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2005年12月1日(木)  

身辺整理。きりがありません。転居があまりに激しかったので、色々なものがゴッチャゴチャ。又失くなっているものも。あーあ、どこかに蒸発したい!あまりに恥かき人生なので、もうそろそろ消えてもいいのではと、自分も整理したい気持ちになってきました。

 偽造文書によって建築されたマンションで、年の瀬に本当にお気の毒な方たちの涙をみると、いたたまれなくなります。

 津島市の吉祥寺のリフォームは順調に進んでいるようです。今まで100年くらい屋根裏の物置だったところが、ジェフリーさんのアイディアでかさ上げされて、立派な二階部屋ができたそうで、現れた柱を磨くと、とてもりっぱで、しかも古さを漂わす魅力的なものになるのだそうで、毎日ボランティアも含めて、皆が洗って磨いているのだそうです。愛をこめて造るのだね。

 それで、もし興味があって、ボランティアでやってくださる方があったら、1時間でも2時間でも大歓迎とのこと。私はとても出かけられません。京都住まいのアメリカ人によるお寺のリフォームに興味のある方は、ぜひご連絡を!

 

2005年12月2日(金)  

身辺整理。手紙も七ヶ所ほど一気に書いて投函。美容院へ。ついでにあれこれ買い物。掛襟などつけて着物の準備。あれこれ連絡。さて、明日は甥のどんな結婚式になるのやら。アメリカで勉強中の甥の弟も帰国して参加するので、会うのが楽しみです。皆よくもまあ大きくなったものです。うちの子でなくても感謝。

2005年12月3日(土)  

大変大変! 着物を何とか1人で着て、さあ、お姫様お出かけ!と、草履をはいて足袋の指に馴染ませようと、つま先をトントンと立てて叩いた瞬間、「パカッ」と草履は、魚の三枚おろし状態に分裂してしまったのです。すべて母のものを借りてきた私の、セコイ根性を神か仏が嘲笑ったとしか思えない悲惨な状態。

 夫は車の運転席で今や遅しと待っている。頼みの息子が「夏のサンダルをとりあえず履け」と言うので、お召しに夏のサンダルを引っ掛け、お隣と出会ったらなんと言い訳をしようと冷や冷や脱出・・・と、こんな事書いていると紙面がなくなるので、結末を。コンビニに転がり込んで(息子が)セロテープと瞬間接着剤を購入。車中で張り合わせた三枚おろし草履をテープでグルグル巻きにして・・・式場にはすまーして滑り込み、最後まで誰にも見つかりませんでした。あたりまえよねえ。今日は私の結婚式じゃないもん。誰が私の草履なんか見る?ちゃんと立ってても皆より顔の位置が低いから、顔さえアピールできへんかった。背が低いとこんなにいいことがあるのです。

 「オープンザキッチン!」って言うと、披露宴会場のスリガラスがさーっと透明になって、厨房にシェフ達がズラーリ!とか、職場や友人たちのディズニーのぬいぐるみ軍団登場や、まーあ、当世の結婚式はアイディア満載。式場の入り口にテニスのスコアボードに両家の名と数字が書いてあって、何だろうと思っていたら、テニスで結ばれ、テニスでデート、今後もテニスだけが楽しみという2人のアイディアみたい。照れっぱなしの甥でしたが、幸せそうで嬉しかったです。

 明日から北京。10日に帰ります。

2005年12月10日(土)  

回来了!北京から帰ってきました。名古屋は暑い!だって北京は零下2度とか7度の世界だったのだもの。耳が痛くなります。3日に初雪が降ったそうで、「やっと北京の冬が始まりました」とオフィスの娘さん。名古屋人とはラベルが違うね。昔は今頃はもう公園でスケート遊びをしたそうですが、今は全然氷が張っていません。川はさすがに氷っていましたが、まだまだ歩けるほどじゃありませんでした。地球温暖化は確実に急テンポで進んでいるようです。

4日(日)

 1時間到着が遅れた飛行機の、タラップを降りてバスに乗り込んだ途端「坂東さんじゃない!」の声。振り向けば、薩仁ちゃんで、私の本の出版記念会でモンゴル舞踊を披露してくれた内モンゴルのお嬢さん・・・いや、あれから日本青年と結婚して、今は新妻です。
 到着時間が遅れたので、いつもの乗り合いバスはあきらめてタクシーで行こうと考えていたら「従兄弟が迎えに来てるから、送って行くよ!」と女神のような優しい言葉。厚かましいのがとりえの私は車中、キャーキャーワアワと2人で近況報告会。
 薩仁はモンゴル芸術団の踊り手としてのステージ活動を基本に、日本とモンゴルの文化交流使節団の企画・招聘や付き添いの他、DVDの制作などもこなしているとのこと。私の仕事に非常な興味を寄せて、見学したいと言い出して、本当に到着早々びっくり仰天の展開になりました。とりあえず連絡先の交換をして、オフィスまで自家用車横付けの到着になりました。

 私の宿を無料提供してくれたのは、オフィスの主の肖さんで、肖さんが徹夜仕事の時に利用するベッドを「布団は洗浄しておきました」だって。レンガ造りの庶民の古いアパートの5階。私はどこでもアッというまにスヤスヤ寝てしまう特技があるので、感謝感謝。

