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ネパール ヒマラヤ トレッキング
No.177 エベレスト街道 後編
平成17年(2005年)4月13〜24日 乾季

エベレスト街道 略図
遥かな国ネパール そして遥かなエベレスト

I did not climb Mt.Everest … but touched it with my heart!

カトマンズ(泊)-《飛行機・1時間弱》-ルクラ〜パクディン(泊)〜ナムチェ・バザール(泊)〜シャンボチェ〜キャンズマ(泊)〜タンボチェ(泊)〜小ピーク4198m〜タンボチェ(泊)〜ナムチェ・バザール(泊)〜ルクラ(泊)-《飛行機》-カトマンズ(市内観光等)… 【歩行時間: 1日あたり 3〜7時間】

 * 前項 エベレスト街道(前編) からの続きです

高山病と闘う キャンズマ〜タンボチェ

正式名はイリス・ケマオネンシス(アヤメ科)
チュミネンド(アイリス)
正式名はイリス・ケマオネンシス

台地上にあるタンボチェ
タンボチェに着く

丘の上に建つロッジ:バックはタムセルク
タンボチェのロッジ

タンボチェ・ゴンパ(僧院)の前庭です
ゴンパの建物
 4月17日: キャンズマの朝。熟睡したが目覚めが悪い。頭痛は消えたようだが食欲はない。しかし、キッチンスタッフが丹精して料理したスープや粥を口に運ぶと、けっこう美味しく食べることができる。まだ私の高山病は軽微のようらしい。メンバーの中には流動物以外は全く喉を通らない人や下痢に苦しんでいる人もいたようだ。この時点では妻の佐知子もまだ、辛うじて元気だった。日本を発つ前、もしもどちらか一人が高山病にやられたら、いっしょにそこに留まるか、手前のロッジに下りようね、と話し合っていたが、どうやら今回の目的地のタンボチェ(標高3867m)までは行けそうだ。

