民運動のグループがあるそうですが、どうも一枚岩ではないらしい。ベトナム戦争の時も「エンド・ザ・ウォー」と「北ベトナムに勝利を」という2つの大きな市民平和団体があったそうで、ハイケン弁護士は、これは1つになるためのプロセスであると、希望的な発言を繰り返されていました。アフリカにある諺を引用して「2頭の象が戦えば、被害を受けるのは地面だ」と。
 
 「裁判に負けたとしても意義はあるのだ」と言う言葉にも希望を込めていたように思いました。皆に何が大切かと言うこと、何が行われているかという、真実を知らしめたという意義だと。9条を守ろうという多くの日本人に敬意を表しているというエールも貰いました。

 2日も続くと、さすがにきつい。朝夕の抗議活動をサボっている私の言えることではないけど・・・。平和な政治が欲しいです。建設的な時間が欲しいです。

2005年10月19日(水)  

免許証の書き換え。50CCですから、書く程の事もありません。5年間無事故(1度も乗っていないので、事故を起こすほうが不思議)。ショックだったのは、視力が0.2と0.3だった事。本当に近頃目が弱りました。5年間使うんだから若く写ろうと必死に頑張ったけど、それなりの写真がベターッ。あーあ。

 CDRの朗読+ギターの本番収録。こっちも必死。何せ、のりおさんの朝からのスケジュールが、90分授業を音大で5時間やって、スタジオに戻って2人レッスンやって、そして、私の録音を入れ込んでるのですから!オペレーターさんにも無理を言いました。おかげさまで、今日中に帰宅できました。ありがとう。Nさん、Gさん。あ、ルベンにも会ってびっくり。時々のりおさんのスタジオで、パーカッションも教えてるそうです。

 22日に第8次イラク復興支援群第1陣が陸上自衛隊北熊本駐屯地より出発するそうです。訴訟の会の連続抗議行動には参加できず。皆は頑張っています。○○の方も頑張っていて、サイトを見ると、「当日は民族派団体による活動も予定されていますが、ぜひ一般の皆様も見送りにご参加下さい。」。 ○○って民族派って言うんですね。私は地球派です。

 

2005年10月20日(木)  

会員Hさんが住職をしている津島の吉祥寺のリフォームの話題が中日新聞の県内版に大きく載りました。大見出しは「古寺再生引き受けます」小見出しが「米の建築家津島で挑戦」「吉祥寺約200年前の本堂リフォーム」「年内完成目指す/手伝いも歓迎」。

 吉祥寺は1608年以前の創建ですって。それをニューヨーク出身でマサチューセッツ工科大学大学院建築学科を出て京都で伝統建築を学んで、現在京大や関西大学でも教鞭とっているという大変多忙なジェフェリーさんが、初めてお寺の改築に挑むと言う訳です。

 Hさんによると、京都から大工さんとジェフェリーさんが泊り込みで来ているので、おさんどんやらお風呂やらと色々気配りをしているみたいです。埃マルケになりながら、とってもよく働く方だそうで、彼女も生き生きと埃マルケで手伝っていて、私も嬉しくなってしまいました。

 欲張ってもう一つ。こっちはネットの情報。CRIで同僚(先輩と呼ぶべき方ですが)だったYさん、最近退職して人民日報など、色々な翻訳の仕事をしています。昨日は人民日報の日本語の電子版で、YSの署名入りで、首相の靖国参拝のニュースの翻訳をしました。昨日はトップニュースで日本の新聞にも引用されていました。宗教的な裏づけの調べ物で、翻訳に3時間かけたそうですが、トップニュースで自分の訳した記事がネットに載れば、ほんとに感激でしょう。とても生き生きと報告してくれて、私も感激しました。

 「翻訳は、本当にその背景にあることをどれだけ知っているかが、問われる。言語を中国語に訳しても、それが日本語ではどんな概念で説明できるか、中国独自のものならば、どんなことなのか、など、単に言葉を置き換えるだけでないのが、辛いところ」って。あーあ。こういう人が本物の翻訳者です。ニュースの翻訳は日々、たゆまず猛勉強していないとできないですね。尊敬。

