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ネパール ヒマラヤ トレッキング
No.177 エベレスト街道 前編
平成17年(2005年)4月13〜24日 乾季

エベレスト街道 略図
高山病やカルチャーショックと闘いながら
“Top of the World”を見てきた!

I did not climb Mt.Everest … but touched it with my heart!

カトマンズ(泊)-《飛行機・1時間弱》-ルクラ〜パクディン(泊)〜ナムチェ・バザール(泊)〜シャンボチェ〜キャンズマ(泊)〜タンボチェ(泊)〜小ピーク4198m〜タンボチェ(泊)〜ナムチェ・バザール(泊)〜ルクラ(泊)-《飛行機》-カトマンズ(市内観光等)… 【歩行時間: 1日あたり 3〜7時間】


 私達夫婦も人並みに、世界の最高峰エベレスト(ネパール名サガルマータ・中国名チョモランマ)を一目でいいから見てみたい、とずっと思ってきた。昨年の晩秋に定年退職した私に、私達自身が与えたご褒美が、ヒマラヤトレッキングツァーへの参加だった。
タンボチェからエベレストとローツェを望む カトマンズの北面に大きく広がるネパール・ヒマラヤには西から東へアンナプルナ、ランタン、クーンブなどの山群があるが、私達が選んだのは勿論クーンブ山群(エベレスト山群)だった。この山群にはエベレスト8848mをはじめ世界4位のローツェ8516mなど、ネパール・ヒマラヤにある8000m峰8座のうち4座が含まれているという。私達が歩いた人気のトレッキングコースは通称「エベレスト街道」と呼ばれていて、あのヒラリー卿や田部井淳子さんも歩いた道だ。
 出国に際して少し心配だったのは、ネパール王国は現在政情不安の状態にある、ということだった。しかし、ツァー会社の説明によると、外国の旅行者をテロリスト(マウイスト・反政府共産主義組織)が襲ったという事例は今までに一度も無いという。外務省のホームページで調べてみても、西部地区などにかなり危険な地域はあるが、ヒマラヤ方面の山岳地帯はその安全面に於いて全く問題が無いという。実際、私達が現地で見聞きした範囲では、ネパールは多種多様な民族間の争いや宗教上の争いも全くといっていいほど無いという、一見穏やかな国柄だった。
 * ネパールの情勢は刻々と変化しているようです。 ご留意ください。[後日追記]

旅立ち 日本…上海…カトマンズ

 4月13日: 早朝、東京の自宅を出て羽田空港からANAで関西空港へ。ここでツァー参加の全員10名が揃い、ツァーリーダーのTさん(40歳)に引率されて、空席の目立つロイヤル・ネパール航空上海経由の直行便でネパールの首都カトマンズへ向かう。
 ツァー参加者の内訳は、皆さん定年を過ぎた方たちで、一番若いと思われる私達を含め夫婦が3組、単独参加が4名(男性1名女性3名)、出身は北は北海道から南は九州まで、何れも足に覚えのある中高年のメンバーだ。
 ネパールは6月から9月までがモンスーンと呼ばれる雨季で、現在はトレッキングに最適な乾季の最中だという。旅立ちは、何時でもそうなのだが、期待と不安が同居する不思議な高揚感に包まれる。
 カトマンズの空港に降り立ったのは現地時間の20時頃(日本時間23時15分)。時差は3時間15分で、それほどの時差ボケはない。厳重な入国審査を経てから、古い大型ワゴン車で王宮の近くにあるラディソンホテルへ向かう(約15分)。車窓などから眺めた埃っぽい街の様子に、早くもカルチャーショックを受けはじめる。何気に、日本製の物凄く古い車や(インド製の?)オート三輪車に交じり、ウシも糞をしながら歩いているのだ…。

ロッジやバッティ(茶店)が立ち並ぶ
ルクラの街

「ナマステ!」と挨拶してくれます
シェルパ族の子供

宗教的な表象物が随所にあります
マニ車

荷を運ぶゾッキョ(ウシとヤクの交配種)
ゾッキョ

玉咲き桜草:サクラソウ科の耐寒性宿根多年草
タマザキサクラソウ

この辺りは、何故か日本的な風景・・・
ドウード・コシの谷

天空の街:ナムチェ・バザール
ナムチェへ到着!

