変容する武甲山
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まず吊り橋を渡る
大杉ノ広場の大杉
山頂部の御嶽神社
山頂の展望台
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腐っても鯛、だった…
西武秩父線西武秩父駅-《タクシー15分》-生川(表参道一丁目)〜大杉の広場〜武甲山(御嶽神社)〜長者屋敷の頭〜橋立寺[鍾乳洞見物]〜秩父鉄道浦山口駅 【歩行時間:
4時間30分】
→ 地理院地図(電子国土Web)の該当ページへ
秩父盆地のシンボルであり奥武蔵の盟主でもある武甲山に、とうとう登ってしまった。矢張りこの山に登っておかないと何も語ることができない、と思ったからだ。登らず嫌いはよくない。
石灰岩採掘によって、まるで病魔に冒されて痩せ細っていくかのごとく変貌しつつあるのが武甲山だ。その歴史とか現状などについて予習をするために、今年の2月に、山麓(秩父市大宮・羊山公園内)にある「武甲山資料館」を見学してみた。入口にある昭和35年頃と現在の武甲山を比較した大きな写真のパネルを見て、まず驚いた。秩父を訪れるたびに少しずつ変わってしまっているのは感じていたのだが、これほどまでだとは思わなかった。そして恐ろしいのは、その「変容」が今も続いている、ということだ。
今の武甲山を感情的に批判したり中傷したりするのは容易なことだが、何も知らないで云々してしまうと大きく外す恐れがある。私は本稿の山行記録を書く際に、相当の注意を払わなくてはいけない。否、もう既に外してしまっているかもしれないが…。
西武線の横瀬駅から歩き始めるのが武甲山登山の正統なルートだと思うのだが、生川(うぶかわ)の登山口まで約2時間のアスファルト歩きは大儀だ。で、一駅先(終点)の西武秩父駅前からタクシーを利用した。今回のメンバーは当地出身で秩父の歴史や自然についての薀蓄のある友人のHさんと、ヒマをもてあましてついて来た私の山の相棒(妻の佐知子のこと)で、計3名だ。カラッとした良い天気だった。
西武秩父の駅前からも、生川に沿って南へ遡上するタクシーの車窓からも、横一文字に“詰め腹”を切らされたような武甲山が、凄まじい形相で聳えているのが見えている。道路沿いには(稼働中の)採石工場やセメント工場などのいかめしい建造物が次から次へと現れる。
タクシー代金約2,600円を支払って降りた処は“生川基点”と呼ばれる武甲山の登山口(標高518m)で、妻坂峠方面への山道との分岐点でもある。ここには「一の鳥居」があって、その手前には表参道の一丁目の標石があった。この丁目石は信心深い方たちが奉納したそうだが、ここから山頂部にある御嶽神社の五十二丁目まで間断なく置かれてあり、よい目印になる。
暫らくは生川の沢沿いに林道をなだらかに登る。沢の水は飲めると思えるほどにきれいだ。
十五丁目の少し手前で林道を左に分け、ここから登山道になり傾斜が増す。十八丁目にはナメ滝の「不動の滝」があって、傍らには不動明王の小さなレリーフ(石像)が置かれている。表参道と云われるだけあってよく整備された歩きやすい山道だ。辺りはスギの植林地帯だが、枝打ちや間伐などよく管理されていて、林内は案外と明るい。道沿いにはマムシグサ、フタリシズカ、マンネングサ(ヒメレンゲ?)、ハコベ(ミヤマハコベ?)、などやニリンソウも咲いている。
三十二丁目を過ぎた辺りが少し開けていて、休憩するにはいい場所だ。ここは「大杉の広場」と呼ばれていて、設置された案内板によるとこの地点が丁度標高1000mであるらしい。辺りは樹齢40年〜60年といったところのすっくと育った(材木として)良いスギばかりだが、何故か中央の空間に1本だけ、枯れた横枝を残したままの、やたらと大きくて立派なスギがあった。樹齢は200年〜500年、といったところだろうか。こういうウラゴケ(*)のスギは、材木としては価値は低いのかもしれないけど、どっしりとしていて見ているだけでも気分がいい。どうかこれからも、なるべく手を加えないで大切に育てて、天寿を全うさせてあげだい、と願った。
* 「ウラゴケ」とは: “末殺”とか“梢殺”といった漢字をあてるようです。樹幹の太さが梢のほうに行くに従って急に細くなること、と「広辞苑」には書いてあります。スギやヒノキなどの材木用の木を植えて、枝打ちなどの手入れをしないでほっぽっておくと、幹の下(根のほう)は太いけれど上(梢)のほうは細くなってしまいますが、そんな木のことをウラゴケといいます。ウラゴケになってしまったスギ・ヒノキの自然児は、材木としては価値がないそうです。鋸が材にうまく入っていかず、暴れてしまうらしいのです。
やがて石灰岩質のゴロ岩が増えてきた。Hさんに云わせるとこれが武甲山らしい山腹の景色だそうだ。
四十二丁目で道は二つに分かれる。左側は「階段コース」で、私達は右側の「一般コース」を進んだ。四十七丁目辺りからスギ林はヒノキ林に変わった。
