第二章 Estasplezurokonivin
「俺の名前はジェアード・レセル。ジェイでいい。よろしくな」
あの騒ぎから既に二時間ばかり経っていた。
あの後、ふらふらと宿の外へ出た三人のうち、酔っぱらいはぶつぶつ言いながら何処かへ消えて行った。残る二人は、互いに何故こんなところにいるのだろうと
そんな二人を迎えに来た少年の、「親睦を深めるんなら、中でやれば?」という言葉は誠にもっともだったので、一同は揃って宿へ戻った。そして、酒場の連中が好奇の視線を向けてくることもあり、三人は上の部屋――少年と娘が泊まっている個室――で飲み直すことにしたのだ。
二人は先程の酔っぱらいを散々扱き下ろして鬱憤を晴らしていたが、一段落ついたところで、はたと気がついた様子で青年が言ったのだ。そういえば名前も名乗っていなかったな、と。それで改めて先程の科白となったのである。
青年の言葉に、娘はにっこり笑って会釈を返した。
「よろしくジェイ。わたしはセラ・キャスタミール、賢きラーダにお仕えしています。こちらは」
と言って、傍らで一人お茶を啜っている少年を指し示す。
「一緒に旅をしているクレイ・フィンスター」
「
軽く会釈をした少年を見て、青年はなるほどと頷いた。確かに上から下まで鴉のように黒ずくめだ。
「よろしく。……しかし、二人だけ? かよわいお嬢さんと、君みたいな少年だけでは危なくないか? 交易路はともかくとして、少し外れれば盗賊団や化け物だって出るんだぜ」
「僕らはセラがいうところの“ラーダの加護”があるらしいよ」
新しくお茶を淹れながら少年は答えを返した。どうやらひどく酒に弱い体質らしい。先程から一滴の酒も口にせず、お茶ばかり飲んでいる。
「今のところ、これといった被害にはあっていないけど」
どうやら二人は世の中を見て回るという、あてのない旅をしているらしい。ジェアード自身もあてなどないし、――なにより金が全然ない。今飲んでいる酒代もクレイが払っている。――護衛として一緒に行っても構わないかと持ちかけた。
「そうですね、わたしは構いませんけれど……。どうかしらね、クレイ?」
セラはおっとりと連れの少年を振り向いた。先刻の騒ぎで、目の前の青年がどんな人柄かは見せてもらったし、旅の連れは多い方が楽しい。彼女に否やはなかった。あとは現在の道連れがどう思うかだ。
セラの言いたいことがわかっていたのか、苦笑した少年は何か言おうとして、突然目を細めて壁を見た。ジェアードも何かを窺うように息をひそめる。訳のわからないセラは、きょとんとして目の前の二人を交互に見遣った。彼女が訊くより早く、少年が片手をあげて静かにするよう合図し、低い声で呟く。
「何か、争っている音がする。――隣か」
言うなり、クレイは隣室との壁に耳を当てた。残る二人もそれに続く。二人が隣に身体を割り込ませる前に、少年は弾かれたように外へ飛び出した。少年の鋭敏な耳は、死に瀕して苦痛に呻く声を捉えていたのだ。
隣室の扉を開けようとして少年は舌打ちした。当然だが扉には鍵がかかっていたのだ。しかし慌てずに素早く懐から小さな器具を取り出し、あっさりと鍵をこじ開ける。錠前も宿の格に合わせてお粗末だったらしい。
追いついた二人と団子になって飛び込んだ部屋は暗かった。しかし灯りがなくても、窓から差し込む月明かりで、何が起こっているのかは容易に見てとれた。
床の上に二つの人影が折り重なり、覆い被さった人影がもう片方を組み伏せて首を絞めているのだ。少年は即座に馬乗りになった人影へ飛びかかった。
「やめろ! 何をやっている!」
男は――それは中年ぐらいの大柄な男だった。――邪魔が入ったことに舌打ちし、掴みかかった少年をあっさり片手ではじき飛ばした。そこへすかさずジェアードが殴りかかる。しかしこれも簡単に避けられた。
さすがに分が悪いと見てとり、男は思いのほか素早い身のこなしで、ひらりと窓枠を乗り越えた。急いで後を追おうとしたジェアードだったが、既に男は夜の闇に紛れた後だった。
仕方なく振り返ると、丁度床に倒れていた人影が起き上がるところだった。しきりに咳き込みながら、何か言葉を発しようとしている。しかし喉が潰れて声にならない。セラが急いでその傍らに跪き、神の力で癒しを願うと、ようやく喋れるようになった。