トレッキング開始 カトマンズ…ルクラ〜バクディン

 4月14日: 未明の4時に起床。流石に5ツ星のホテルのことはある。快適な朝だ。
 バイキング形式の朝食をそそくさと摂り、薄明るくなりだした5時30分、荷物を整理して再びカトマンズの空港へ。双発の小型プロペラ機(17人乗り)でフライト小1時間。左の機窓からヒマラヤの壮大な山並が見え始めて間もなく下降が始まり、谷間の狭い斜面上に着陸する。まるでスキー場のゲレンデのような滑走路だ。これが空港か、と思えるほどの小さな空港を擁する山村、ここが現在のエベレスト方面の玄関口となるルクラ(標高2827m)だった。一休みの後、午前9時頃、長いトレッキングの第一歩を踏み出す。既に前方にも後方にも白銀の巨大な岩山が聳えている。
 「ナマステ!」 と、行き交う現地の人たちや他国のトレッカーたちが挨拶をしてくる。子供たちも満面の笑みで 「ナマステ」 と声をかけてくる。何時しか私たちも 「ナマステ」 と返事を返すようになってくる。ゾッキョ(ウシとヤクの交配種)が重たそうな荷を背負ってひっきりなしに行き交う。大きな体の大きな瞳がなんとも云えず可愛らしい。そのゾッキョの糞があちこちに落ちている。建物は全て石を積んで建てられているようだ。ここは紛れもなく異国の地、ヒマラヤ・エベレスト街道なのだ、とそのとき思った。
 ツァーリーダーのTさんを含め11名の私たちを終始サポートする現地スタッフは、常に私達と行動を共にするサーダー(スタッフリーダー)以下シェルパ(ガイドの通称)5名、100Kg以上の荷を竹籠に入れて担ぐというポーター2名、コック長をはじめとするキッチンスタッフ(コックとキッチンボーイ)8名、荷を運ぶ3頭のゾッキョを操るゾッキョドライバー2名など、何と17名に及ぶ。つまり総勢28名と3頭の大パーティーだ。私たちトレッカーが背負うザックの中身は、冬の奥多摩や奥武蔵を日帰りハイキングする程度のもので充分。まるで大名登山だ。
 考えさせられた。サーダーやコック長以外のスタッフの日当は一人200ルピー(約300円)だという。一体この金銭感覚のズレをどう解釈すればよいのか、このトレッキングが終わるまでとうとう頭の中はパニクッたままだった。
 街道の幅は1mから4m位で、岩と石階段と乾燥土の割と広い道だった。どんなにしても車が通れる道ではないが、歩くのに支障は無い。日本で云うと、よく整備された登山道、ってところかな。
 この道の歩き方でツァーリーダーから唯一注意を受けたのは、道の中央にチョルテン(仏塔)、マニ車、メンダン(マニ石の行列)などのチベット仏教の表象物があった場合には必ずその左側を通りなさい、と云うことだった。なんか、宗教上の理由(マナー)からのようだった。このトレッキング道は、その街道沿いに点在する村落と村落をつなぐ、原住民の生活の道でもあるのだ。
 約2ヶ月後の6月頃が当地の新緑とのことだが、植生はその数も種類も日本と比べるとかなり少ないように感じた。カシかシイかクスのような木や、マツのような木が目立つ。ほぼ満開のシャクナゲは伊豆の長九郎山で見た京丸シャクナゲよりもっと濃いピンク色で、遠目にはヤブツバキのようだった。小鳥たちも囀っていたが、やはり数も種類も少ないようだった。沿道にはサクラソウ(タマザキサクラソウ)やツメクサのような花が可憐に咲いている。点在する段々畑には今は何も植えられていないが、雨季の始まる5月下旬以降、ジャガイモや小麦、ソバなどの細々とした田園風景が開け、高山植物などが咲き乱れるという。
 途中のタダコシという小さな村落で昼食を摂り、正味3時間ほどの歩程で、この日はパクディン(標高2652m)のロッジに宿をとった。キッチンスタッフたちは常に先回りしていて、大型のラジウス(石油コンロ)で沸かした飲み物や料理を提供してくれる。現地の食材を使った様々な料理が、時には日本人向けに調理したものなどが、盛り沢山に食べきれないくらい出される。高級レストランで食べるような美味では決してないけれど、スタッフの心配りが偲ばれる料理だ。行動中の水分については、そのつど頼めば熱いお湯をポットに入れてくれる。至れり尽くせりだ。
 ロッジで私達夫婦に与えられた部屋は、広い個室にベッドが二つ。詰め込みはしないという。どこかの国の山小屋よりは大分マシだと思った。これが素泊まり一泊100ルピー(約150円)というのだから、もう驚くしか手は無い。
 今日は当地の新年(旧暦2062年1月1日)ということだったけれど、それほど派手な行事はないようだった。

