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2005年11月1日(火)  

昨日の日記

いきなり夜が来た感じ。どうして昼間がなかったのかしら。電話はいくつかあったのです。

@新聞のスクラップが思いの他大変で、期限を切ってほしいという切ない電話。申し訳なく思いました。来年になったら私がやってみようか。新聞もとらないと。
A友人の友人が突然亡くなった話。辛いよね。元気だった人が頑張りすぎて、優し過ぎて、突然逝くのは。悲しみは分ければ、それでも半分になるからね。聞くだけしかできなかったけど。
B恐怖の母が今度はガス展の抽選券を郵送しなさいと言ってきました。母の妹とお婆ちゃん2人で、くじ引きの為に1日。お醤油や洗剤が1本当たればいい方なのに。お醤油一本に想いを寄せてデパート巡り。デパートとガス屋さんにとっては天使のようなお婆ちゃん達です。

 時間は大臣に選ばれてニコニコしている人にも、デパートを巡っている人にも、今日食べ物がない人にも、平等に流れています。私は家にこもってひたすら机にかじりついています。あと1週間、何とか元気に乗り切るぞ!

2005年11月1日(火)  

ギリギリまで仕事を粘ってから(残念ながらまだ終わりませぬ)、美容院へ行って、大須へプリンターのインクを買いに行って、ヤンの両親の陣中見舞いに行って、東海音声表現研究会へ。今日は主宰者のお1人、Tさんのレポートで、まだ「群読」。
 
 K市のTさんがされている朗読講座の生徒さんたちの群読。K市の市民が綴った戦時中の爆撃の体験を群読したのと、T先生の大学の教え子たちの「100万回生きた猫」の群読のビデオを見て、みんなであれこれ。
 
 どちらも、原本をどこまでアレンジするのが許されるかとか、コーラスのように捉えて練り上げていく過程の楽しさなど、みんなの個性的な意見が面白かったです。

 読み方に、読み分かちとか、読み担いとかっていう言い方があるって初めて知りました。国語教育での「群読」は、役割分担を決める話し合いから、その意味があるとも。台本の素材の取材からやったらもっと深い意味が「群読」に出てくるのではないかと思いました。みんなで気持ちを合わすと言うところが群読のすばらしいところだもの。

 ヤンのパーパは、後1週間ほどしたら何とか私も時間ができるので、一緒に遊びましょうとの提案に、にっこり。地図と地下鉄の案内図を持ってきて、今度は我が家に自力で来るのだという意欲に満ち満ちていました。「ドンビエユエンからパーシーへ行って、乗り換えてイエンフウコウで降りるのだね」。「HigashibetsuinからYagotoからshiogamaguchiですよ」と、地図も書いて来たから、きっと大丈夫。成功したらきっと嬉しいだろうな。

2005年11月2日(水)  

久しぶりにK市H小学校で授業。2限3年生3クラスの合同で「のはらうた」。3限は5年生で「共通語」。3年生は、ちょっとマンネリ化した指導になってしまったかと反省。子供たちは五十音を象さんの歌で歌うのが大好きで催促します。

 5年生は共通語の必要性はよく分かっています。「声に出して読みてゃあ名古屋弁」(二代目勤勉亭親不孝著)で導入して、アクセント辞典の「アキ」が載っているページのコピーを配って、色々発見してもらいました。秋と飽きと空きの違いを話し合ってから、飴玉を一袋買っていって、教室の天井から降らす。雨と飴。大阪や沖縄、イギリスから来た子達がいて、共通語と違う言葉を言ってもらうと、「本は読みてゃあといわずにReadと言う」とまでの意見は想定外でした。「ヌチドゥ宝」の話もできて、最後は「100人村」の本。私が名古屋弁で主な所をピックアップして読んで、皆に共通語に通訳してもらいました。

 世界の63億人を100人にしてみると、30人が子供で、70人が大人です。そのうち7人がお年寄り。17人は中国語をしゃべり、9人は英語を、8人はヒンディー語とウルドゥー語を、6人はスペイン語を、6人はロシア語を、4人はアラビア語をしゃべります。・・・日本語はちっとも出てこない・・・。

2005年11月3日(木)  

9時20分名鉄バスセンター発、美濃市行きのバスに乗るのに、運転手さんに色々聞いていたら、「料金は下りる時でいいですよ。チケットは買わなくていいんです」と、後ろから声をかけてくださった方がありました。ハンサムな40代半ばに見える方で、自分も同じバスに乗るとおっしゃる。どこへ行くのかと尋ねられたので、「コンサートに出演しますので文化会館へ・・」と、話がどんどん続き、「私の娘もピアノをやっていて」から、ヒョイと、もと中日ドラゴンズのD選手であると分かって、なんと60歳を過ぎていらしたのです。スポーツ選手だったから、いつまでも若々しいのか!

 お母様が美濃にお住まいなので、1ヶ月に1度ぐらい会いに行ってあげているとの事。昔々、タレント養成所の同期のNちゃんが、稲葉選手と結婚したので、昔話、監督や選手やテレビやラジオ番組の事でドンドン話が弾み、20分ほどの待ち時間は、アッと言うまに過ぎました。待ち合わせていたAさんとHさんは、後から来て、よく知っている友人と話していると思ったそうです。

 まのあけみコンサート。のりおさんのギターと、ピアノは18才の息子のショウタ君がバックです。さすが息のあった演奏で、本当にほほえましかったのです。ショータ君は、4歳からピアノを始めて、中学時代にジャズに目覚めて、今はダニーに師事しています。途中のインストゥルメンタルは、彼の作曲の「夜桜」で、父子演奏。とっても素敵でした。

 私は「ディケアルームにて」と「百日紅」の朗読。本当は今日、憲法の群読を鶴舞の名古屋市公会堂で、憲法の9条を守ろうという集会で、3000人の客さんの前でやるようお呼びがかかって、皆は出演したはずです。私はこっちの仕事があって体が2つほしい日でした。でも、帰りにAさんHさんと、電車の時刻にあわせて、よく保存された、町並みを駅まで散歩して、美濃和紙の里の落ち着いたたたずまいにすっかり魅せられました。良き1日でした。

2005年11月5日(土)  

