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「バイファム」第46話感想

一行は地球軍の駆逐艦「ヴァ(バ?)ンガード」に接触。「バンガード」といえばクロスボーン、じゃなくて、「レーガン」にあわせて「ブッシュ」とか「クリントン」とか…あ、つまんないですね。そうじゃなくても「ジェファーソン」とか「モンロー」とかにしなかったのはなんでだろう?
第44話で声だけ聞いたギャラクレーの出番は今回だけ。その彼に初めに会うのがスコットでないのは見過ごしがたい。カチュアは育ての親が地球人なので戦災孤児となることに(あれ、ならロディたちはカチュアの育ての両親が死んだことを知っているのか)。ギャラクレーはカチュア本人の意思を問題にするが……。
ロディとバーツは何よりカチュアのことを気にかけているが、結局最後まで彼女の気持ちに気づくことはなかった。多分カチュアについて相談する場面を入れたいのと、相談するのはどうしてもロディでなくてはならないということはあったと思う。ではなぜロディとスコットじゃなかったのか、それは後述。
軍人たちは子どもたちだけなのには率直に驚いている。だけど「地球に行ったら英雄扱い」にそんな素直に驚いていいんだろうかね。「PXに行っておいしいものでも食べたまえ、わしのおごりだ」って軍から金、出ないのかー。それともそう言っておいてあとで領収書……ギャラクレーもそこまでケチじゃない? アルコールを禁止するあたり、彼の洞察力の深さを物語っているのかも。
勘ぐる部下は子どもたちが、洗脳とまでは行かなくてもククトニアンの手先になっているんじゃないかと疑う。ギャラクレーは「実に澄んだいい目をしている」と答える。本当にそれだけなんだろうか? ところで「澄みきった目」は時として発狂者とか狂信者などの形容にも使われたりする。いや、だからどうってわけではないが。って言うか目だけ見て判断してるんじゃないだろう。それとも手先だとしても終戦の材料に使えるならいいと思っているんだろうか?
ギャラクレーの「じょうとうというものだ」は「常套」、「上等」どっちだったんだろう? しかし、地球軍の立場は圧倒的に有利だ。地球側に「大義」(仮にそういうものがそもそもあるとして)は全くない。が一方、今のリベラリストグループが独力で現政府軍を打倒できるのか怪しいものだ。多分地球軍の援助を仰がねばならないだろう。
いらいらしながらロディたちを待つスコット。戦場に家族連れで行って奥さんや子どもが危ない目にあうのを見れば、兵士も戦うのが嫌になるだろうと言って、デュボアの笑いを誘う。
ついに両艦の間に通路が渡されたが、地球の艦から渡されたわりにはククトの艦のハッチとぴったりだった。事前に寸法を聞いておいたのかなあ。渡された通路を通っていよいよ子どもたちはバンガードに移乗する。「地球に行ったらまたおとなり同士だといいね」と話しあうマルロ、ルチーナ。この2人でも離ればなれになるかもってわかってんだよ <ロディ。「地球はあたいたちだってはじめて」と沈むカチュアをマキ、クレアがはげます(地球出身になってるんだけどねー、「パーフェクトメモリー」では)。が、カチュアは「先に行ってて」とジミーを探しに。ってジミー、君はそんなところで何やってるんだ〜?
「ぼく、どうなるの?」
「どうなるって、あたしがいるじゃない」
「カチュア、カチュアはママに会えなくて本当にいいの?」
…ケンツの弟になるって約束したのに「どうなるの?」はないんじゃないかなー。
地球軍の兵士から迎えられる子どもたち。リフレイド・ストーンも運ばれる。死んだ星をよみがえらせる装置と聞いてびびる兵士たち。「そんなものをつくれるやつらを相手に戦ったのか!」今までだって十分苦戦しているような。
デュボアにつきそわれて、カチュアとジミーも移船する。この3人だけ滅菌灯のともる廊下を使わされている気が。「この戦争、すぐ終わるのでしょうか?」「それは…双方の努力次第ね」
「今日でキャプテンの役目が終わるのかと思うと少しさびしいな」いよいよキャプテンとしての肩の荷を降ろすスコットは、今やそれを名残惜しく思う心の余裕ができていた。ひやかされるスコット。「言われるとおり、あるのは自信ではなく、不安だけだった」帽子をとって今までの彼の苦労に感謝するマキをみならって、みんなももうちょっとねぎらってあげたら? ひやかしてないで。
ロディとケンツは格納庫に。「お前ともいよいよお別れだな」例の弱そうな戦闘機は、新型なんだそうで、それを見てはしゃぐケンツはともかく、ロディのほうは、船を移るときに横目で見つめるだけでよかったんじゃないかなあ。
