No.207-1 穂高岳3190m Part1 平成18年(2006年)8月22日〜24日 |
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【歩行時間: 第1日=3時間 第2日=6時間30分 第3日=7時間30分】 → 地理院地図(電子国土Web)の該当ページへ のっけから蛇足で恐縮ですが、私達夫婦が二人で登った「深田百名山」は先々週の朝日岳で94座になっています。いっしょに登っていない6座のうち富士山と穂高岳については私は若いときに何回か登ったことがあるので、じつは私一人だと既に96座完登、ということになります。だから何なの、と云われそうですが、つまり富士山と穂高岳は私達夫婦にとっては特別な山である、ということを云いたいのです。 富士山については私達には“富士山のジレンマ(*)”があります。穂高岳については、妻の佐知子に“岩場の恐怖”があります。剣岳や石鎚山の切り立ったクサリ場(岩場)を登った経験があるのだから大丈夫、とは思うのですが、私の(若い頃からの)佐知子に対する穂高岳の岩場の説明がリアル過ぎたものか、彼女に(先天的な)恐怖感を植えつけてしまったようです。だから今までも何回も穂高岳山行の話が出てもその度にボツになっていたのです。しかし今回はついに佐知子も腹を決めたようでした。穂高岳に登らなくては「二人で百名山」は達成できないのですから…。 これも蛇足ながら、今年の春ごろからNHKのテレビ番組「日本の名峰」でやっていた山の人気投票についてですが…。その(人気投票の)是非はさておいて、私も必死になって選んでみました。一人で3座まで投票できるそうです。私が考え抜いた挙句に選んだ3座は案外と平凡なものです。それは富士山と槍ヶ岳とこの穂高岳、でした…。 * 富士山のジレンマ: 高い山に登ってみたいけれど高山病が怖い、というのが第一義。別の意味として、有名な山なので少なくても一度は登らなくてはいけないと思うけれど、できたら登りたくない、というような場合にも用いる。 「山歩きのジレンマ」についてはNo.37赤久縄山の頁のコラム欄を参照してみてください。 ●第1日目(8月22日・雨): まずアプローチ 上高地〜横尾山荘
徳沢の少し手前で、 サルたちが右側の山から梓川に向かって集団で移動している場面に出っくわした。子どもを背負って川を渡っている母子ザルや孤独な離れザルなど、それぞれ個性豊かに、精一杯がんばって移動している。上高地散策の観光客たちも、いいものを見たという感じで、一眼レフのカメラのシャッターを切っている。 徳沢園の広場ではハルニレの木に登っている何匹かのサルにも出あった。上高地のハルニレは6月前後に実をつけるというけれど、まだ残っているのかなぁ、それとも芽かなぁ、を一心不乱に食べている。日本で一番(ということは世界でも一番)寒い処に住んでいるサルがこの北アルプスのニホンザルだという。世界の一番北に生息している野生のサルは下北半島のそれだが、寒さでは北アルプスのサルが一番ということだ。最近ではアルパインモンキー(アルプス登山をするサルの意・信州大の泉山茂之助教授が名づけの親らしい)とも呼ばれているそうだ。なんか、昔(30〜40年前のこと)と比べると、ずいぶんとその棲息数が増えてしまっているような気がする。それは良いことなのか悪いことなのか、凡人の私には分からない。 道端に咲いているヒメシャジン、クガイソウ、キオンなどを愛でながら、徳沢園から更に1時間ほども歩き、横尾大橋の袂に位置する横尾山荘に着いたのは午後4時頃、丁度いい時間のチェックインだった。雨はいつしか止んでいた。 * 横尾山荘: 槍沢(槍ヶ岳方面)と涸沢(穂高岳方面)と蝶ヶ岳(常念山脈方面)との分岐点に位置する、梓川畔に建つ山小屋。上高地のバスターミナルからここいら辺りまでは車も通れる広い遊歩道なので、上高地周辺の宿と同様、都会文明の臭いが強い山小屋だ。「山小屋を越えた設備」が自慢とかで、清潔な洗面所や別棟にある立派な風呂など、もう旅館か民宿と云ってもいいほどだ。しかしこの日は相部屋で、6畳に3組の夫婦(6名)が同室だった。息苦しくないぎりぎりの空間だ。 ●第2日目(8月23日・晴): 岩の殿堂へ 横尾〜涸沢岳〜穂高岳山荘