 私、恥ずかしくて、本の日本語翻訳を日本語に翻訳してるなんて、彼女に言えません。黙ってよっと。しょぼん。

2005年10月21日(金)  

けっこう落ち込むので、良くない話は書きたくないのですが、今日の話は何か落ち込むのも情けないので、笑って書いてみます。

 公の機関が、シリーズの講演会を計画して、講師の人選をしていて、「平和」がテーマなので、父の本を読んでくださったと思われる(私が全く存じ上げない)方たちが複数、私の名を上げていたそうです。
 しかし、「ネットで検索したら、イラク派兵反対で名前がいっぱい出てござるでかんて、上から通達が来たわ」という、責任者の発言があって、私は蹴飛ばされたそうです。

 本当に上からあったかどうかは分からないけど、完璧な思想差別。戦争の話はしてほしいけど、イラクの話はしていかんということでしょうね。ましてや裁判やってるような、政府にたてつく奴に平和を語ってもらっては困るってことでしょうね。

 私も、この公の機関に対して税金を払っているんだけどなあ。市民だもん・・・。私ってそんなに危険思想の持ち主なの?私から言わせたら、真実を知ろうとしない、自分の意見を持たない日和見主義者ほど危険思想の人はないのだけど。ぶれないで生きていたいと改めて思った日でした。

 思えば、戦時中、そうやって殺されていった、良心の人々が山ほどいたのだなあ。私は蹴飛ばされただけですみました。感謝。

2005年10月22日(土)  

調べ物で天白図書館に行く時、いつも植田川と天白川を渡ります。御幸山や音聞山の散歩も大好きですが、落ち込んだ時は広い景色に身をおくのが何よりです。コスモスが風に揺れ、夕焼けがえも言われぬ美しい輝きを放ち、光が心にさしてくるのではと思うほど。「私」も「光」も自然だと思えます。

 がま口弘美の日記を読んでくださっている方たちからも慰めの言葉をもらいました。東京のR君の高校では、国語で、自分が読んだ本を順番に紹介していくという授業をしているそうです。3年生でも何のその、R君は半年くらいずーっと自分の番が来る日を待っていて、ついに今日、その発表をしたそうです。

 若い人たちにぜひぜひ読んでほしいと願って出版した本を、こうしてみんなの心から心へ伝えてもらって、どんなに慰められることでしょう!感謝。立ちなおろーっと。

2005年10月23日(日)  

CDRの台本を今日中に宅急便で出して、明日の朝M社につくようにとグータラなりに机にかじりついて、朝も夜もなく・・・今日は日曜日だし・・・と何もかもうっちゃって無我夢中で写真の切り貼り作業やキャプション貼りをしていたら、9時過ぎに「ピンポーン」「?」「排水管の清掃デース」「ギャアーッ!」。この1週間ロクスッポ掃除もしていない家に、3人の男性に入って頂き、一番掃除をサボっている食器が山になったままの台所やお風呂、洗面の排水管をみてもらったのでした。あーあ、めでたし。

 ギリギリに宅急便は間に合わせ、後はM社へ出かけて、最終検討。台本を北京へ郵送する段取りにしています。試作品への道程はまだまだ遠し。

 中国政府は言葉では激しく日本に抗議したけれと、デモを最小に抑えたという総括報道あり。今日、日中韓のテレビ番組制作者や記者が東京に集まって、お互いの理解を深めるための会議をしたそうです。今後とも定期的に行っていくとのこと。ニュースを見ていて、日中韓の言語で育っているディンディンが将来、皆の心をつなぐ仕事をしてくれるといいなと思ったのでした。ディープインパクトになる必要はない。ハルウララにもならんでいい。笑顔で生きていってくれれば。