笑いつつ、昨日の日記。もう題名を変えた方がいいかもね。がま口弘美の「昨日の日記」。

 午後5時ごろ「やったー!400枚の写真並べたぞー!」って、もう芸術作品を仕上げた位の気分でホーーーーッとしたのです。その30秒後、勘違いで馬鹿な事をしてしまい、オジャンに。全部消去したのではと真っ青になったのですが、幸い、ブツはとどまっていました。ただ、順番がクッチャクチャ。番号をふっていなかったので、又、最初からやり直しになってしまいました。

会員のKさんが、新聞のスクラップを引き受けてくれたのですが、先日期限を切ってほしいと泣きべそかいて電話してきたのには、訳があって、視覚障害への朗読奉仕で、漱石の「三四郎」に挑戦。長編を仕上げて校正にだしたから、ちょっと余裕ができたというので引き受けてくれたのでした。でも、それをぜーんぶ、アッという間に手違いで消去してしまったのだそうです。1日に何回も「私って馬鹿よね」って言っているって電話で、慰めようもありませんでした。それが・・・私の身の上にも起こった訳で。

 手を滑らせて、あっちのフォールダー、こっちのフォルダーに入れ込んでしまうので、トンでもないところへもぐっていたり、もーう、探し出すのにパニック。結局夜中の1時までやって再び完成。2時まプリントアウトを試みましたが、量が多いのか、失敗し、再び朝がきました。一歩も外出していません。スタッフ会議も抗議行動も何もかもパスのお許しあれ!あぁもうダメ。間に合わない。北京行きは、12月にずれ込む可能性が大になってきました。弘美パンク。

2005年11月5日(土)  

えっへん!今日の日記です。本日400枚の写真のプリントアウトに成功してから、先日録音してもらった、大正琴の演奏と朗読をイヤホーンで聴きながらリハーサル会場に走る。毎年の定期演奏会なので、音響さんもすっかり顔を覚えていて下さってます。

 肝心の私の朗読がちっとも上手くいきません。体が弱ってるんですね。頭が弱っているのです。何度も皆さんに演奏し直してもらって身を小さくしておりました。まあ、もともと小さいからいいようなものですが。ただ、演奏は生でも、メトロノームで速度を決めて、正確に進んでいくのですが、朗読は、そんなに正確に機械のようには進行せず、特に私の場合は、気分屋で、速かったり遅かったりするので、迷惑をかけるのです。
 明日の本番は上手くいきますように。3時間のぶっ通しですので、皆、気力の勝負です。

 会長のHちゃん(幼馴染)、私からの伝授で1ヵ月に4kg痩せていました。成人病予防にやらねばななかったからと、大変感謝されています。

 明日は本職の朗読と陰アナ進行で感謝されるよう、頑張ろう!そうそう、南文化小劇場から大須へ回って、明日の衣装を買いました。昔話なので、簡易着物にして、下駄もセットで買ってニンマリ。「今回はどんな衣装ですか?」って、琴の生徒さんに聞かれたけど、秘密にしてたわ。明日、皆をびっくりさせたいの。衣装で頑張っていてはしょうがないけど。

2005年11月6日(日)  

錦永会大正琴第13回定期演奏会。はーあ。大失敗。曲名を間違えたもんねえ。プロとしてあるまじきミス。すぐ自分で気がついて、曲が終わってからちゃんとフォローしたけど、ちゃんとひらがなで読みを書いているのに、自分でもどうして「最初」を「さいしょ」と間違えてしまったか、さっぱり分かりません。「はじめ」と読むのだったのです。「冬ソナ」に全く興味なし。ヨン様をハンサムと思ったことも興味もなし。大体、普段の私のこうした生活態度が、こういう音楽の仕事に融通が利かなくなるのです。常識がないと言うわけです。

 それから、もう一つ「首」を「ショウ」と読んでしまったこと。何かおかしいと感じつつ、口から出た発音が、「ショウ」。中国語の発音!!!。人は何で、普段はめったにしない間違いを、いっちばん大事な時にしでかすのでしょうか。短歌が一しょう、二しょうではおかしいですよね。しっかりライブとして録音され、私は恥ずかしくて本当に落ち込んでいます。

 会長のHちゃんも演奏で間違いが多かったそうで、とっても落ち込んでいました。

 ヤンの一家が、5人で来てくれました。マーマは「さくら変奏曲」が分かっただけで後は皆知らない曲ばかり。日本語もわからないし、ディンディンがゴソゴソするので、半分聴いて帰ったようですが、こういうレベルで大正琴と初めて出会った人もいます。

 私の朗読は着物姿だったので、珍しかったこともあり、「お母さん、カッコ良かったねえ」と、ヤンは明るく電話で笑ってくれたけど。

 まのあけみがいつも言うセリフ。「とりあえず、コンサートで私の歌を聴いて死んだ人や負傷者が出なくて、良かった良かった」・・・。私のアナウンスを聞いて死んだ人は今日はいませんでしたが、負傷者はあったかもしれない。錦永会の皆さん、とろいアナウンサーで申し訳ありませんでした。ごめんなさい。

2005年11月7日(月)  

1番初めの電話は、教え子の陳さんから。「センセエ、お誕生日オメデトー」。「まーあ、よく覚えていること!謝謝!今度は絶対会いに行くからね」。成田空港の入管で頑張って働いているようです。なによりのプレゼント。

 次は毎年のYちゃんからの宅急便。ありがとーう。もーう、ザックザックと贈り物。冬の誕生日プレゼントはお金がかかって申し訳ないです。Yちゃんは夏の誕生日なので、私いつもTシャツ程度なのに。申し訳ない!感謝!

 次は高校時代の友人から。この人も恒例の声のプレゼント。免許証の書き換えはいいかってっ、毎年かけてくれます。やっとインターネットが見られるようになったと言っていたので、「じゃ、私の日記に書いとくね」と約束しました。Nちゃん、ちゃんと書いたよ。ありがとう!元気出ましたよ。

 次はメールでフランスの詩。

Chere Hiromi

Nous ne mentionnerons pas l'age.
Le plus important, c'est a quel point
nous sommes resplendissantes.
Je leve mon verre de loin en pensant a toi.

年齢の事を言うのはやめましょう。
大切なのは今どれくらい輝いているかです。
あなたを思い、遠くから乾杯!