5日(月)

 肖さんは30代半ばですが、事業を堅実に展開しているようで、私が宿泊させていただいたオフィスから3分ほどの所の新しいビルの12階にも事務所を開き、近々引っ越して、旧いオフィスは社員寮にするのだそうです。社員の女性も3人ほどいましたが、日本語ができるのは肖さんだけなので、とにかくメチャクチャに忙しい様子。
 9時半に、私の仕事を実質的にしていてくれるデザイナーの張さんと一緒に仕事をする事にしていたら、自分の車を運転して来た張さん、1時間の遅刻。原因は北京の渋滞です。とにかく行くたびに車が増えていて、歩道は今や車の駐車場。それでも足りなくて、あの広い北京の道路もどんどん白い線で区切られて駐車場になってしまっているのです。

 張さんも30代半ば。中国のIT産業を支えているのは、本当にこういう若い世代だと思います。個人で、あるいはグループで撮影から、編集などすべてやって、CDRやDVDを制作しています。今の北京では1万5千元の給料がなければ、知的な生活はできないと肖さんは言うけれど、私の蕪湖の給料は1000元だったけどなあ・・・。

 夜、中日・東京新聞中国総局長の加藤さんと食事。酒豪です。新聞記者は肝臓が悪い人が多く、ちょっとぐらい悪くては自慢にならないと、おっかない話。出版されたばかりの御著書「ドラゴンと月亮」の話題で話が弾み、楽しいひと時でした。特派員生活も面白そうではあるけれど、ほんと、巨大な大地でニュースを追いまくり、東奔西走のスケールは日本の比ではないのです。大変なお仕事。
 
 6日(火)

 修正を張さんがしてくださっている束の間、自由時間ができたので早速買い物に。懐かしい崇文門の食品市場に行ってみました。相変わらずのべらぼうな活気。食物の豊かさ。この国の人たちの胃袋は、本当にいったいどうなっているのかしら? 


7日(水)

 薩仁さんと昼食の約束をしたのに、待ち合わせのホテルのロビーで40分待っても来ず。オフィスに帰って電話したら、全くの勘違いで、別のホテルで待っていたとのこと。北京放送大学で学んだ、北京に詳しいはずの彼女が間違えるという事態は、非常に興味深いものがあります。人生、こんな事多いよね。で、私は路上で焼きながら売っている煎餅(小麦粉をといたのをクレープのように伸ばして、それに卵一個を割りふって伸ばし、裏返して、豆板醤を塗り、香菜や葱をまいて、その上にパリパリに揚げたものをはさんで折りたたむ)お好み焼きの親戚みたいなものですが、それをジーッと見ているのも、歩きながら頬張るのもだーい好き。北京へ来たなあって、嬉しくなるのです。3元。50円の食事。

 ごめんごめんと駆け込んできた彼女を紹介して、彼女も含めて張さんと作品の点検。いつのまにか肖さんが消えて(仕事が忙しい)、気がつくと、薩仁ちゃんが通訳も意見出しもバンバンやっているのでした。「坂東さん、CDRの中だと別の人みたい。ラジオ聞いてるみたい!」と言うけど。まあね。テレビでなくて良かったよ。お蔭様で、夜は、空港から運転してくれた従兄弟も呼んで、鬼街というレストラン街で、モンゴル料理をご馳走になったのでした。これもだーい好きな羊のシャブシャブ。いっぱい意見交換して、本当に楽しい時間でした。

8日(木)

 もうオフィスで待っているのでは時間のロスだと、張さんのスタジオ(自宅)へ行きたい!と要求して、午後から肖さんと行くことに。その前に腹ごしらえだとつれて行ってくれた所が労働者の食堂。12元のチケットで、長四角のプラスティックのお盆に、梨丸ごと一個ボンと乗せ、ご飯をドサッとつけ、好きに四色のおかずを選び、一緒くたに山盛り。とうもろこしのスープに蒸しパンに小麦粉を焼いた煎餅。まーあ、それはそれは恐ろしい量でした。

 張さんの自宅で改修作業。張さんが作ったDVD作品も見せてもらう。かなりはかどりました。一つ一つ、日本語が分からないのに、丁寧にメモをして一生懸命仕事する張さんにとても好感を持ちました。肖さんは別件で徹夜が続いていて居眠りを始めたので、ソファで寝転んでもらう。通訳がいなくても、作品に愛情があれば、仕事はできていくのです。

 夜は1人でスーパーで買い物をし、1人で食事。今、大きなスーパーでは、プリペイドカード式で食事をさせるのが一般的になって来ています。私のような通り過ぎの客もあるので、まだある料金分は、後でまだレジで返してもらいます。つまり2回もレジのご厄介になるのです。いったいだれが何故考えたシステムかしら。

9日(金)

 最終の修正をしてもらっている間に王府井(名古屋で言えば栄)で買い物。食事は又1人でシシカバブなど、大好きなものばかり気ままに注文。みやげ物をねぎる楽しさは格別で、四方八方からオーバーをつかんでまで引っ張り、寄ってくる売り子を「不要!」と投げつけるように叫んで、振り払い、私はやっぱり強い女になって行くのです。たいていは言い値の半額で買います。