 アメリカのおばあちゃんたちが「孫たちをイラクから返せ!」とデモ。最初からイラクへ行かせなきゃ良かったのに。ディンディン、私も元気なおばちゃんになるからね。

2005年10月24日(月)  

22日、熊本の第8師団から、イラクに向け第8次隊140人が出発しました。先日の西部方面隊、創立50周年記の車両150台のパレードにもびっくりでしたが、今回は激励の「パレード」も繁華街で行われたそうです。反対派のデモは100人。警官が1200人。派遣された自衛官は140人・・・。私たちは29日に白川公園で集会とデモをします。午後から栄を散歩したい方、ぜひいらして下さいね。

 今日も1日こもってパソコンと睨めっこ。人様が1時間でされる所をきっと私は失敗を繰り返して、1日かけてやっているのだ思います。でも、何となく何となく、すこーーーーし分かってくると、なーんだこんな事だったのか・・・って、自分のものになっていく感覚があります。苦労すればしただけ、いくつになっても喜びがあります。韓国の7歳の子の大学入学は、どうなっちゃうんでしょうね。喜びがあふれまくる人生になるのかしら。人生があまっちゃわなきゃいいけど。

 恐怖の母はあまってる。今日も「着物にしようか、洋服にしようか、選びに来て〜」と電話。12月の甥の結婚式の話。年賀状の話は先月してしまったもんね。あまり過ぎよ、人生。

 明日。粟津に1泊の出張です。「第4次打ち合わせご苦労様です」と、メールが来て、「えっ!もうそんなになるの?」とびっくり。仕事というより勉強にかぎりなく近い、恐怖の経済?活動です(笑)。寒くなってきたから暖かい格好をしてきてくださいって。あれえ、いつの間に季節が巡った?

2005年10月26日(水)  

その@ 25日の日記

 24日、内田計一裁判長を、私たちの訴訟の担当から外してもらうよう、名古屋地方裁判所に「忌避」申立て。内田裁判長の担当では、憲法第32条で保障されている、私達の公正な「裁判を受ける権利」が確保できないからです。
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住民側が全面敗訴=自衛隊イラク派遣−甲府地裁

 自衛隊のイラク派遣は違憲だとして、山梨県の住民らが国を相手に派遣差し止めな
どを求めた訴訟の判決が25日午前、甲府地裁であった。新堀亮一裁判長は「請求は個
人の義憤であり、法的保護に値する利益ではない」として、憲法判断はせず、住民側
の訴えを全面的に退けた。 札幌、東京、名古屋など全国で同様の訴訟が起こされているが、集団訴訟の判決は初めて。(時事通信)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
23日付の英デーリー・テレグラフ紙は、英国防省がイラクの大学に委託した極秘の世論調査で、イラク国民の82%が多国籍軍の駐留に強く反対しているとの結果が出た、と明らかにした。米英駐留継続に対する市民感情の悪化を示すもので、駐留継続を求めるイラク政府と国民のミゾも浮き彫りになった。
調査は今年8月にイラク全土で実施された。それによると、多国籍軍に対しては72%が信頼を置いておらず、米英部隊への攻撃を支持する人も45%にのぼった。67%が多国籍軍の駐留でむしろ安全でなくなったと感じ、駐留継続が治安回復に役立っていると答えた人は1%未満だった。 (毎日新聞 2005年10月24日 東京夕刊)

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そのA 今日の日記
 
 昨日朝一番に出て小松市立図書館で奮闘。ほぼ目的の資料を発見。ごっきげん。社長さんは今月はイギリスとアメリカと九州と出張で、今日もどっか出張とか。さあ、夜はホテルでじっくり仕事ができるぞと、パソコンを持ちこんでいたのですが、携帯電話で会長さんにゲットされ、加賀料理を「適当におなかいっぱいになるまで、何でもいいから持ってきて」と注文されて、ダイエット中の私はまたブクブク。会長さんは80歳。真面目と誠実が背広を着ていると思って間違いなしの方。2時間半、おいしい海の幸を頂きながらじっくりお話を伺ったのでした。午前中、会長さんも図書館で調べ物をされていたとか。社長を退いて10年。今も毎日出社はされますが、歴史などの研究に没頭されています。「祖先の恩は忘れるな」が目下のテーマなのです。

