「13」感想(伝聞版)

当ページ筆者は関東に在住しているため、「13」が関西でのみ放映されているあいだ、もれ聞こえてくる関西からの感想を頼りに感想を書いていた。

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Vd: 1998.10.11

「13」放映終了に寄せて(おまけ)

伝聞版などという書くのにえらく勇気のいる感想をこれ以上しなくて済むのはありがたい。的外れなことを言う可能性が高いし、実際に観た人にとっては噴飯ものだろう。だがレギュラーが一挙に二つも減って台所事情が苦しい。先発ピッチャーが二人戦列から外れたチームの監督のような心境だ。というわけで結構早くネタが尽きるかも。
それにしても今まで毎週チェックしていたページが定期更新されなくなるのは一抹の寂しさを感じる。
Vd: 1998.10.10

「13」放映終了に寄せて(4)

一体そもそも何故「13」は制作されたのだろうか? 身も蓋もない言い方をすれば経済的な理由だ。それは「13」に限ったことではない。およそTVアニメというものは全て儲けのためだ。しかしそれにしてもスタッフにはクリエイターという自覚はあるはずだし、最低でも(商売という目的にあわせるためだけでも)面白い、楽しい作品をつくらなくてはならない。そのためには様々な努力なしにはいかない。ところが例外もある。それは「原作もの」だ。作品をゼロから創るのではないうえに、人気まで計算できる。「AX」だったかで毎日放送の人が「13」は原作ものだと考えているようなことを言っていた。はじめ、原作つきアニメといえどもそれはそれ自体で完結しているもので、物語の全容を知るのに「原作」を参照しなくてはならない「13」は「原作もの」とは違うと思った。だが、確かに手間ひまかけずに済ませられるという意味では原作ものと全く同じだ。
一方で原作ものがすべて「13」のような結果に至ったわけではない。既に述べたように制作者はクリエイターでもあるのだから、単に金になればいいというのではなく、一歩踏み込んで自分の独創性を打ち出し、また自分なりのメッセージを受け手に伝えたい欲求があるはずである。そして実際そうなっているはずだ。しかも「13」の場合、原作(「バイファム」)とは視聴者が変質している(人物は同じでも年齢が違う)のだから、対象にそった新たなメッセージを用意しなくてはならない。視聴者は同じ(人)であると考えたとしても、同じ人間に同じメッセージをまた送るわけには行かない。むろん、視聴者は前と同じように子どもであるとするなら、同じメッセージも可能なのだが、明らかにそう前提されてはいない。
ところで、本来「バイファム」(という作品)と「バイファム」のメッセージは不可分だ。仮に「バイファム」のプロットに合わせてメッセージが用意されたとしても、いったん何を伝えるかが決まれば、今度は「バイファム」という作品もそのメッセージに(あるいは物語。メッセージはそれを通して述べられるから)合わせて制作されて行くはずだ。別の言い方をすれば、「バイファム」を作り上げる過程では、まだ作品の枠組みが完全には決まっていないのだから、メッセージをうまく伝えられるように作品の世界を形作ることができるということだ。例えば「バイファム」でククト星がほぼ無人であるのも、無理なく理由づけられているとはいえ、作為的であるのは言うまでもない。
さて、一般に続編と言われている作品では、それまでの作品世界に新たなイメージをつけ加え、それによって新たなメッセージの伝達をも可能にしている。例えば続編の舞台を何年後かに設定することは、それだけでその数年分の歴史を新たに創り出すことになる。つまり続編が本編とまるきり変わらないということはまずない。しかし何しろ「13」は「バイファム」と寸分違わぬように注意が払われている。だから何をやるにしても、尋常の続編より可能性の選択の幅が狭い。事実、「13」では第15-18話は「バイファム」と何ら変わるところがない(はず)。これで何か別なことをやれと言うのも酷な話である。しかし「13」だって、双子の赤ちゃん、ラピス、ルルド、チェンバー夫妻という新しい要素をそれまでの「バイファム」に持ち込んだのだから、そこに何かメッセージがあると考えたい。ではスタッフは「13」で何を伝えようとしたのか?
僕は今の問いに答えられる立場ではない(「13」を観通していないから)。他の方々の意見を読む限り、それはどうやら我々(いや僕は含まれないのだが)「バイファム」を観て育った大人たちへ向けられたもののようだ。これは明らかに二重の意味を含んでいて、一つは「あの時」を思い出すという売り上げにつながった我々へのサービス。そしていま一つは、スタッフが「作者」として恐らく真に伝えたかったであろうところの我々へのメッセージだ。だが残念なことに後者は中途半端なままにとどまってしまったようだ。少なくとも全編を通して貫かれ、前面に打ち出されるということはなかった。やはり、この「13」特有の(従って「バイファム」とは異質の)メッセージは「バイファム」という殻の中ではふくらませきれなかったということではないだろうか。
結局「13」は自ら定めた型が枷になり、一つの作品として鑑賞に堪えうるだけの自立した――一本芯の通った――作品にはなれなかったということのようだ。しかし忘れてはならないが、その型はたとえコマーシャリズムであるにせよ、我々のために設けられたのだ。そして我々も決してそれを拒まなかった。「13」は単なるファンサービスという面においては最大限に役割を(作品の存在価値としては最低限だが)果たしたと思う。もし「13」が放映されなかったとしたら、たとえ「バイファム」のビデオがリリースされているにせよ、(このページを含めて)今ごろファンは「バイファム」にこれほどの時間と情熱を注いでいなかったのではないだろうか[*]。だからといって我々ファンが全て悪いと言うのではない。かりに我々にも一端の責任があるとしても、問題の根本は、「バイファム」の魅力がひとえに13人の子どもたちによるものであり、敢えて言えばそれは今のところの「バイファム」の限界でもある。13人以外に作品の顔がないということだ。「今のところ」と言ったのは、制作者はやろうと思えば13人に代わる新たな核を創造できるだけの権能があるのだ。もし次回作があるなら(「13」が取り返しのつかない失敗でなければ)切にそれを望む。(失笑をかうのを承知でつけ加えれば、拙作「2088」もそれを企図している。だがそうなると今度は必然的に「何が『バイファム』か」という別のそして深刻な問題が生じるのも既に指摘されているとおりだ。)