 夜、肖さん不在のまま、張さんと2人だけで修正確認作業。ほとんど要求通りに出来上がって、そして、又、顔を見合ったことで、互いに了解し合えたことが多く、ほーーーーんとうに安心できる段階に達しました。クライアント「これなら見せられる」と思えるレベルに到達。今日が最後の日なので、後わずかの修正は、日本から指示することにして、98%の出来の作品を持ち帰ることができることに。本当に心から安堵しました。やっぱり北京へ来た甲斐がありました。
 
肖さん、ついにオフィスに帰らず。日本の電通の方たちとの仕事で又徹夜に突入か?「日本人は命がけで仕事する」とは、パーパの言葉だったのですが、本当に日本人はよく働くし、関わる中国人も、寝る間もないくらい働いています。彼らは確実に夢を持って。

10日(土)

 結局、肖さんに会わないまま、置手紙と鍵を机に置いて、朝5時30分、真っ暗な中を1人で出発。タクシーの中でホッとしている自分でした。最後まで油断はしてはいないけれど、嬉しい帰国の途になりました。
 空港の待合室の近くの売店で紹興酒を求め、レジで100元札を出したら、1枚はね返されました。即「昨日、中国銀行で換銭した札だよ!」って抗議したけど無視されました。日本ではありえないことがいっぱい起きるのが、外国。私はこの差がたまらなく楽しい。

2005年12月11日(日)  

訳ありて、京都コンサートホールで、同志社女子大学の音楽学科の定期演奏会を聴きました。JGロパルツの「聖アンヌのミサ・ブレヴィス」を1年生が。西村朗の「無伴奏女性合唱のため『炎の挽歌』」より」を2、3、4年生が歌いまして、その後は音楽学科管弦楽団でベートーベンの「エグモント序曲」とマーラーの「交響曲第1番二長調『巨人』」の演奏。

 アマチュアの合唱や演奏に聞きなれているので、こういうプロを目指している人たちの音楽を聴くと、本当に覚醒するような爽やかさを感じます。出演者総数は340人ほど。客席は1800人のホールですので、1500人は埋まっていたでしょうか。夢のような雰囲気で、清楚で迫力を秘めた演奏に感動しました。指揮者にご縁があって出かけたのですが、いままで見たこともない指揮で、発する息や唸り声?指揮棒を振って切れる空気の音まで聞こえそうな、そんな指揮でした。柿本人麿の挽歌が合唱になるなんて!あぁ、やっぱり良いものには触れていなくっちゃと、つくづく思ったのでした。自分の朗読にとってもかなり強い刺激を受けました。

 さて、同志社といえば、塾の講師が教え子を刺して殺してしまった事件。同じ学窓で、どうしてこんなにも育つ人間に違いがあるのかと哀しくなってしまいました。万博のテーマの時にいらっしゃったAさんは学習塾を経営されています。新聞社にコメントを求められ、真剣に考えて、長いメールを下さいました。ほんの一部を紹介します。

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教育はもともと「知識」の伝授だけが目的ではありません。根本にあるのは人間教育のはず。にもかかわらず、世の親が塾に求めるのは「良い点」をとることや入試に合格するという願望の充足です。
塾を商売だと考える人々は、スポンサーである親の歓心にだけ応えようとし、子供を札束だとしか見ていませんし、雇った塾講師を点数稼ぎの訓練マシーンとしてしか見ていないようです。崇高な教育者意識などには、まったく無縁な塾の多いこと!それを当然と思いこんでいる世の親たちの浅はかさ。ここに、教育者とはほど遠い講師を教壇に立たせる温床があると思います。

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2005年12月12日(月)  

1週間留守をしますとね、洗濯、ゴミ・リサイクル処理、手紙、メール、うんとこどっさりたまっておりまして、『しょうがないよなあ、楽しい思いをしてきたのだから・・・』と、ブツブツ言いながら暮らしておるのですが、こういうときに限って、普段はないことがおきまくります。

 東京の編集者のSさんから電話で、あっちはやっとゆっくり私たちの翻訳を見るバージョンになったらしく、細々と質問されたり、翻訳の感想をおっしゃるので、もーう、私は時計のネジを逆戻りさせるのに頭が卒倒して(もーう、すっかり自分が書いた日本語のことは忘却の彼方!)、とにかく明日にしてーっと逃げました。

 学生センターで、又会報の臨時号の発行作業。がま口塾のHさんも遠くからはるばる来てくださってお手伝い。嬉しかったです。皆でワイワイ楽しい作業ですが、やっぱり根本的に人手が足りないので、ふだんあまり街宣活動ができない私はこんな時は頑張らねばと出かけるのです。Nさんに「雑巾を切り裂くような笑い声」と言われ(本当は絹が裂ける?)「北京から帰ったのなら、もうすこし元気がなくてもいいはずだが」だって。つまり私はいつも騒がしく、声だけ頑張ったふり。気心が知れてきて、悪口の応酬も楽しい作業です。お手伝いしてくださる方切実に募集中!
 
