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*** ブログ的なコラム ***
自然と自然保護について
前項・霧ヶ峰で思ったこと(自然についてPart1) からの続きです

古い山旅日記から ( 自然についてPart2
それは自然なことなのだろうか?

* 貧しくもなく飢えてもいない人が何故、鳥や獣を撃つのだろうか。狩りをすることが人間の本能だとして、人間の存在自体が「自然」に含まれるものだとしたら、それは自然なことなのだろうか。少し解せない。→No.34「秋の鬼怒沼湿原」:H8年10月
* 尾根筋の雪の上に猪らしき足跡と猟犬の足跡。そして生々しい血痕が点々と付いているのを発見した。背筋が凍る思いをした。それは寒さのせいでもなく、猪が怖いわけでもなかった。人間の業(ごう)が、多分、怖かったからだと思う。暫し茫然として、なんとも云えず悲しい思いで、私達夫婦はその猪の血痕を見ていた。→No.56「淡雪山から興因寺山」:H10年1月
* 自然を破壊するほどの宗教の力を人間の善と見るか悪と見るか…。宗教なんだから、矢張りこれで善しと見るべきなのだろう。ただ…、人工的に切り取られた垂直に聳え立つ荒々しい岩壁を、私達は痛々しいものとして見ていた。→No.57「鋸山」:H10年1月


山で食べるミカンは旨い ( 自然についてPart3
山道でミカンの皮を投げ捨てることくらい…?

 自然とはそもそも人の手を加えない物のありのままの状態のことを云うのだから、つまり人間と自然は対立するものだ、という考え方は分かる。一方、同じ地球に存在するのだから自然と人間は切り離せないものだ、つまり人間は自然の一部である、という考え方も分かる。
 しかし、大前提として人間と自然は対立するものと見るか、又は人間を自然の一部と見るかで、自然保護の考え方の結論が大きく変わってしまう、ということに私は気がついた。
 人間と自然とが対立するものだとしたら、自然を守るためには人間は全く自然に関与してはいけない。一方、人間が自然の一部だとしたら、核戦争によって変わり果ててしまった世界も立派な自然だ、ということになる。
 すると、何れも極論になってしまって、現実的な結論が引き出せない。だから、多分、「人と自然の調和」なんてスローガンが生まれたのだろう。つまり、「社会的・経済的」に鑑み、また「文化的・宗教的」な要因も充分に検討して、ケースバイケースに考えていこう、ということだ。そしてそれは「エコロジー運動」などに代表される現代の自然保護に対する考え方の主流だろう、とも思う。キーワードは「多様性」と「共生」だ。

幕山(湯河原)の山頂にて
ゴミは持ち帰りましょうね!
 山で食べるミカンはとても旨い。その水分と甘味と酸味が、きっと疲れた身体にあっているのだろう。しかし、そのミカンの皮を何時ものように持ち帰り用のポリ袋に入れたとき、はたと考えてしまった。
 このミカンの皮を山に捨てると自然の生態系が変わってしまうという。土壌が変化することにより植生も変化してしまうという理由だ。説得力のある説明で、確かにその通りだと思うのだが、ちょっと納得がいかない。
 納得がいかないと思ってしまった私は、じつは、恥ずかしながら「人間を自然の一部と見る」派だ。非常識な人も良識ある人も含めた人間の、その「手」と「足」が大量に加わって、植生などがメチャクチャになってしまった「自然」も、それはそれで立派な自然で、けっこう美しかったりするのかもしれない。私は、白状するが、それで良いと思っている。
 戦争反対のためには、愛する者たちのために命がけで戦う覚悟はある。しかし、自然保護のためには、矢張り私は戦えない。人間が自然の一部であると思いたい私は、その人間を信じていたい。どんな風に人為的に変わってしまった自然も、多分私は愛することができると思う。時にはそこに美を見出すかもしれない。だから、山道でミカンの皮を投げ捨てることくらい大目に見ても良いのじゃないかな、と、自然保護運動の戦士が聞いたら目の玉をひっくり返すような帰結に、私はなってしまう…。
 くれぐれも誤解しないでいただきたい。このような帰結になるのは、あくまでも「私が人間を信じている」と仮定した上での話であるのだから…。[H17年4月]

* 山のゴミは、それがミカンの皮であれリンゴの皮であれ、必ず持って帰りましょう!
 蛇足ながら、私は昔も今も、山で食べたミカンの皮は必ずゴミ用のポリ袋に入れて持ち帰っています。つまり人間を信用していないのです…というとちょっとカッコイイですが…道端にミカンの皮が落ちているのをあとから歩いてきたハイカーが見たら、やっぱり感じ悪いのではないかと…、それが実際のところの理由です、はい。 (^^ゞ



ある日の私の日記 ( 自然についてPart4
ブナじゃないと困る人がいるのかな?