ククトニアンの生活が地球人と変わらないことを知ったカチュア。とか言って、一日に5回聖地に向かってお祈り、断食の習慣がある、左手は不浄、家に上がるときは履き物を脱ぐ、生魚を食べる、椅子に座らず自分の足に座るetcだったりして……。地球人同士でも生活習慣の違いは気になるのに、ましてククトニアンと思うんだけどねー。
冗談はさておき、それを聞いてますますカチュアは迷う。「正直言って、地球へ行けばきっと、今までと同じようには行かないと思うんです」「残る気がなければ、遠慮しなくていいのよ」
ジェダとギャラクレーの会談では、ククトニアンが翻訳機をつけていた。技術力の差か…と言ってもカチュアもジェイナスでククト語を勉強してたし……。
迷いながらもカチュアは結局1度はこっちに来てしまう。「向こうへ行ってからのことは俺たちに任せておけよ」とロディはうけあうのだが。
ペンチとフレッドはハンカチの上に「ベルウィックの小石」を広げている。イプザーロンの記念ってことなのかな。でもいつ拾ったんだろう? ホットドッグをパクつくシャロン。ククトニアンの食事に一番文句言ってたからねー。
くつろぐ子どもたちのもとへ士官氏が「ご両親の安否を問いあわせたところ、全員無事だ」という報を持ってくる。あれ? 前話(第45話)でデュボアが同じこと言ってなかったっけ…? 彼らの両親は別の船で地球に向かっていて、映像は無理だが回線がつながっている。それを聞いてブリッジに走り出す子どもたち。ロディも走り出しかけてカチュアたちに気づく。「ロディ、わたしは平気よ。早く行って」「……ごめん」ロディはこのことを後悔するかどうか。
子どもたちはとうとう再び両親の声を聞くことができた。スコットが一番先ってのはずるい。まあこの際そんなことでもめないのが彼らのいいところだが。「どうしてぼくをおいてちゃったのー?」言っちゃいけない質問。「ママ探したのよ」と答えるのだが。
彼らの横で今さら(?)悩むシャロン。「オーッス!!元気かおふくろ!?……でもねーか。メソメソすんのもヤだしな、みんなとはパターン変えなくちゃ。オーッス!!元気で踊りまくってる? イェーイ! ……おふくろの声モロ聞いたらオレ、泣けちゃうだろーな」
「ママー」「もうすぐよ、もうすぐ会えるのよ」「いやー、いますぐあいたいもん」
どう挨拶するか、「重く」なりたくないシャロンの「泣けちゃう」というセリフも全員の気持ちを代弁しているが、それにもましてルチーナの「今すぐ」が彼らの道のりの長さを示している。それにしても、通信にタイムラグがないのは、単に近くにいただけだからなのだろうか。
「おふくろ…か」とつぶやくバーツの両親は生死不明だったが、「オレのおふくろなんかもうメロメロでよ」としゃべっているところを見ると、どうやら(最低お母さんだけでも)健在らしい。一生悔いを残すことがなくてよかったね。
その頃大人の話は終わっていて、「お互いあの子どもたちに対して恥ずかしくないだけのことはしたいものです」とジェダ。
子どもたちが喜びとうれし涙にひたっている間に、カチュアはまさに一生をかけた決断をした。たしかに地球に行っても色眼鏡で見られるのはまちがいないだろう。しかし、それはククトに行っても同じことだ。いや、だからこそ、本当の両親に会えるほうを選んだのだろう。こう言ってはなんだが、どうせ地球に行っても身よりはないのだし。どっちにしろ、彼女が自ら下した決断なのだ。彼女の旅はまだ終わっていない。みち半ばと言ってもよい。しかし何といっても彼女はまだ若い。悲観的になるには早すぎる。ククトの生活にもきっと早くなじんで、そして両親を捜せることだろう(OVA第4巻ではどうなったんだろう?)。
異変に気づいたロディたち。ここで地球軍兵士のセリフがアレだ。「和平派だかなんだか知らないが、自分のほうから先、手出しておいて今さら和平はないよな」地球軍の上層部はいまだ、地球側が先に手を出したことを公表していないんだろうか。この点、事の真相を知っている子どもたちはやっかいな存在かも。
それはおいておくとして、「そんなはずはない」ってねー。「ないわ…! カチュアとジミーの荷物」このあたりで髪がなびくロディはまたもや手塚調だ。彼の目の前で船は離れて行く。「向こうに行くならなんとか言ってくよな」とケンツがつぶやく。
ククト艦の中では「巡航速度になるまで地球軍に油断するな」とお互い完全には信用していない感じのジェダ。ブリッジにはまさしくカチュアたちが。「あなたたち、本当に後悔しないのね?」とたずねるデュボアにうなずく2人。「カチュアと一緒に行く」「わかったわ、もうきかないわ」
