八丁尾根から尾ノ内沢へ…
西武鉄道西武秩父駅-《タクシー1時間》-八丁隧道登山口〜八丁峠〜西岳1613m〜竜頭神社奥社〜(尾ノ内沢)〜尾の内・竜頭神社-《タクシー50分》-西武秩父駅 【歩行時間:
5時間50分】
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山行の日は目覚めが早い。この日も目覚し時計が鳴るずっと前に、宿酔いだったが、もう起きていた。とりあえずテレビのスイッチを入れて天気予報を聞く。予報は昨日までよりは悪化していた。前線が南下中とのことで、天気は下り坂のようだ。小考した。当初は日向大谷から清滝小屋に1泊して翌日のんびりと両神山へ登り、八丁峠を経て坂本に下るという、昨今ではほぼ主流のコース計画だったのだが、この段階であっさりと変更した。つまり、その反対コース、難所の八丁尾根歩きを第1日目としたのだった。そうと決まれば出発は急がなくてはならない。相棒のナビゲーター役の妻の佐知子は、出産のために里帰りをしている娘の手前もあって、今回は留守番だ。単独行に慣れていない私のこと、勿論電車やバスの時刻表などは何も調べていない。とにかく急がねばならない。急げば何とかなるだろう。と、しかし、この日のその焦る気持が、八丁尾根でのロストコースに繋がり、道なき尾ノ内沢へ迷い込むという大変な一日になろうとは、このときの私には知る由もなかった…。
西武秩父駅からタクシーに乗り、時間を稼ぐ。 「行ける処まで行ってください」 と運転手に頼み、降ろされたのは坂本からかなり先の八丁隧道の手前だった。閑散としたこの八丁隧道登山口は展望も良く、駐車場やトイレもある。登山地図で現在位置を確かめる。既に標高1200m以上はあるだろうか。坂本バス停から河原川沿いの沢道を歩くより、コースタイムにして1時間50分ほど短縮されている。思わずニンマリ。しかし、タクシー料金の10,980円はちょっと痛かった。
午前9時40分、登山開始。いきなりの急登、早くもクサリ場だ。緊張が走る。宿酔い、などとは云っていられない。幸いだったのは、心配していたアイスバーンや残雪が、ここ2〜3日の暖かい陽気でほとんど溶けていて、歩行には全く問題がなかったことだ。芽吹き始めの広葉樹の静かな雑木林。登山道沿いの随所には道標のピンクテープが風になびいている。濃茶色の小鳥、ミソサザイが小枝に止まって美しい声で囀っている。コガラも枝から枝へと囀りながら飛び回っている。
枝尾根をトラバースしながら暫らく登ると坂本からの道と合流し、間もなく狭い尾根上にある八丁峠に着いた。峠の展望台で休憩していると、この日始めて出会った登山者(2組3名)とすれ違う。今朝、清滝小屋をスタートしてきたのかな、と思ったが会話することなく別れた。この八丁峠から両神山(剣ヶ峰)までが岩場、クサリ場の連続する八丁尾根と呼ばれているものだ。タクシーの運転手から聞いた話しだが、毎年何件かの滑落事故のあるところだそうだ。再び気合いを入れて歩き出す。
稜線のクサリ場は足場もしっかりとしていて、思ったほどの恐怖を感じることなく、楽しく歩くことができる。ヤシオツツジの花期には少し早かった(里では五分咲き)のが残念だが、展望が良く、ルンルン気分で行蔵峠を超える。西岳の狭いピークに着いたのは11時50分。湯を沸かしてチキンラーメンとソーセージの昼食。曇っていたので遠景は望めないが、甲武信三山や小川山などの奥秩父の主稜線をはじめ奥武蔵や上州の山々などの近景360度。1時間近くの大休止となってしまった。