 北京放送から分厚い封筒。何じゃろなと開けたら、「トレジャーアイランドー台湾」懸賞クイズの案内をみなさんにして下さいという依頼でした。つまり、今年は、中国人民の抗日戦争と世界ファシズム戦争の勝利60周年で、台湾が中国に返還された60周年でもあります・・・と。(日本の表現の海にいると、こういう大陸からの表現にびっくりすると思うのですが)それで台湾に関するクイズに答えて(二択の簡単なもの)素敵なプレゼントを当ててくださいというものです。応募者全員にもれなく記念品もでます。興味のある方は、どんどんがま口弘美に連絡してください応募用紙を送ります。今頃、日本語部では紅白歌合戦の収録準備で大忙しだろうな。北京放送日本語部は大晦日に紅白歌合戦をするのです。

2005年12月13日(火)  

雪が心配で朝5時に目を覚ましたら、まだそんなに降っていないようで安心して又一眠り。ガバッて起きたら7時!キャーッたーいへん!大急ぎで昨夜準備した諸々を着て持って飛び出したら、雪がポッポッ。名鉄は岐阜方面からの電車が8分ほど遅れていただけで、私は無事、余裕でH小学校に到着できました。

 1時間目から3時間目まで連続で1年生3クラスで朗読の授業。森山京さんの「おとうとねずみチロ」。S先生から同作者の本が予め送られて来ていて、その読み聞かせを主にという構成の授業。なかなかアイディアが浮かばず、今日に日付が変わるギリギリに、障子紙の残りを引っ張り出して、3種類の長さと幅に切り、それに文字を書いて、音の長短と強弱を感覚として受け入れてもらうシンプルな作戦にしました。

 導入は、今回北京の王府井で買ってきた、十二支の動物が上から下に順に並んでいる、素朴で可愛いカラフルな手工芸の飾り物。1年生は寅年と兎年がいて、皆よく知っていました。「中国では猪年はなくて、豚年だよ」って言うと大笑い。1番上の鼠の話にもって行って、サア!お話の世界へ。
 同じ教案で進行させても、クラスの性格で、展開が随分変わります。そして受け止める子供によって、全てが違うのだとつくづく思うのです。最後のクラスでは、1人1人、全員に表現してもらった言葉が、どうしても言えない内気な子が泣き出してしまいました。フォローすべく、その子の傍で、最後の物語を朗読していたら「先生、Sちゃんの傍ばーっかり」と発言した女の子がいて、嫉妬心の昇華を考えつつの朗読。クラス全体が温かい空気に終結するよう、必死の時間を過ごしました。

 背中やお腹に遠慮なく飛びつかれ、もみくちゃにしてくれる1年生。こんな可愛い子達を殺してしまうなんて、どうしたらできるのでしょう。人間の「欲」。誰でも持っている「欲」。難しいものだと思います。

 午後はそのまま学生センターで発送作業。今日も夕方まで、賑やかに楽しい作業でした。明日は夜6時から7時まで、栄の三越と中日ビルの間の広場で、自衛隊派兵延長に抗議するキャンドル・ピース集会を行います。御用とお急ぎのない方は、ぜひぜひご参加ください。とっても素敵な集会になると思います。

2005年12月15日(木)  

 恐怖の母に呼び出され、彼女の家の大掃除。「1人暮らしであなたの年なら、週に1回くらいヘルパーさんに掃除にきてもらったら?」「そしたら私が遊び歩けなくなるがね」と言って、母はブフフ、ブフフと笑ったのでした。「ほーん。娘なら掃除させといて、遊びに行けるんかね」一日で終わらず、又行くことに。

 夕刻は栄のど真ん中でキャンドル・ピースアクション。空き缶400個の中に光る蝋燭の炎でピースマークを作り、皆でリレースピーチやパフォーマンスをしました。学生さんたちの参加があって、頼もしく思いました。

 私はおだてられ、共同声明文の朗読。名古屋で生まれ、ウン10年。まだ栄でマイクを持って生きていることの幸せをかみ締めた夜です。一部だけだけど貼り付けます。

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*私たちは、自衛隊のイラク等への派兵「再延長」決定に対して抗議します。
*小泉首相、この決定を「撤回」してください。
*これ以上の自衛隊のイラク等への派兵を「中止」してください。
*すでに派兵している自衛隊を速やかに「撤退」させてください。

 12月4日、額賀防衛庁長官はまったく茶番でアリバイ的なサマワ訪問を行い、「自衛隊の活動はまだ必要」「サマワの治安は安定している」とのコメントを出しました。しかし、その日、自衛隊の車列は投石を受け、また一昨日(12月12日)には自衛隊宿営地を狙ったと見られる砲撃があるなど、これまでに計12回、迫撃砲・ロケット弾による攻撃が繰り返されています。

 イラク・サマワに派兵されている600人の陸自の実態や「人道復興支援」活動の内容、ならびにクウェートに派兵されている200人の空自の活動内容もほとんど明らかにされていないまま、短時間の訪問で「イラク派兵延長が必要」と述べることは、まったくの欺瞞です。世論調査では69%が派兵延長反対との結果が出ています。「郵政民営化法案」で解散・総選挙までして国民の信を問うたあなたは、自衛隊派兵延長反対のこの世論の声を真摯に聞くべきです。
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2005年12月15日(木)  