お誕生日おめでとう!!

 夜になって毎日新聞のH記者から久々に電話があったので、まさか・・と思ったら、やっぱり別件で、団塊の世代の話題のある人を探しているので、どなたかあったら教えてくださいですって。1947〜49の3年間に生まれた人のことらしい。そうなのよね、団塊の世代。皆還暦目指してまっしぐらの時代となってしまいました。でも、輝いていれば、年齢は関係なし。明るく明るく輝きましょうぞ。

2005年11月8日(火)  

朝1時間目から4時間目までH小学校で授業。

 1限目は特殊学級で10人の児童。とにかく何をやってもいいと言われていますのでね。谷川俊太郎の「そっとうた」と「うんこ」。そっとうたは「そうっとそっと/うさぎの せなかに/ゆきふるように/・・・」で、冬のムクムクの白いハーフコートにウサギの帽子を作って持参。それに皆でティッシュペーパーで雪を作って降らせました。そうっとそうっと・・・。授業が終わったら「先生、雪持って帰っていい?」。天使のような子供たちです。

 2限目は2年生2クラス合同で「泣いた赤鬼」。歌と朗読で物語を進行させます。先日の東海音声表現研究会での、劇団うりんこのIさんの話がとても勉強になったので、ここで実践してみました。ただ、やっぱり50~60人が声を合わせて表現する時に、自然な表現をさせるというのは、至難の技で、多勢の表現に飲み込まれてしまう。日々の国語の時間の指導が1番力になっていくと思いました。

 3限目は4年生合同で「千のこわれた楽器」。やっぱり群読となると、一日だけの指導は限界があって、気持ちを分析して表現を心をこめて工夫すると言うレベルがせいぜい。全員で声を合わせると、やっぱり単調になってしまう。が、言葉に強い意思を吹き込むことは、ちゃんと覚えて表現してくれ、嬉しかったです。

 4限目は「雨ニモ負ケズ」。これも6年全員合同の群読です。玄米を持って行ったんだけど、皆給食で食べていて、よく知っていました。藁葺きの家や英語の「Strong in the rain」、賢治の手帳に書かれた実物の字、詩の後に書かれた南無法蓮華経の話、「ひでりの」の解釈が研究者によって違うという話などなど、まとめてコピーしたものを配布。今はピンとこなくても、いつかきっと『ああ、6年生の時に勉強したなあ』と思う日がきますように。体育館で舞台の両サイドの2階席(照明用の)にも児童が上って、「東ニ病気ノコドモアレバ」・・・。立体的配置にして、万博の「一粒の種」の群読が、小学校の国語の授業に確実に波及しています。

 と、言う訳で、よくもまあ今日1日過ぎたものです。教室や多目的広場、体育館から校長室に戻るのですが、その途端、次々と先生達が来週の文化祭の発表会の打ち合わせにいらっしゃって、全くの休みなし。

 いつもの給食は頂かず、そのままN市直行。来週の講演の打ち合わせ。ここは私をボイコットしません。女性9条の会が立ち上がり、父の話がさせていただけます。感謝。

2005年11月9日(水)  

先日の大正琴の会で、「今年は絶対お菓子だけは止めようね、ダイエット中だし」と言ってたのに、やっぱりいっぱいあちこちから頂いて、(ヤンまでお菓子を持ってきた!)どれも「お早めに」って書いてあって本当に弱ってしまいました。そして又誕生日だからってお菓子が贈られてきて、本当に一人では食べきれないのです。そしたら、今日、知らない間に玄関に可愛い可愛い袋に入ったお菓子のプレゼントがブラ下げられていました。心のこもった手作りのアップルパイ。日記に誕生日の事なんか書くものだから、気を遣わせてしまったのね。ごめんなさい。皆様、どうか私に食べ物は与えないでください。リバウンドし始めているのです。助けて〜〜〜〜〜。

 と、書いて、あまりに贅沢な自分が恥ずかしくなりました。

 今日は1日中ブレンバーヤルさんのCDをバックに流しながら、最後のチェックに没頭しました。世間とはパソコンでつながってるだけ・・・。訴訟の会の事務局スタッフのOさんからの情報に悲しくなりました。若い0さんも悔しいし、母親の年齢の私も悔しい。
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今日の中日新聞にも載っていましたが、イタリアのテレビ局の、在イラク米軍の一般市民に対する化学兵器(「白燐」弾)の使用に関するドキュメンタリーを見つけました。
↓↓
Fallujah - The Hidden Massacre  http://novakeo.com/?p=315 

どこかで見た映像(イサムさんの映像?)も沢山使われています。
「化学兵器を使うぞ」という指令を現場で聞いたという、米兵の証言もあります。この兵器は、外からじゃなくて、ガスを吸った人の体内(胸とか肺から)燃え出すのだそうです。彼の目の前で、大勢の女性や子どもが燃えていたそうです。
早速、米軍は、この番組の報告を否定したらしいですが・・。

これから証言はどんどん出てくるんだろうと思いますが、証言はほとんどが過去の事実。
その前に止められないんだろうか、と悔しくなります。

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人間は愚かです。

2005年11月10日(木)  

やっとやっとやっと国際特急便で材料のすべてを北京へ郵送。試作品が送られてくるのを待つばかりとなりまして候。一部のBGMを決めるのに迷いに迷って、何度も何度もCDを聴いていて、ふっと気がつくと深夜2時になっていた時には、本当にびっくりしました。10時くらいと思っていて・・・。夢中でした。

 1番辛かったのは、訴訟の会の手伝いが何もできなかったこと。会議も抗議行動も、何もかもうっちゃって、何が辛いって、その罪悪感。無責任な自己の姿。仕方がないと思ってもやっぱり辛い。皆本当に真剣に頑張っているから。そうそう「雨ニモ負ケズ」で、訴訟ガアレバツマラナイカラヤメロトイイ・・・が出てきたら、無性に腹が立ってきたり(笑)。

 ヨルダンのテロ。アンマンは池住さんと全国の弁護団の皆さんが調査に行かれた所。聞き取り調査に協力してくださった方たちは大丈夫だったかしら。U弁護士は2回も行かれて、その時の写真も色々見せていただいたけど。立派な大都会だってことでした。NGOの方たちなど、イラクとの救援のパイプはどうなっていくのかしら。こんなに多くの血を流さなくては、人間は生きていけないのだろうか。