西岳から先はキレットを下る。両脇から谷が切れ込んでいる鞍部と思われる箇所へ出ると、何故か急に強い風が吹きつける。風穴(かざあな)と呼ばれている処だ。それにしても人影の少ない稜線だな、と思いながら暫らく登り返すと、黙々と歩いている中年カップルとすれ違う。じつは、これがこの日この山で出会った最後のハイカーだったのだ。
竜頭(りゅうとう)神社奥社の木祠を通り過ぎる。ここまでは確かに間違ってはいなかったのだ。しかし、これからが私にとっての魔の4時間となる。
私は何か考え事でもしていたのだろうか。(多分)標識を見落として、ふと足元を見ると、奈落の底へ続いているとしか思えないような急勾配があった。これを下れというのだろうか。キレットの底はまだ先なのだろうか(実際は、もう既に鞍部は過ぎていた)。しかし、行く手には道標のピンクテープが見えている。私の持ってきた登山地図にはこの付近での脇道の表示はなく、一本道の筈だ。と、深く考えもせずに(ああ、何故私はこのとき辺りを見回したり少し後戻りをしてみたり、しなかったのだろうか)、その急勾配を錆びたクサリを頼りに下っていった。
クサリと針金が続く。緊張とスリルの酷い悪路だ。何か変だな、と思いながらもどんどん下っていった。突然ガラガラという無気味な岩崩れの音が聞こえた。足元ばかり見ていた私はふと我に帰り、歩くのを止め顔を上げた。右手に雪渓の残る細長い沢が見えている。岩崩れはその沢の上部で起こっているようだ。落石の安全を確かめてからコンパスを取り出した。南東に向かう筈が、何故か北東へ向かっている。矢張り変だ、引き返してみようか。でもピンクテープは間断なく続いているし、小鹿野山岳会の標板(方向を示す矢印はあるが肝心な地名が書いていない。書いてあるのは「自然を大切に!」だけだ)もでている。もう少し先へ行ってみよう。と、私は段々と深みにはまっていく。
急なルンゼをトラバースする。自分の山登りの拙い経験と技術を総動員して、尚も下る。右手の雪渓の沢との出合いの少し手前で幾分傾斜が緩んできた。左のガレ沢(ここがヒンマワシの水場?)を渡った処で、はっきりとロストコースに気が付いた。落ちついて辺りをよく見てみると、踏み跡がほとんどなく、私の歩いた後だけに踏み跡が付いている。尾根を逸れてから40分近くは歩いているが、もうとっくに東岳のピークに着いている時間だ。上部から眺めて、ここいら辺りが鞍部だと思っていたが、とんでもない、急降下はまだまだ続きそうだ。しかも北東へ向かって、だ。
主稜を振り返る
尾ノ内沢
一番滝
竜頭神社(里宮)
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愕然として、茫然とした。小岩に腰掛けてサーモスの熱いコーヒーをガブ飲みする。25000分の1の登山地図を、老眼鏡を取り出して、じっくりと眺めた。周囲の地形や進行方向の方位などで、尾ノ内沢へ迷い込んでいることが分かった。もう既に標高差にして300m以上は下ってしまっている。改めて尾ノ内沢付近の地図を良く見ると、登山道を表す赤の実線や破線は書かれていないが、小さな字で「熟達者向きの沢コースあり」の表示があった。
この尾ノ内沢は坂本から1.5キロメートルほど東の国道沿いの竜頭神社(里宮)へ続いているようだ。あの垂直とも思える泥岩を登り返す気力は私にはない。両神山の最高峰の剣ヶ峰を極めることのできないのが心残りだが、5年前の秋に一度登っているし、この際潔く諦めて、思い切ってこのまま下ってみよう、と決心した。今夜は暖かいとの天気予報。水筒の水はたっぷりと残っているし、予備食も1食分くらいは持ってきた。最悪の場合のビバークも覚悟した。夜になって暗くなれば両神山名物のコノハズクの鳴声を聞けるかもしれない。アハハ…。