ロディ、バーツ、スコットの3人がブリッジで連絡をとる。「なんですってそっちへ乗ってる?」「私たちが黙って出てきたのも、あなたたちみんなが喜んでいるのに邪魔したくなかったからよ」「カチュアは自分の意思でそう言いだしたんですか!?」カチュアの決心を聞いていたく驚くロディ、そりゃあそうだろう。自分の浅はかさを反省しなさい。まるでロディよりカチュアのほうが年上みたいだ。
「カチュアをここに出してください」だがそれはこばまれる。「今はそっとしておいてあげて」みんなと一緒に行きたい気持ちはじゅうぶんある、それなのに迷ったすえに自分で一番いいと思う方法をとった、それなのにカチュアが彼らの声を聞いたら気持ちが揺らいでしまう、それは酷というもの、とデュボア。彼女が2人については責任を持つと言う。
「カチュア、答えてくれ! どうして、どうしてなんだ!?」自分で考えなさい。
マキが、カチュアが兵士にあずけた紙飛行機とテープを持ってくる。結局全員ブリッジに。
「わたし、みんなと別れるのはつらいけど、いま地球へ行ったら自分の生まれたところへ2度と戻れないような気がするの。そしてわたしもみんなと同じように本当の両親に会いたい。……でもきっと会えるわ、必ず会える。だからさよならはわたし言わない。いままで本当にありがとう、みんな」
そしてジミーはケンツに弟になれなかったことを謝り、ハーモニカの高いミが壊れていることを伝える。
走り出すケンツ、「バカヤロー、戻ってこーい!」ここまでで無音で、ここから流れる音楽がティンパニ(?)がドロドロと鳴って始まるのが効果的。「おれんち来るって言ったじゃんかよー!!」「ケンツ、メソメソすんなって、サヨナラ言ったわけじゃねえんだ。……くそったれ」
カチュアとジミーにお別れを言うこともできずに、ただ見送るしかない11人。そしてふと思いつくロディ。「みんな手を貸してくれ」
「わし個人としても賛成したい」ってわかるようなわからないような。「船首回頭」「砲塔がこっちを向いた」「撃ってきます」「そんなはずは!」「回避しろ!」「待ってください、熱弾ではありません。……紙のようです」
あんなに短時間でどうやって折ったの? とか、大砲から撃ち出せるの?とか、宇宙空間でまっすぐ飛ぶの? とか、紙が光るの? などという疑問をはさんではならない(最初のは兵士たちに「全面的に協力」してもらったんだろうけど)。「13人の気持ちが一つになった」、「彼らの思いを託した紙飛行機が飛んでゆく」、「紙飛行機が13人の心をつなぐ」というようなくさい文章がさらりと出てくる場面である。それだけ感動的ということだが、残念なことにそれを正しく伝えるべき言葉が見あたらない。今書いたのは観た人の気持ちをあらわしてはいるのだが、それは観ていない人にはわからないだろう。まあこんな駄文を読む暇を、観る時間にあててください(読んでいただいていることには感謝)。
この辺から「君はス・テ・キ」が流れているが、もったいないことにバンガードの発進シークェンスのセリフがうるさすぎる。もうちょっと音量を絞ってもよかったと思う。
スコットの航海日誌も終わり。「僕たちの旅はいま終わろうとしている。地球へ行けばまたそれぞれに別れて新しい生活が始まるだろう。そういう意味ではカチュアとジミーとはちょっと早く別れたと思えばいい。……どこへ行っても僕たちはいつも13人」。
「地球へ行けばまたそれぞれに別れて……」は結構重要(これと同じようなことを第44話に書いたが、これを聞く前に書いた)。スコットはロディと比べると現実的なようで。カチュアとジミーの身の振りかたについても彼が一番無頓着だった気がする(バーツもロディにつきあってという感じだったと思うけど)。多分、カチュアたち本人の気持ちが第一、大人の手助けが第二で、自分たちの出る幕は第三以後だと思っていたんじゃないかなあ。だからロディみたいにギャラクレーに熱心に頼まなかったんじゃないかなあと。
おそらく13人が一堂に会する機会は年々減っていくだろう。まして全員で冒険することは2度とないだろう(と言いつつOVA第4巻があるけれど)。しかしだからといって彼らの友情が減ずることもない。ここでやめればいいのに、フレッドとロディのセリフを入れたのは、第1話と対比するためなのだろうか。
今回、松下浩美作画が目についた気がする。ところで最後の場面、1人(1カップル)ずつ作画した人が違うように見えるのは僕だけ? あと紙飛行機を見つめるカチュアの目の下の影がこわいとずっと思っているんだけど……。
新解釈――地球軍の軍艦には折り紙を自動で折る装置が備えつけられている(普段はもっぱら千羽鶴を折るのに使われている)。あるいはナプキンを自動でたたむ装置のほうが現実的か。
原画
渡辺浩、松下浩美、山内則康、斎藤格、神志那弘志

Vd: 2000.5.7, Vd: 1998.8.13