1日、恐怖の婆トリオと過ごしました。母は三姉妹と弟の4人姉妹の長女。この3姉妹は揃ってファーザーコンプレックスで、父親(私にとっては祖父)は随分前に亡くなっていますが、その弟、つまり叔父は94歳で入院中。皆でお見舞いに出かけた訳です。父親よりもっとこの叔父が好きなくらいで、姉妹どうし、普段は悪口を言い合っていても、この叔父のお見舞いとなると、意見がまとまるらしい。

 私は録音機を持って出かけました。母から又聞きの話を、直接聞いて録音したかったのです。祖父の弟は、病院のベッドの枕元を新聞だらけにして、まだまだ頭は大丈夫。

 「おじいさんが、I城の殿様のお手つきで生まれた娘を、地主だったもんで、母親と一緒にもらわしたんだ。わしが五つの頃に1人で在所へ行ったら、大婆さんは部屋にござった。わしが帰る時、わしが橋をわたって見えんようになるまで見てござった」。
 お手つきで生まれた娘の娘が、つまり私の祖祖母です。祖祖母は私が小学校1年生の時に亡くなりました。昔の五右衛門風呂の焚き口に祖祖母と並んで座って、チロチロ燃える火を見ながら一緒に歌を歌ったことをはっきり覚えています。

 インターネットでその殿様の写真を取り出してプリントアウト。それと本日の三婆が小学生、女学生の頃、一族で写った写真もプリントして皆の土産にしました。父が写真好きだったので、よく写真を撮っていたのです。もちろん殿様の孫である、私の祖祖母も写っています。叔母達は、生まれて初めて見る写真だと、びっくりしていました。

 殿様のお手つきで、妊娠したらお城を出されたお女中が、それなりのこしらえは貰ってお城を下がったとは言え、たった一人で子育てをして、どんなに辛かったろう、寂しかったろうと、ずっと私は思っていました。でも今日、嬉しかったことは、その本人が、「ひこ」に当たる、今日会った祖父の弟や、祖父を、温かい目で愛情深く見つめていたイメージがつかめたことです。本当に短い証言でしたが、その血に繋がる私も、天国へ行けば、そのお婆ちゃんに優しい目で包んでもらえそうな気がしたのです。

 クリスマスも近づいて、マッチ売りのおばさん風の話でした。

2005年12月16日(金)  

学生センターで最後の発送作業。その代わり、夜の会議はパスしました。学生センターでの仕事の手伝いを申し出てくださる人たち、封筒をわざわざ送ってくださる人、会員にさんたちの応援に、本当に励まされます。感謝。

 アメリカのABC放送でブッシュの演説を聞いていて、怒り心頭に発しました。「フセインを捕らえた後、世界は良くなった」という言い訳!イラク戦争で殺された、死んだ人たちの魂は、いったいこの言葉をどう聞いたでしょう。殺された子供たちのむごい姿が目に浮かび、「世界は良くなった」って、どうして言えるのか!と体が熱くなるほどでした。

2005年12月17日(土)  

津島の吉祥寺のリフォームはかなりの注目を浴びていて、中日の夕刊にジェフェリーさんが大きく紹介されました。一級建築士の偽造問題で騒がしいだけに、誠実な真剣な建築が注目されるのでしょう。仕事にも良きめぐり合いがあるのですね。

 フィギアースケートに引き込まれてついつい見てしまいます。安藤選手が3回も転んでしまって、不本意な結果を招きました。それでもインタビューされる。逃げ出したい心境でしょう。しっかり受け答える彼女。17歳なんて、本当にまだ若いのに立派。逃げないで事実を受け止める強さ。私としては、若い人たちに学ぶことばかりです。

 

2005年12月18日(日)  

 AM8:30、車で京都へ出発する予定を急遽変更。新幹線で行くことにしました。米原あたりはもう真っ白。吹雪いて視界もありませんでした。ところが京都についたら、多少の雪は陽陰で残っていましたが、良いお天気。料亭のお部屋へ入ったら、真っ先に雪椿の庭が目に飛び込んできました。なんという風情・・・。「おおきに」「おぶうおもちしますよって」「どこからきはったんですか〜」・・・名古屋弁の世界とはあまりにかけ離れていて、大変やんごとなき気分の1日でございました。何しろ、「先の大戦では・・」は、応仁の乱、いや、鳥羽伏見の戦いで・・・。タクシーの運転手さんも「大政奉還があの城で行われまして・・」とまるで、昨日無血クーデターが起きたかのごとき説明で。

 16日の昼休み、岡山大学で憲法9条改定の賛否を問う学生投票を行ったそうです。主催は学生、元教員などによる実行委員会で、生協に出入りする学生にシールを渡しボードに貼ってもらう方式で399人が投票しました。結果は以下の通り。

 憲法9条を変えることに賛成  59 (14.8%)
            反対  287 (71.9%)
            分からない  53 (13.3%)
 
 岡山からの連絡では、朝日、山陽の新聞2社とテレビ局3社が報道してくれ、新聞2社は写真つき4段にわたるかなり大きい記事だったとのこと。テレビ局のインタビューで「日本がこれまで平和でこられたのは憲法9条のおかげ」と答えた学生がいた一方で、シールを渡すと「憲法9条ってどんなもの?」と尋ねる学生が少なからずいたそうです。でも、反対が7割を越えたことは「戦争はいやだ」という気持ちが若い人の間にも根強いことを示しています。次の選挙にはこうした気持ちが確実に反映されることを祈るばかりです。