日本の世界自然遺産の特集をテレビで放映していた。
知床をやって、その次が屋久島で、最後が白神のブナ林だった。
地球がもう少し温暖化すると、日本のブナはその生息域をほとんど無くしてしまうという。
だから「守ろう」、とテレビは云っていた。
なんかおかしい。
ブナのあとに何故ナラがきてはいけないのだろうか。
何故、シイやタブやカシがきてはいけないのだろうか。
ブナじゃないと困る人がいるのかな。
何故、と何回も考えて、人間の本当の怖さを思った。[H17年8月]


点描 温暖化問題 ( 自然についてPart5
小さなネイチャークラフトだって貢献しているに違いない…

 森林生態学者の只木良也先生は、その著書の中でこう述べられています。
・・・・われわれには、まだ時間的余裕はあるのでしょうか。いま人類が環境問題に本気で取り組んでいるとはとても思えません。一日で倍に増える細菌を培養し、十日で培養シャーレの全面が覆われるとしましょう。シャーレの半分が覆われるのは、五日目ではなくて九日目なのです。われわれは、今五日目にいるつもりでも、それは九日目かも知れないのです。・・・・

 地球温暖化が人間を含めた自然のなりゆきだとしたら、それ(温暖化)に対応した強烈な方策・施策を講じるのが人類の英知だと思う。
 とはいえ…、そもそも“温暖化”は地球にとって良いことなのか悪いことなのか、じつはそれさえ判然としていないのではないか…。

 数億年、或いは十億年以上の昔、今の何百倍も何千倍も大気中に二酸化炭素やメタンの多かった地球の時代を、我々生物の祖先たちは立派に生き抜いてきた。全球凍結や超温暖化などの地球の厳しい大変革があったからこそ今の私たちが存在する、という云い方もできるかもしれない。そんな歴史的な簡単なことに、多くの善良な人々は気が付いていない。「地球にやさしい…」とか「地球を守ろう!」って云ったって、二酸化炭素だらけの時代を経験している地球にとっては、「温暖化」ぐらいは何とも思わないのだ。
 そこに私は不思議さと怖さを感じるのだ。「不思議さ」とは、「我々人類のために…」と云うべきところを「地球のために…」と置き換えてしまう人間のエゴイズムのことで、「怖さ」とは、卑怯な責任転嫁のことだ。

 尾瀬の自然を守れ!って誰が何時言い始めたの? 白神のブナを守れ!って誰が何時言い始めたの? そしてそれは人類などの生物の未来にとって本当に正しいことなの? もしかして、今や自然保護は、限りなく保守的なジャンルになってしまっているんじゃないの? 自然保護だから保守的でいいなんて短絡的に過ぎない? 革新的な自然保護の考え方があってもいいんじゃないの??
 なんとなれば、大東亜戦争の泥沼に日本人を導いたのは、革新的なイデオロギーからではなく、保守的な国民総意に基づくものであったということを思い出してほしい。保守的な「自然保護」に固執してはいけない。昔の自然を守る「自然保護」だけが救世主ではない。世界が動いているように、人の心が動いているように、「自然」も動いているのだから…。