2005年11月11日(金)  

郵便局に行く途中、八幡山の坂道で、落ち葉が音もなく落ちる瞬間を見たのです。地に付く前。あまりにも見事じゃないの!ドキッとしてしばらく木を見ていました。音もなく落ちるのを音で表現する時はどうするの?落ち葉に聞いても黙っていました。私の人生は木に例えると、今どの辺りかしら。

2005年11月12日(土)  

恐怖の母の年賀状を、去年のデータをアレンジして作る。平成十七年の直し忘れに気が付いたのが50枚印刷後。コンビニに走って小さい犬が50匹ついているシートを買ってきて、ぺたぺた十七を隠して、その横に手書きで十八。間違えたことは母に言いません。「可愛いから貼ってあげたんだよ」。何せ去年の製作者は彼女の孫(私の息子とも言いますが)で、郵便番号のところに電話番号書いてたもんね。謝りつつ言ったことは「お婆ちゃん、だーれも分からんて。分からん、分からん、大丈夫」。それに比べたら今年は良心的。

 「お歳暮です」と年賀状を渡して、懸案だった、甥の結婚式の衣装決め。もう着物を着るのは面倒になったと言うので、ありあわせの洋服を決め、コサージュ、ネックレスと帽子で誤魔化す事にそそのかす。代わりに母が着るつもりだった着物を私が着ることに。私の着物は姪が着るでしょう。

 押入れの片付けと、くれるという「服」を頂いて、また押入れに入れてきました。分からん分からん。あれで片付いたと納得してるもの。

2005年11月12日(土)  

そのA

 川口弁護士からの連絡。11日(金)、裁判所(民事5部)から忌避申立て却下になったと。来週中に即時抗告を申し立てるとのこと。この国、真剣におかしい。ああいう裁判長が肯定されるなんて、狐にばかされているとしか思えません。御伽噺。フランスの内相に関しても思うことは、断固と言い切って、聞く耳持たずに貫く人が迎えられる傾向に世界がなってきているのではととても落ち着かない。

 川口弁護士に内藤功弁護士が寄せられた言葉を、感動して何回も読んでいます。
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●最も大事なこと 
 イラク撤兵を求める全世界の運動には道理があり、必ず勝利するとの確信を持つこ
と。イラク訴訟はその全世界全国の運動の一環である。とりわけ、日本国憲法の前
文、第9条を根拠として法的に政府に迫るという点で、貴重なことを常に自覚する。
 
 必ず、イラク撤兵は実現する。その時、いくつかの訴訟が元気で、日本の裁判所で声
を挙げている闘っているという事実が大きな意味を持つ。それ自体が裁判の成果であ
り、勝利である。裁判が撤兵の一要因になたのだと言えるように闘うことだ。
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2005年11月13日(日)  

母と松坂屋へ帽子を買いに。帽子って高いんですねえ、びっくりしました。4~5万円もするのを見たら、何でこんなシワシワの小さな婆さんの頭にそんな高価なもの乗っけなきゃいけないかあ?と思ってしまいました。私、デパートで買い物をするのはめったにないのです。

 甥っ子がお祝いに時計がいいって言ったので、今度は時計売り場へ。今はもうほとんど電波時計。5年間修正の必要ないんですって。我が家のリビングの時計なんて、5年間20分進んでいて有名。がま口塾の名物になっているけど。

 母と別れて車道の大塚屋へ布を買いに。イラク訴訟でイラストや会報のデザインを担当してくれているHさんが今月26日に結婚のお祝いの会をするそうで、所望がゆったり工房のさおり織りの布で、私がコンサートで着たアオザイ風のデザイン。多才な人で、天白リバーバンドでは、沖縄のサンシンを弾いています。たまたまゆったり工房のコンサートでも顔をあわせてお互いにびっくり。シゲシゲと私を見て、こういうのが欲しい!と言ったので、布はゆったり工房からのプレゼントで私が作る約束をしたのです。ずいぶん前にゆったり工房から織り上がった布をもらっていたのに、作る時間がなかったので、もうぎりぎり。下にはくパンツの布を買ってきました。只今製作中。

 製作しながらNHKのイラク帰還兵のドキュメンタリーを見ました。アーカンソーの州兵達を追い続けたものです。ベトナム戦の時、帰国した兵士がとても暴力的になったので、帰国前に社会復帰のための期間を設けているというのが印象に残りました。どんな戦争でもそうだと思います。父もそうだったのだと、今思います。色々な影を落とす。戦争はしてはいけない。絶対に。日本は明確に憲法違反。武器や米兵をせっせと運んでいます

2005年11月14日(月)  

ただひたすらにミシンに向かう。幸せを願い、心をこめて。でも、私のようなド素人が作っていいのかしらと心配で心配で。きれいに織り上げられた燃えるようなオレンジと黄色のさ織りに、はさみをザクッと入れる時は勇気が要りました。でも、何とか完成。背の高い、足の長い人だから、麻入りの真っ白な生地のパンツとともに、きっと似合うと思います。残り布でスカーフとコサージュとバックを作っておこうかな。

 吉祥寺の住職、Hさんから明日の早朝5時45分から、NHKラジオで、この度のジェフリーさんによるお寺のリフォームについて、全国放送されるので、ぜひ聞いて!と連絡がありました。そして、取材に行った担当アナが、TTCアナウンス科で同期だったAさんだったそうでびっくり。もう久しく会ってないけど、NHKのカルチャーセンターの話し方講座の講師なんかで名前が載っていたりするので、頑張ってるなあとは思ってたけど。

 人生とは本当に面白い。グルグルと皆かつながっているんだなあ。

2005年11月15日(火)  

「幸せな生活を祈る」ということはどういうことか。皇室の慶事は、一つの家族としては微笑ましいし、当然あるべき人権が、30代半ばになって初めて与えられたことは、素晴らしい人間性の回復だと思います。


