2005年闘魂猪木塾INイタリア(その3)

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 3日目は6:30モーニングコール、朝食とチェックアウトを済ませて7:30集合という強行軍。喉の痛みは治まったが今度は鼻水がひどくなってきた。ティッシュを買うにも近くのスーパーマーケットはまだ営業開始前(8:30ごろには開くのだが)、他に買えそうな店は皆無。ホテルのフロントに「ポケットティッシュはないか?」と尋ねると、持ってきてくれたのは箱入りの卓上ティッシュ(笑)。それでもないよりはマシなのでありがたく頂戴した。

 貸し切りバスで空港へ小一時間。空港に着くや早速搭乗手続きを済ませると一時間半ぐらいの余裕があった。まずここでホテルでも両替できなかったトラベラーズチェックを現金化。額面200ユーロが187ユーロだから結構キツい。

 のんべんだらりと過ごしていたが、わりと搭乗時間が迫ってから、機内持ち込み荷物の中にアーミーナイフを残してしまっていることに気づいた。あわてて空港内のショップでバッグを物色し、20ユーロ弱ほどのウエストポーチを購入してこれにアーミーナイフだけ入れてアリタリア航空のカウンタへ持ち込んで、なんてことをやっていると搭乗口への集合時間までもうわずか、手荷物検査が行列になっていて時間がかかり遅れてしまったが、やっと搭乗口にたどり着くと飛行機の方も遅れているようだった。

 そんなことをやってて水を買い損ねた。機内で後部のパーサーに「水を売ってくれ」というと「売れません、サービスします」と言われた。考えてみればあたり前だが。2リットルのペットボトルをありがたく頂戴する(機内で半分ほど消費した)。

 今回、塾長が我々塾生とどこで合流するのか、というとそれはこのナポリ行きの飛行機なのである。塾長はやはり上のクラスでしょうか、などと話していると、我々よりもずいぶん後になって塾長がの機内に乗り込んできた。どうも我々と同じエコノミーに座るらしい。ちょうど私たちの通路向かいにいつまでもふさがらない3席があって、ひょっとしてそこに来るのか、と期待したが、何のことはないさらに遅れて乗り込んできたおばはん3人がそこへ着席。とんだ期待はずれ。

 ナポリへの空路はあっという間である。荷物待ちをしていると、まずミラノの空港で買ったアーミーナイフしか入っていない小さなバッグが流れてきた。当然早めに手続きしたスーツケースのほうはなかなか出てこない。First-In-Last-Outだ。ちょうど私の目前に塾長がやってきたので挨拶する。顔を合わせたとき見せてくださる笑顔がなんとも魅力的だ。

 塾長の荷物は我々よりずいぶん早く出てきたが、そのボリュームに圧倒された。他の誰のよりも大きくて頑丈そうなスーツケースが4つぐらい、さらにいくつもカバンが出てくる。添乗員のNさんがそれをカートに載せるが一台ではとてもすまない。やがて塾生の荷物も流れてきたので受け取って出ると、ミラノに比べてずいぶん暑い。年配の日本人女性ガイドの人が我々を出迎えてくれた。もう一人もっと若いイタリア人女性のガイドさんも着いている。なんだかこの近辺での資格をもったガイドでないと観光案内をできないとかで、そのために複数ガイドになっているらしい。

 しかしなかなか添乗員のNさんが出てこなかったのだが、どうやらNさんのスーツケースだけ出てこないトラブルがあったらしい。いつまでもツアーを待たせられない、ということでとりあえずNさんもバスに乗り込んで出発。空港から市街まではそう遠くなかったような。街中はゴミゴミしていて昔行ったマカオを連想したが、話では治安はもっと悪いらしい。そのせいでバスから降りずに車窓観光となったらしい。

 ビットリオ・エマニュエル2世像とか、ヌオーヴォ城(画像右上)、サンテルモ城とサンマルティーノ修道院(のどっちかよくわからないが画像下)など眺めながら海沿いの道へ出る。途中で、荷物の手続きには本人が行かないとならない、ということでNさんは別行動で空港へ戻る。海に突き出した岩の上に立つ卵城(その岩盤が卵型だからCastle dell'Ovoと呼ばれているとか)を望むところでバスを停めて塾長との撮影会(下の画像はいずれも卵城)。

 バスはこのあと港湾の中を通過。本来税関関係者しか通れない道だそうだが、平然と通るバスの運転手。地震で傷ついた建物を多く残す地区を通り抜けてバスはポンペイの遺跡へ向かう。途中高速道路の乗り口にさしかかると、バスは"Tele-Pass"と書かれたゲート(日本のETCに相当)からさっさと入るのだが、隣のレーンはTele-Passに入れない車で渋滞を来している。何でもTele-Passを使うには銀行に口座を持たないといけないのだが、イタリアの庶民はほとんど口座など持っていないのだとか。イタリアの銀行に口座を持つと馬鹿にならない口座保管料を取られるし、あまり口座に残すほど金の余裕もないのだとか。収入は低く、物価は安くないが、見栄っ張りなのでバカンスに金は惜しまないしほしい服飾品は買うとからしいが。外食するのも高いから週末の食事は実家に集って大家族で摂る、みたいなガイドさんの話を聞きながらバスはやがてポンペイに到着。

ポンペイ遺跡の入口
シーフードの前菜
パスタもシーフード
サラダ
エビとサーモン、白身魚のローストのメイン
レストランはこんな雰囲気

 ポンペイの遺跡入り口(画像左上)の前にガーデンレストランがあってそこでやや遅いランチ。前日のくじ運が6番と良かった私は塾長のテーブルに同席。あまりプロレスの話はしたくないといった感じの塾長であったが、このときは前社長とか娘婿にあたる新社長(同じマンションに住んでいたので子供のころから知っている経緯とか)の話題などを話してくれた。塾長の海外での強みとしてその土地のものを楽しんで食べられるという話(それに対して前社長はイタリアでも日本料理店を探していたとか)など、まだ行っていない国は?(アフリカに多い)といった話題が出ていた。