* そうは言ってもファンサービスだけでTVシリーズ全26話は土台無茶だ。所詮それはおまけ("extra")に過ぎない。「バイファム」を語る上で「13」のこの話は抜きにできない、というところはない(でしょ?)。あるという方は是非メールでご一報を。


Vd: 1998.10.9

「13」放映終了に寄せて(3)

「バイファム」の世界では、ラストネームで呼び合うことのほうが多い。ファーストネームが定着しているのは13人のような子供とケイトくらいだ。じゃあ、同姓だったらどうなるのか。今まで幸いにしてそういうことはなかった(ロディ兄弟はファーストネームで構わないし)。ところが「13」では夫婦というかたちでラストネームが同じ二人が登場した。子供たちは結局彼らをどう呼んでいたのだろう? 多分「じーさん」、「ばーさん」で済ませていたのだろう。でなければリブレなのかディグレなのか(「ディブレ」と言っている人もいたような)最後まで曖昧ということはないと思う。結局どれが正しい名前なんだ? 大体なんでクレジットに出さないんだ? 永遠に謎のままだったりして。
Vd: 1998.10.8

「13」放映終了に寄せて(2)

本橋秀之作監の回がなかったのは残念だ。個人的なひいき目かも知れないが彼の描く(と思われる)バーツはかっこいい。別に僕はバーツのことは取り立ててどうとも思っていないのに、おっ、と思うのだから、あながち外れていないのではないか。「バイファム」では途中で降りてしまったので、今度こそと思っていただけになおさら惜しまれる。ちなみに彼が担当した回は3、5、8、10、13、15、18、22話だ(第3話ではまだバーツは登場していないが)。そう言えばアミノテツローもほとんど参加しなかったな。こっちはどうでもいい(失礼)けど。
Vd: 2001.2.6, Vd: 1998.10.6

「13」放映終了に寄せて

まず思ったのは、シャロンに初潮は来なかったなあ、と。おいいきなりそれかよ。でもわざわざ深夜でやるんだからと密かに期待していた人もやはり多いのではないだろうか。僕は胸がでかけりゃいいもんじゃないと思った。それにこのネタはすでに(最低でも)一度TVアニメで使われている。しかもそれが「世界名作劇場」の『トラップ一家物語』(「ドレミの歌」の"Sound of Music"が原作のやつ)だというから驚きだ。第22話「一人で生きてゆける?」がそれで、13歳のヘートヴィッヒが「家出をしたとき、突然初潮を迎えてしまう*1」くだりがあったそうだ。じかに観たことはないからどこまでつっこんで描写したのかはわからないが、19:30という時間帯に「お茶の間に沈黙が走ったと言われる*2」。
以下赤面話。もし実際にやったらどんな展開になっただろう?
まず誰かがシャロンのズボンにシミができているのに気づく。ケンツかな。いやいきなり彼ではつまらない。マルロにしよう。それを受けてケンツが、分かっていない突っ込みを入れる。で、周りの年長組ははっと気づく(スコットが一番遅かったりして)。そして一瞬遅れて本人が気づいて……多分座り込んでしまうだろう。さすがに顔が真っ赤になっているはず。ケンツはまだ分かっていないから、またしょうもないことを言う。バーツにげんこつを食らう。女の子たちは、シャロンをかばうように、壁をつくる。この時点で男の子連中(とルチーナ)は全員引き上げ、というか追い出される。ケンツとジミーは最後までことの次第が分からないだろう。
その後、マキが胸のポケットから生理用品を取り出してシャロンに渡す。クレアはシャロンをいたわるようなことを言うだろう。……クレアとマキはおくとして、ペンチとカチュアはどういう反応を示すだろうか。多分二人とも既に生理があるんだと思う(極私的見解)。カチュアは普段どおりだろうが、ペンチはどう対処するかな? うーん、あまり思い浮かばない。それはともかく、みんなでぞろぞろトイレまで行くかな。さすがにシャロン一人かも。
この事件(?)の結果、シャロンの性格は変わ……らないと思う。少なくとも表面的には。「メンドクセー」とか言ってペンチにたしなめられそう(でも下着一枚で済ますことはできなくなるわけだ)。それより男の子連中の方が彼女とどうつきあうかとまどったりして。変に意識してクレアにどやされたりするかも。それともシャロンをからかったり、というのは個人的にはさせたいが、まあやらないか。
でもこの話、男だけで脚本を書くのは無理そう。「トラップ一家」はどうだったんだろう。実際にはここまで真っ正面に押し出さなくても、いや出さないほうがうまいやり方だろう。あの頃の、自分の体が自分の思い通りにならないようなモヤモヤとした不安とあせりともどかしさが伝わればよいのだ。「魔女の宅急便」でキキが飛べなくなるのも、彼女が初潮を迎えたからだと思っているのだが(僕だけか??)、あれくらいがちょうどいいかな。
もう一つのボツ下ネタ、夢精のほうは、これで一話つくるのは無理っぽい。せいぜいバーツにその日一日からかわれるくらいしか思いつかない。「ケイトさーん、って叫んでたぜ」とか。何しろロディ中心だとそういう話は動きそうにない。もしスコットなら……クレアに見つかったりして……そうなったら二人の関係は元通りになるのか??クレアが洗面所の陰でこっそり見てしまって、一人で意識してというような話ならできそう。
これのどこが「『13』終了に寄せて」なんだ?