 二酸化炭素排出規制(京都議定書)が悪いと云っているのではない。「自然保護運動」が悪いと云っているのでも勿論ない。それらも人類の英知のほんの一つに過ぎない、と云いたいのだ。温暖化をストップさせるために他人任せに「地球を守る」のではなく、温暖化して自然が変化しつつある今の地球上で、人類が繁栄しながら生き延びていく方策を「人類のために」育むほうがもっとずっと大切で重要なことだ、と思うのだ。云い方を変えると、炭素の固定化や大気浄化などの効用がある森林の保護・保全のみを云々するのではなく、環境問題の現実を一人一人が真摯に受け止めて、「自分自身の問題」として考えて行動に移してほしい、ということだ。
 マクロ的な発想としては…、例えば(二酸化炭素が温暖化の主犯であるのなら)大気中の炭素を大量に固定化するテクノロジーなど(二酸化炭素の隔離・回収・貯留技術)の開発を国家的な大プロジェクトとして、全世界に向けて全日本がリーダーシップをとったとしたら、とてもステキなことだと思う。
 温暖化問題について異説を唱える学者グループもあると聞くが、どちらが正しいにせよ間違っているにせよ、環境テクノロジーを底上げしておくことはやぶさかではないと思う。それらのテクノロジーは、仮に今は無意味であったとしても、何時の日か役に立つことがあるかもしれないのだから。
どんぐりで作ったアヒルの親子です
小さなクラフトだって…

 じっさい、何が正しいかなんてわかったものじゃない。正解は何百年後何千年後の私たちの子孫が知ることになる。否、地球と生物の間には永遠に“正解”なんてものはないのかもしれない。「自然」は常に動いていて、捉えどころのないモノなのだから…。要は、今やるべきことを各自が今やっておくことだと思う。
 “もったいない”と資源を倹約することは立派なことだ。法隆寺を大切に保存することは炭素の固定化という見地からも有効なことだ。“エコな生活スタイルを選択しよう!”というスローガンには納得だ。間伐材や木の実を利用した小さなネイチャークラフトだって、ほんの僅かだが(炭素の固定化に)貢献しているに違いない…。

 温暖化が進んだりして(あるいは寒冷化が進んだりして)環境が変わると植生も生態系も変わってしまう。超長期的にみると、それは単なる自然の変化であって、生態系が今よりも、あるいは昔よりも乏しくなるということではない。自然環境が変化すれば絶滅する生物種もあるが、環境に適応して新たに生まれる種もあるのだから…。そしてそのとき、少なくても人類は生き残って、否、益々繁栄してほしいと願う。原爆を作ってしまった人間様が全員で本気を出せば、そのくらいのことは朝飯前だ、と私は信じたい。[H17年12月]


「チーム・マイナス6%」 ( 自然についてPart6
新聞は4面だけで充分…?

 新聞の朝刊を見てびっくりした。環境省地球環境局地球温暖化対策課国民生活対策室(ウーン、なんて長いネーミングだ)の運営する「チーム・マイナス6%」のコマーシャル(広告)が出ていたのだ。京都議定書の目標を達成するための国民的プロジェクトというのが「チーム・マイナス6%」だが、驚いたのはそのCM紙面の“大きさ”だ。2面をぶち抜きで使っている。
 戦後このかた、日々配達される新聞の、その紙面数が多くなって、近年では折り込み広告などを合わせると膨大な量になってしまった。私は、新聞は4面だけで充分だと思っているが、今では朝刊で約40面、夕刊でも約20面が普通の容量だ。
 温暖化防止のためのエネルギーの節約(省資源)を歌い文句にしている「チーム・マイナス6%」の「2面ぶち抜き」のCMには、やはり唖然とさせられる。
 「提案と苦言です」と題して、早速当日(H18/01/25)に「チーム・マイナス6%」の運営事務局に以下のメールを送ってみた。

[提案]・・・ チーム・マイナス6%のHP上にBBS(掲示板)とかSNSを利用したコーナーなどを設けたら如何でしょうか。温暖化防止に関する、一般からの、活発な、本音の意見公開は、きっと多くの人に作用すると思います。つまり、もっと開かれたHP作り、もっと開かれた組織としての「チーム・マイナス6%」をめざしてほしいのです。
[苦言]・・・ 今日の朝刊の広告(みんなで止めよう温暖化・この星にスポーツを)は、あれは一体なんですか? 2面をぶち抜きで使っていますが、これはかなり「温暖化」に貢献していると思われますが…。


 しかしその後、まぁ当然のことながら…、環境省又はその運営事務局からのレスポンスは、今(H18/03/17現在)のところ、何もない。

* 「チーム・マイナス6%」のHPは、この後「地球温暖化防止国民運動・チャレンジ25キャンペーン」に引き継がれ、さらに「COOL CHOICE」に生まれ変わっています。[後日追記]


花泥棒 ( 自然についてPart7
外来種と在来種の境目ってなに?