 午前7時、未だ夜明けの寒さの残る中、歩き始める。ベージュ色の土の上に白粉をふりかけたような霜が降りている。短い区間だったが林の中を通過した。ダケカンバのような木は、まだ緑の新芽を出していない。ツガのような木々にサルオガセのような地衣類が絡み付いている。赤いシャクナゲも咲いていた。やがて林を抜け太陽が照りだすと、灰のような細かい土埃の舞う乾燥した岩道に、あっという間に戻ってしまった。今日も喉が痛い。
 標高が上がってきてから随所で見られる木があった。ハイマツの葉がスギの葉、といったら尚更分かりにくくなりそうだが、そのハイネズにも似た木の名前をシェルパに聞いてみると「シュパ」と答えが返ってきた。香りの良い葉で、現地では焙って「香」に使っていた。私達はこの高山性の常緑針葉低木を「ハイスギ」と命名した。
 展望が特に優れているというゴーキョ・ピ−ク5463mへの道を左に分け、道はいったんドゥード・コシの谷をトラバースして下る。吊橋を渡り、下りきった谷底の小さな村落がプンギ(標高3250m)で、その前を流れる小川にはいくつかの小さな水車小屋があり、チュド(水車)が音を立てて回っている。粉でも挽いているのかな、と思って覗き込んで驚いた。その水車で回していたものはマニ車だったのだ。当地で暮らす人たちの宗教心の重さを、期せずして推察した。
 大きな谷の分岐を右へ進み、ド迫力の山岳風景に見惚れながら、いよいよタンボチェまでの標高差約600mの急登が始まる。聖なる山や湖、峠や丘などの神聖な場所に飾られるという5色のタルチョ(祈祷旗)が、あちこちで風にたなびいている。
 ナメクジのように、半歩ずつ、ゆっくりとノロノロと登る。バテバテの私たちの脇を、重たい荷物を担いだポーターや原住民の婦人たちがヒョイヒョイと追い抜いていく。彼らの履物はスニーカーで、中にはサンダル履きの人もいる。スゲーなぁ、と、ただ感心するばかりの私達だった。道端にはアイリス(背の低い小さなアヤメ・現地の人はチュミネンドと呼んでいた)が今を盛りに、可憐に、しかしゴージャスに咲いている。ツメクサのような花も、数は少ないが、相変わらず咲いている。右手にはタムセルクの絶壁が凄まじいばかりの高度差で聳え、前方のエベレストやローツェやアマ・ダブラムが段々と近くになってくる。
 360度の大パノラマが開けるタンボチェの丘に辿り着いたのはお昼の12時半頃だった。数軒の建物が建つ台地の彼方にエベレストは聳えていた。昼食後は自由時間だったので、あちこち散歩して展望を楽しんだり、ゴンパ(僧院)を見学したりして過ごした。タンボチェは生活の臭いはあまりしない。ゴンパと数軒のロッジなどがあるだけの、思っていたよりはずっと閑静な処だった。
 何回もタンボチェの丘に登ってみた。四方にドスンドスンとドでかい岩山。見上げると首が痛くなるほどの山々の高さ、谷の深さ、そして底知れぬそれらの広がり…。これがヒマラヤなのだ、と思った。左右にある黒っぽい山々は5000m峰級だと思うけれど、それらのピークの一つ一つには山名が無いという。多分、槍ヶ岳や穂高岳や北岳程度だと、当地では「名もないピーク」ということになってしまうかもしれない。
 私たちが明日めざす予定の小ピークも名無し山中腹の名無しピーク4198mだ。その小ピークがここからくっきりと見えている。よく見ると乳首のように見えたので 「そうだ、あの小ピークをヒマラヤ乳頭山と名付けよう」 と私は佐知子に提案した。佐知子の乾いた笑い声が聞こえた。
 ここは既に富士山より標高は高い。今回の海外山行の目標の一つが、とりあえず達成された。「やったね!」 と佐知子と目を合わせたが、何気に彼女の顔色があまり良くない。唇が紫色で、チアノーゼもでているようだ。今日もまた、なんとなく不安な夜を過ごす。

小ピーク4198mへ登る タンボチェ〜小ピーク〜タンボチェ

タンボチェから見た小ピーク4198m
「乳頭山」と名付けた

展望抜群です
小ピークにて

高所順応してしまった私です
やったぜ!標高4198m

ローツェ(右)にちょっと雲が・・・
小ピークからエベレスト

タンボチェからカンテガ〜タムセルク方面を描きました。
私のスケッチです(^_^;)