シデ類、カエデ類、ミズナラなどの落葉樹が増えてきて自然林っぽくなってきたな、と思っていたら道が平らになり前方が開けて、そこが五十丁目で、右手の広場奥が五十二丁目の御嶽神社だった。狛犬(実は狼)の石像のあるけっこう立派な神社で、社の裏側が鉄柵に囲まれた展望所になっている。北面が開けていて秩父盆地(秩父市街)の頭上には秩父や西上州の山々をはじめ浅間山や谷川連峰、上越、日光方面の峰々などが連なっている。それらは素晴らしい眺めだった。
展望所の鉄柵から覗き込むようにして足元を見下ろすと、だだっ広い長楕円形の、薄ベージュ色の出っ張った平地が見えている。これは削り取られている山腹にある石灰岩の広い台地で、稼働中のダンプカーやブルドーザーなどが点粒のように見えている。向こう側は落ち込んで断崖絶壁になっている。目算だが…、ローマのコロッセオが横一列に2〜3個も並ぶほどの広さの、石灰岩の大テラスだ。ウ〜ン、これがウワサの採石現場で、秩父盆地から見上げたときに見えていた横一線の「詰め腹」の正体だったのだ…。
ベンチカット採掘法というのだそうだが、山頂からその詰め腹(大テラス)までの絶壁は、横長の階段状に削り取られている。少し救われたのは、その絶壁のベンチ上に植栽が施されていた、ということだ。遠くてその樹種などはよく同定できなかったが、空中窒素の固定能力があり崩壊地にも強いヤマハンノキとかヤシャブシとか…、などだろうか? 武甲山の緑化(*)について、関連の企業なども一応は気を遣っているようだが、その実態についての詳細な情報が伝わってこないのが…、少し恐い。
* 秩父などの石灰岩(残壁)緑化について、生態学を専攻されている沼田真教授はその著書「自然保護という思想(岩波新書)」の中で示唆に富む次のような発言をされています。
『・・・石灰岩を掘り出したあとの岩肌に草や木を生やすことはまず不可能である。階段状になった犬走に穴をあけて土を入れ、そこに低木を植えるとか、そこからツル植物をはわすとかいった見せかけの緑化しかできない。この場合は、復元はもとよりリハビリもできない重症であるといえよう。・・・このような採掘にさいして、後のリハビリのプランをつけて申請を出さないと採掘の許可がでないという法律を施行しているドイツのような国がある。この場合は石灰岩の場合と違って、リハビリは可能である。』
私達三人はそれぞれに色々なタメ息をつきながら展望を楽しんだり、二等三角点の標石を確認したりして、ずいぶんと長い間山頂部を彷徨った。そして、御嶽神社前の広場に戻り、そこで昼食にした。この神社前広場は展望はないけれど立派な公衆トイレがあり、イタヤカエデ、ミズナラ、マユミ、クロモジなどが疎に生える、まるで公園のような空間だ。南側の日が射す一帯には緑鮮やかなバイケイソウが群生している。心優しいHさんが、辺り一面に咲き乱れるニリンソウを踏みつけないように抜き足差し足で歩いている。その格好がおかしくて、佐知子と私は彼に見えないようにして笑ってしまった。
下山は西へ向かって橋立コースを辿る。途中の所々に西面から南面にかけての展望が開けているところがあり、両神山やその左手の秩父から奥秩父へ至る山並がよく見えている。真西の奥にぼんやりと見えていたのは八ヶ岳だったかもしれない。南面では近くの小持山、大持山やその左手の武川岳が大きい。
この下山路の植生もその殆どは人工林だった。ヒノキ・カラマツ・スギの植林地帯にアカマツ、ミズナラ、ヤマザクラ、オオカメノキ、リョウブ、クロモジ、マルバウツギ、サンショウ、アセビなどが交じる。カラマツなどの芽吹きの緑が可愛らしく美しい。足元のヒトリシズカは清楚な白花をつけ、キジムシロは可憐な黄花を咲かせている。
長者屋敷ノ頭を経て急坂をジグザグと下ると、ドスンと風光明媚な沢筋へ出た。この橋立川に沿った林道歩きがじつに良かった。サワグルミ、トチノキ、フサザクラ、カツラ、ミズキ、ケヤキ、モミジ類などの沢筋でおなじみの樹木たちが、めいっぱいの新緑で私達を包んでくれた。それらの木々に絡まりつくフジが、今を盛りに薄紫色に咲いている。道脇の落ち葉の上ではオトシブミの「ゆりかご」が風に動き、耳を澄ますと小鳥たちのさえずりや瀬音や、遠くで秩父線のSL蒸気機関車の汽笛の音も聞こえている。コミスジ蝶がひらひらと飛んでいる…。
背後に高さ80mという大岩壁を擁する橋立寺(秩父札所28番・石龍山橋立堂)に着いたのは午後3時半頃だった。ここから秩父線浦山口駅までは10分ほどの距離だが、県の天然記念物だという奥の院の鍾乳洞を見学(入場料200円・一周約15分)したり、門前の茶店でビールを飲んだりして秩父路の名残りを惜しんだ。
実際に登ってみて、私は武甲山を好きになってしまったようだ。「腐っても鯛!」は言い過ぎかもしれないが、ガマの穂でそっと包んであげたいような武甲山は、貴重な自然が残っている、今も充分に素晴らしい山だった。
* 武甲山の標高と山名について: 1336−41+9=1304 は武甲山標高の「算式」だという。まず頂上石灰岩採掘のために1977年に二等三角点が移動され、その標高も1336.1mから1295.4mと約41mも低くなった。その後(2002年11月)、国土地理院が三角点から西へ約25mの最高点(測定点)を観測したら9m高くなって、結局武甲山の標高は1304mということになった…。
