終わりのない物語

第一章 Bonvenon gesinjoyoj!


――港町ケストリア。ヘルンの南端に位置するこの街は、<諸王国レジョイ>有数の貿易都市である。この街では昼夜を問わず大小の取引がなされ、けして灯りの絶えることはない。

街は三つの区画から成り立っている。一つは船着き場と倉庫を含む「商店街」。もう一つは、この街の象徴ともいえる魔術学院を取り巻く「居住区」。そして、入り組んだ裏道と花街、酒場が連なる「下街」。「商店街」は商人ギルド、「居住区」は市長以下街のお偉方が、「下街」は盗賊組合シーフギルド「シャーテングランツ」がそれぞれ仕切っている。(もっとも名目上は、「商店街」、「下街」共、市長の管掌ということになっている。当然のことであるが)


さて、この「居住区」と「下街」の境い目に、一軒の宿屋があった。宿の名前は「魔女の箒亭ウィッチブルーム」。ありがちな名前に相応しく、見た目はぱっとしないが中身の方もぱっとしない、格でいったら中の下クラスの平凡な宿だ。

その一階にある酒場――この手の宿は通常、一階が酒場、二階が宿泊所というつくりになっている――に、とある二人連れがいた。

片方は長く垂らした薄茶の髪に、光の加減で金とも茶ともとれる色の瞳をした若い娘で、なかなか見られる顔立ちをしている。着ている物は質素だが、時折見せる上品な仕草が良家の出である事を窺わせる。

その連れは娘よりいくつか年下らしい、まだあどけなさが残る顔に、きりっとした目の少年だった。その真っ黒としか言い様のない目と髪に加え、上から下まで炭のように黒い服を着ているためか、少年の顔や手は普通より白く見える。

二人はしばらく前から食堂兼酒場でくつろいでいたのだが、ふと、談笑していた娘が顔を上げて少年の注意を促した。

「見て、あの人。吟遊詩人かしら。すごく綺麗じゃない?」

彼女の視線の先には竪琴ライアーを抱えた男が立っていた。それを見た少年は、同意の印しにこくんと頷く。確かに美形だった。

大層整った容貌かおに、秋の空よりも蒼い瞳、緩く布を巻き付けた金の髪が――手入れに相当時間を掛けているのだろう――艶やかに肩口へと流れ落ちている。一歩間違えば女性的な造作が、切れ長な目の鋭さのおかげで男性美へと落ち着いている。

彼は軽く弦を爪弾いて調弦をしていたが、あまりにも似つかわしい良く通る声で唄い始めた。ざわめいていた酒場は、汐が引くように静かになり、その中を張りのある声が低く高く流れてゆく。皆聞き惚れているのかしわぶきひとつしない。給仕係の娘までが注文を取らずに、うっとりと彼の歌に聴き惚れている。最後の和音が消えた時、酒場は指笛と食器を叩く音で沸きかえった。

彼は微笑んで軽くお辞儀をし、店主の奢りの一杯で喉を潤すと、ライアーを抱え直して次の歌を唄い始めた。前にもまして美しい音色が流れ出す。と――

ガチャーーン!断ち切られたように音が途切れ、酒場は水を打ったように静まり返った。誰かが吟遊詩人に向かって酒瓶を投げつけたのだ。幸い青年には当たらなかったものの、背後の壁で砕けた瓶は、壁と床に赤い飛沫――幸い中身は残り少なかったらしい――を撒き散らした。その酒瓶の飛んできた辺りから、ゆらりと立ち上がる人影がある。

「やめろやめろ、耳が腐って落ちちまう」

覚束ない足取りで現れたのは、ガタイのいい水夫風の男だった。どうやら相当飲んでいるらしく、真っ赤な顔でよろめきながら歩いてくる。じろじろと詩人を見下ろして、酒臭い息と唾を吹きかけ、
「おめぇのせいで、いくら呼んでも酒が来やしねぇ。女みてぇなツラしやがって……」
いきなり横殴りに髪を掴もうとした。酒場中が息をのむ中、青年が辛うじて避けたおかげで、男の手が捉えたのは髪押さえの布だけだった。