三重苦・四重苦だ! パクディン〜ナムチェ・バザール

 4月15日: 朝食後、7時20分に歩き始める。今日はアップダウンを繰り返しながら標高差約800mを登る日程だ。昨日に引き続き、シェルパ族の「聖なる川」ドウード・コシが流れる大きなV字谷に沿って、長い吊橋をいくつも渡り返し、北へ向かってひたすら進む。正面にクンビラ5761m、右手にタムセルク6686mなどの白峰たちが大きい。道筋にはクロマツのような木に交じりヒマラヤスギのような木も目立ち始めた。
 実は、私は、日本を発つ前日、ちょっとした不注意で右足中指の生爪を剥がしてしまっていたのだ。自己流の治療はしているけれど、ズキンズキンと少し痛い。腰の調子も良くないようでギックリ腰再発が心配だ。五十肩もまだ完治しておらず、高山病も心配だ。おまけに水虫も痒いし痔も痛い。三重苦・四重苦だ。
 「十字架を背負ってゴルゴダの丘を登っているような気分だ」 と云ったら、妻の佐知子はただ笑って聞いていた。
 しかし、いくつかの村落の情景に触れながら歩くことは三重苦・四重苦を席巻するほどの楽しいことだった。特に 「ナマステ!」 とたどたどしく挨拶してくれる子供たちの笑顔がステキだった。それらの村落の一つのロッジを借りて昼食後、暫らく進むとサガルマータ(エベレスト)国立公園入口の関門に辿り着いた。ここで一人650ルピー(約1,000円)の入園料を支払う。いよいよエベレスト街道の核心部に近づいてきた感じだ。
 長い急登が始まる。途中2箇所ほどエベレストやローツェを遠望できる処があり、その度にツアーリーダーのTさんが立ち止まって説明してくれる。初めて眺めた本物のエベレストは、頭をちょこんと出した悪戯小僧のように見えた。
 左手にコンデ・リ6187mの大容量が見えてきて間もなく、急登が一段落すると、その前面に大きな輪となって広がる街が、今日の宿泊地ナムチェ・バザール(標高3446m)だった。家屋数は約100軒とのことで、この街道沿いではルクラに並ぶ大きな街。シェルパ族のお膝元でもあるらしい。この先、こんなに大きな街は、もうない。
 ナムチェ・バザールのロッジに着いて時計を見ると、まだ午後3時前。夕食までの時間、なにやら怪しげな登山用品店や日用雑貨店、チベット仏教具のみやげ物店など、階段状馬蹄形の街並をぐるっと観光してみた。ゆっくりと一周したのだが、あっという間だった。しかし高所のせいか土埃のせいか、呼吸と心臓は辛かった。

忍び寄る高山病の恐怖 ナムチェ・バザール〜シャンボチェ〜キャンズマ

大勢の原住民が買い物をします
ナムチェの朝市

ヤクは高地に強い動物です
ヤク

エベレスト・ビュー・ホテルのベランダから撮影
エベレストが見えた!