*1 世界名作親子の会著『名作アニメもうひとつの物語』ワニブックス, 1993年, p.211。ちなみに同書によると「トラップ一家」は女の子のトイレ話もやったそうだ(誤ってコインを飲んでしまう話)。これは「ちびまるこちゃん」のほうが先だと書かれている。「バイファム」第35話のトイレ工作の話は、どちらかというと日曜大工的な面が強調されていたが、あの場にクレアかペンチあたりがいたらと惜しまれる(?)。
*2 同上。


Vd: 1998.10.5

「13」第26話感想(伝聞版)

まずは、めでたしと言えるできだったようだ。最終話だけサブタイトルが後半仕様なのは考えてある証拠かも知れない。でもこういう皮相的なところだけでは駄目なのだ。
じいさんたちがおとりになり、生死不明のまま旅立つような話かと思っていたら、そうではなかった。これは別にどちらがいいという程でもない。発射レールを守りながら戦うというのでもなかったらしい。これはあてが外れた。
ビーム・ライフルのエネルギーは「バイファム」ではいささか都合よく弾切れになったり、逆にやたらにもつことが多い気がする。これもまあ別にいいとしよう。
ただ、「別れ」の場面の中心にケンツを据えるパターンはいい加減飽きてきた。1回や2回ならともかく、だ。とはいえ、ルチーナたちに見せ所を与えられたのは「13」のオリジナリティを見せている。だが、夫妻の「生きる決意」ももう一つ説得力に欠けるように思う。別れるのはあらかじめ分かっていたのだが、この星に残ってもただ余生を過ごすだけだろうし。生きていくんならヤギを食うしかないだろうな(余計な一言)。そのメリーが最後に登場したのは、「ブッシュベイビー」でマーフィーがジャッキーの乗った飛行機を見上げるのと同じだったりして。別の作品と同じパターンをやるなというわけではなくて。
戦闘シーンで、普段は逃げているしかない子供たちも力を合わせたことや、スコットがキャプテンらしいところを見せたのは評価できる。特に前者。生身で向き合ってしまった敵を殺してしまったのは、仕方ないとはいえ辛いところだ。が、何もかも丸くおさめるというわけにもいかない。それに「バイファム」でももろに白兵戦をやっていたりする。
結局RVはどうやって打ち上げたんだ? ジェイナスもまったく異常がなかったみたいだし(そこまで欲張れないだろうけど)。
「13」の後「バイファム」を続けて放映しないらしい。一体何話から再開するか気になっていたのに、確認できなくて残念だ。今回の放送から「バイファム」を観始めた人や、「13」から入った人には全く納得できないだろう。やはり「13」は視聴者に「割りきり」を要求する作品だ。結果的には関東放映視聴者が一番得をすることになるのかな?
「V13を考慮したオリジナル後編」??それは観たくないぞ。だってミューラァが二人目の混血児になるじゃないか(もうなってるけど)。ラピスとリベラリストは関わっているのか、チェンバーとサライダは知り合いなのか、アランとミューラァは友人だったのかとか考え始めると収拾がつかなくなる恐れあり、と僕は思う。
それにしても終わって「合掌」される作品というのも悲しい。
あとどうでもいいけど「シミュレーション」("simulation")。
Vd: 1998.9.29

「13」第25話感想(伝聞版)

今回、暗澹たる思いで最初のハイパーリンクをクリックしたのだが、意外にも(失礼)最終回直前にふさわしいできばえだったようだ。
まず、カーゴ射出用のレールで(「マス・ドライバー」って言うのか)宇宙に帰る案。「Vガンダム」のアーティ・ジブラルタルを思いおこさせる(あれ、この回は観逃したんだっけ)。うわっ、これはやばいことを思い出してしまった。あの時シュラク隊は……よそう、考えるのは。何でじいさんははじめっからこれを思いつかなかったんだろう。何だかシナリオ上の都合のにおいがするなあ。おっとでもRVはどうするんだ? カーゴで別に打ち上げるのかな?
じいさんとケンツが仲良くなったのはいいが、やや遅きに失している。もう少し前にそうなれば……いや、「せっかく友人になりかけたのに、別れなくてはならない」くらいの長さとしてはちょうどいいのかも。難しいところだ。
そしてメリーとの別れ。「世界名作劇場」みたいだ。「ブッシュベイビー」とか(でもあれは原作では国に連れて帰るんだったような)。ただ、多少「いきなり」に思える。それまでに「いつまでも連れて行くわけにはいかない」というような会話はあったんだろうか? また、上述「ブッシュベイビー」では(「ラスカル」でも可)タイトルにもなっているくらい、全編を通じて主人公ジャッキーとマーフィー(ブッシュベイビーの名前; 原作では全く違う)の心温まる物語だった。それに対して「13」ではどうだったんだろう? マスコット的な役割しか(例えば「ロミオの青い空」のオコジョ(名前失念))果たしていなかったのではなかろうか。
この星にもヤギがいるということは、ククトニアンにとっては重要な家畜らしい。シャロンが初めてヤギを見たときに言ったように、あれを食っていれば、とり残されたククト兵も生き延びられそうだ。そのうちまた監視が見回りに来るだろうし。
個人的にはくさい話は結構好みなので観たかったりする。それにさすがに今回は脱出しかけて失敗のパターンではなかったわけだし。
ヤギなら塩でつれるよな、などとしょうもないことを思い出してしまった。
Vd: 1998.9.21

「13」第24話感想(伝聞版)

