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No.94-1 初秋の 上高地散策
平成11年(1999年)10月9日 快晴


思い出の林道は、今は治山運搬路

松本電鉄・新島々駅-《バス70分》-大正池〜田代池〜田代橋〜河童橋〜(梓川左岸)〜明神池〜(梓川右岸)〜河童橋〜上高地温泉ホテル(泊)… 【歩行時間: 3時間30分】
 → 地理院地図(電子国土Web)の該当ページ(河童橋)へ


 午前7時、「スーパーあずさ1号」で新宿を発つ。松本で松本電鉄に乗り換えて、終点の新島々駅前からは上高地行きの松本電鉄バスに乗る。大きな高気圧におおわれて、ほぼ全国的に良い天気だ。
 大正池ホテル前のバス停から歩き出したのは10時45分。穂高連峰と焼岳の絶景がいきなり目の前に飛び込んできた。上高地にはこれまで何十回も来ているが、こんなにくっきりと見えたのは初めてだ。思わず身震いした。
観光客も多いです
ハイカーなどで賑わう上高地
 大正池を訪れたのは30年ぶり…。昭和50年夏の大雨で大量の土砂が流れ込んだとのことだが、ここいら辺は随分と変わってしまった。池に沢山立っていた(情緒豊かな)枯木も殆ど無くなっていた。それはそれ「自然のなりゆき」なのだから仕方のないことだ。
 田代橋と穂高橋を渡り、梓川右岸へ出て振り返ると、対岸の霞沢岳から六百山へと続く山塊が大きくて立派だ。清らかな梓川には岩魚が群れをなして泳いでいる。ケショウヤナギやシラカバなどの樹木たちも生き生きとしている。明るくて広い谷間の上高地は相変わらず別天地の素晴らしさだ。
 宿泊予定の上高地温泉ホテルにザックを預け、空身になって上高地散策の続きをやる。ウェストン碑の脇を通り、人ゴミでごった返す(私達も人ゴミの片割れだけれど…)河童橋を渡り、再び左岸へ出る。ふるさとに帰ってきたような懐かしさを感じながら、林道をゆっくりと歩く。今年は秋の訪れが遅く、紅葉には少し早かったようだ。
 明神池前の嘉門次小屋で、岩魚の塩焼き(一匹900円は凄い値段だ)を肴にビールを飲んだ。テレビの番組で紹介された影響か、シーズン最後の三連休ということもあって、小屋は大盛況だった。
 ホロ酔い気分で明神橋を渡り、梓川右岸沿いの遊歩道を超なだらかに下り、河童橋へ戻る。それにしてもこの右岸の遊歩道、いつできたんだろう。昔歩いた思い出の林道は、今は治山運搬路(自動車専用道)になっていた…。
 上高地温泉ホテルに着いたのは16時30分頃だった。明日の焼岳登山も天気が良さそうだ。

* 上高地は牧場だった: 上高地は明治18年(1885年)から昭和9年(1934年)までの間は牧場経営が行われていたそうだ。最盛期の大正の末期頃には300頭を超える牛馬が上高地の草原を闊歩していた、というのだから今昔の感がある。上高地の歴史年表によると、牧場が閉鎖された1年前(昭和8年)、大正池まで道路が開通して定期バスが運行して、帝国ホテルが建設されたようだ。牧場閉鎖と同じ年、北アルプスは中部山岳国立公園に指定されて、上高地は新しい時代を迎えることになる。
 河童橋から徒歩約2時間の徳沢園は、牧場時代に牛番小屋のあったところだそうだ。キンポウゲ科のニリンソウは弱い毒があるといわれ牛馬は好まない。上高地におけるニリンソウの群落は牧場時代の名残であるともいわれる。
「日本の森列伝(米倉久邦著)」及びウィキペディアの該当項などを参考にして後日追記しました。

上高地温泉「上高地温泉ホテル」: カルシウム泉質でラジウムを含む、とのこと。無色透明、湯量は豊富。露天風呂あり。内湯は石造り。清水屋ホテルに隣接。霞沢岳が真正面に聳え立つ、梓川畔の絶好のロケーション。登山の先人達が絶賛したのもうなずける。
 ところが、私達夫婦が通された部屋は西側に窓があり、霞沢岳や六百山が全く見えない。おまけに洋室で部屋は狭いし、床が歩く度にギシギシいう。一人23,000円もしたのに…、少し気落ちした。でも、部屋の窓から焼岳が木々の間から辛うじて見えており、まぁいいか、の心境。景色のよい部屋に泊まるのには、もっとお金を出さなければいけないらしい。
 明日に備えて早めに寝た。
  「上高地温泉ホテル」のHP