限りなくインチキ臭い・・・
これがイエティの頭皮!?
 4月16日: 目覚めると、部屋の窓の正面から、ナムチェ・バザールの街並みのはるか上空に、バカでかい白峰たち(コンデ・リ等のロールワリン山群)が静かに横たわっていた。日の出とともにまずその山頂部がオレンジ色に明るく染まり、時間の経過とともに明るい部分が徐々に下降して広がる。それは全く素晴らしい眺めだった。「6000m峰でこれだもの…、 ヒマラヤって本当にすごいのね」 と佐知子がしきりに感心している。私は、先月の松ノ木沢ノ頭(白毛門)から眺めた谷川岳東壁も同じくらいすごかったよ、と反論したかったのだけれど、やはり云えなかった。見た目の規模は同じくらいでも、その容量の絶対的な差は如何ともしがたい。
 ロッジを出たのは午前7時30分頃。今日は土曜日で当地の休日、だとか。おかげで、毎週土曜日に開かれているというナムチェの“青空バザール”をまず観光することができた。周辺から集まってきた多くの原住民たちが、食糧品や雑貨類などを売り買いしている、まさにその渦中を私たち一行は進むのだ。…それにしても、こちらの人はみな早寝早起きだ。
 街を抜けると急登が始まる。この道はエベレスト・ビュー・ホテルのあるシャンボチェ(標高3720m)へ続く道で、ナムチェなどの子供たちがクムジュン村(シャンボチェの先)にある学校へ通う通学路にもなっている。所謂、世界一の過酷な通学路だ。
 このナムチェ・バザール辺りを境にしてヤク(チベット牛)が増えてくる。ゾッキョは低地(温暖地)、ヤクは高地(寒冷地)に順応しているらしい。
 体力・体調に個人差が出始めて、隊列がばらけてきた。先頭と最後尾には常にシェルパがいて、どんなに早足で歩いても先頭のシェルパを追い抜くことはできないし、またどんなに遅く歩いても最後尾のシェルパ(サーダー)が私たちトレッカーを追い越すことはない。中位にも常に数名の若いシェルパがいて、私たちをサポートする。そのシェルパにザックを預けるご婦人もでてきて、いよいよ高山病の恐怖が私たちトレッカーを襲い始める。しかし、私達夫婦はまだ元気だった。山岳風景を楽しみながら、かなりのトロ足で歩いたつもりだが、それでも常に私達は先頭近くを歩いていた。天空には大きなイーグル(鷲)が2羽、旋回して飛んでいる。
 シャンボチェの丘に建つエベレスト・ビュー・ホテルのベランダからの眺めは壮観だった。ヌプツェ7855mのギザギザした頂稜から頭を出したエベレストやローツェをはじめ、突起の鋭いアマ・ダブラム(母の首飾り6812m)、三角形のかっこいいタムセルク6623mやその左の氷雪の帽子を被ったカンテガ6779mなど、周囲グルっとヒマラヤの大パノラマだ。しかし、この翌日以降にタンボチェから眺めた大景観を思うと、この程度の景色は未だほんの序章に過ぎなかったのだ。
 エベレスト・ビュー・ホテルから30分も北へ歩くとクムジュン村へ出た。ここはヒラリー卿(1953年5月29日・エベレスト初登頂)が創設したといわれる学校があることで有名な処だ。生憎今日は当地の休日で学生たちに出会うことはなかったが、静かな校内をゆっくりと見て回ることができた。可笑しかったのは、この村にあるゴンパ(僧院)を見学したときだ。なんでもイエティ(雪男)の頭皮が保存されている、という。5ルピー(約8円)のドネイション(お賽銭)を支払ったら薄汚い寺男のような人が簡単に見せてくれた。一応写真も撮ってみたが、限りなくインチキ臭いと思った。
 少し下って、山の斜面に建つキャンズマ(標高3600m)のロッジに着いたのは午後3時頃だった。部屋の窓からは眼前にタムセルクが聳える、ここも絶好のロケーションだ。
 私も佐知子も軽い頭痛を感じ始めている。ツァーリーダーのTさんが毎夕毎朝小型の器具で血中酸素濃度を測ってくれる。私達もその値が下がってきているようだ。食欲もあまりなかったが、それでも与えられた食事は胃に入れた。深呼吸をすると幾分楽になるようだ。佐知子が部屋からトイレを往復しただけで、息をハーハーさせている。不安な気持ちで夜を過ごす…。

次項 エベレスト街道(後編) へ続く



コンデ・リ(ロールワリン山群の一峰)を望む
この山もバカでかい大きさです
ナムチェ・バザールの頭上に・・・
ホッと一息の瞬間です
シャンボチェの丘に辿り着く
←↑目イッパイの広角で撮って、これです…

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