 先日の土曜日に岡山で開かれたイラク派兵差止訴訟弁護団全国連絡会議の議事録とアピール文をじっくり読みました。ながーいアピール文の要点を半分くらいにまとめると、

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自衛隊の即時撤兵を求めるアピール

私たちは、日本政府が行っている自衛隊のイラク派兵は憲法違反であるとして、派遣 の差止めを求め、全国11の地方裁判所(札幌,仙台,宇都宮,東京,静岡,甲府,名 古屋,京都,大阪,岡山,熊本)に提訴している弁護団の連絡会議である。私たちの訴訟は、全都道府県から5600名を超える原告と、800名を超える弁護士が参加し、わが憲法の平和主義をめぐる訴訟としては戦後最大規模のものとなっている。

日本政府は12月14日に期限を迎える、イラク特措法の基本計画の再度の延長をすでに事実上決定しており、憲法違反のイラク派兵をさらに継続することになる。これは、イラク派兵延長反対が7割を超えている国民世論を無視し、米英軍によるイラク占領支配を助長してさらに犠牲者を増やし、治安悪化が著しいサマワにおける自衛隊員を一層危険にさらすものであり、このような日本政府の決定に対し、私たちは怒りをこめて抗議する。

「日本政府は、航空自衛隊はなお継続して活動を行い、さらに活動拠点を拡大していくことを検討していく」とされている。すなわち、クウェートへ派兵され,イラクへの物資輸送を継続している航空自衛隊は,武装した米兵その他多国籍軍要員をも輸送しており、このことは日本政府も認めている。これは,米軍その他多国籍軍の武力行使に対する後方支援活動であり、憲法が明確に禁止する「武力の行使」にあたる。
  
 また,航空自衛隊が輸送活動を開始した2004年2月からの1年間,医療機器を運んだのは最初の1回だけである。このことは、私たちが防衛庁に対して行った情報公開請求において、最初の1回以外すべて機密情報であるとして黒塗りだったことから明らかである。航空自衛隊は、現在すでに「人道復興支援活動」は行っていないのである。 以上のような航空自衛隊がその活動をさらに継続・強化するということは、米英とともにイラク侵略戦争の実行正犯者たる性格をますます明瞭にするものである。「人道復興支援」の口実すら完全に捨て去り、「集団的自衛権」行使の要件すらも完全に無視した「武力の行使」にほかならない。

私たちは、2003年3月の開戦から10万人を超えるとされるイラク人の犠牲、2千人を超える多国籍軍兵士の犠牲に、いたたまれない思いを共通にし、平和憲法を持つ日本国民として、これ以上の戦争被害者を出さないという決意で、取り組んでいる。

自衛隊員とイラクの人々の安全のために、イラク及びその周辺地域から,航空自衛隊を含む全ての自衛隊の早期の完全な撤退を強く求めるものである。

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 私は、甥や息子のの結婚式にあたり、平和な世界であることを祈り、そのために自分ができることを静かに、きっぱりとしていきたいと思っている。

2005年11月16日(水)  

ゆったり工房Kさんと昼食デイト。私は服の完成品を手渡し、彼女は新聞のスクラップブックを。ありがたいことです。お互いに役立っているので。さおりの織りあがったのを服に仕上げる人が不足しているので、やらないかといつも誘われます。本当は大好きな事なのでやりたいのてすが、今は時間がなくできなくて残念。手を動かして何かを作っている時が1番幸せで、子供達が小さい頃、服をほとんど手作りして、同じものを双子のように着せていました。今はそれを恨まれています。迷惑だったらしい・・・。女の子のようだったのです。刺繍まで色々して(笑い)。あまり世間に迷惑かけてはいけません。走り出すと周りが見えず、夢中になる性質なので自重。

 姫ちゃんから、2冊目の翻訳をまもなく終えるので、3冊目を貸してくださればコピーしますと連絡が来てびっくり。デイトの帰りにコピー屋さんに回って、一冊分コピーしてきました。私はまだ2冊目に全く入っていないのに、姫は本当に頑張り屋さん。お互いに良きパートナーとなりつつあります。
 
 聖パウロ女子修道会発行の雑誌から1400字程の原稿依頼がありました。本当にありがたいことです。テーマは「私の隣人」。聖書の言葉の「私にとっての隣人と同時にその人にとって、私は隣人になっているだろうか」と、考えるページとか。もちろん好奇心細胞だけで体が生きている、がま口弘美、身の程もわきまえず引き受けましてござる。締め切りまで苦しむこと分かっているくせに。姫ちゃんの努力に励まされて。


2005年11月17日(木)  

朝8時半、金山駅でパーパ&マーマと待ち合わせ。ヤンが出勤前に車で送り届けてくれました。名鉄電車で知立へ。H小学校まで徒歩で20分、ゆっくり散歩しながら行きました。

 H小学校の秋の恒例行事、文化祭に誘ったのです。H小学校に行くようになって早3年。今年は先生の方から、参加者全員で群読をしてみようと提案があって、10分ほどを任されたのです。色々考えてブレンバーヤルさんの「吉祥三宝」の日本語訳を思いつき、1~6学年全員を子供役。先生、父母の全員の女性をママ、男性をパパの三つに分けて、全校あげての大群読となったのです。学校は大きなB紙3枚に詩を書いて体育館のたかーいベランダ?にぶら下げ、父母には全員コピーを渡し、私には指揮台も用意してくださって、万全の準備を整えて下さり、ただただ感謝。
 
 インタビューも試み、子供に聞いたら「楽しかった」「イマイチ」。お父さん「難しかった」お母さん「楽しかった」。最後にパーパにマイクを向けたら緊張して「很好」(とてもいい)だけ。でも、全校生で「ニイハオ!」の挨拶をしたら、ニコニコ「ニイハオ!」後から駆けつけた姫ちゃんがハラハラしていました。参加者全員での即席群読。短時間で全員で楽しめる作品というと、とっても難しいけれど、私の提案を受け入れ、全面的協力をしてくださった学校の先生がたに、本当に心から感謝しています。
 最後にブーレンさんのCD「吉祥三宝」を皆に聞いてもらいました。

 各学年とも、前回の授業で言ったことをとてもよく表現して、なかなかのものでした。感動ものなのです。舞台の背景はスクリーンにプロジェクターから色々な絵や写真が映し出され、昔の学芸会とは、全く様変わりです。群読と音楽。後ろの席のお母さん達が「すごいねえ」と言い合っていたので、私は当然とっても嬉しかった!先生達、お疲れ様!