スミレ 「花泥棒は罪にはならない」 と、私は子供のころ、田舎で育った母親に教えられたものです。それが「間違っている!」 と悟ったのは大人になってからでした。でも、「自然」に対してとても優しい母の感性を大切にしたくて、私は(この歳になるまで)反論をしたことはありません。多分それは、他家の庭からはみ出して咲いている花のことを、母は言ったのだと思います。
 プロ・セミプロ・ちょっと花好きのアマの泥棒さんも含め、野山の「自然な」草木を盗むのは絶対に許されることではありません。一度失われてしまった“自然”が元に戻るのは、それはもう本当に大変なことなのです。場合によっては二度と元に戻らないこともあります。大人になってから久しい今の私は、「花泥棒=盗掘者」は無期懲役にすべき、だと思っています。

 なお、「盗る」のと同じくらいに罪なのが「やたらに植える」ことです。「植える」ためには地権者や地元住民などの“了解”が必要であるのは勿論ですが、自然科学や倫理学に関する深い知識が不可欠となります。「自然保護」を勘違いして、例えば外来種や園芸種を一生懸命に野山に(やたらに)植えている人たちがいます。それは案外と放置されていることですが、私に云わせれば、そういう人たちも矢張り無期懲役にすべきだと思います。“生物の多様性を守る”には、まず自国に自生する固有種を守らなければならないのです。[平成19年6月に加筆]

 とはいうものの、そういった考え(固有種を守る)をぎすぎすに極論してしまうのも如何なものか、と、じつは私は思っています。例えば、外来種が新しい土地に馴染むことが(なにがなんでも)絶対に悪いこと、と決めつけてしまうこと自体、もしかしたら不自然なことなのかもしれませんから…。外来種が、疲弊して貧弱になってしまった生態系を甦らす(より豊かな新しい生態系を創出する)場合だってあるかもしれないと思うのです。…実際、世界的に見ても、そういった(外来種に依存した立派な)生態系は山ほどあると聞き及んでいますが…。
 そもそも、外来種と在来種の(時間的な)境目ってなに? …何百年前、あるいは何千年・何万年前からその地域に生息・生育しているのが在来種なの? …自然を不自然にしてしまう人類は一体いつからこの地球にいるの? …そもそも、地球の生物っていつから地球にいるの? …昔も今も未来もずっと変化し続けているのが地球の自然じゃないの?…!
 オール地球から鑑みて絶滅が危惧されている種は(絶対)保護すべきだと思いますが…、要は、ケースバイケースということだと思います。「自然」が大昔から変化してきたように、自然保護の考え方も変化していくのでしょう。というか、変化しなければいけませんよね。
* 「外来種は本当に悪者か?・新しい野性 THE NEW WILD」フレッド・ピアス著、及び「外来種のウソ・ホントを科学する」ケン・トムソン著、を読んだ後の平成29年5月に加筆]


なぜブナじゃないとダメなの?( 自然についてPart8
あとは野となれ山(森)となれ…

 昨夕のNHKのテレビニュースのなかで、筑波山のブナを守ろう、という趣旨の現地レポがありました。筑波山のブナはその後継樹(若木)が育っていません。その原因を「地球温暖化」とか「害虫・病気」とか「登山者によるオーバーユース・根っ子の踏みつけ」によるものだとか、報道していました。それ自体は(多分)間違っていないのでいいと思うのですが、そのあとが、例によってよくありません。 「だから筑波山のブナを守ろう!」 と、ナレーターもはっきりと云っているのです。それには大変な手間暇とお金がかかるということも報道されていました。