カエルって割合うまいっていうよね。ペンチはさすがにフランス人だけあって食通だ。放射能で汚染されていた星の生き物を食べるのも何となくためらわれるが、「黄昏の世界で生きていきます」といったところか(違う)。それはそうとして地球と似た生物がいるのは、同じような環境では、生まれる生物も同じということなのだろうか? 今の時点で我々はもちろん何とも言えないが、そういうこともあるかも知れない。
あのキノコ宇宙船は宇宙専用だと思っていたのだが、着地もできるということに。変なの。大気圏での運用は機動兵器を空中で降下させて、空中で収容するんじゃなかったのか。歩兵の場合は降りざるを得ないか。
やはり地上だと話に絡められる子どもの数が減るのは避けられないらしい。というわけで「2088」のことを意味もなく気にしてしまう。バカ。
別にスタッフが力不足なのではない気がする。単にはじめからやる気がなかったか、2クールも話を作るのは土台無理だったかどちらかだろう。もっとも今いるタウト星の上を旅するような筋にできないこともない気がする。ん、RVを延々と歩かせるのはかなりマヌケか。所詮後づけでやるんだから謙虚に13話にしておけばよかったのに。だって26話分(実質25話か)も「記憶喪失」を起こすなんて物語が崩壊しかねない。それともあくまで「番外編」、「アナザーストーリー」という位置づけでお茶を濁したりして。そんなことしてファンの心をもてあそぶなよ。というかそうならないようにしろ(手遅れ)。
Vd: 1998.9.16

「13」第23話感想(伝聞版)

アニメ記号論

厳密に言うと、アニメの登場人物の姿は毎回違う。つきつめれば1コマ毎に異なっている。それなのにどうして我々はそれらを同じ人物だと見て取れるのだろうか? そんなの区別がつかないからに決まってる、というのは性急だ。それでは○○が作画監督の時の××は目元がかわいい、などという評価は不可能である。一言で言えば、我々が観ているアニメに登場する人物たちの絵は、その人物のタイプのトークンだからだ。我々の「13」の場合(例としてはやや特殊だが)、「13」のマキがマキに見えるのは、前者は(タイプである)後者のトークンであると見なしているからだ。その場合にはトークンの間の差異は有意なものではない。これは「ボール」という語を別所毅彦が発したときと、平松正次が口にしたときで、「ボール」か「ボーク」なのかを聞き分ける能力が試されているとすれば、二人の発声の差は問題ではないのと同様である。もちろん我々はどちらがしゃべったのかを区別できる。しかし(だからこそ)タイプとしての「ボール」が存在することは明らかだ[*1]。(だが誰の声なのかをあてたり、上に挙げたように誰が作画監督なのかが注目されているときには、全く異なったタイプが浮かび上がり、よってトークンの単位もまるで別になる。)
タイプとは、それが(あるいは後で見るようにその内容が)具体的に表現されるときに、どのような特徴、特性を備えていなくてはならないかを示したものである。そしてその定められた特徴を満たしていれば、個々のトークンは、それぞれの間に微妙な差異が認められたとしても、同一のタイプに属すると判断される。従って「タイプ」は物理的な存在ではない。キャラクター・デザイナーの描いた設定は、たとえアニメーター達にとってはタイプであったとしても、それを見たことのない視聴者たちにとってはそうではないことは明らかである。確かに時間的な順序からいけば、それはタイプであってよさそうだが、実際にはそれさえもトークンであると考えてよいだろう(もう少し穏当な見方をすればタイプであると同時に一つのトークンでもある)。これは例えば車について言えばより明らかになる[*2]。最初に見たカローラがタイプとしての「カローラ」であり、次に見たのがそのトークンであるということはない[*3]。だから(少なくともアニメの場合)トークンはタイプの模像ではない。タイプとトークンの関係はそのように演繹的なものではなく、むしろ帰納的なものだ。ただし一たびトークンからタイプが生まれてしまうと(これはあくまで心理的な過程だ)、以後は逆にタイプに基づいてトークンが生産されると言っても差し支えない[*4]
「アニメ記号論」と題している以上、もう一つつけ加えなければならない。それは「タイプ」という表現の持つ意味内容についてである。例えば「マキ」というタイプの中身は何かということだ。あえて言えば、それは「マキ」という人格だ。一見これはあまりに自明すぎて、むやみに話をややこしくしただけのようだ。だが、アニメではなく映画について見てみれば、この考え方には意味がある。映画では、アニメとは逆にトークンとタイプは常に同一である(もちろん役者は撮影中毎日わずかづつ顔なり身体なりが微妙に変化しているはずだが、それを知覚できる人はいないだろう)。しかし、タイプとその内容は作品が違ったときに、後者はそれにあわせて異なっているのに対し、前者は変わらない。にもかかわらず、我々は、ジョーンズ博士とバスカヴィルのウィリアムが同一のタイプ[*5]であっても、それぞれが異なった内容(人格)を持っていると見なしている。
手塚治虫の漫画はもっと適当な例だ[*6]。彼に限らず、漫画においては一般にアニメと同じく、タイプとトークンは別と言ってよい。しかし手塚治虫の場合さらに、映画のように同一のタイプに対し複数の人格を与えている。タイプ「ロック」はある場合には人格「間久部緑郎」であり、別の時には人格「帆村六久」手塚治虫の漫画はもっと適当な例だ[*6]。彼に限らず、漫画に[*7]であり、もっと別の人格のこともある。
この点において、漫画もアニメも映画も演劇も記号である(正確には記号機能を利用している)。漫画は絵であって記号ではないと言う人がいるが、それは「記号」という言葉を狭く解しているにすぎない。絵と記号は排他的なものでは決してなく、共存できるものだ。実際ここに書いた記号現象の他にも、アニメ(etc.)では様々な記号が用いられている。それについてはここでは述べない。
何でいきなりこんなことを書いたかというと、今回作画に問題があったらしく、トークンが、タイプの持つトークンに同一性を与えるような特徴(語弊がある表現だが)を模していなかったらしいからだ(同じく語弊あり)。そこからこういうことを考える僕もかなり暇人だ。ちなみにこの議論は思いつきで書いたので、おおむね正しいと信じてはいるが、細かいところはいい加減。