校長室に戻って皆でおもてなしを受け、姫は給食を見学。私達は、学校の花壇の紫金草の苗を頂いて、お土産満杯で帰路につきました。金山で食事中、パーパ、マーマが退屈なので、11月末には帰国するという話を聞き、心が痛くなってしまいました。とにかく忙しくて、あまりお世話ができなかったことを申し訳なく思い、後少し、ちょっと頑張る決意。ヤンが徹夜が続く忙しさで、毎日深夜の帰宅。いくらディンディンがいても、寝てしまったら、遊べないし。

 中国では路地で皆が将棋やトランプ、マージャンをやったり、ダンスやコーラスを楽しんだり、老人が街にあふれているのに、日本では誰もいません。遊んだり話したりする友達がいないのが1番つまらないことのようです。

2005年11月18日(金)  

書類の整理など、本当にきりがなく、バタバタ。服の整理もきりがなく、ドタドタ。ちょっと油断していると、家の中はテンヤワンヤ。色々整理していて、いつかきちんとやろうと思っていることがいっぱいあることを思い出し、「死ぬに死ねないわい」とため息三つくらい。

 夜、久々に訴訟の会のスタッフ会議に出ました。「忌避」が却下されたので、即時抗告を弁護団が今日出しました。忌避というのは、原告と裁判官が親戚であったりとか、本当によほどの事がない限り認められないらしいです。裁判官を守るためにあるようなもの。訴えるものはどこまでも弱い立場に立たされるようにできている!

 今日、整理していたなんかの書類で見かけた言葉だけど、人は人の心の痛みを感じることには(なるべく感じないよう)我慢して、自分の心の痛みは我慢しないって。「うーむ」と唸った言葉でした。
 

 

2005年11月19日(土)  

 日進市で「女性9条の会」が立ち上がり、今日は第一回の集いがあって、私の父の話と81歳の方の愛知時計の空襲体験のお話がセットで記念の講演にしていただけました。会議室が満員になるほどの50人くらいの参加があり、私は中央テレビの「実話実説」に出演した時のビデオを皆さんに見ていただけ、本当に有難い事でした。テレビで写すのかと思ったら、天井にプロジェクターがセットしてあって、簡単な操作でスルスル下降した大きなスクリーンに映し出され、まーあ、すごい迫力。中日と毎日の取材があって、9条のために集った人々のことが紹介されるのは本当に大切なことと思いました。

最後に9条を名古屋弁で読むように言われ、与えられた本は、私が名古屋弁訳した出版社の本ではなかったので、ちょっと古い古いお年寄りの名古屋弁で言いにくかったのですが、自分で言うのも何ですが、非の打ち所のない名古屋弁のダャァキュゥジョゥだったと思うのに、皆、笑わずに結構しんみり聞いててくださったようです。笑うに笑えない状況が迫っているって事のようにも思いました。

 この会に招いてくれたのは、がま口塾一期の頃からの会員さんで、市会議員のSさんとGさん。同じく懐かしい会員の、隣の町のK議員も、娘さんとかけつけて、他にも3人ほど、会員さんの顔が見えました。何故かがま口の仲間の顔を見ると、私はゆったりとした気持ちになれます。分かっていてくれるという安らぎ。友達は本当にありがたい!

 明日は餃子大会。帰宅後スーパーに走って、材料を仕入れてきました。楽しみ楽しみ。
 

2005年11月20日(日)  

ゆったり工房祭りに行くのに降車のバスストップを二つも手前で間違えてしまい、30分のロス。通常ならなんとも思わないのですが、午後から餃子パーティなので、その準備が色々あって、結局けんちん汁を頂いて、五平餅を買っただけで、10分ほどの滞在で即刻帰宅。

 姫ちゃんの妹がアルバイトで中国語を教えていた、近所のKさんをお誘いしたら、Kさんが中国語を一緒に勉強しているkさんを誘っていらしたので、ディンディン入れて総勢11人のパーティ?になりました。強力粉に水を入れて練り上げながら10分寝かし、また練って10分寝かし・・これは全部約束どおりパーパの出番。ひき肉、白菜、葱、生姜など中身はヤンの仕事。姫は野菜切り。私がりんごの皮をむいていたら「お母さん!皮が厚いよ!」と姫が言うので、「嫁の姑いびりだあ!」と大騒ぎ。

 ヤンは無農薬で育った虫食いの白菜が気に入らず、わざわざ虫食いの葉っぱを除けるので、また「虫が食べている野菜が安全なのだ」と言い張る姑と論争。どうしても理解してくれないので、結論は本日は引き分け。

 皮が余って具が少なくなった時のマーマの処理方法に感嘆。円盤のように2枚の皮を合わせて中に具を入れるのです。そしてふちをとても綺麗に折りたたむ。クッキーのような形の奇妙な餃子を初めて食しました。

ヤンが、「もともと餃子は貧乏人の食べ物だ」と言う。お金持ちは白菜の外側は汚いので食べずに捨てる。それを貧乏人は捨てず、かといってそのままは食べられないので、細かく切って、しかもそれが見えないように包んで食べた生活の智恵だって。へーえ。
よく笑った1日でしたが、さすがに今日はへたばりました。

2005年11月21日(月)  

明日はがま口塾。昨日、ディンディンが指で破って行った障子の補修をしながら、皆に叱られていた彼の姿を微笑ましく思い出しました。特にオモニは厳しくて、私達に向かってしっかりお辞儀をさせて「ごめんなさい」を言わせていました。「こんどからしてはいけないよ」「はい」で、終わり。

 障子を破ってさえ、「今度からはしません」と2歳の子供が謝るのに、今度からも、しそうな日本の憲法破り。人の命は紙を貼って修理できるようなものではないのに。そんなことを思い続けた1日でした。

2005年11月22日(火)  

がま口塾。岐阜から車で2時間以上かけて来た、初参加のUさん。詩の朗読、歌、詩吟と気持ちいいくらいハキハキ上演?してくださって、挙句は絵つきの筆書きの詩もみんなが頂いて、ほーんと大喜びしました。今日が2回目のKさんが、じゃんけんに負けて司会になりました。人数が5人で、記録的に?少なかったので、どうなることかと思っていたけど、とにかく至福のひとときでした。
 只今テープ起こし中。でも、こうしている間にもメールが入って参加してくださる方があって、嬉しい嬉しい! まだまだ間に合うよ〜〜〜〜。

