No.278 太平山から晃石山 平成22年(2010年)9月22日 |
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東武日光線・新大平下駅〜客人神社〜謙信平〜山本有三文学碑〜太平山神社〜太平山神社奥宮〜太平山341m〜電波塔〜ぐみの木峠〜パラグライダー離陸点〜晃石神社〜晃石山419m〜晃石神社〜清水寺〜大中寺〜新大平下駅 【歩行時間:
4時間30分】 |
*** コラム *** 父の話によると、通っていた尋常小学校の遠足は毎年5月に行われ、学年によって目的地が決まっていたそうだ。1年生は近くの摩利支天さん(摩利支天塚古墳:小山市飯塚にある県内最大級の前方後円墳)で、2年生は小山の城山公園、3年生は栃木駅の北西2kmに位置する錦着山(標高81m:現在は公園になっている)だったという。そして高学年(4・5・6年生)になると太平山へ登ったようだ。ちなみに、高等科(現在の中学1・2年)になるとこの山並みの西端に位置する岩船山まで足を延ばしていたらしい。交通の発達していなかったころのこととて、すべて徒歩の、文字通りの“遠足”だったらしい。 今でも太平山の謙信平付近には数軒の茶店が並んでいるが、当時(戦前)から遠足の子供たちは経木に包まれた“太平団子”や“焼き鳥”を買い食いするのが楽しみだったらしい。値段は10銭だったという。もうひとつの太平山名物の“卵焼き”はもっと高価で、大人たちが酒の肴に買っていたそうだ。 そしてもう一つ。小山市を流れる思川(おもいがわ)の近く(父の実家のある処)の神社で、毎年行われていた盆踊りに必ずでてきた唄の歌詞を、一部分だけだが、父は今でも憶えている。 ・・・・・・・・・・その(楽しみだった)盆踊りは支那事変が始まった年(昭和12年)まで毎年行われていたという。そして昭和16年の春、父は予科練を志願することになる…。 …それにしても、父はよく憶えているものだと感心してしまう。 太平山登山から帰宅したら、珍しく父が出迎えてくれて 「どうだった?」 と聞いてきた。 「相変わらずだったよ」 と面倒臭そうに答えると、「オレ…、今でも登れるかなぁ…」 と独り言のように云って私を見上げた。私は咄嗟に 「ムリムリ、全然無理だよ!」 と答えてしまったが、黙ってしまった父の後姿を見て 「しまった!」 と思った。 * この数年後(父の亡くなる1年前)、父と二人で太平山参りをしました。足が弱っている父は駐車場から神社へ登るのも大儀で…手を貸そうとしましたが、それをはねのけて…独力でお参りしました。父の「予科練精神」に、ちょっと涙しながら、感心したものです。[後日追記] |
客人(まろうど)神社 |
太平山(おおひらさん)神社 |
晃石山(てるいしさん)神社 |
清水寺(せいすいじ) |
晃石山(左奥)と太平山(右奥) |