2005年12月19日(月)  

うわぁー。名古屋58年ぶりの大雪だって。23pの積雪。とすると、私にとっては、生まれて初めての大雪だけど、小さい時、もっともっとたくさん雪が降った気がするんだけどなあ。お隣の4歳のランちゃんが大喜びで雪遊びをしていました。子供にとっての宇宙は大人と違うのだなあと思ってランちゃんの笑顔を見ていたのでした。

 もう1つ初体験。電話がかかってきました。「○○○○○○だけど」と息子の名前。ちょっとひそひそ話風に口を手でおおった感じ。「どうしたの?何かあったの?」・・・これには訳があって、昨日一緒に京都に行って、先方様と色々相談のために彼は泊めて頂いたのです。だから、『何か、困った問題がおきたのかな?』と瞬間的に思ったのでした。「仕事辞めようと思うけど」。ここでピンと来ました。「ほーう、どんな仕事してたの?」「会社」「会社の名前は?」「普通の会社だよ!」「好きに辞めればあ」ガチャンと切れました。あいにく、我が息子は電話では「○○ダス」等と、たいていノーテンキな言い方。そして詐欺師様には、本当に申し訳ないことに、仕事を辞めたばっかりのフーテンで、しかも全く悩んでおらんのです。

 もう1人の息子が帰宅早々、対策として「○○はどこで生まれたんだっけ」と聞くことに打ち合わせました。電話でなく、活字でFAXやメールが来ることも考え、転勤族なので、引越しの順番を話題に出せば、息子を特定できるという所まで決めました。

 もう1つ。内田裁判長の忌避の即時抗告に対して、今日高裁の判断が出ました。こちらの請求は認められなかったそうです。悔しい、非常に残念な結果です。

2005年12月20日(火)  

 毎週月曜日の、地裁前での抗議のチラシ渡し活動が、昨日は大雪のため中止になり、今朝に変更され、しかも、裁判長の忌避が高裁でも棄却されたので、これが最後の活動です。火曜日はちょっと余裕があるので、ずっとサボっていた私は、今朝は久々に出かけました。8:00〜9:00まで地裁前で、凍てついた道ですってんすってん転ぶ人を見ながら、転ばないように気をつけながら、チラシを主に裁判所で働く方々に手渡しました。きょうも10人くらい。4月から8ヶ月間32日にわたる抗議活動のお礼・お詫び・報告・棄却判決抗議・活動の趣旨説明などが書かれた最後のチラシです。

 池住さんは徹頭徹尾穏やかな表情、知的なまなざしで、毎回1時間紳士的に語り続けられました。ほとんど休まず黙々と参加され続けた方たちにも心から感謝し尊敬の念を抱きます。できることじゃない!そう思います。

 あることを思いつき、ぜひ実現させようと思い、早速下準備。チラシ配り中も家に帰ってからも、ずーっと30年以上も前からのメモリーテープを聴きっぱなしの1日でした。
私はあきれるほど、おりにふれ、音を録音してきたなあと、あらためて驚いています。普通はビデオで撮ってるのでしょぅけど、貧乏性で、音だけです

2005年12月21日(水)  

 明日のがま口塾出席のための遠方からの泊り客2名。ご夫妻です。玄関に雪国からのブーツが二足並びました。本当に明日の天気が気になります。

 冬に雷が鳴るんですって。「雪雷(ゆきがみなり)」、子供たちは「雪降りかみなり」とも言うそうで、「雪が降りますよー」というお知らせで、真っ黒の空になって、それはそれは怖い音で雷が鳴るのだそうです。「鰤起こし」とも言い、寒波の前触れ、その後、鰤が大漁になるそうです。雪下ろしの苦労話など、雪国の人たちの忍耐強い暮らしをしみじみ聞いているところです。私は完璧な太平洋側育ち。なまっちょろいなあと思いつつ。

2005年12月22日(木)  

朝6時過ぎに、東京からの夜行バスで燕が塩釜口到着。金沢からのお客さんのことを秘密にしておいたので、まーあ、それはそれは大騒ぎのサプライズでした。

 がま口塾、今年最後は感動の16人参加。外は降りしきる雪。時々晴れ間も見えましたが、午後からはずっと振り続けましたので、午前中積もらなかっただけでも本当にラッキーでした。参加者の皆さん、本当にありがとうございました。それぞれがそれぞれの切り口で戦後60年を語り、充実した時間でした。30分の延長後も話が続き、突如、即席いいかげん昼食のテーブルについたのは8人。その後静かなひと時を過ごし、ただいま夜9時、金沢組と燕で延々と社会情勢について論じ続けています。

 金沢の治部煮、刺身の昆布締め、大根寿司(蕪寿司)など、郷土料理をたらふく(作って)頂いて、私は幸せの絶頂です。外は雪。

2005年12月23日(金)  

なんという雪! 更に日本海側の雪国に帰るH夫妻と写真を撮りまくりながら地下鉄塩釜口駅まで燕と送る。雪国の先輩夫婦は、「これっきしの雪!」って感じでしたが、自宅の方は50cm以上の積雪で大変らしい。 特急白鷺がうまく走ってくれますように。