忌々しげにその布を振り捨てた男へ、一斉に非難の声があがる。宿屋の親父も厨房から飛び出してきた。武器の代わりなのか、手には粉だらけの麺棒が握られている。

その一方で、当事者である吟遊詩人は無言のまま男を見上げていた。その目に恐れの色はなく、ともすれば侮蔑ととれなくもない仕草で髪をかき上げる。

それに怒りを煽られたのか、男が再び掴みかかろうしたその時、鋭い制止の声が一つ、諭すような声がもう一つ上がった。酒場中の目がその声の出所に集まる。

立ち上がって制止の声をあげたのはどちらも若い男女だった。二人ともそれぞれのテーブルから騒ぎを見ていて、これ以上の狼藉を許せずに声をあげたのだろう。

男の方はまだ二十前だろうか、背の高いがっしりとした体つきをしている。焦げ茶の短く刈った髪に灰色の目をした気の良さそうな青年なのだが、今は厳しい表情かおをしている。彼は背を真っ直ぐ伸ばして、騒ぎの元へと歩み寄った。その身のこなしから、かなりの遣い手であるとわかる。

もう一人の女、というより娘は、先ほどの二人連れの片割れだった。おとなしげな姿をしているが、怯む様子もなく毅然として酔漢に向かいあっている。彼女はその場に立ったまま、連れの頭越しに――二人の席は店の奥の方で、吟遊詩人に最も近い。彼女と詩人の間には空のベンチと連れの少年がいるだけだ――咎めるように男を見ていた。その下で少年が頬杖をついて、面白そうにこの状況を眺めている。


「先程から拝見してしていましたが、何故そのような乱暴をなさるのです。その方は私たちを楽しませてくださっただけでしょうに」

そうだそうだという声とともに野次が飛ぶ。その後ろでは、麺棒を掴んだままの親父が腕を組んで立っている。もう少し成り行きを見守ることにしたようだ。

「その方へ瓶を投げつけるなど――」

「うるせえぞ! あの顔にたぶらかされやがって……この」

元々赤かった顔が更に赤くなり、男は娘の方へ一歩踏み出した。あきらかに害意を向けられ、ぎくりとした様子で娘が身を引く。しかし、その下の少年が身を起こすより早く、先程の青年が二人を庇うように立ちはだかった。眉根を寄せて酔漢を見下ろし、強い口調で一言。

「いい加減にしないか。酒を飲むのは自由だが、他人に迷惑をかけるんじゃない」

間近に立った青年は男より頭一つ高い。自分より顔のいい若造に、上から見下ろされて叱責を受ける。これで怒らなかったら嘘だろう。

「この若造がぁ〜〜!!」

怒りのあまりどす黒くなった酔っぱらいは、吠え声をあげて青年に飛びかかった――と思いきや、突如後ろを振り向くと、よろめきながら出口へ向かう。一同が呆気にとられて見送ると、何故か例の男女も一緒に外へ向かっている。あれだけ激昂していたのが嘘のようだ。一体何が起こって突然矛先をおさめたのか?

その呆然とする酒場の中で、いつの間に初めていたのだろうか、吟遊詩人が歌っていた。聞き慣れぬ言葉と旋律が、緩やかにその場の雰囲気を和ませていく。

その曲が何度か転調してよく知られた古謡になると、ほっとしたようなざわめきが酒場の中に戻っていた。宿屋の親父も揉め事は治まったと見て、元通り厨房の中へ引っ込む。

そんな中、一人取り残されていた少年は、再び頬杖をついて扉の方を窺っていた。が、暫く待っても誰一人戻って来ない。ひょいと肩を竦め、おもむろに出口へ向かう少年を、何事もなかったかのように詩人の豊かな歌声が追いかける。

その歌に耳を傾けながら、少年は扉を開けて呟いた。


下位古代語ローエンシェント……。呪歌か」