冬の上高地 この後(平成18年1月)、同地を散策したときの記録です。



大正池から焼岳と穂高連峰を望む
大正池より焼岳を仰ぐ
焼岳2455m
大正池より穂高連峰を仰ぐ
穂高連峰(岳沢)

*** コラム ***
上高地の自然とその保護について
渓間工の是非

河童橋の向こうに穂高岳
梓川の流れる上高地
 上高地の真骨頂は、穂高岳などの山岳風景や梓川が流れる広く細長い谷間の平坦な地形に負うところが多いと思う。しかし、その立地的な環境は山国の日本においては平凡なものであるとも云える。それでは何故「上高地」なのか。その答えは、上高地(特に河童橋の上流側)に多く見られるケショウヤナギに代表される陽樹たちが知っている。
 生命力は強いが日が当たらないと弱い樹種を陽樹というが、上高地に自生するヤナギ類(ケショウヤナギ、エゾヤナギ、イヌコリヤナギ、ドロノキなど)やハルニレ・サワグルミなどはその陽樹の代表的なものだ。それらは河川の氾濫や森林火災や台風などの「森林の撹乱」の後に草本類に続いて真っ先に頭角を現してくる樹木なので、パイオニア植物(先駆植物)とも云われている。と、私の云いたいことの準備は整った。

 上高地の独特な美しい森林景観は、実は梓川の周期的な氾濫による、という。台風などの影響により10年〜20年に1回程度大きく氾濫したり、流路を大きく変えたりする梓川。その「撹乱」した明るい空間にいち早く住みつくのがケショウヤナギなどのパイオニア植物だ。仮に大きな撹乱がないとすると、シラビソやブナなどの陰樹にいずれ淘汰されてしまうという。つまり、上高地の渓畔林の「遷移」は、その若齢段階での繰り返しになっている、ということだ。だから上高地は、過去から今日まで独特な景観を維持しているのだ。言い方を変えると、上高地の渓畔林は自然の生態系の中にあって微妙なバランスの上に成立している、ということだ。
 山間における土砂流出防止などのために行なう治山ダム工や護岸工や流路工などのことを渓間工(治山工事の一種)というが、その渓間工や沢沿いの道路建設が盛んな近代の日本においては、この上高地の森林景観はありそうで案外ない、めずらしい植生の宝庫だという。堤防などを作って梓川の氾濫を押さえ込むと、ケショウヤナギやハルニレの森林は滅びてしまう恐れがあるというのだ。なんとなれば、この日本でケショウヤナギが自生しているのは北海道の十勝・日高地方の川の上流部と上高地だけ、ということからもその希少価値が理解できると思う。
[ケショウヤナギについて、最近の調査によると本州の山岳地帯にも隔離分布していることが分かってきたらしいが…。]
 この上高地においても、治山工事に積極的な建設省(現国土交通省)と現状を維持しようとする環境庁(現環境省)とが永年にわたって「つばぜりあい」をしてきたらしい。しかし、私達が今回久しぶりに訪れた上高地では、治山運搬路が既にできていたりして、工事はもうとっくに始まっているようだ。
 渓間工は、主にその河川流域に生計をたてる人々のためにするもので、上高地の宿泊施設などのオーナーや関係者には気の毒だが、できたら梓川の床固め工事(流路工)などはやらないで、建物の移動(嵩上げ)工事などで対処してもらいたい、と思う。そのための公費負担はやぶさかではないし、もしかしたら、大掛かりな治山工事などよりもずっと少ない経費で済むかもしれない。つまり、観光地(上高地)の自然景観を守るために「自然」に介入するのではなく、自然にできる景観を自然のままにしておくために観光施設のほうを移動させよう、というのが私の提案だ。
 しかし、ことは素人の私が考えているように単純ではなく、他に難しい問題がたくさんあるのかもしれない。仮にそうだとしても、それらの問題点をじっくりと検討するためにも、自然の渓畔林が土砂を抑える機能を有していることもふまえたうえで、今すぐに、とりあえず工事の全面凍結を望みたい。
 上高地のケショウヤナギやハルニレなどの樹木は、周期的な梓川の氾濫によってその種を昔から存続させてきた。その上高地の独特な景観の主人公たちを、私は守りたい。

* 以上は森林インストラクターの教科書や小泉武栄氏の著書(「山の自然学」・岩波新書)などを参考にして記述しました。

  自然と自然保護について 当サイトのページです。参照してみてください。

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