No.159-2 八海山1778m 滑落編 平成21年(2009年)9月16日 |
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→ 地理院地図(電子国土Web)の該当ページへ 6年前にギックリ腰で(女人堂から)無念の中途退却をした八海山(→ 前項「八海山・敗退編」)に、単独で再挑戦することにした。新幹線とタクシーとロープウェーを利用しての大名登山で、交通費がべらぼうになってしまうことが予想されたが、あの越後の名峰・八海山に東京から日帰り登山ができるのだから、まぁいいかの心境だった。こののほほんとした(緊張感のない)気持ちと、その日のうちに帰らなくてはいけないという時間的な焦りが、後から考えると、稜線(八ツ峰)からの滑落という大事故につながったと思い当たった…。 東京駅から午前7時発の上越新幹線「とき303号」に乗り、越後湯沢駅で北越急行・ほくほく線に乗り換え、六日町駅のホームに降り立ったのは8時41分。なんと1時間41分で、もう六日町なのだ。北東の方向には雲を被った八海山が聳えている。 六日町駅前からの乗り合いバスは連絡が悪く、時間短縮のためタクシーを利用することにする。辺りを見回しても駅前広場でウロウロしているのは私だけなので、同乗者を誘うことができないのがちょっとシャクだった。 米どころの六日町盆地をタクシーは快調に走る。一面の田んぼには刈り入れを1週間後に控えた稲が黄金色に実っている。 「これって全部、つまり、南魚沼産コシヒカリですか?」 と運転手さんに聞いたら、「そうだよ! 昔はいろいろな種類の稲を植えていたけれど、種の改良が進んで今ではコシヒカリだけでも育てることができるようになったんだよ」 と教えてくれた。よだれの出てきそうな美味しいコシヒカリの話題を暫く会話したあとに、「車の窓などが濡れていますが、今朝降ったのですか?」 と聞いたら、「そうだよ! 朝雨は女の腕まくりだよ(朝雨と女の腕まくりはたいしたことがない)」 と教えてくれえた。私が面白がって聞くものだから、この初老のタクシーの運転手さんは 「朝テッカリ(晴れ渡っている様子)と姑のニッコリはあとが恐い」 という格言も教えてくれた。
薬師岳は三等三角点(点名:八海山)の山であり、ここにも霊神塔や不動尊の銅像などがある。少し先に千本檜小屋があり、ここで大休止にした。数組のハイカーが休憩していたが、私以外はここから引き返す組のようだった。小屋の管理人さんが今日は不在だということはロープウェーの改札口で担当の職員から聞いて知っていた。隣接する避難小屋を借りて、ここにコンロなどの当面必要のないと思われるものをデポしてザックを軽くした。この避難小屋内には毛布などの寝具の備えは無いようなので、シュラフを持参しなかった私は今日中に下山するしかないと悟った。これがまず、焦りのはじめだった。 いよいよクサリ場の続く八海山の核心部(八ツ峰)へ足を踏み入れる。滑りやすい足場だったが慎重に3点確保をしながら進めばそれほどの問題はなさそうだ。地蔵岳、不動岳、と順調に進んだが、七曜岳の手前辺りでますます雨足が強くなり、ガスも濃くなってきた。ずいぶんと迷って山稜に茫然と立ち尽くしたが、ここから先は益々険しくなりそうだし、断腸の思いで引き返すことにした。良い天気の日にまた来ればいい、と決断したこと自体は正しかったと思う。 引き返すと決まったらほっとして、足元に咲いているミヤマコゴメグサやミヤマダイモンジソウなどを観察したり写真を撮ったり…、よそ見をしていたまさにそのとき、ナイフリッジの稜線から西側(左側)に足を踏み外して、ふわっと身体が浮いた。自分の身体が無重力になってゆっくりと回転している。…凝灰岩の岩壁とササの急斜面を転げ落ちたのだ。今にも「ガツン!」とくる! …つまり、瞬間「死」を覚悟した。 20m〜30mほど落ちて、そして(多分)灌木の上を滑って…偶然にも足から着地して…奈落の底の寸前で止まった。(あとから思い出すと、幅30cm〜50cmほどのバンド(岩棚)だったようだ…。) 運がよかったのだ。目の横に落ちている(引っかかっている)帽子を拾い、外れかけている腕時計をカッパのポケットにそっと仕舞った。案外自分は冷静だ。そして恐る恐る、自分の身体がどうなっているのかを点検した。頭もどこも強くは打っていない。足も腕も動くし指も動くようだ。