No.194-1 冬の 鍋割山1273m(丹沢) 平成17年(2005年)12月25日 ![]() |
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小田急線渋沢駅-《バス15分》-大倉〜二俣〜林道終点〜後沢乗越〜鍋割山1273m・鍋割山荘〜小丸1341m〜大丸1386m〜金冷ノ頭〜(大倉尾根)〜大倉-《バス15分》-渋沢駅 【歩行時間:
7時間(夜道を含む)】* 下りの夜道で約20分は時間をロスしています → 国土地理院・地図閲覧サービスの該当ページへ 大倉尾根の西側にずんぐりと平凡に聳える鍋割山(なべわりやま)。山名の由来には、鍋を半分に割ったような山容からとするものや、北面の鍋割沢にちなむという説(ナベ=ナメ・滑)などがあるそうだ。山頂に建つ鍋割山荘の「鍋焼きうどん」で、つとに有名だ。しかし何故か、交通の便が良い割には、今まで私達夫婦はこの山には縁が無かった。 日の短いこの季節、鈍足で軟弱な私達にとっては少しきつい日帰りコースだけれど、よく整備された登山道であるらしいことや、勝手知ったる表丹沢、ということもあって、下山時には多分日が落ちているであろうことを覚悟の上で、思い切って出かけてみた。久しぶりの丹沢でワクワクした。
終点の大倉バス停はモダンな感じで、広場前のレストランや売店などが、まだ開店前だったけれど、軒を連ねている。ここは人気の塔ノ岳への登山口でもあり、日曜日ということもあって降車したハイカーは多かった。昔(もう40年前のこと)と比べると、この大倉も随分と変わってしまった。その頃の道路はまだ未舗装で、鬱蒼とした山裾にポツンとバス停があっただけだった。と、そんな会話をしながら歩き始めたのは午前8時半頃、冬寒の快晴だった。 大倉尾根へ続く道を正面に見送り左折する。途端に人影は消えた。四十八瀬川の左岸に沿って、スギ・ヒノキの植林地帯の西山林道をゆるやかに登る。「表丹沢県民の森」を過ぎ、イヌブナ、コナラ、シデ類などの広葉樹が現れ始めると間もなく勘七ノ沢との出合い(二俣)へ出て、ここでまず小休止。この勘七ノ沢は、私が学生のころに歩いて怖い思いをした思い出の沢だ。今でも冒険好きの登山者が攀じ登っているのだろうか。 二俣から更に進むと、四十八瀬川の本谷とミズヒ沢との出合が林道の終点で、ここからが本格的な登山道だ。長い林道歩きだった。歩き始めてから既に2時間が経過している。 その登山道入口には、鍋割山荘関係と思われる一台のワゴン車が停まっていて、傍らには水を詰めた2リットルのペットボトルが大量に置かれていた。説明板によると、鍋割山荘で使用する水道水とのことで、体力に余裕のある人はボランティアで運んでいただきたい、とのことだった。否応もなく、私達はそれぞれ1本ずつ、そのペットボトルをザックに入れた。 スギ林の急坂をトラバースして、登りついた稜線が後沢乗越(うしろざわのっこし)だった。その稜線を北上して、更に高度を上げていく。この間、私達は何時になくピッチを上げて一生懸命に歩いていたのだけれど、2組のパーティーにあっさりと追い抜かされた。このコースを歩いているハイカーは何故か単独行が多く、誰も無口で、まるで(山の)ベテランのように無愛想に見えた。稜線付近はアカマツ、ブナ、ミズナラ、シデ類、カエデ類、ウツギなどの、所謂「雑木の尾根」で、それらの冬枯れの木立の隙間からは西丹沢や箱根の山々が近くに見え、その奥には大きな富士山が聳えている。 丹沢の稜線付近のブナは、東北・中部などのブナと比べるとその幹が幾分黒っぽくて、イヌブナとの中間種じゃないだろうかと思えてしまうほどだ。ここではブナかイヌブナかの見極めは、未熟な私にとっては樹形で判断せざるを得ず、株立状(ひこばえのある木)がイヌブナであろう、というていどのかなりアバウトな同定ではあるのだが…。 