 がま口塾の将来の話を、終わった後の雑談でしていました。あと、1年半くらいで、私は幕を引くつもりでいます。「誰かやってくれる人がいたら、嬉しいけどな」って言ったら「私やっていいよ」って言ってくれたOさん。わーい。跡継ぎができました。でも、「テープ起こしと発送は誰かやって。家は提供するから」だって。それで、「みんなが分担してやって行こうよ!」なんて話になって。

 頼もしいがま口塾です。いつ誰が来ても来なくても楽しいのです。皆さん、本当にありがとうございます。

2005年11月23日(水)  

黙々とがま口塾便りのテープ起こしと印刷と発送準備。明日には投函できそうです。根を詰めてやったせいか、ポーッとしてしまって、今、変な状態。詩は面積をとるので、頁数が16ページになるだろうと予測はたてて、切手も90円を貼り付けていたので、その点はいいのだけれど、やっぱり分厚くなって、力仕事でした。B4を4枚重ねて封筒の大きさに折りたたむのがしんどくなっては、私ももう終わりじゃのう・・・って何だか悲しくなってしまいました。

 時々襲う悲しみや不安の正体は何だろう。あぁ、そう。北京の仕事が遅れていること。予定が立たないこと。きっと北京へ行く日が決まったら、とっても元気になると思うのだけど。あぁ、今日道路建設の環境問題で裁判をしている友人からメールをもらったから。

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 100年以上生きてきたクヌギの木が12月2日に根こそぎ取られます。
体を張ろうというのが聞こえていて裁判の日に会わせたのではないかと思います。
名古屋市は何処まで住民を愚弄し、汚いやり方をしたら気が済むのだろうか。
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市の係長が完璧に大嘘をついていたことがわかったそうです。使途不明金があることもはっきりしたのに、裁判の予定の日に市民の憩いの木を倒すのだそうです。体で木を守りたいのに、裁判は放棄できません。友達の悔しさが伝わって、悲しくなってしまいました。

2005年11月24日(木)  

朝2時間ほど使えば、皆さんに短信を添えて、ポストに便りが全部放り込めると思っていたのだけど・・・半分くらい(40人分くらいかなあ)セロテープでしっかり止め終わった頃に、ふとHさんの手紙を読み返したら、茨木のり子さんの詩が同封されたポストカードに書かれていたのを発見!いや、思い出した!さーあ、大変。さっそく90枚分をコピーしにコンビニへ。1人ずつ追加で入れ込むしかしゃーないじゃんね。

 で、道々、弘みっちゃん、又思い出した。誤植の訂正と和訳者の付け足しを。結局、全部ぎっちりと封筒に詰め込んだがま口塾便りを、又ぜーんぶ取り出して、一枚ずつ書き込みすることに。ほんと、アホです。私。茨木のり子の詩は私を笑っているかのようでした。ので、ここに貼り付けます。もちろんサイトもちゃんと訂正補充しましたが。無事今日全部投函できましたが、1日の時間がどっかへ飛んでしまった、このミスのことを、歳のせいかなあとか、色々忙しかったもんなあとかブツブツ言っていた我が心、この詩のおかげで現在静かになっております。

         自分の感受性くらい    茨木のり子

       ぱさぱさに 乾いてゆく心を
       人のせいにはするな
       みずから水やりを怠っておいて

       気難しくなってきたのを
       友人のせいにはするな
       しなやかさを失ったのはどちらなのか

       苛立つのを
       近親のせいにするな
       なにもかも下手だったのはわたくし
       
       初心消えかかるのを
       暮らしのせいにはするな
       そもそもがひよわな志にすぎなかった

       駄目なことの一切を
       時代のせいにはするな
       わずかに光る尊厳の放棄

       自分の感受性くらい
       自分で守れ
       ばかものよ

2005年11月25日(金)  

今日は思いがけない事が3つ起きました。

@先日の餃子大会に来てくださった、前に住んでいた、この家から徒歩1分の山頂のマンションのKさんから突然電話で、「アップルパイを焼いたので、Yさんもいらっしゃるから、来ませんか」とお誘いを受けたのです。御幸山に住んで20年。こんなお誘いは初めてに近いのです。いそいそとお昼にでかけ、前に住んでいたマンションの隣人のYさんとKさんの部屋へ。中国美術史が専門で、大学の非常勤講師もしているKさんは、西安やら敦煌の話で盛り上がり、Yさんは、第一期のがま口塾では、会計をしてくださってさんざんお世話になっているので、懐かしい話で山盛りのアップルパイ昼食になりました。3人でこんなに話したのは、もちろん初めてです。ほーーーーんとに楽しかった!

A帰ってから北京に電話したら、やっと話ができて、明日、試作品を特急便で送ってくれるとの事。ホントニホントニほっとしました。遅れたけれど、何とか12月に北京に行けそう!まだまだ最後まで安心はできないけれど。

B不思議に、先日依頼を受けた「隣人」がテーマの原稿を書く気が沸き起こり、父のことを思い出していて、ふと、カレンダーを見てびっくり。11月25日は父の命日だったのです。「あけぼの」は聖パウロ女子修道会の雑誌ですが、父のことを絡めて書いて欲しいとの事だったのです。父は確か、仏教の宗派のことで、母とえらく喧嘩をしていたことがあったけど、キリスト教ならいいわね。

 大体親の命日を忘れているってのが、フトドキなんでしょうけど。フトドキなりに、ちゃんと原稿を書き上げ、写真と共に送信できたのです。何にお礼を言っていいのか分かんないけど、何とはなく「ありがとう!」って言いたい日でした。

2005年11月26日(土)  

 H小6年生達に手紙をもらっていて、ずっと返事を書いていなかったので、写真入の葉書を書く。南京の紫金草の花園で撮ったの。昨日雑誌に送る写真を探していて発見した、とっても懐かしい、お気に入りの1枚を貼り付けました。年賀状にしたいくらいワ・カ・イ。ので、送っちゃったのです。詐欺かしら。見れば見るほど夢の中にいるように<花が>美しい写真です。私のお葬式に飾って欲しいくらい。いや、お葬式はいらないか・・・。