 帰り道わざわざ回り道をして塩釜神社など、雪中散歩。子供たちにとっては山の傾斜が格好の滑降場!そりを出して上手に遊んでいました。あっちこっちに雪だるま。帰宅したら、燕がピアノに熱中しだして(彼女は全く弾けない!)、初体験ながら、私と「聖しこの夜」の連弾がヨチヨチとできるまでになりました。燕ちゃんの集中力には驚かされます。

 午後、津島の吉祥寺へ燕と行く。素晴らしいリフォームに感動。京都からの大工さん3人と、ジェフェリさんは、雪にもマケズ、愛情いっぱいの仕事をされていました。ほんのちょっぴり、燕と張替える障子のサンの残り紙をこそげとるお手伝いの真似事をして帰りました。

 昨日の夕食に、内モンゴルのサランちゃんが夫妻で来る予定で、バッチリ準備して皆で待っていたのですが、あまりの雪で断念、その代わり今日来てくれました。サランちゃんの旦那さんは、大学でロボットを研究している先生です。モンゴルに関する歴史や地理についても、今やサランちゃんをはるかに超える知識で、皆を驚かせています。燕が記者根性で鋭い質問をするので、話は尽きませんでした。昨日の金沢の郷土料理も又いっぱい食べて満腹。連弾も披露して拍手を貰い、楽しいひと時を過ごしました。

 では、お休みなさい。さすがにバテテおります。

2005年12月24日(土)  

朝、燕を駅まで送る。坂道に雪は全くなし。雪達磨はだいぶ痩せていました。家に帰ってもどうも目の辺りがポーッと曇っているので、こりゃ、寝るに限ると思って布団に潜り込みました。と、ググググラーッと地震!即刻タンスの部屋はヤバイので、リビングに出てTVをつけたら、ちょうど地震の番組を放送中だったのにはびっくり。全くの偶然だったのでしょうが、すぐ速報で震度4<名古屋は3くらいだったと知りました。

 『あーあ、良かった・・・』。皆さんが泊まっている間だったら、ほんと、どないしょでした。金沢組は白鷺がだいぶ遅れて、自宅到着は夕方までかかってしまったようだけど、とにかく無事。燕にも何かあったら大変と大きなおにぎりをバックにいれたけど、こちらは快晴で富士山を見ながらスイスイ帰京できたとの事。やれやれ一安心。テープ起こしにやっと取り掛かって奮戦中。

 

2005年12月25日(日)  

 ひたすらテープ起こしで一歩も外に出ず。がま口塾の間、電話がかかったり、あれこれあって、落ち着いてみんなの意見が聞いていられなかったりするので、あらためてかみ締めるようにみんなの意見を聞いています。本当に良い勉強になって、あらためて皆に感謝。

イラク訴訟のメーリングリストで流れた情報
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2回目の航空自衛隊のイラクでの自衛隊機の運航実績・輸送物資の内容の行政文書開示請求の結果が来ました。05年2月から11月までの請求に対して、予想どうり黒塗りでした。実施期間に対する運航便数以外すべてに黒く塗られていました。

    不開示とした部分とその理由

 航空機の運航実績及び輸送物資内容等に関する記述については、イラク復興支援派遣輸送航空機の運航実績及び輸送物資等に関する内容が記載されているため、これを公にすることにより、当該部隊の任務運航の傾向を把握または推察される等、自衛隊の運用要領が明らかとなり、ひいてはわが国の安全を害するおそれがあります。
また、他国軍部隊等の動向を把握または推察され、関係諸国との信頼関係を損なうおそれもあるため、行政機関の保有する情報の公開に関する法律第5条3号に該当し、不開示とします。

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情報の公開に関する法律第5条3号って、きっととても便利な法律なんだ。法律を作るのも人間。解釈するのも人間。絶対的なものなんてこの世にない。人間が持っている良心の力が法となってほしい。

2005年12月26日(月)  

昨日突然電話を頂いてお約束し、今日、父が駐屯していた戦地、馬坪にいたという、86歳になられるKさんと、その娘さんをお迎えしました。娘さんと言っても私とほぼ同世代?で、やっぱりひとり娘さんだそうです。お父様を助手席に乗せて付き添って来られ、優しい優しい方でした。

 父のアルバムにある馬坪と思われる写真を見て貰ったら、はっきりと場所をおっしゃる。何かがあった日にちもはっきり覚えていらっしゃる。尋常でない若い日々の記憶がいかに鮮明かということでしょう。意地悪をした上官には、今一度会って言いたい事がある・・と笑って話される、その穏やかな笑顔。南京にほど近い地で捕虜生活を送り、終戦の翌年に、上海から博多港まで3日かかって帰って来られたそうです。存命の戦友の2人にも、父の本を送りたいという事でしたのでプレゼントしました。過酷な時代と人生を一生懸命歩き、今日の私達の礎になって下さった方達です。

 父にしてやれる事はもう何もなし。父は草葉の陰で、ひとり娘がバタバタやっている事をニヤニヤ見ていることでしょう。男も女も二度と戦場に行っては行けない!