バックはエベレスト、ローツェ、アマ・ダブラム
タンボチェにて

ゲッ!オート三輪車だ!
カトマンズの街
 4月18日: パーティーの面々は絶不調のようだった。佐知子の体調も決して良くない。しかし、私は絶好調だった。昨日までのけだるさも完全に消え、食欲も出てきた。剥がした足指の生爪は完全に付いたようだし、腰の調子もいい。水虫も痒くないし痔も痛くない。あまり元気にしていると皆さんからヒンシュクを買いそうだったので、発言を自重していたくらいだ。ツァーリーダーのTさんに 「Tamuさん、今度っからシェルパやったら?」 とからかわれた…。
 午前8時、小ピーク4198m(ヒマラヤ乳頭山だ!)をめざし出発。メンバーの一人(ご婦人)は症状が重く不参加で、トレッカー10名とシェルパ5名の編成になった。
 開花前のシャクナゲ林の脇を通りタンボチェの丘に出る。ここまでは昨日何回も通った道だ。これからが未知の急登だ。少し登ると「ハイスギ」も少なくなり、森林限界を完全に超えたようだ。標高差330mほどの往復登山だが、絶好調の私にとってもけっこう辛かった。低地の濃い酸素を何気に毎日吸っている私たち日本人は、シェルパたちに云わせると、世界的に高所に最も弱い民族のひとつであるらしい。
 途中1回休憩して、少しずつ、一歩ずつ歩く。その時間は長いようにも感じたが、案外あっけなくも感じた。気がついたら、参加者全員がピークに立っていた。
 今回ツァーの最終目的地であり最高到達地点でもある小ピークの頂上は、感動だった。蒼白い顔をした男性諸氏は正面のエベレストを見つめながら沈黙を守る。ご婦人方は歓声を上げ、涙を流す。佐知子も泣いていた。私は恒例になっているピークでの一服をしたくてタバコを捜したが、なんとロッジの部屋に置き忘れてきた。シェルパ頭のサーダーが私以外に本メンバーの中で唯一タバコを吸うので、彼に尋ねたら、タバコは持ってきたけれどライターを忘れてきてしまったとのこと。サーダーと目と目を合わせて、この際きっぱりと諦めた。しかし、ウ〜ン、吸いたかったなぁヤッパリ、一本でいいから…。
 小ピークには小1時間ほど立ち尽くした。何度も何度もエベレストを見た。そのエベレストは雪煙を右にたなびかせながら静かに聳えていた。そしてそれは未だ遥か彼方だった。
 ゆっくりと下山して、タンボチェの丘の少し先にある加藤保男氏(冬期エベレスト登山にて行方不明)の遭難慰霊碑を見物などしてからロッジに戻った。まだお昼の12時頃だったので、昼食後再び付近を散歩したのだが、佐知子は相当に弱っているらしく、早々に部屋に引き上げてしまった。
 日没までの長い間、私は久しぶりに写生をしたり、シェルパやキッチンスタッフなどの様子やゾッキョやヤクの生態を眺めたり、ロッジの付近をウロウロしながら過ごした。
 寒くなってきた夕方、私は暮れなずむ北面の山々を見ていた。日が沈むにしたがって谷から上へ向かって暗くなっていく。茜色の峰々が一つ一つ消えていく様は、まさにドラマだった。タウツェに続いてアマ・ダブラムが暗くなる。そしてローツェに日が落ちたとき、心が震えた。黒々とした空と周囲の山並を睥睨するようにオレンジ色の光を放つ頂があった。その一点の光は小さなものであったけれど優しさと威圧感に満ち満ちていた。それがエベレストだった…。

さらば 遥かなエベレスト
タンボチェ〜ナムチェ・バザール〜ルクラ…カトマンズ

 4月19日: 早朝、2連泊したタンボチェを出た私たちは、いそいそと下山の途についた。
 このエベレスト街道は、じつは、まだ延々と続く。タンボチェのずっと先にはエベレストがもっとよく見えるというカラ・パタール(5545m)や氷河と氷雪のエベレストBC(ベースキャンプ・5364m)がある。それらに全く未練がないと云えばウソになるが、今の私達の体力と気力ではここまでが限界とも思うし、これで充分満足だ。だいいち、4198mでヒーヒー云っているのだから、5000mを越えたら死ぬほど辛い目に合いそうな気がする。それに、如何に類稀な山岳景観とは云え、緑の無い岩と氷だけの山々に長い間ずっと囲まれていたら、多分、そのうち飽きてしまうんじゃないかな、とも思う。今回のこのくらいが私達にはちょうどいい…。
 ナムチェ・バザールまでの道すがら、ニジキジ(ネパールの国鳥)や野生のヤギ(ジャコウジカ)などを間近で見る機会を得たが、見ることに夢中で写真を撮るのを忘れてしまった。とにかく、来た道をひたすら辿った。
 高度が下がってきてメンバーの体調も一段落したと思ったのだが、この段階で、私と2人の女性は元気組。佐知子を含めたやや不調組は女性3名。残りの男性3名と女性1名は体調絶不調組だった。ここでも女性優位がはっきりしている。私は断言する。この世で最後まで生き残るのは絶対女性だ、と。