ここからは感想。「パーフェクト・メモリー」によると、「ジェイナス」は当初「グラドス」という名前だったらしい(だから何だ)。当時「私の名はミューラァ。地球は狙われている」とかいうパロディはあったんだろうか? ふつう、混血児といえばミューラァの方を先に思い出すべきだと思うんですけど。「バイファム」ファンなら。
チェンバーの場合、ミューラァの両親と性別と種族(?)の対応が逆なだけで、境遇はほとんど同じだ。どうせなら、地球軍のやり方に反感を覚えたチェンバーは独断でククトニアンと接触を図るが、彼らに捕らえられてしまう――くらいのひねりはほしかった。あ、当時はまだ地球側がククトニアンの存在を黙殺するところまでいっていなかったかも。こんな小手先のごまかしではなく、もっと大々的に設定を変えるのはもっと良い。チェンバーはかなりマッドな科学者で、地球とは全く別のパラダイムを持ったククトの科学を学ぶために自ら進んでククトに身を投じた。研究一筋で息子のことを省みない父親に反発したアランは家を飛び出し……とか(同工異曲)。
にしても伏線が単なるネタばらしにしかなっていない好例だ。せめて残り3話でこの設定は活かされるのだろうか?
さて、よく分からないのがククトニアンにとっての旧ククトの価値だ。この星は何故か無人である。ほったらかしにしておくのはもったいない気がするが、それならそれでリベラリストの絶好の温床になりそうだ。だって、サライダはリフレイド・ストーンの開発に加わっていたはずだから。するとサライダとチェンバーは知り合いになるわけで、ここで新たなほころびができるような、できないような……だって彼はミューラァの前にアランを知っていることになるわけだし。さらに余談だが「39年前」ということは、サライダは地球の年齢では現在60歳は越えているんだろう。また、どうやら軍による偵察はされているらしいが、だったらジェイナスは今頃拿捕されているのでは??
今回挿入歌が流れたそうで、聴くのが楽しみ。

*1 そして日本語としての「ボール」というタイプが話題の時には"ball"はその中には入らない。
*2 以下に述べる説明で、オブジェクト指向プログラミングについて関心のある者なら、オブジェクト―インスタンスの関係がすぐ頭に浮かぶだろう。しかしそれとタイプ―トークンの関係は、例え表面的に一致していることがあるにせよ、それぞれ全く別の理論から導き出されたものである。事実、個々の場面のマキが別々のインスタンスであると思いつくJavaプログラマはいないだろう。
*3 この場合はむしろどちらもがタイプであるというべきかもしれない。
*4 同人誌は恐らくその好例だろう。
*5 完璧に同一なのかというと、実に微妙なところである。少なくとも、彼がショーン・コネリーなのか、エディ・マーフィーなのかが論じられているときには、同一ということになる。しかしこれは論点のすり替えによる逃げ口上ではある。
*6 逆に悪い例はあだち充や松本零士の作品かも(暴言)。
*7 字があっているか自信なし。


Vd: 1998.9.11

「13」第22話感想(伝聞版)

なんてこった。ただでさえ「人づてならで 知るよしもがな」[*]なのに、今週は結局解説が一人に。
だから感想も短く。ロディとバーツが空に向けて銃を撃つところ、マ・クベが見てたら馬鹿にされるぞ、きっと。

* 「今はただ 思ひたへなむ とばかりを ひとづてならで 言ふよしもがな」(百人一首)


Vd: 1998.8.24

「13」第21話感想(伝聞版)

雪が降ったんじゃあなくて、単に雪山か。しかもどちらかというと「遭難」に近くて、とても雪だるまをつくったりするような雰囲気ではなかったみたい。細かいことを言うと、誰も雪を知らないのはちょっと変。もしクレアドでも雪を見たことがなかったにせよ、バーツの故郷のドイツなどで雪が降らないはずがない。まあそれはそれで、初めて見る雪へ、それぞれなりの反応があったことだろうからよしとしよう。
今いる旧タウトは、チェンバー夫妻の故郷ということだ。だったら、他の住民はどうなったんだろう??ククトなどと違って核汚染を免れたのだから、ここに大勢人が住んでいて、軍隊もいるのが自然のはずだが。まだ何も説明がないだけのはずなので、どこかで解説してほしい。それと、故郷といっても夫婦ともククトニアンだとしたら、地球の文字まで書けてしまうのはあまりにおかしいので、どっちかが地球人と思いたいのだが、やっぱ夫君のほうだろうか?
ケンツがみんなに銃の撃ち方を教えるところなどは子どもたちの覚悟が伝わってくる。やはり生身の人間を撃つ、なんてきっとケンツでもひるむはずだ。でも銃そのものは、ベルウィックにいた時に使っていたりする。
どうもこの話は「13」の悪いところが顕われてしまったようで、「バイファム」ファンにとってはいたく不満なようだ。ただし、ファンの視点を離れて、「13」から(あるいはその直前までの「バイファム」再放送から)観始めた人にとってはどう捉えられたのか、多少気になる。彼らにとってもただの「時間稼ぎ」としか映らなかったなら救いようがないが、そうでなければ、まだ一片の希望が残されていると思う。
そうだ! せっかく今回雪が登場したんだから、本当に遭難する話にするのはどんなもんだろう? 吹雪で洞窟に閉じこめられて、身動きがとれない。気温がだんだん下がってきて、マルロやルチーナは危険な状態に。そこでやむを得ず、メリーの毛皮をはぐことに。残酷だけれど、「ジャングル大帝」の最後もそうだったし、どうせメリーとはいつか分かれなくてはならないのだ。……ん? メリーはさすがについて来ていないのだろうか? だったらこれはボツだな。どっちにしろ、13人、あるいは11人は意識を失ってしまう。はっと気がつくと、全員は暖かい毛布にくるまり、そして置き手紙が残されていた。えっ? チェンバーはどうやってそこまで来たかって? 彼らは、ほら、トラックを奪ったから、装備が充実していて、かつ、雪が小止みになってから助けに来たと。それに自分たちのために子どもたちが凍死するなんて後味が悪いし……無理? それなら、さらに子どもたちは雪を知らないから、それへの対応も下手ってことでもまだ駄目? …しかしこんなことを考えて一体どうなるというのだ。
Vd: 1998.8.18