 今日は、やっとアルバムを何冊も細いロープで十文字に縛ったのをご自宅で見せてくださって、まーあ、あるわあるわ、私がずーっと「こんな写真がほしいのですが」と言っていた写真。『もっと早く出してほしかったのに!』という言葉をグッと飲み込んで、宝の山に感謝。80年以上も前の写真や卒業証書が出てきたら本当に心臓が高鳴ります。
 会社へ行って、いつもの応接室へ行って、初めて、周囲の額の絵や飾り物に目が行った私。あれこれ、ちゃんと意味のあるもので、全部取り込むことになって撮影。

 結局、担当のYさんと「もうちょっと早く出してくださっていたらねえ」と話していたら、Yさんのおっしゃるには、「やっぱり誠意が誠意をよぶんですよね。それが分からないうちは、そういう気持ちにならないんですね」。なーるほどと思ったのでした。心を開いて色々出して下さるには、時間がかかるって事です。私も余裕が出てきてやっと気がついた応接室のもの。前からあったのに。森羅万象、いかに私の五感が捉える事のできるものが矮小であるかを思い知ったのでした。

 ついでにもう一つ。設計開発室のS室長さんとの昼食中のとりとめのない話の中で「0.3ミリのシャープペンシルの先をコロコロ転がしながら加減して、0.1ミリの線はかけるんですよ」という職人技の話。でも、今、会社の中で、手でそういう線を書ける人はいなくなってしまったそうです。皆設計はコンピューターでやっちゃうから。

 ついでにもう一つ。会長さん「パナマ運河を渡って日本に来た船が最初に入った港は唐津ですよ。そこから加賀や福井の港に原料を運んだんです。先進県だったのですよ」。たかだか100年前は、海運の時代だったのですね。日本海側は国際都市がいっぱいだったのです。

2005年10月27日(木)  

 昨夜、日本語部の同僚だったT君から突然電話があり「あーっ!アジア音楽祭に中国のバンドつれて来るって言ってたよねー」って叫んだら「もう終わって、彼らは帰ったよ。僕は東京で遊んでるの」。そうだそうだ、毎年のコースで、福岡の実家に帰る途中、名古屋の独り暮らしのお祖母ちゃんちに必ず1泊する。それで、ついでに私の家にも来てくれるのです。

 朝早く東京を出たようで、11時前には我が家の玄関先に、でっかい海外旅行用の重いスーツケースを置いて立っている彼を見て大笑い。地下鉄をよくもまあ、上った事!御幸山をよく登ったこと!彼、にらむ。

 突然の事ゆえ、何のご馳走もできず、北京にいた頃と全く同様に、息子と食すごとく粗末な有り合わせで二人で食事をしながら話に花が咲きました。
 
 彼もCRIを退職して、今は日本のCT向けの番組を、ロケに行ったり、編集したり、インタビューしたりと、中国人の友人と作っているのだそうです。中国のロックを把握している貴重な日本人です。ドラムのファンキー末吉さんと作っている30分番組を2本、パソコンを取り出してCDRにコピーをしてくれました。ファンキーさん、北京の郊外の村に家を借りて、スタジオを作ってしまったんですって。ファンキーさんの夢はそこをロックの村にしたいんですって。美術の芸術家村みたいなのが北京にもあるので、それのロック版らしい。

 北京在住の日本人向けタウン誌は、私がいた頃は2誌だけだったのに、今や5誌もあるそうで競争が激しいそうです。ファンキーさんを含めて、夢を追い続けて暮らしている日本人たちは本当に大勢いるんですね。T君と私も「スタジオがほしいねえ・・」と、ため息をついたのでした。


 

 

2005年10月28日(金)  