 4月20日: ナムチェ・バザールからルクラまでの長い道のりをアップダウンしながら徐々に高度を下げたが、「歩き」としては最も過酷な1日だった。このナムチェからの下り、エベレストの最終展望箇所で立ち止まり、私たちは振り返ってエベレストとローツェに最後の別れを告げた。
 ルクラでのトレッキング最後の夜、現地スタッフ一同が疲れ果てている私たちのために「さよならパーティ」を開いてくれた。トレッキング中の禁酒令が解けて、当地の地酒チャン(酸っぱいドブロク)やロキシー(焼酎)をたっぷりと飲まされた。なんか、訳の分からない踊り(シェルパダンス)もいっしょに踊ったりして楽しく時を過ごした。サーダーはじめスタッフのみなさんに感謝感激だ。

 4月21日: 宿酔いの朝。時々欠航になるので心配していた飛行機も順調にルクラ空港を飛び立ちカトマンズへ向かった。
 この山旅で私達が教わって再確認したこと、それは 「ゆっくりと歩く」 ということだった。ありがとう遥かなエベレスト。さらばヒマラヤの人々。

 21日の昼から23日の夜までの正味3日間は、ホテルをベースに、その盆地(渓谷)全体が世界文化遺産に登録されているというカトマンズの市内見物などをして過ごした。マウンテンフライト(オプション)で、空からも「世界の屋根=神々の座=ヒマラヤ」を見ることができた。
 22日にインドネシアでAA会議(アジア・アフリカ会議)が開かれたが、2機しかないロイヤル・ネパール航空の1機を会議出席のためにネパール国王が使用した関係で、国際線のダイヤは大幅に遅れていた。
 24日の午前2時過ぎ、予定を3時間ほど遅れて飛行機はカトマンズを飛び立った。最後までハラハラしたが、結果は概ね順調な山旅だった。ナマステ 遥かなネパール!



この吊橋、けっこう怖かったです
長い吊橋をゾッキョが渡る 



エベレスト街道にて
シェルパ族の子供

*** コラム ***
「真の幸せ」ってなんだろう

 ヤクやゾッキョが行き交うエベレスト街道も、ウシが歩き回るカトマンズの街も、何処も彼処も埃っぽくて、まるでクマ退治スプレーを嗅いでしまったときのようなトウガラシ臭が常に鼻腔を刺す。喉は痛いし鼻をかむと鼻血が出るツァーのメンバーもいた。日本人観光客のほとんどは花粉症用のマスクをしていたようだ。
 シェルパなどの現地スタッフの日当が一人200ルピー(約300円)であることを考えると、ロッジなどで、1本約300円のビール(中壜)をシェルパの前で飲むことは、やはり躊躇させられた。昭和30年〜40年代の日本車や古びたオート三輪車が走るカトマンズの様子など、カルチァーショックが癒えることは、とうとう最後までなかった。
 しかしながらネパールの人たちは、少なくもエベレスト街道やカトマンズの人たちは、みんなのんびりとしていていい人で宗教心に厚く、しかも誇り高い気風をもって生き生きと生活していた。人の数より多くの神が住むというカトマンズだ。それになんと云ってもこのネパールは、お釈迦様が生まれ育って布教した地だ。流石だな、とも思った。
 ネパールの人たちに云わせると、あくせく働いている日本人は貧乏で(貧乏だから働く?)可哀想だ、ということになってしまうという。為替レートってなんだろう。貧富の差ってなんだろう。そして「真の幸せ」ってなんだろう、と考えて、矢張り最後まで結論が出なかった。




大きな写真でご覧くださいここをクリック)
世界第1位と第4位です
エベレストとローツェ
エベレストだけが最後まで光っていました
エベレスト(日没)
至近距離だけに迫力満点です
カンテガとタムセルク
バックはタムセルクです
タンボチェの丘にて
4198m峰のピークに立つ!
感動の小ピーク
埃っぽい街でした
カトマンズ市内
アマ・ダブラム(母の首飾り) と ゾッキョ
アマ・ダブラム
現地ではチュミネンドと呼んでいた
チュミネンド(アイリス)

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