「13」第20話感想(伝聞版)

うっかりしていたが、大タウトには濃い大気があり、あまつさえ地球なみの重力があるそうだ。これでは衛星と言うより双子の惑星である。これが松本零士作品なら「宇宙にはまだまだ人間の理解を超えた場所が存在するのだ……」(巻紙の囲みで)とかで済まされるのだが、「バイファム」ではそうはいかない。てっきり地球の月くらいのものと想像していたので、安直ではあると言ってもまだしも許せると思っていたのだが、さすがにそれはまずい。確かアニメ誌では「旧タウト(にせタウト)がないと新タウト(真タウト)が軌道を維持できない」というような解説がなされていたが、いささか破綻をきたした説明だ。大体そんな人が住める星があるなら、ククト人がアステロイド・ベルトにコロニーを造る必要がない。それともここも核戦争で居住不能になっていたのかな。
スコットがリーダーらしきことをしたのは好感が持てる。泣いてしまったのも、芦田豊雄的ウルウル泣きでなければ、まあいいんじゃないだろうか。マキとカチュアの女の子コンビでの操縦も、ツボを突いているといえる。
今回敵襲がなかったようだ。このテのアニメでこういう話のときに、敵が攻めてこないのはなかなか珍しいのではないだろうか。「バイファム」でも第11話などは戦闘がなかったし、また「バイファム」第30話とはパターンを変えたかったのかも知れないが。子どもたちが独力でやり遂げるためには、チェンバーたちが何も手伝わなかったことは不問に付そう。普通なら何かするところだが、ただ黙ってみているのが彼らのキャラクターとしてもあっているのだろうし。ところでこの二人は結局地球人なのかククト人なのかどっちなんだろう?
RVの降下方法だが、ステーションの装甲板で(「Ζガンダム」に登場した)ウェーブ・ライダーを急ごしらえするのは無理だろうか。こんなこと今さら考えても仕方ないか。しかしウェーブ・ライダーって実現可能なのか、今でも気になる。「耐熱シート」はTV版「ガンダム」に出てきた「耐熱フィルム」みたいだ。実際は全然違うものなんだろうけれど、名前だけ聞くとそんなかんじだ。それとも耐熱シートもサランラップみたいなものだったりして(あれ? 映画版ではどうしていたんだっけ?)。スリング・パニアーはククト星降下直前にどさくさに紛れてギッたので、この時点ではないはず。でも「13」ではローデンたちは戦死したみたいだから……おっ、スリング・パニアーなしの地上篇というのは目新しいぞ。リアリティもあるし(かっこ悪いだろうけど)。
しかし、「両親のいるかも知れない収容所に向かう」という話は実際に観ているとやや辛いと思う。何しろ、こっちとしてはそこで再会できないことは分かり切っているからだ。こんな白々しい話ではないものはできなかったのだろうか。このままだと(まだこう言うに早いが)いわば「結果が0(ゼロ)の物語」になりかねない。せめて失意というか単なる「空騒ぎ」で物語が終わらなければいいのだが。
リフレイド・ストーンはジェイナスに残してきたのかもしれない。確か「13」第2話でローデンは「ガーディアン」というセリフを言っていなかったように思う。恐ろしく不確かな記憶だが、もしあっているとすれば、置いていってしまう可能性もなきにしもあらず。自信がないので、間抜けなことを書いている気もする。1回立ち見しただけだからなあ。そういえばトゥランファムも置いていったんだろうか? そうだとすると、「バイファム」のククト篇と同じく、戦闘中なにもすることのない子どもたちがまた増えてしまうなあ。
あと、「ジャム」るって何だろう?
Vd: 1998.8.10

「13」第19話感想(伝聞版)

「ククト」=「地球」、なら「タウト」=「月」ということだ。僕の2番目の予想は当たったけれど、ちっとも嬉しくない。これなら前回までみたいに1話完結の話を続けていた方がましだったかも。何だか制作側のこだわりが感じられない。マキの回だとしても(「散華」しちゃうと困るような)。だって観ていないもんで。科学的な考証には、ストーリーをもたせなければならないから、あえて目をつぶるとしても、だ。待望の新レギュラーは(Op.は変えたんだろうか…?)多分、芦田キャラとしては正しいんだろう。でも芦田キャラでシリアスな芝居をするのが「バイファム」の持ち味なのでは? 彼らにひきずられて、物語が不整脈を起こさなければいいのだが。えっ、ストーリーを続けなくちゃならないからこっちも目をつぶれって? そんなことしたら、続けられなくなるよ、きっと。
「じいさん」なのに「少佐」って変じゃないかなあ(そうでもない?)。「元」ならともかく。ケンツもそういうところ少しは疑えよ。しかし、ジェイナスがここまで来るのに様々な困難を乗り越えてきたんだから、夫妻もそうなんでしょうねえ。うるさいフォルテを振り切って来ていたりして。コンピュータRPGでNPCが、「おい、お前どうやってここまで来たんだー!?」というようなところによくいるけど、それを思い出してしまった。彼らが乗っ取ったシャトルの人たちはどうなったんだろう? 考えると寒気がする。
ところで新しいタウトはどれくらいの大きさなんだろう? 地球の月くらいなら、ジェイナスで突っ込んでもその重力を振り切って脱出できる、かも。
ステーキのダジャレは、シャロンの「かたみ」に引き続き、彼らが日本語をしゃべっているという重要な証拠になった(嘘)。今回は少しはまともなものを食べているようで。