今はもう萱(カヤ)は茂っていないが、昔は里の萱葺き屋根の材料の採草地だったという一ノ萱、二ノ萱を過ぎて間もなく、最後の木段を登り切ると鍋割山荘の建つ小広い山頂部(三ノ萱)へ着いた。12時40分頃だった。展望は素晴らしい。北・西面には丹沢主脈や富士山は勿論のこと、金時山や神山などの箱根の山々や愛鷹山などの駿河の山々、そして御正体山などの道志の山々やその彼方の南アルプスの白峰たちも見えている。南面眼下には相模平野の街並みとその先の相模湾が大きく広がっている。 しかし、この鍋割山の山頂部は萱ではなく芝だった。周囲にマユミやウツギ類などの落葉低木が疎に並ぶ、まるでこじんまりとした公園のような異空間だ。私たちハイカーのオーバーユースによる裸地化を見かねた鍋割山荘のご主人(草野延孝さん)が、苦労して植え付けたものらしい。芝生上のあちこちにはシカの乾いた豆糞が落ちている。 早速鍋割山荘へ入り、2リットルのペットボトルを所定の場所に置いてから、靴を脱いで掘り炬燵に足を投げ入れて、鍋焼きうどん(980円)を賞味した。具沢山で美味だった。なにより身体が温まった。期待していたわけじゃないけれど、ペットボトルを運んだ「お駄賃」は何も無かった。でも、「ありがとう」 の一言で私達は充分に報われた。100Kg以上をボッカするというご主人の草野さんは「丹沢天狗」の異名をもつという。歳は私たちと同じくらいの団塊の世代とのことだ。鍋割山荘を30年間守り続けてきた重みを人徳の優しさが包みこんでしまったような、そんな感じのする小柄な山男だった。 居心地のいい山頂で、なにやかやで1時間近くを過ごしてしまった。ベンチや芝生で休憩していた数組のハイカーたちは何時の間にか誰もいなくなっていた。その静かな山頂で景色のおさらいをしてから、軽くなったザックを担ぎ、私達は東へ向かって塔ノ岳へ通ずる鍋割山稜に足を踏み入れた。 暫らくの間はカエデ類がその大半を占めるが、徐々に大きなブナが目立ち始める。この鍋割山稜の、丹沢独特のブナ林が、なんとも云えず趣があった。きっと新緑や黄葉の季節はめまいがするほどの美しい処だと思う。 大倉尾根へ出た地点(金冷ノ頭=金冷シ)で少し躊躇した。ここから塔ノ岳往復は歩程にして30分〜40分くらいだけれど、チラッと妻の佐知子と目を合わせて、やはり断念した。塔ノ岳には過去何回も登っているし、展望は充分に楽しんだし、ブナ林も満喫したし、もう時間も遅いし、疲れたし…。決断が低いほうへ流れるときは、最近の私達夫婦は「あうんの呼吸」なのです。 金冷シから懐かしの大倉尾根(バカ尾根)をひたすら下る。駒止茶屋の辺りから真っ赤な夕焼けになって少し寒くなってきた。そして見晴茶屋で日が落ちた。あっという間に辺りは真っ暗。用意してきた懐中電灯を取り出した。佐知子は流行のヘッドランプ式で、私は昔から愛用している手持ちの懐中電灯だ。その明かりは心を明るくするほど明るかった。 大昔(36年前)の冬、私と佐知子と二人で、結婚するウン年前、源次郎沢から塔ヶ岳へ登ってこのバカ尾根を下ったときも懐中電灯だった。暫らくの間は、そんな思い出を語り合うことも無く、私達はゆっくりと下った。 麓に近くなってきたころ、暗闇の中で佐知子がポツンと云った。 「前(36年前のこと)に来たときは、鬱蒼とした竹薮が怖かった…」 私も思い出してポツンと答えた。 「背の高いスズタケの群落…だったな」 そのスズタケは、多分、シカが食べてしまったか天狗巣病で枯死してしまったのだろう。「昔」のスズタケ群生地は、今では空間が多くなって、疎らに生える若い木々たちが夜風にそよいでいた。そしてその隙間から、「昔」は見えなかった渋沢などの街の夜景が宝石箱のようにきらめいていた。 星空の大倉バス停に戻り着いたのは5時45分だった。発車寸前のバスに乗り込み、私達はホッと安堵した。 ![]() ![]()
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