2005年12月27日(火)  

 午前中印刷準備をして、パラつく雪の中を傘をさしてテクテクコピー屋さんへ。年賀を兼ねたお値打ち号(私にとってだけではありまするが)で、150部の印刷の上、今回も削っても削っても16頁になり候。バッチシいつもの2倍の仕事量になり候。

 時間がなくなって、バスと地下鉄とタクシーでKKRホテルへ突っ込む。何をッテ、この豆タンクをです。今日と明日、紫金草合唱団ネットワークの全国会議が名古屋で行われるのです。私は合唱団員ではないのですが、関わっているので、皆さんと昼食とご挨拶だけの参加です。宮城・千葉・東京・金沢・大阪・奈良等など、本当に全国から18人が、おへその名古屋へ集結。来年3月の南京での公演などについて、夜を徹して相談されています。

 夕方帰ってさっそく発送準備。組み込みやら折込作業をしながら、会員Yちゃんが置いていってくれた朗読絵本「ガラスのうさぎ」CD2枚を聞きました。高木敏子さん自身の朗読で今年の4月に発行されています。すごい。本当にすごい朗読です。涙が出て出て止まりません。袖口で拭きながら作業をしました。私は高木敏子さんをアメリカ大統領に推薦したい。どんな平和演説より尊く説得力があるはずです。

2005年12月28日(水)  

 豆タンク、今日も突っ込む、早朝のKKRホテルへ。8:30から会議開始になっていたのでその前にと走ってセーフ。青森と沖縄からの果物をチョッピリ差し入れ、燕ちゃんの「人民中国」10月号の記事と、がま口での彼女の発言の部分のみを人数分コピーして、Oさんにお渡しして、そのまま又家へ突進。

 自宅で両面印刷はなかなかはかどらず、えっちらおっちらイライラしている所へ恐怖の電話。「いつ来るの?」。お正月の招待の話じゃございませぬ。掃除にいつ来るのかとの母上の声。「はいはい、今は駄目、ガチャン!」。とにかく夕方までに半分ポストに入れました。後半分、今夜頑張って、明日行けたら恐怖の家に行く。スーパーへ行ったらすっかりお正月ものが並んでいて、本当にびっくり。よくよく考えたら今日は28日。たまらんです。私、もう一軒掃除するべき家あるし。たまらんです。

 会員のIさんが、いつか貸したビデオを返しにと、年末の挨拶にきてくれました。2月に池田香代子さんを天白区の生涯学習センターに招いて講演会をすると、チラシも持っていらしたのです。天白区の人権まちづくり事業の一環なので、参加費は区が出すので無料。ムムムムムーっとなりました。

 池田香代子さんだって派兵差止訴訟の原告で意見陳述もされたのよ。差止訴訟の会もとうの昔に講演会に来て頂いてるのよ。私は原告で名前が出ているから講師はダメだという事だったのです。でもね。有名すぎるから、ネットで探してもまず彼女が原告だってことが見当たらないのだわ、きっと。私と池田さんの差は何かと、よーーーく考えたらば、よく考えんでも、有名無名、月とスッポン。で、何で講師が私だとダメで、彼女だといいかは、同じ事を発言しても、私だとダメだが吉永小百合なら良いが如し。お上って勝手で矛盾のデパート。弱い者、名もなき者に居丈高。弱い者いじめだよね。名のある人には弱い。でも、基本的には、池田さんを公費で招いてくれるのは大拍手。

2005年12月29日(木)  

昨夜発送準備を終えて、朝ポストへ投函するのみと思って寝たら、朝、机の下に落っこちている未処理分を発見。母の家に行かねば・・・・。遣り残した分は、掃除しつつお茶をのみつつやろうと、カバンに入れて、いざ恐怖の館に入城!

甘かったデゴザル。館は年寄りの1人住まい。荒れ野の姥桜満開状態でございます。お茶の時間あるものかは。布団干しから洗濯、お便所掃除。はいつくばって雑巾がけ、這い登って埃拭き。庭掃除に水撒き、宴会の机並べ、座布団並べ。ヘルパーさんのお仕事の大変さをつくづく思いました。どんな仕事も、立場に立ってみないと苦労は分からないものですねえ。

 やや腰がおかしくなり申して、もう一軒の掃除は断念。ぎりぎりにポストへ残部投函。元旦に皆様の手元に届きますように。

2005年12月30日(金)  

障子を張り替えました。張り替えるのは1年に何回やってもいいくらい大好きな仕事ですが、障子を洗うのが大変。お風呂へ運んで大格闘。でも、霧を吹いてしばらくして紙がピーんと張るのを見ると、惚れ惚れと眺めるのです。本当に気持ちがいい!やっとお正月。

 母から又恐怖の電話。とにかく私に雑用を頼るのです。毎年、やっぱり「やる気」が右肩下がりになっているのを感じます。電話をかけてくるだけまだましかと、やがて私も通る道と、己の「老い」の道を見る思いで母を見ています。私は何歳までしっかりしていられるかしら。あと10年後のお正月はどうやって過ごしているかしら・・・・と。

 憲法9条の国民投票をやっているというメールが来たので、投票に参加したのですが、意識的に組織でガンガン投票したら、ちょっと複雑な結果のような気がしつつ。
http://www.magazine9.jp/index0.php

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Akiary v.0.51