「13」が「マクロスII」みたいに封印された存在にならないことを祈る。


Vd: 1998.8.5

「13」第18話感想(伝聞版)

高校のときに妙な友人がいた。そいつはしょっちゅう、ほとんど毎日グレープフルーツジュースを愛飲していた。何故かというと、彼いわく「グレープフルーツにはカルシウムが多く含まれている。カルシウムは頭の働きをよくする」から。確かに高校生だったので、「受験」に死にもの狂いになる必要はあった。が、彼が妙なのはここから先だ。彼は受験そのものが目標ではなかった。それは自体はよいことだ。しかし、「独裁者になる」のが夢というのはまともじゃない。それを聞いてあきれたが、彼はおおまじめだった。しかも、彼は本当に現役で東大に受かってしまったのだから恐れ入る。
それで僕は日本の将来にまだかすかに希望が残されていると思っている。だって、東大に入って官僚になろうとする輩は腐るほど(本当に腐っている)いるけれど、こんなやつ滅多やたらといるもんじゃない。本当に独裁者になられたらちょっと困るけど(彼は無修正の本を持っていたりするという意味でも変なやつだった)、政治家にでもなってくれれば、何かやってくれそうだ。もっともそれまでに日本が駄目になっているかもしれないが。

カチュアが怒ったのに、ジミーの「カルシウム」ケアは効いたのだろうか? (前振りが長すぎた。)牛乳(山羊乳?)自体の効果はともかく、彼の心づかいはカチュアを和ませたと思いたい。
(予想に反して)ボギーの不調は今回でケリがついた。原因(?)の一端が人間の側にあるというのは、なんとなく「2001年宇宙の旅」でのHALの言い訳と同じパターンだが、今回は本当にスコットに非があったのでよしとしよう(スコットがまぬけなのはよくないが)。ボギーの方から言い出したら、かなりまずい。そう言えば、ボギーを切り離すのも「2001年」と同じだ。
にしても"1"と"l"は身につまされる。そういう誤植の本を所有しているので。これには参った。気づくのにえらく時間を要した。一度はそのコードを投げ出したくらいだ。頼むよ、もう。N社の書籍にいっぱい食わされたのはあの時だけじゃなかったし。このテの古典的(現代でさえ)ミスが直ちに訂正されないとは、60年後の疑似人格コンピュータもまだまだ改善の余地がありそうだ。
ボギー復旧にあたったのは、カチュアとフレッド、ここまではいいんだけれど、マキはどうした? 個人的にはロディよりマキを…(ブツブツ)…ロディってコンピュータはからきし駄目じゃん。カチュアだって、コンピュータに詳しいというよりは、頭がいいというべきで……今回の役どころとしてはぴったしだから、まあいいか。ひとり徹夜で作業というのが、あまりにはまりすぎている。ロディも「13」では目立っていないということなので、たまには活躍しないと、ということで納得するとしよう。
ただ、機雷とボギーのつながりがあまりピンとこない。もっと「あと数時間以内に高度な軌道修正を行わなくてはならない」のようなボギーが必須となる状況を用意してほしかった。
しかし全体的に見て今回は納得の行く出来のようだ。観るのが楽しみ。


Vd: 1998.7.27

「13」第17話感想(伝聞版)

今回は某氏(って誰でも某氏で済ましているのだけれど)が観逃したそうだ。僕も「DTエイトロン」の録画に失敗した(野球中継延長のため)。そろそろみんな緊張が抜けている頃なのかな? それはいいとして、今回も予想が外れた。二つとも。一つは、スコット(1998.7.13)。もう一つは幽霊船(1998.7.25)。前者は大歓迎だ。今回はフレッドがスケープゴート(?)ということに。おもらし、してくれれば。
ボギーの不調は今回は絡まなかったのか。動物が一枚かむのは、OVA第3巻と同じ。「ねまき」が出るのも。作中で「またお化けかよ」とかって誰か言わなかったのだろうか?
あっと、「ねまき」は先週も登場したとのこと(先週はアレに隠れて目立たなかった可能性が)。最近ファン・サービスを強化しているのかも知れない。深夜だから別に多くてもおかしくない。が、今まであえてしなかったように見えるのに、やり出したのだとすれば、安直かな。
全体的に「幽霊話」にしては肝心の「不気味な事件」がいまいち少ないような気がする。特に「消えた12人」と比較すると…所詮二番煎じということか。
トミー芦田は今回もペンチの言動に度肝を抜かれているのだろうか?
Vd: 1998.7.22

「13」第16話感想(伝聞版)

某氏のページは今週は更新されなさそうだ。仕方ないので、ここらで書くことにする。スコットが今回はまともだったらしいのが何より。てっきり洪水にまきこまれるのも彼なら、最後に鼻血を流してオチをつけるのも彼かとふんでいたのだが。ただ、問題の解決にどれくらいリーダーぶりを発揮したのか心配だ。何だか結局大したことはしなかったようだが。
シャロンは「パジャマ」ではなく「ネグリジェ」だったと思うのだが、実際にはどうだったのだろう?(そうじゃないと、下着をつけていないことの意義が薄れるぞ。)それにしても彼女は相変わらずサバイバル能力にたけている。
あとはどこから水着を調達したのか。カチュアが「こんなこともあろうかと…」と用意しておいたのだろうか…? 水着といえば、誰がビキニで、誰がワンピースだったのか、気になるなあ。
Vd: 1998.7.13

