ネパール ヒマラヤ トレッキング No.177 エベレスト街道 後編 平成17年(2005年)4月13〜24日 |
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* 前項 エベレスト街道(前編) からの続きです 高山病と闘う キャンズマ〜タンボチェ
午前7時、未だ夜明けの寒さの残る中、歩き始める。ベージュ色の土の上に白粉をふりかけたような霜が降りている。短い区間だったが林の中を通過した。ダケカンバのような木は、まだ緑の新芽を出していない。ツガのような木々にサルオガセのような地衣類が絡み付いている。赤いシャクナゲも咲いていた。やがて林を抜け太陽が照りだすと、灰のような細かい土埃の舞う乾燥した岩道に、あっという間に戻ってしまった。今日も喉が痛い。 標高が上がってきてから随所で見られる木があった。ハイマツの葉がスギの葉、といったら尚更分かりにくくなりそうだが、そのハイネズにも似た木の名前をシェルパに聞いてみると「シュパ」と答えが返ってきた。香りの良い葉で、現地では焙って「香」に使っていた。私達はこの高山性の常緑針葉低木を「ハイスギ」と命名した。 展望が特に優れているというゴーキョ・ピ−ク5463mへの道を左に分け、道はいったんドゥード・コシの谷をトラバースして下る。吊橋を渡り、下りきった谷底の小さな村落がプンギ(標高3250m)で、その前を流れる小川にはいくつかの小さな水車小屋があり、チュド(水車)が音を立てて回っている。粉でも挽いているのかな、と思って覗き込んで驚いた。その水車で回していたものはマニ車だったのだ。当地で暮らす人たちの宗教心の重さを、期せずして推察した。 大きな谷の分岐を右へ進み、ド迫力の山岳風景に見惚れながら、いよいよタンボチェまでの標高差約600mの急登が始まる。聖なる山や湖、峠や丘などの神聖な場所に飾られるという5色のタルチョ(祈祷旗)が、あちこちで風にたなびいている。 ナメクジのように、半歩ずつ、ゆっくりとノロノロと登る。バテバテの私たちの脇を、重たい荷物を担いだポーターや原住民の婦人たちがヒョイヒョイと追い抜いていく。彼らの履物はスニーカーで、中にはサンダル履きの人もいる。スゲーなぁ、と、ただ感心するばかりの私達だった。道端にはアイリス(背の低い小さなアヤメ・現地の人はチュミネンドと呼んでいた)が今を盛りに、可憐に、しかしゴージャスに咲いている。ツメクサのような花も、数は少ないが、相変わらず咲いている。右手にはタムセルクの絶壁が凄まじいばかりの高度差で聳え、前方のエベレストやローツェやアマ・ダブラムが段々と近くになってくる。 360度の大パノラマが開けるタンボチェの丘に辿り着いたのはお昼の12時半頃だった。数軒の建物が建つ台地の彼方にエベレストは聳えていた。昼食後は自由時間だったので、あちこち散歩して展望を楽しんだり、ゴンパ(僧院)を見学したりして過ごした。タンボチェは生活の臭いはあまりしない。ゴンパと数軒のロッジなどがあるだけの、思っていたよりはずっと閑静な処だった。 何回もタンボチェの丘に登ってみた。四方にドスンドスンとドでかい岩山。見上げると首が痛くなるほどの山々の高さ、谷の深さ、そして底知れぬそれらの広がり…。これがヒマラヤなのだ、と思った。左右にある黒っぽい山々は5000m峰級だと思うけれど、それらのピークの一つ一つには山名が無いという。多分、槍ヶ岳や穂高岳や北岳程度だと、当地では「名もないピーク」ということになってしまうかもしれない。 私たちが明日めざす予定の小ピークも名無し山中腹の名無しピーク4198mだ。その小ピークがここからくっきりと見えている。よく見ると乳首のように見えたので 「そうだ、あの小ピークをヒマラヤ乳頭山と名付けよう」 と私は佐知子に提案した。佐知子の乾いた笑い声が聞こえた。 ここは既に富士山より標高は高い。今回の海外山行の目標の一つが、とりあえず達成された。「やったね!」 と佐知子と目を合わせたが、何気に彼女の顔色があまり良くない。唇が紫色で、チアノーゼもでているようだ。今日もまた、なんとなく不安な夜を過ごす。 小ピーク4198mへ登る タンボチェ〜小ピーク〜タンボチェ
午前8時、小ピーク4198m(ヒマラヤ乳頭山だ!)をめざし出発。メンバーの一人(ご婦人)は症状が重く不参加で、トレッカー10名とシェルパ5名の編成になった。 開花前のシャクナゲ林の脇を通りタンボチェの丘に出る。ここまでは昨日何回も通った道だ。これからが未知の急登だ。少し登ると「ハイスギ」も少なくなり、森林限界を完全に超えたようだ。標高差330mほどの往復登山だが、絶好調の私にとってもけっこう辛かった。低地の濃い酸素を何気に毎日吸っている私たち日本人は、シェルパたちに云わせると、世界的に高所に最も弱い民族のひとつであるらしい。 途中1回休憩して、少しずつ、一歩ずつ歩く。その時間は長いようにも感じたが、案外あっけなくも感じた。気がついたら、参加者全員がピークに立っていた。 