No.212-1 弘法山(丹沢前衛) 平成18年(2006年)12月10日 |
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小田急線秦野駅〜弘法山公園入口〜浅間山〜権現山244m〜弘法山235m〜善波峠〜吾妻山150m〜鶴巻温泉「弘法の里湯」(入浴)〜鶴巻温泉駅 【歩行時間: 2時間40分】 |
*** コラム *** (神奈川県秦野市の)丹沢前衛の弘法山一帯はコナラやクヌギやイヌシデなどが明るく茂る美しい森に誘導されている。流石に環境省が「里地里山保全再生モデル事業の実施地域」に選んだだけのことはある。私は慶応や明治よりもずっとあとに生まれ育った世代なので(残念ながら)国木田独歩の世界は体験していないが、多分この弘法山公園の森は昔日の武蔵野を彷彿とさせる美しい里山ではないか、と思う。 自然公園などの樹木の管理は大変だろうと推察する。 東京の私の家の近くにある小さな公園でさえ、落葉かきや雑草刈りや掃除や樹木の剪定など、しょっちゅう専門の業者がやっている。何が良くて何が悪いのかは私には勿論分からないが、お金(税金)や人手をかけて美しい雑木林(里山)にするのとほっぽっておいて鬱蒼とした(それなりに美しい)照葉樹の自然林にするのと、さてどっちがいいのか? どういう里山に誘導するかは、その地の利権者や住民や行政の、その「考え抜いた結論」の総和が決めることになるのだろう。何百年何千年という年月をかけて白神や屋久島のような原生林に導くのか、昔日の武蔵野やよく管理された公園森のような森に導くのか、あるいはその両方を部分的に取り入れる(ゾーニングする)のか、いろいろな考えの人がいるので、それはかなり難しい選択だろうと思う。考え抜いて出た結果がどう転ぼうと、無責任のようだが、私はどうでもいいと思う。ただ、どっちつかずの(中途半端な)結論で、ある時代はそのときの人間の気分で木を伐ったり植えたりして、ある時代はそのときの人間の考え方の結論でほっぽっておいたり、といったようなことはいろいろな意味で非常に非効率的だと思う。 だから、どっちにするのか(里山の自然を保全するのか保存するのか)の議論はとことんやってほしいと思う。少なくともその地の住民(とその永代の子孫も含め)が、その裏山の自然(森)に対しての「はっきりとした意思」をもつことが必要で重要なことだと思う。 神奈川県の秦野市は「はっきりとした意思」をもっていた。弘法山とその周辺の小さな山域は、「美しい里山=管理された二次林」の道を今まで歩んできた。そしてその結果、素晴らしい里山の景観(森)を得ることができた。それはとても立派でステキなことだと思う。でも、せっかくこうなったのだからこれからも未来永劫に変わらないであってほしいと念ずるのは、じつはそれは「よそ者」の軽率さかもしれない。なんとなれば、そのためにはこれからもこの地の森は、今まで通り、とことん管理されなければならないのだから。そしてその管理の殆どすべては「地元」でするのだから…。もっとも、管理されて(お金をかけて)美しくした森に人が集ってお金を落とし、それで地元が潤うのだとしたら、それはそれでひとつの地方の理想のカタチなのかもしれない…。 * それにしても、近年の里山の放棄(ほっぽっておく→人手が入らない→つまり自然)が生物の多様性を阻害している、というのが何とも皮肉な話ですね。 ケース・バイ・ケースが「自然保護」の本流であることを踏まえたうえで、敢えて私は「保存的な自然保護」を提唱してきた。だから本項の流れに逆らってしまうようで恐縮するが…、私の個人的な経験論と嗜好から云えば、何百年何千年とほっぽっておいた森(原生林)は、よく管理された里山や庭園林などよりも蘊蓄に富み美しい、ということになる…。 私の好きな言葉が三つある。「ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)」と「レット・イット・ビー(ほっぽっておけ)」と、そしてもうひとつは「あとは野となれ山(森)となれ」である。
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