「――ありがとう、また助けられましたね」
あの吟遊詩人だった。
――十分後。
隣の部屋へ吟遊詩人を連れて戻ると、まずジェアードが口火を切った。
「なんだか知らんが災難だったな。まあ、ともかく無事で良かった。俺はジェアード・レセル。こっちがセラ・キャスタミールでこっちがクレイ・フィンスター」
「わたしはプラーティシュと呼ばれています。どうぞよろしく」
「
セラが頷きながら言った。
「それで、何故襲われたのか心当たりはありますか?」
「いいえ……それがさっぱり。――もしかすると、先程のお客が嫌がらせにやったのかも」
プラーティシュと名乗った男は、そう言って目を伏せたが、怯えているようではなかった。一見ただの優男だが、なんとなく得体の知れないところがある。ジェアードは内心頭を振った。
「まさか。あんたは殺される寸前だったんだぞ。いくらなんでも、あんな事ぐらいで人を使ってまでしないだろう」
「顔を見たんですか?」
「ああ。あの酔っぱらいとは別の奴だった。なあ、クレイ?」
先程から少年は話には加わらず、
「あれは専門の
「そうなんですか、プラーティシュさん」
セラが心配そうに訊ねる。
「いえ、全然心当たりがありません」
彼はセラへ困ったような目を向けた。それにジェアードが軽い口調で問いかける。
「ふむ、身に覚えがないのに襲われたんじゃ堪らないだろう。……どうだ、俺たちと一緒に行かないか?」
ジェアードを護衛にする話はまだ途中だったはずなんだけど、と一人ごちる少年をよそに青年は言葉を継ぐ。
「吟遊詩人なら別にあてはないんだろう?」
そう言われたプラーティシュは心持ち首を傾け、今の申し出を検討しているようだった。一瞬、そうとは気づかれないほど素早くクレイを一瞥し、吟遊詩人はひとつ頷いた。
「わかりました。よろしくお願いします。それで、行く先はどちらへ?」
言われて、ジェアードはセラを見る。
「どこだ?」
「まだ決まっていませんの。もともと気ままな旅ですから、ね?」
セラは連れの少年に目を遣りながら答えた。その顔が訝しげに変わる。クレイが珍しく眉にしわを寄せ、吟遊詩人に厳しい目を向けていたからだ。
「クレイ?」
「何だいセラ」
少年は、気のせいだったのかと思うような穏やかな笑みで振り返る。
「……次は何処へ行きましょうか」
「出発するのはちょっと待ってくれないかな。――そう、二日ぐらい。寄るところがあるんだ」
「なら、その間に行き先を決めれば良いな。ついでに宿を移そう。ここじゃ「下街」に近すぎる。「居住区」の中なら少しは安全だろう」
そこで何故か困ったように頭を掻くジェアード。
「……だが俺は金が無いぞ。言い出しておいてなんだが」
「――いいさ、僕が払うよ」
クレイがどことなく投げやりな口調で、ひらひらと片手を振る。それを受けて、何故かセラは曖昧な笑みを浮かべた。
そういえば、この酒を払ったのも少年の方だったと思い返し、青年は感心した口調で呟いた。
「ふーん? お前さん、良いとこの
その言葉に少年は軽く肩を竦めた。親指で肩越しに連れの娘を指し示す。
「良い家に育ったのは僕じゃない。セラの方だよ」
「あら、そんなこともないですけど。それより、宿を移すのは明日でしょう? 今晩は念のため、お一人にならない方がいいのではないかしら」
プラーティシュに向けた彼女の言葉に、全員が賛同した。それで明日の朝一番に移動することにして、今夜はプラーティシュの部屋にジェアードが泊まることになった。彼が泊まっている部屋は、雑魚寝で足の踏み場もないような状態だから、個室に引っ越せるのはジェアードとしても渡りに船だった。
――が、彼が雑魚寝部屋から毛布と荷物を取ってくる間に、詩人は一つしかない寝台の上で、すでに寝息を立てていた。
「……まあ、仕方ないな」
一人用の寝台に今から潜り込もうとすれば、彼を押しのける事になる。元々この部屋は詩人のものだし、大部屋に比べれば手足が伸ばせる分ずっと良い。ジェアードはあっさり寝台を諦めて、持ってきた毛布を床に敷いた。念のためにもう一度窓と扉の閂を確認した後、毛布に
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