今回ツァーの最終目的地であり最高到達地点でもある小ピークの頂上は、感動だった。蒼白い顔をした男性諸氏は正面のエベレストを見つめながら沈黙を守る。ご婦人方は歓声を上げ、涙を流す。佐知子も泣いていた。私は恒例になっているピークでの一服をしたくてタバコを捜したが、なんとロッジの部屋に置き忘れてきた。シェルパ頭のサーダーが私以外に本メンバーの中で唯一タバコを吸うので、彼に尋ねたら、タバコは持ってきたけれどライターを忘れてきてしまったとのこと。サーダーと目と目を合わせて、この際きっぱりと諦めた。しかし、ウ〜ン、吸いたかったなぁヤッパリ、一本でいいから…。 小ピークには小1時間ほど立ち尽くした。何度も何度もエベレストを見た。そのエベレストは雪煙を右にたなびかせながら静かに聳えていた。そしてそれは未だ遥か彼方だった。 ゆっくりと下山して、タンボチェの丘の少し先にある加藤保男氏(冬期エベレスト登山にて行方不明)の遭難慰霊碑を見物などしてからロッジに戻った。まだお昼の12時頃だったので、昼食後再び付近を散歩したのだが、佐知子は相当に弱っているらしく、早々に部屋に引き上げてしまった。 日没までの長い間、私は久しぶりに写生をしたり、シェルパやキッチンスタッフなどの様子やゾッキョやヤクの生態を眺めたり、ロッジの付近をウロウロしながら過ごした。 寒くなってきた夕方、私は暮れなずむ北面の山々を見ていた。日が沈むにしたがって谷から上へ向かって暗くなっていく。茜色の峰々が一つ一つ消えていく様は、まさにドラマだった。タウツェに続いてアマ・ダブラムが暗くなる。そしてローツェに日が落ちたとき、心が震えた。黒々とした空と周囲の山並を睥睨するようにオレンジ色の光を放つ頂があった。その一点の光は小さなものであったけれど優しさと威圧感に満ち満ちていた。それがエベレストだった…。 さらば 遥かなエベレスト このエベレスト街道は、じつは、まだ延々と続く。タンボチェのずっと先にはエベレストがもっとよく見えるというカラ・パタール(5545m)や氷河と氷雪のエベレストBC(ベースキャンプ・5364m)がある。それらに全く未練がないと云えばウソになるが、今の私達の体力と気力ではここまでが限界とも思うし、これで充分満足だ。だいいち、4198mでヒーヒー云っているのだから、5000mを越えたら死ぬほど辛い目に合いそうな気がする。それに、如何に類稀な山岳景観とは云え、緑の無い岩と氷だけの山々に長い間ずっと囲まれていたら、多分、そのうち飽きてしまうんじゃないかな、とも思う。今回のこのくらいが私達にはちょうどいい…。 ナムチェ・バザールまでの道すがら、ニジキジ(ネパールの国鳥)や野生のヤギ(ジャコウジカ)などを間近で見る機会を得たが、見ることに夢中で写真を撮るのを忘れてしまった。とにかく、来た道をひたすら辿った。 高度が下がってきてメンバーの体調も一段落したと思ったのだが、この段階で、私と2人の女性は元気組。佐知子を含めたやや不調組は女性3名。残りの男性3名と女性1名は体調絶不調組だった。ここでも女性優位がはっきりしている。私は断言する。この世で最後まで生き残るのは絶対女性だ、と。 4月20日: ナムチェ・バザールからルクラまでの長い道のりをアップダウンしながら徐々に高度を下げたが、「歩き」としては最も過酷な1日だった。このナムチェからの下り、エベレストの最終展望箇所で立ち止まり、私たちは振り返ってエベレストとローツェに最後の別れを告げた。 ルクラでのトレッキング最後の夜、現地スタッフ一同が疲れ果てている私たちのために「さよならパーティ」を開いてくれた。トレッキング中の禁酒令が解けて、当地の地酒チャン(酸っぱいドブロク)やロキシー(焼酎)をたっぷりと飲まされた。なんか、訳の分からない踊り(シェルパダンス)もいっしょに踊ったりして楽しく時を過ごした。サーダーはじめスタッフのみなさんに感謝感激だ。 4月21日: 宿酔いの朝。時々欠航になるので心配していた飛行機も順調にルクラ空港を飛び立ちカトマンズへ向かった。 この山旅で私達が教わって再確認したこと、それは 「ゆっくりと歩く」 ということだった。ありがとう遥かなエベレスト。さらばヒマラヤの人々。 21日の昼から23日の夜までの正味3日間は、ホテルをベースに、その盆地(渓谷)全体が世界文化遺産に登録されているというカトマンズの市内見物などをして過ごした。マウンテンフライト(オプション)で、空からも「世界の屋根=神々の座=ヒマラヤ」を見ることができた。 22日にインドネシアでAA会議(アジア・アフリカ会議)が開かれたが、2機しかないロイヤル・ネパール航空の1機を会議出席のためにネパール国王が使用した関係で、国際線のダイヤは大幅に遅れていた。 24日の午前2時過ぎ、予定を3時間ほど遅れて飛行機はカトマンズを飛び立った。最後までハラハラしたが、結果は概ね順調な山旅だった。ナマステ 遥かなネパール! 長い吊橋をゾッキョが渡る
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