 こっそり着物と帯の練習。ナントカナリソウ。つくづくこういう文化ができたことを不思議に思います。「そういう時はこうする事に決まっとるの」と言われる度に反発してきたけれど、伝統的な事も時にはやって見たい気まぐれ。恐怖の母が「そういう着物の時はこういう帯締めにするもんだがね」と言う時、「誰がそんなこと決めたの?」とイマダニ言いたくなるのだけど。「世間に恥ずかしい」という「世間」の概念が全く違う故に「恐怖」が存在します。

 泣けてきちゃうこと一つ。あぁ!12月の日程の難しさ。ひょっとしたら北京は1月か・・・。あちこちに迷惑をかけてます。誰かが何かを遅らせると、雪崩のように予定が狂ってしまう。あぁ。

2005年11月27日(日)  

がま口塾便りが届いて2~3日すると、皆から電話がかかったりメールが来たり、手紙がきたりと、私にとって、やりがいを感じる最も心楽しい時が訪れます。

 「茨木のり子さんの詩、初めて読ませて頂きましたが真実そのもの!気持ちのいい衝撃を覚えました」とか「ぼくは12歳を久々に読んで新たなショックを受けた」とか「千の風は私も大好き」とか。「金子みすゞが出てて嬉しかった」とメールをくれたFさん、「最初に「みすず」を「みみず」と読んでいて、不思議な名前だな・・でも環境によいミミズが私は好きなので、好感を持ったのですが、私だけかな?」ですって。1人で爆笑。

 今回最後に1989年5月18日号、1周年記念にやった「金子みすゞ童謡詩コンサート」の便りの1ページ目を貼り付けたのですが、久々に読んでニヤリと笑ったものです。だって、当時彼女の名はあまり知られてなくて、「金子みすゞさんはまだいらっしゃらないんですか?」って、聞いた人がいたもんね。彼女が歌うのだと思い込んで参加されたらしい。40名近くの出席者。何度靴を数えても人数が分からなかったと書いてあるけど、どうやってそれだけの数の人があの家に入ったのか、今は、それが分かりません。

2005年11月29日(火)  

昨日の日記
 風もなく暖かそう。パーパとマーマを名古屋大学に案内しながら、学生センターで一緒にボランティアをやっていただこう!と閃きました。姫ちゃんに電話して通訳してもらったら「予定はないけど、政治的活動はヤンの立場もあるのでしたくない」という返事。ビーックリ。前に「ビラ配りを散歩がてら見に来ませんか」と誘った時も政治活動が嫌だったんだと判明。文化大革命を体験しているこの年代の人たちの、政治に対する拒否反応の強さに、あらためて驚きました。蕪湖や北京では少なからず体験していたことだけど。

 「ちっとも怖いことじゃないよ。2~3人しか来ない、部屋の中の活動だから」と伝言してもらったらOK。マーマが名大の地下鉄のホームで私を待つ間に周囲の地図を見ていたらしく「南山大学が近いですね」と言う。すっかり忘れていました。ヤンは南山大学の留学生別科に半年通ったのでした。結局名大を散歩して南山大へ行き、学生食堂で食事。それから学生センターへ行って封筒のラベル貼りを3時過ぎまで手伝ってもらいました。一緒にラベル貼りをしたKさんは中国からの留学生を何人も下宿として預かっていらっしゃるし、Nさんはかつて歴史の先生で中国は5回も訪問されているなと、作業をしながらニコニコ話も弾み、「今日は良い社会活動だった」と、パーパ。

 燕ちゃんの電光石火の按配で、夕方から北京とインターネット電話とチャットで繋がりながら、試作品を送信してもらいました。30分の1.68メガバイトを!夜中の1時に受信完了。さすがに疲労困憊。

2005年11月29日(火)  

今日の日記
 四苦八苦して、受信したCDRを開く。もともとコンピューターの基礎も応用も全くない私が、昨日はたまたま息子を運良く拉致して手伝わせたけれど、今日は自力。何とか開いて・・・頭痛。これではM社に試作品として提出できない!結局北京へ飛ぶ決意をしました。最終の仕上げでなく、その前の段階として。やっぱり傍にいてこちらの希望をきちんと言いいながらでないと、全く趣味の違ったものになってしまいます。正真正銘、赤字の活動になってきました。即、昨日問い合わせておいた4日からの飛行機のチケットを予約して料金振り込みに。そして学生センターへ。ほんのちょっとしかお手伝いできず、にぎやかしだけ。

 ものを作るって本当に難しいし、厳しい。いいかげんな仕事は絶対できない。

2005年11月30日(水)  

 身辺整理。なかなか整理できないものです。

 中日(東京)新聞の加藤中国総局長さんが書いた「ドラゴンと月亮」(北京特派員と2人のアジア妻)という本をK記者さんが送ってくださっので、北京でお会いすべく、予習の意味もこめて読了。2年半前に取材して頂いた時、離婚騒動の真っ最中だったようで、北京赴任挨拶でいきなり、そんな内容の挨拶メールを頂いて驚いたことがあるので、いきさつがよく分かり、メディアに関わる人たちの取材活動の過酷さや、無頼漢とも言える、枠にはまらない生き方がユニークな味の本です。

 南国フィリピンの娘さん(あだ名ドラゴン)と学生時代に恋に落ち、結婚。情熱的性格のドラゴンの愛が次第に重荷になりつつある時、中国の娘さん月亮(あだ名:ユエリャン)と恋に落ち、離婚と再婚という段階をふみます。その過程を両国の政治や経済、民族性を絡めて実体験として書いてあるので、なかなかの味わいです。

 何で新聞記者が、なんで2度までアジアの娘さんにひかれていったのか。大らかさや率直さというのか、民族や個性が新鮮な魅力を放ち、愛しく思うのだなあと思いました。毎晩あまりにも帰宅が遅く、休みの日も突然の出勤になったりと、本当に家庭人としては、家族はたまんないと思うのです。ドラゴンが「漁師になって。毎日一緒に暮らしたい」と訴えるところが、可笑しいやら哀しいやら。ほんと、ドラゴンの気持ちよく分かる。

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Akiary v.0.51