「13」第15話感想(伝聞版)

「13」解説の各ページを読む。予想が外れた。ヤギのほうを持ってくるとは…考えないでもなかったけれど、安直だよ、そりゃ。13人と、わざと奇数にしたのは、それなりに考えてのことではなかったのかな。スコットが「僕は審判として中立を守る」とかって宣言すれば……女の子たちが納得しないかも。でもそこを毅然としてビシッと決めるからこそスコットじゃないの。
「ピンク」は小学校に入るまで一番好きな色だったりする。東京に井の頭線という電車が走っている。この電車は車体の色が7色ある。たまたま乗った時に入線していたのが、ピンクの急行と、別の色(青とか緑)の各停だったのだが、当然ダダをこねた。結局急行には乗れなかった。目的地が各停しか停まらないからだが。バーツ、ピンクが好きな男の子もいるんだ!!というわけで、今回は女の子組を応援します。ちなみに小学校に入ってからは、矯正(?)されました。
今回もスコットがアホなのね。狂言まわしみたいだからしょうがないかも知れないけれど、だからといって今までのシリアスなはずの時でもバカやってたんだし。さらに、来週、再来週のスコットも既に読めているので(それとも外してくれるのか?)……救いがたい。なんだか、もう。
フレッドはマキやシャロンあたりより調理がうまいの? うーん、そんなもんかな。OVA第4巻ではシャロンがやたらにうまくキャベツを切っていたんだが。あと、フレッドとケンツが食事当番の時にマキに「うえっ、最悪」なんて言われてたんだけど。
そういえば、明確に「男子対女子」というケンカ構図は今までなかった。だってルチーナとマルロが本格的にケンカするなんてありそうにないもんなあ。シャロンはみんながケンカしていてもどこ吹く風って感じのことが多いし。そういう意味では割と意外かも。

Vd: 1998.7.6

「13」第14話感想(伝聞版)

いやあ、僕の悪い虫の知らせが外れて何より。てっきり、
キエフに無事保護され、一息ついた彼らはこれまでの回想を始めるのだった
…てなことになると危ぶんでいたので。そういや今回ナレーターは存在するのだろうか? いないだろうなあ。というわけで、上のセリフはスコットのに変えて下さい。
そうか、ラピスってジェダさんたちとつながっていそうなのか。で、一方で現政府とのつながりも維持していると。非営利団体とはとても思えない立ち回りのうまさだ。両てんびん(字が出ないぞ、Wnnめ…)、天秤(MS-IME97、そうか「はかり」で変換すればよかったんだ)にかけているのだろうな。背後に兵器製造企業が絡んでいたりして。
それとも実は反政府ゲリラのカモフラージュかもしれない。難民保護組織を装って、政府軍の動向を探っていると思える。ちょっとほじくるとギャドルが隠されていたりして…まだ完成していないか。いや、でもだからあちこち見せらんないのかも、などと思ったのです。

ボギーの喋り方は、やっぱ学習機能があるのだろう、で、そのうち:
「ボギー、あれ頼むよ、あれ」
「ボギー、いつものお願いね」
「ボギー、バーツにいじめられたよ〜」
「ボギ〜、力が出ないよお」
なんてね。最初の二つはありそうだ。

馬鹿な話はおしまいとして。ルーディンさんとケンツの別れの場面はよさそうな雰囲気。今までで一番良かったように見える。…声が野沢雅子だからか?

お風呂に入りたがるのは、ケンツ何とか言ってやれ。「戦場で風呂ぉ? これだから女ってのは…」とか、ね。もう無理か。


Vd: 1998.6.29

「13」第13話感想(伝聞版)

第1クールの最終回だけあって、「感動的な」回だったらしい。「脱出」せずにすんだのはよかった。でもまた敵とお知り合いになってしまいました、あーあ。地球語で話し合うし。赤ちゃんは、ククト側に渡されるのなら、ラピスに渡したって同じようなものだ…というのは余計なお世話か。ルルドはこの責任を問われてミューラァにとって代わられるのだろうか。戦死しないですむならよしとしよう。
…でもルルドのおめこぼしにかかわらず、13人はまたククト軍につけ狙われるってことは、視聴者たる我々にはわかりきっているのだ。結局ルルドの決定自体その場しのぎに他ならない。だってリフレイド・ストーンがあるかどうかにかかわらず、13人がこのまま前進を続けることは、とりもなおさずククト側にとっては「侵入」されるということだからだ。
もちろん「13」の初期設定、あるいは「前提」がそもそもそういう問題をはらんでいるのは、それこそ放映が始まる前から分かっていたことだ。
それとルルドが去っていたのにはジェイナスに子どもしかいないからということもあるみたいだ。個人的には「ガンダム」でランバ・ラルが最後の戦いを仕掛けるときに、部下のクランプが、子どもがいるに気づいて、「下がっていろ」と叫びつつ、爆弾はしかけるシーンを見て、その矛盾した行為に人間くさいところを(もちろん彼は人間だけど)感じた覚えがある。ルルドにも、ただすごすご引き下がって欲しくはなかった。もちろんそれまでの回で悩んではいたみたいだけれど。
おっとけなすだけだとアレなので、マキのセリフとか、好きです。シャロンのセリフも実際に聞いたら、(この回自体の)イメージが変わるんだろうな。
Vd: 1998.6.21

「13」第12話感想(伝聞版)

カチュアについに出番があったらしい。セリフもらしくていい。スコットがやっとキャプテンぶりを発揮したのも○。…しかしジェイナスを捨てるってのは……
注: これ以前の感想もVIFAM diary本編にあることはある。