それから周囲を見回して現状を把握しようとした。足元の真下は岩盤で谷底へ続いている。 「大きく動いては危ない!」 と思った。 実際、どのくらいの落差を転落したのかこの段階ではよく分かっていない。2〜3分間、じっとして考えた。平日で、しかも悪天候の八ツ峰の稜線部である。声を出しても近くを歩いているハイカーはいないと思った。といってここでフォーストビバーク(緊急野営)するのは危険だ。ツエルト(簡易テント)はザックに入っているが、地形が全然不適切だし、雨に濡れた身体でここで一晩を過ごすことは死と戦うことを意味する。矢張り自力でこの泥と岩の壁を這い上がるしかない、と覚悟した。 それからは、私の拙い登山技術を総動員して、一歩ずつ攀じ登っていった。主なホールドはササの茎で、スタンスはキックステップを駆使した。潅木類も交じった強烈なヤブコギ箇所もあった。殆ど垂直に見える岩壁はトラバースした。ササの根が曲がっているから、これはネマガリダケ(チシマザサ)だ。と、こんなときにササの同定をしている自分は少しおかしい…。 予想以上の標高差だった。途中2回ほど 「もうだめだ。これ以上は登れない!」 という箇所があったが、息を整えて更に横に這っていったら微かにルートが見えてきた。登山道があると思われる稜線が頭上にぼんやりと見えてきたときは 「ヤッター!」 と思った。しかしそこからの岩壁が、実際は最大の難所だった。 ようやく登山道に這い上がったときは、ちょっと虚脱感でふらふらした。ふと気付くと、自分が着ているカッパや辺りの地面が雨水に交じって真っ赤になっているので、これは何かと思った。膝から血が流れているが、それほどの量ではない。…それが私の左指から吹き出ている鮮血だとわかるのに少し時間が流れた。攀じ登っていたときに(あるいは転落中に)、動脈を切ってしまっていたようだ。とりあえずタオルをきつく巻いて止血処置をした。間もなくそのタオルも真っ赤に染まってしまったが…。 じつは、滑落する数秒前に登山道脇のオヤマリンドウの写真を撮っていた。そのときのデジカメに記憶されている時間と稜線へ這い上がってから写した写真の時間の差ではっきりとしたのだが、この間約16分間だった。私は30分にも1時間にも感じたのだが、意外と短い時間だったのだ。もっと長い時間、出血に気がついていなかったら、私の身体はもたなかったかもしれない。あちこち傷だらけ血だらけになっていたが、奇跡的に致命傷はなく、骨もどこも折れていなかった。おまけにデジカメや腕時計やザックの中の携帯電話なども無事で、無くし物は胸ポケットに入れておいた老眼鏡とエンピツだけだった。私は本当に幸運だった。九死に一生を得たのだ。(ちなみに、滑落前に撮ったオヤマリンドウの写真も這い上がってから撮った景色の写真も、何れも超ピンボケだった。) いつしか雨は止んでいた。 16時30分発のロープウェー最終にはなんとか間に合ったが、山麓駅からの最終バスはもう出てしまっている。仕方がないので山口バス停までアスファルトを歩こうとしていたとき、閑散とした売店(ベースキャンプ)の従業員に声を掛けられた。ここでも私はラッキーだった。山口バス停までは歩くと30分はかかってしまうので、車で送ってくれるというのだ。 ここも閑散とした山口バス停前で降ろされたとき、「あのぉ〜、おいくらほど…」 と聞いたら 「いらない!」 とのこと。まったくの善意だけで私を送ってくれたのだ。身体も心も疲れ切っていたところだったので、この善意は本当に嬉しかった。 17時10分発の六日町駅行きのバスまでにはまだ時間があったので、さきほどの売店で買ってきた缶ビールを、バス停脇にしゃがみこんで、一人ぽつんと、チビチビと飲み始めた。軽いめまいを感じたが、それは五臓六腑に沁み込んだ。思い出して、ザックからつまみの煎餅を取り出してびっくりした。持参した煎餅は跡形もなく粉々に砕けていたのだ。とたんに足の震えが止まらなくなり、やがてその震えは私の身体全体へ伝わっていった。 * 下山後は六日町駅にほど近い「中央温泉」(入浴料250円)へ立ち寄る予定でしたが、傷だらけの身体になってしまって、時々めまいを感じたり目の前が真っ暗になったり(多分貧血気味だったと推測しますが…)したこともあり、この日は真っ直ぐに帰宅の途につきました。
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