 私はこの手の話を聞くたびに何時も思うことがあります。それは、何故ブナがなくなってはいけないのか、ということです。地球温暖化はこれからの問題ではなく、もうすでに温暖化の最中です。温暖化してしまった地球ですから、筑波山や丹沢などのようにそのぎりぎりの気候帯のブナはシイ、カシ、タブなどの照葉樹に淘汰されるのが自然のなりゆきだと思うのです。これ以上の急な温暖化は人類総出で、知恵を出し合って、なんとか食い止めなくてはいけないと思いますが、ブナの次にシイやカシがきては何故いけないのでしょうか? ブナじゃないと困る人がいるのでしょうか?
タブノキやスダジイなどの自然林です
烏場山(南房総)の照葉樹林
 南房総の烏場山や三浦アルプスの一部など、辛うじて残されている照葉樹林はステキです。関東以南の、本来はその極相である照葉樹の原生林となるべく野山が、昔からの「開発」のあおりを受けて、今では本当に少なくなってしまいました。
 実際、何故そんなにブナにこだわるのでしょうか? まさか、筑波山のブナを守るために芽生えてきたシイやカシを伐ってる、とは思いたくはありませんが…。

 山(自然)を守るためのシンボリックな樹種として(短絡的に)ブナが採り上げられているだけのことなのかもしれません。また、「自然を守る」ことは「自然の遷移を守る」ことだけではなく、自然の「何」を守るかによって私たち人間の取るべき行動は異なるのではないか、と云った考え方があることも理解しています。…私が考えてきたことが絶対に正しいとは思っていません。

 一つの示唆として、私たちが何気なく使っている「自然保護」という単語は、もしかしてその殆どが「人間保護」の意味で使われているのではないか、ということをあげておきたいと思います。それ(自然保護=人間保護)が良いとか悪いとかいうことではなく、「自然保護」にかこつけて人間個人の傲慢さや貪欲な保守性を押し売りしてしまっているケースが散見されるので、それは是正してほしいと願うからです。例えば、昔は(自分の子供のころは)よかった的なノスタルジック自然保護なども…充分に理解できますが…それを押しつけてしまうのはよくありませんよね。なぜならば「自然」は自然なので、個人の感性とは別物…もっとインターナショナルでグローバルでユニバーサルなもの…なのですから。
 「自然保護という思想」(沼田真著・岩波新書)の冒頭には、『結局のところ、自然保護というのは、人間が一段高い立場から自然をかわいがるという構図ではなく、「人間−自然系」をいい状態に保つことにある。』 と書かれてあります。当を得て妙だと思います。

 ここであえて書くのはお門違いかもしれませんが、私はどちらかというと保存的自然保護派で、云うなれば「レット・イット・ビー(ほっぽっておけ)」と「ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)」と、そしてもうひとつは「あとは野となれ山(森)となれ」…、です。無責任なようでスミマセン。
 [平成18年10月脱稿・平成19年6月加筆]


シカの食害について( 自然についてPart9
私たち日本人の永遠の懺悔として…

大台ヶ原・正木峠のトウヒ立ち枯れ シカなどの動物の食害により立ち枯れてしまった樹木。この枯木の林立する大台ケ原特有の景観を美しいと思いますか、それとも醜悪なものと見ますか? 私は、美しいと感じましたが…。
 さて、ここで人間が関与して、野生動物の食害から樹木を守るために樹幹にネットを張ったりすることは、「自然保護」ですか?
 そもそも、「自然」ってなんでしょう…?
 人間は何処まで自然を自然にするために関与していけばいいのでしょうか? 自然に手を触れてはいけない領域というのは何処までなのでしょうか?
 [平成13年5月]

* 人間が関与してシカの個体数を調整(管理)することは立派な自然保護で、今後もずっと継続して行うべきものである、というのが私のスタンスです。それは…、絶滅させてしまった(シカの天敵の)ニホンオオカミに対する、私たち日本人の永遠の懺悔でもあると思うからです。[平成27年7月]
* と…しかし…今までのところ…、人間は自然界においてはそれほど(自然を完全に管理できるほど)エラくはないし、その能力もまだ未熟だと思います。実際、とても残念なことですが…それは、矢張り神が決めることなのかもしれません…。[令和6年5月]



*** 当サイトの自然保護に関するコラムです ***
No.70「霧ヶ峰」へ 霧ヶ峰で思ったこと(自然についてPart1) 自然保護について考えました。
「自然保護について」へ 「自然」と「自然保護」について 引き続き考えた、ブログ的なコラムです。(本頁)
No.67「戦場ヶ原自然研究路」へ 戦場ヶ原の自然について イヌコリヤナギは伐るけれどシラカバは伐らないなんて…
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