山名の由来については、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征のとき、戦勝祈願に武具・甲冑を奉納したと伝えられることから、武蔵の武と合わせたとする説が有力らしい。また、秩父の向こうにあるので「むこうやま」が変化したとする説などもあるそうだ。別名を秩父岳とも云うそうだが、これには説明の必要はないと思う。
日本山名事典(三省堂)、及び 国土地理院のPRESS-RELEASE(2002/11/08) を参考にして記述しました。
*** コラム ***
武甲山の採石反対運動について
秩父石灰工業(株)のHPの記事によると、武甲山の石灰岩は良質で、推定可採鉱量約4億トンといわれる日本屈指の大鉱床、ということらしい。今も、そしてこれからも、その大鉱床のある武甲山北側の山腹は(下部へ向かって)削り取られていく運命にあるようだ。でも、この山は秩父のシンボルで、云ってみればランドマークだ。チチブイワザクラ、ミヤマスカシユリ、ブコウイワシャジンなどの石灰岩質の岩礫地に特産する貴重な植物などの自然保護の問題も気になるし、山の姿が大きく変わってしまうほどそんなにばんばん採掘してしまってもいいものなのかなぁ…、というのが大方の率直な感想だと思う。
しかし不思議なことに、インターネット検索などで調べてみても、明治の時代から続いているという武甲山の採石に対する反対運動やその関連を記述したサイトは驚くほど少ないのだ。「可哀相だ」「見るに耐えない」という情緒的反発はいくらでもあるのだが、運動まで行ったという記載は全くと言っていいほどない。
貧困に喘いだ秩父の近代史などを考慮すると、武甲山の現状打破はかなり難しいと思われる。三途の川を渡りつつあるこの山をどうやって救ったらいいのか、或いはどうやって「引導」を渡したらいいのか…。仮に「引導」を渡すにしても、何時誰が如何やって、と考えると、それはとてつもない大プロジェクトになる、と思う。そこいら辺のところを、かつて秩父市民だったHさんに問うと、「ウーン…」 という“呻き”が返ってくる。
確かに武甲山の石灰岩は戦後日本の経済成長を支え、秩父を豊かにした。しかしそれは“昔の話”だと、秩父と(直接に)関係なく育った私は思う。客観的過ぎる(よそ者の)言い方かもしれないが、少なくも、秩父が豊かになって久しい最近…特にここ10年〜20年…の武甲山の大変容は、秩父市民と横瀬町民の叙情的な責任下における「変容」でもある、と私は結論づけたい。悪魔に魂を売った的な、きつい言い方で誤解を受けそうだが、それは「良い・悪い」の範疇では勿論ない。私の独断と偏見…つまりやっぱり、わかっちゃいるけど何故かとても悲しい気分…の産物なのです。
何れにしても、大容量だった武甲山はもう絶対元には戻らない! いっそのことこの山を、文明(人間の欲望)と文化(自然をいつくしむ人間の心)の間に横たわる大いなる矛盾(ジレンマ)の象徴として、全世界にアピールしてみたら如何なものだろうか。世界中から(その手の)観光客が押し寄せて、今以上に秩父は潤うかもしれない。
佐知子の歌日記より
武甲山はアンパンマンだ 身を削り困った人を助けてくれた
自然と自然保護について: 当サイトのページです。参照してみてください。
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武甲山山頂から秩父市街
手前の白い部分が石灰岩の大テラス
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武甲山の北面(横瀬駅近くより撮影)
横一線の「割腹」部分が大テラスです
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再び 武甲山へ 雨天順延して→平成27年5月21日
山の仲間たち(山歩会)をお誘いして久しぶりに武甲山に登ってきました。コースは前回(上述)と同じで、つまり生川から表参道を登って橋立寺へ下る(裏参道)、という武甲山登山の代表的なコースです。
北側の山体はますます切り取られて無残な状態ですが、山の中は静かで、新緑もきれいで、けっこう(メンバーたちからの)評判がよかったです。今年の晩春はかなり早く過ぎ去っていますが、ニリンソウ(春の花)がまだたくさん咲き残っていました。そして、木の花(初夏の花=ガクウツギやマルバウツギなど)は今を盛りに咲いていました。初夏の花には白色のものが多いですが、何故かなぁ…?
と今年も首をひねりました。
佐知子の歌日記より
大規模な採掘中の武甲山 発破時刻の表示板あり むき出しの石灰岩の山のうら みどりとりどり溢れ息づく
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