申し分のない晴天。「秋」とは今日の様な日の事を言うのかも知れない。がま口塾、今日は9人の参加でした。最初から反対運動をされていた、Aさんが、海上の森を守る為に作ったポスターや、資料をいっぱい持って来て下さって、びっくりしました。もちろん初参加。もっともYOSHIの会では、一緒に活動した人です。彼の説明を聞きながら、YOSHIの会はこういう貴重な「気持ち」人たちに支えられていたのだと、改めて感謝しました。もちろん他のメンバーも、まーあ、それはそれは正直者ばかりで、爆笑爆笑。何はばかる事無く、伸び伸び話して、楽しかったです。

 夕方、グルービン・ブルーススタジオへ。先日の録音の編集ができたとの連絡を受けて、確認の為に出かけたのですが、あらためてのりおさんのギターBGMに舌を巻きました。左目で楽譜、右目で朗読文。私の朗読が終わると、きちんと曲が終わるように演奏しているのです。本番の時は、私は朗読に精一杯で、のりおさんの演奏については「朗読の終わりで終わってる」ぐらいしか感じていなかったのですが、私は小節にあわせて朗読している訳でなく、勝手に朗読しているわけで、彼は、一つ一つの項目で曲を完結させているのです。いったい彼はどういう頭の構造になっているのかしら。Gさんも編集に四苦八苦されたようで、感謝あるのみ。

 CDにして頂いてバッグに大事にしまい、本当に気が楽〜〜になった、軽やかな嬉しい帰り道でした。あと一息。困っている事は、がま口塾もCDRも両方大急ぎでしなくちゃならないという事。

2005年10月29日(土)  

とにかく優先順位は「がま口塾便り」が1位と決定。でも、これがなかなかエンジンがかかりにくい。4/3までしか仕上がらず、仕方なく集会とデモに白川公園に出かけました。本日の優先順位の2位と決めたから。

 白川公園は、青いシートに住んでいたホームレスの方達は一掃され、期限付きのシェルターに入ったそうです。公園はさっぱりと綺麗になっていました。今日の集会とデモはピースアクションとYWCAと訴訟の会の共催です。皆小雨も何のその、テントを張ったり横断幕を広げたり、太鼓や楽器を鳴らしたり、活き活きと頑張っていました。
 
 田巻弁護士のお話が最初にあり、いつもながら、若さと正義感がまぶしく、本当に美しい女性。85歳の水田洋先生も挨拶をされ、途中で司会者が傘を差し出したら、「大丈夫。私は捕虜だったから、これくらいは平気ですよ」とニコニコ。日本学士院只1人の社会思想史研究家である事は、先生の陳述で知りました。学者として、学問の実践を穏やかに凄まじく貫いておられる顔は美しい。
 私はアピール文を読むように連絡を受けていたので読む。明日死んでも悔いの無いように心を込めて朗読しました。名古屋でこんな事やってるアナさんは私だけかも。「かも」というより、はっきりしていて、「だけ」です。希少価値があって、まあよろしいでしょう。仕事は何とかなるさ。

 H工務店というニックネームがついたHさん、中学校の先生です。でっかい布(45メートル買ったそうです)を設計どおり縫い合わせたもので囲って、映写会。屋外スクリーンはド迫力でした。この人も教育界じゃ・・・・。

 新憲法草案。海外での武力行使を伴う活動にも道を開いたもの。みんなに聞きたいの。本当にこれでいいの?

2005年10月30日(日)  

便りの印刷と発送完了。海上の森を守った市民運動の皆さんに表彰状を差し上げる(僭越ながら!)ことになっていたので、作ってみたのですが、HPの表紙では小さすぎて見にくいですね。大きいのを見たい方には添付で送信しますけど。植田川の土手のススキがとっても綺麗だし、落ち葉も黄色に色づいていて、本当に宝物にしたいくらい。それで、ふっと表彰状に貼り付けて、アレンジしてみたのでした。

 

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Akiary v.0.51