再びピンクテープを追いかける。ルートファインディングに神経を集中させ、慎重に下る。ふと見ると、ザレと落葉の急斜面のあちこちにカタクリの花が咲いている。思わずニコッとしてしまう。この花を見てからは私の心も随分と和んできたようだ。右手にはけっこうきれいな細長い滝(油滝)も見えている。
沢を何回か渡り返す。慎重に足場を選べば濡れずにすむ、ていどの徒渉だ。ちょっとヤバいクサリ場もあったが、なんとか通過した。約50分歩いては10分間の休憩、のリズムを守る。
沢筋の下方にカワガラスを発見。右手の山側を見れば大きくて美しいカケスが幹に止まっている。森永の板チョコを齧りながら、なんだか嬉しくなってきた。足元にはハシリドコロが咲いている。猛毒植物で、これを食べると幻覚症状をおこし、ところかまわずに走り回ることからこの名がついた、とのことだが、みずみずしい緑の葉も渋い紫色の釣鐘形の花もけっこう美しい。更に下ると、背丈の低い淡黄色の小さな花が群落して咲いている。帰宅してから調べて分かったのだが、ネコノメソウだった。イワベンケイのミニチュアみたいで、とても可愛らしい。
スズノ沢出合いの辺りからは幾分歩きやすくなる。谷が広くなってきて、里に近づいてきているのが分かる。振り返ると、美しい渓谷の景色の上に両神山のギザギザの山頂部が見えている。上品なヒトリシズカや黄色の花穂をつけたミヤマキケマンも咲いている。なだらかになって道らしくなってきたな、と思っていたら、突然目の前に最近完成したと思われる立派な吊橋が現れた。右手に二段の滝(一番滝・二番滝)が見えている。橋を渡るとベンチのある広場へ出た。広場の案内板には「尾の内渓谷」と書かれてあった。左手前方には二子山のとんがりも見えている。新緑が美しい。で、矢張りホッとした。
尾の内渓谷入口の広場を過ぎて間もなく林道と合流。ヤマブキの咲く静かな山里を歩き、尾の内の集落に入る。人恋しさに、畑で野良仕事をしていたオバチャンに敢えて道を尋ねた。 「竜頭神社ならすぐそこだよ」 と教えてくれた。携帯電話が通じたので、自宅の佐知子に電話した。最終バスはもうとっくに出てしまっていたので、タクシー会社にも予約の電話をいれる。それから清滝小屋に宿泊キャンセルの電話もしたのだが、テープのアナウンスの声が流れてくるばかりで、こちらの意思は伝えることはできなかった。なにやかやで、渓谷入口から30分足らずで国道299号線沿いの竜頭神社(里宮)へ着いた。午後5時15分、夕風が肌に涼しい。
竜頭神社裏の「八日見山入口」と彫られた石標の前で、一人ポツンとタクシーを待つ。疲れた頭で考えてみた。結局私は尾ノ内沢の源頭である竜頭神社奥社(竜頭)から尾ノ内沢(竜の身体)を通って里宮のある尾の内(竜尾)までを下ったことになる。両神山の山名の由来については、イザナギ・イザナミの両神を祀っているからとする両神説。日本武尊が東夷征伐の時この山を八日間見給うたからという八日見説。オオカミが祀ってあるからとするオオカミ説。八つの頭を持った竜王(八岐大蛇)を祀っているからとする竜神説。等、あるらしい。このうちで最も竜神説の色濃いコースを、私は、期せずして歩いた、ということらしい。竜の頭から尻尾までをくまなく歩いたのだから、きっとご利益があるに違いない。アハハ…、なんて、声に出さずに苦笑い。そして深く反省した。難コースを歩いてしまった私の身体はまだ若い。身体も若いが、頭はもっと若くて未熟だ。だからコースアウトしてしまったのだ、と…。
* この山行記録は月刊誌「山と渓谷・2004年6月号」の読者紀行欄に掲載されました。
* 日向大谷、及び白井差コースについては 前項「両神山・白井差へ下山」 を参照してください。
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