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No.157 大雪山(旭岳2290m後編
平成15年(2003年)8月6日〜10日 第1日〜2日は晴れ第3日以降は雨(台風)


大雪山 略図台風接近・断腸の思いで下山

第1日=羽田…旭川空港-《バス》‐旭川駅-《バス》-旭岳温泉(自然探勝路散策) 第2日=旭岳温泉〜旭岳ロープウェイ駅…姿見駅〜旭岳〜間宮岳〜荒井岳〜松田岳〜北海岳〜白雲岳避難小屋 第3日=白雲岳避難小屋〜小泉岳2158m〜赤岳2078m〜銀泉台-《バス》‐層雲峡温泉 第4日・第5日=層雲峡温泉…上川駅…東京駅
 【歩行時間: 第1日=1時間30分 第2日=6時間 第3日=3時間10分】
 → 地理院地図(電子国土Web)の該当ページへ


*** 前項 大雪山(前編) からの続きです ***

●第3日目(8/8): 未明の午前4時頃、完全に目が覚めた。天気は大荒れ、雨と風だった。昨日は物静かな白雲岳避難小屋の若い管理人さんだったが、今朝は大きな声を出している。
 「台風が向かっている。風向きが変化している。天候はこれ以上は良くならない。益々ひどくなるばかり。下山するなら今のうち、なるべく早いほうがいい!」
白雲岳避難小屋のテント場
テン場(前日撮影)

ただっ広い荒野にポツンと標柱が…
小泉岳山頂
 佐知子が蒼白い顔で私に 「トムラウシへの縦走をあきらめて、下山しようよ」 と言った。私は素直に 「そうしよう!」 と答えた。佐知子が瞬間不思議そうな表情をした。
 私は何時でも、大事な決断を下すときには、特に佐知子に対しては、逆のことを云ってみたり、万に一つの可能性についてあれこれと喋ったり、つまり優柔不断なのだ。このとき佐知子が不思議そうな顔をしたのも無理はない。じつは、私は、昨夕からずっと携帯ラジオのイヤホーンで天気予報を聞いていたので、既に断腸の思いで下山を覚悟していたのだ。問題は下山ルートだった。
 時間的には高根ヶ原、又は緑岳を経て高原温泉へ下るコースが最も早いのだが、下山後の交通が不便のようだしヒグマも恐い。で、ここは迷うことなく道のしっかりとした(と思われる)銀泉台コースを選んだ。管理人さんから 「雨よりも風に注意してください。赤岳から雪渓を過ぎて樹林帯へ入れば、もう安心ですよ」 とアドバイスを受けた。
 パンとスープで自炊の朝食を済ませ、サーモスには熱いコーヒーをたっぷりと入れる。午前6時15分、雨具に身を固めて小屋を出た。
 視界は約50メートル。思ったより状況は良い。昨日観賞した花などを横目で復習しながら、もと来た道を白雲分岐まで登り返し、少し立ち止まって標板をしっかりと確認してから、右へ折れてなだらかな小泉岳へ向かう。いよいよ吹きっさらしの風衝地帯だ。強い風だが、吹き飛ばされるほどではない。しかし、横殴りの雨が顔に当るととても痛い。重心を低くして一歩ずつゆっくりと進む。
 「大雪山の父」と呼ばれた小泉秀雄の名をとった小泉岳の山頂は、ここが山頂? というほどのつつましいものだった。赤ザレの荒涼とした広い礫地のなかにポツンと標柱が立っていただけだった。
 日本では大雪山と富士山の山頂部にしか見出されていないとされる永久凍土。この高原一帯の地下にも約20メートルの厚さといわれる永久凍土が存在しているらしい。冬の大雪山の極寒を推し量りながら、凄い処を私達は歩いているんだな、と思った。実際、雨と風で今は“凄い処”なんだけれど…。

*** コラム ***
小泉秀雄について

白雲分岐付近から小泉岳を望む
小泉岳2158m
 大雪山群のなかには大雪山にゆかりのある人の名を取った山が幾つかある。明治・大正の文学者大町桂月の黒岳沢初登攀を記念して名付けられた桂月岳、江戸末期の北地探検家間宮林蔵の間宮岳、大雪山初期の探検家松田市太郎の松田岳、そして「大雪山の父」とも呼ばれる小泉秀雄の小泉岳、などで、何れもあまり目立たない山、というのも面白い。
 この(大雪山にゆかりのある)人物のなかで、不遇の植物学者でもある小泉秀雄(1885〜1945)という人物に私は大変興味を覚えた。大正年間に、それまではほとんど未知とされていた大雪山一帯を単独で踏査した業績はあまりにも立派だ。彼は大雪山の調査に際し、それまで無名であった小さな峰頭や池沼などにも名称を残していった、という。現存する山名のほとんどが小泉秀雄の命名したものである、というのも驚きだ。晩年は共立女子薬専(現在の共立薬科大学)教授として東京に住み、現職のまま昭和20年1月18日、敗戦の色が日増しに濃くなる中、59歳の生涯を閉じたという。小泉秀雄のよき理解者であるとともにスポンサーでもあった旭川の実業家・荒井初一氏の名を冠した荒井岳というのがあるのも、面白いと思う。