 食卓に並んでいたのは、前菜、パスタ、メインともシーフード系で(他にサラダ)、日本人好みのメニューだった。こうしたメニューを、塾長はオリーブオイルなど頼み手馴れた感じで賞味する。別注で頼んだ白ワインは「キリストの涙」というらしく、なかなか美味だった。

 やがてNさんが剛竜馬もとい合流。荷物は入手できずローマへ転送する手配だけしてきたらしい。

 昼食後はポンペイの遺跡へ。先程の入口からも覗えた闘技場の遺跡から進む。楕円形だがローマのコロッセオほど巨大ではなく、京都府体育館とか大阪府立臨海スポーツセンタとかに相当するようなサイズである。かつての観客席は人を入れられるような状態ではないのだろうが、アリーナ?部分だけでもちょっとした興行が打てるぐらい、インディ団体のビッグマッチなどに丁度よいぐらいだ。

 観客席が潰れたところは芝生席みたいになっているが、掘り下げで作られたスタンドではなく石造の建設なのである。アリーナ部分から出口へ向かう通路も立派なものが残っている。

 その後、浴場跡、居酒屋、1Fが居酒屋で2Fが売春宿だった店(睾丸とペニスのわかりやすいマーキングが残っていた)、といったところを塾長について回る。最後は円形劇場を見学。日本の遊園地にある野外劇場などと比べ全くサイズ的に遜色がない。

共同浴場の中庭と言うか運動場跡。
ドリンクバーの跡だったような。
共同井戸の跡。ちゃんと当時から蛇口が付いていたようだ。
道には下水が流されたりするので人が渡るための飛び石がある。
浴槽の跡。水風呂だったかも。
サウナの跡。
円形劇場の跡。
売春宿のマーク。
遺跡出口からの遠景

 貸切バスへ戻って移動。このバスは食べ物の持込不可だとかで、ソフトクリームを買った女性の参加者などは慌てて食べなければならなかったようだ。途中「治安に不安のない」ドライブイン的な場所でトイレ休憩。たしかチップ制だったような。ここにもバール、そしてちょっとした売店があり、昼食の際口にした「キリストの涙」はもうここでしか買うチャンスがない、ということなので購入した。あと、バールのショーケースにあったプリンがオールドファッションな感じで美味しそうだったので購入、2,3分で一気に食べたが確かに美味しかった。

 バスは一路、ローマへ向かう。途中、アッピア街道の松などが目に入る。バスの席順のくじ運も良かった私はずっと塾長の後ろで話を聞くことができた。バスの中での話題は、例の高性能発電機のこととか、対北朝鮮外交についてとか、「マスコミで出る機会ができて舞い上がるような連中がいて...」とかいったことであった。

 途中事故渋滞とかもあってかなり時間がかかったが、かなり薄暗くなってからローマに到着、町並みや城壁を眺めながら市内に入る。この日の夕食は、ボンペウス劇場の遺跡を利用したレストラン「パンクラッツェオ」なのだが、ジュリアス・シーザーが殺された場所をレストランにして営業している(!)ことらしい。時間は夜9時を大きく回っている。地下の個室が貸し切りになっており、シーザー暗殺現場はその隣室。

 参加者が塾長を囲んでディナーを摂る。午後ポンペイで歩き回ったせいかこの夕食のころにはだいぶ体調が悪くなっていて、それが顔にも出てしまい、塾長に「大丈夫?」と声をかけられて慌てて気を持ち直す。なんて調子だったが、前菜やパスタは美味しくいただけた。メインディッシュのステーキはさほど美味しく感じなかったが、これが体調のせいかどうかよくわからない。周囲からは「重いよ」という声が出ていた。他にチョコケーキかフルーツタルトか選択できるデザートもあった。

 ゆっくりしたディナーが終わり、シーザーが殺された部屋で写真を撮ったりした。もう12時近い。レストランからバスで30分ぐらい?走って郊外にあるエルジフ・パレス・ホテルへ。ずいぶん巨大なホテルで、ミラノのスターホテルリッツとはかなり違う。

 フロントで鍵を受け取り部屋へ。ここのキーは会社のロッカーキーにつけるような番号札しかついておらず、内装の豪華さと比べだいぶ見劣りする。で4Fに上がり案内板にしたがって歩くが、どこにも部屋がない。案内板に従って進むと壁に突き当たる。

 とりあえず1Fに降りると、Nさんが「すみません、部屋は奥のほうの棟でした」というので行ってみるが、別の棟への入り口らしきものなど見当たらない。ホテルの従業員が指し示す方向に行ってみると、倉庫か何かみたいな扉らしきものがある。それに向かって進むとこれが自動ドアだった。「秘密基地じゃないんだから」ての声があがる。このドアを抜けた先が、日本のひなびた温泉ホテルみたいでとても四つ星ホテルには思えない。エレベータホールにもがらくたが置いてあったりして。

 部屋はロビー、フロントまで相当な距離があり、バーに水を買いに行くのも一苦労だった。こんな調子で、疲れを癒すべきホテルでまたどっと疲れが出た。

 そんなことがあったせいか、夜中、異様な背中の痛みに襲われて2、3時間ぐらい眠れず苦しんだ。

(帰国後行きつけの針灸師の先生に聞いてみたら「胃腸が弱ってたんじゃないの?背中のそのあたりは胃腸の反応区だから」という話だった。頷ける話ではある。このとき痛んだ部分は昨年秋に胃の激痛に見舞われたとき同時に痛んだあたりだった)


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