黒々とした赤岳
赤岳2078m

雪渓の縁を下る
下山道にて

ショッキングピンクの花色です
エゾコザクラ
 黒々とした岩塊の赤岳を通り過ぎ、雪渓の縁に沿ってなだらかに下るとコマクサ平だ。その名の通りコマクサが群落してあちこちに咲いていた。ここのコマクサの最盛期は7月中・下旬とのことだったが、まだ充分に花を楽しめた。
 「…こういう大きな原が大雪山の中にはたくさんある。内地へ持ってきたら、それ一つだけでも自慢になりそうな高原が、あちこちに無造作に投げ出されている。この贅沢さ、この野放図さが、大雪山の魅力である。…」 と故深田久弥氏は述べられている。私達は無条件に、その通りだと思った。
 雪渓を幾つか下る。ガスはそれほどでもなく視界は開けていたので、道に迷う心配はなかった。第二花園、第一花園と、チングルマ(綿毛)、エゾウサギギク、ヨツバシオガマ、アオノツガザクラ、エゾコザクラ、などの花を楽しみながらひたすら下る。ウラジロナナカマド(なんと、葉の色づき始めているものもあった)やダケカンバの樹林帯へ入ると、風は全く収まって、小屋番さんが言った通り、もう何も心配はなかった。
 銀泉台ヒュッテに下山届を提出したのは午前9時45分だった。当初諦めていた9時50分発の層雲峡行きバスにギリギリ間に合った。一日に2便しかない定期バス。これを逃すと次の16時発になってしまうところだった。ここのコースタイムが少し甘いのに救われたかも。とにかくホッとした。
 何時しか雨は小降りになっていた。

 表大雪縦走の夢破れた私達の“大雪山の山旅”はこれで終わるのだが、じつは本当の試練はこれから始まったのだった。この日は急遽予約した層雲峡温泉に一泊したのだが、それがいけなかった。その日のうちに即、東京へ向けて帰宅の途につくべきだった。翌日からは本州を北上している台風10号の影響で、飛行機は当てにならない存在になっていた。
 翌朝(8月9日)、そそくさと宿の食事を済ませ、(欠航の予想される飛行機をあきらめて)安全策の陸路をとった。しかしその陸路も台風と真っ向からぶつかってしまったのだ。
 層雲峡からバスで上川駅へ出て、旭川〜札幌〜函館駅までは順調だったが、津軽海峡を渡った頃からJRのダイヤは大幅に乱れてきた。青森駅で数十分、野辺地駅では約2時間半待たされた。とにかく物凄い雨だった。八戸駅からは臨時の新幹線が走ったが、これも盛岡駅止まりで、とうとう私達はJRが用意してくれた新幹線の車輌の座席で夜を明かす羽目になった。盛岡駅の駅長さんや駅員さんなどは、食事や飲み物を用意してくれたり、夜を徹して私たち乗客のために尽くしてくれた。そのJRの誠意は感謝して認めたい。
 パニック状態の鉄道で北海道から東京まで、という貴重な経験をしてしまった私達夫婦だった。盛岡駅から、やっと正常に動き出した東北新幹線。台風一過のスッキリと晴れ渡った空。朝日を浴びてくっきりと聳える岩手山の左裾には、半円形の大きな虹が、しかも二重に、見えていた。と、なにやかやで、東京駅に着いたのは翌々日(8月10日)の午前9時半頃になってしまったが、この日が日曜日だったのはサラリーマンの私にとっては不幸中の幸いだった。

 この台風10号による北海道の被害はかなりのものだったようだ。その被害情報の中に、日高山脈の幌尻岳に登った登山客35人が中腹の山荘に足止めされている(うち北大生6人は自力で下山)、というのがあった。自衛隊のヘリコプターで救出されて全員無事だったらしいが、そのほとんどは私達が下山した8日に(無謀にも)山へ入ったハイカーたちらしい。
 帰宅後にそのニュースを聞いて、大雪山の白雲岳避難小屋で下山を決意したときの自分達の気持ちを思い出して、内心ヒヤリとした。

「銀河の滝」の付近にて
層雲峡を見学
層雲峡温泉「湯元銀泉閣」: バスで旭川駅から1時間50分、上川駅へは35分、銀泉台からは55分だった。石狩川の最上流に位置し、断崖絶壁の渓谷美が魅力の道北最大の温泉郷。大雪山黒岳へのロープウェイの基地でもある。私にとっては35年ぶりの層雲峡だった。断崖絶壁の柱状節理は昔のままだったが、温泉街などの様子はガラリと変わったようだ。昔から天人峡などと較べると発展していたような記憶もあるが、それにしても随分とモダンな街並みになってしまったものだ。なんでも平成10年夏、「層雲峡キャニオンモール・ホットハット」に生まれ変わったとのことだった。
 層雲峡に着いて、まず私達は観光案内所を訪れた。美人の受付嬢が親切に相談に乗ってくれた。部屋食、ということと「湯元」という肩書きに惹かれて私達が選んだ温泉宿が「銀泉閣」だった。純度100%の天然温泉、が自慢だとか。単純硫黄泉の湯は殆ど無色透明無味無臭。ぬる湯好きの私達には少し熱すぎた。石タイル貼りの内湯と露天風呂。前庭には足湯もある。1泊2食付き一人10,000円だった。
 宿に着いたのはまだお昼前だったので、ザツクを預けてキャニオンモールで食事をしたり、歩いて「流星の滝」や「銀河の滝」などの層雲峡見物をした。その間、(多分)心配している筈の家族に予定変更の連絡をした。それから、予約してあった帰路の飛行機やトムラウシ温泉のキャンセルなど、けっこう忙しかった。
* この後(H23年4月)、この湯元銀泉閣はブリーズベイホテルグループに吸収されたようです。[後日追記]
  「湯元銀泉閣」のHP



白雲岳避難小屋の夕べ(第2日目)
私達を誘うように・・・見えていた・・・
↑ トムラウシがチラッと見えた!
小屋裏のテーブル付きベンチにて
さぁ〜夕飯(カレーライス)だ!
白雲岳避難小屋
食後…寒くなってきたかも…
ちょっと寒くなってきた
バックは白雲岳です

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