垂直に聳える屏風岩を巻きながら横尾谷を進む。整備された登山道は歩きやすい。正面奥の横尾本谷と別れ左側の涸沢へ入る。高度も大分上がってきたとみえてアオノツガザクラなどの高山植物が目立つようになる。白い小さな花たちを上向きにつけたウラジロナナカマド(高山型のナナカマド)も現れはじめ、いよいよ森林限界間近だ。目の前に涸沢カールが大きく広がっている。各山小屋に荷を運ぶヘリコプターが、先ほどからひっきりなしに上空を行き交っている。 涸沢小屋のテラスで休憩していたとき、ここから今日の宿泊予定地(穂高岳山荘)へ至るルートについて佐知子と議論した。私は北穂の南稜を辿ってから大キレット方面へ少し進んだ滝谷(たきたに)の岩壁群を観光するコースを提唱したのだけれど、ザイテングラードを行く(楽で安全な)直登コースに固執する佐知子は頑として譲らず、いつものことだが、彼女の選んだコースを登ることになった。何れにしても私は過去に歩いているコースなので、まぁどちらでもよかったのだが、正直云って、かつては「鳥も通わぬ」といわれた大迫力の滝谷岩壁群はもう一度見ておきたかった…。 涸沢のお花畑にはチングルマやハクサンシャジン、それにイワギキョウやヨツバシオガマなどが咲いていた。タデ科の植物もたくさん咲いていて、赤っぽい花が目立っていたのはメイゲツソウ(タデ科イタドリ属)だ。見上げると首が痛くなるほどの頂に3000m級の穂高の岩稜が300度の角度(馬蹄形)に連なっている。この圏谷壁(カールバント)を眺めながら、その中心部を縦に走るわずかな出っ張り(ザイテングラード=支稜)に取り付く。 私が記憶している40年ほど前のザイテングラードは、怖くて辛い登りだった。しかし、その後ずいぶんと整備されたのだろう。好天に恵まれたこともあり、それは案外とあっけなかった。お昼前には穂高岳山荘の建つ白出のコルへ着いてしまった。途中、東京の早実の高校生たち数名のパーティーとすれ違ったが、「(夏の甲子園)優勝おめでとう!」 と挨拶したら、みんな嬉しそうで誇らしげな笑顔を返してくれた。 穂高岳山荘にザックを預けて、ゴロ岩の涸沢岳を往復(正味30分)した。涸沢岳の狭い山頂からは、ややガスってはいたけれど、北穂高岳が目の前に見えた。振り返れば奥穂高岳も目の前だ。ジャンダルムも見えているし前穂高岳も近くに見えている。足元にはライチョウが一羽、岩陰に潜んでいる…。 1時間以上は涸沢岳山頂に立ち尽くしていただろうか。私達は今、「日本アルピニズムの殿堂」の真っ只中にいるのだ。もう、今日はずっと、感動が私達を押さえ込んでいる。 * 穂高岳山荘: 奥穂高岳と涸沢岳の鞍部、標高2983mの白出乗越(しらだしのっこし・白出のコルともいう)に建つ、収容350人の山小屋。「重太郎新道」などにその名を残す今田重太郎(1898-1993)が初代であると聞く。北アルプス探検時代(明治時代のこと)の名ガイド・上条嘉門次の弟子で「穂高の仙人」と呼ばれた内野常次郎の後を継いだのが重太郎である。現在はその息子の英雄氏に引き継がれ、相変わらずの高い人気を保っている。散水濾床方式(どんなのかは私は知らないが昔と比べてトイレ臭が殆どなくなった)のトイレといい、フィンランド製の風車(はっきり云ってちょっと目障りだ)による風力発電といい、ソーラーパネル(これは屋根の上なので全然目立たなくていい)の採用といい、精一杯の努力と工夫をしている素晴らしい山小屋の一つだ。 山荘での夕食後、表へ出てみると笠ヶ岳の上空にまだ太陽が燦々と輝いていた。反対側の涸沢の方向がガスっていたので 「もしや…」 と思って日の当たる稜線を探してそこに立ってみると、案の定、ブロッケン現象が出ていた。 「ブロッケンが見えますよ〜」 と騒いだら、数名のハイカーが寄ってきて、代わる代わるに歓声を上げていた。 ブロッケンが見えなくなってからも、暫らくの間は私達は山荘周辺の稜線を行ったり来たりしていた。お揃いのニッカポッカを穿いた初老のご夫婦などとも少し会話した。穂高には黒シャツとニッカポッカがよく似合う、と思った。やがて雲海から頭を出した笠ヶ岳に夕日が落ちる。それはまったく素晴らしい光景だった。 ●第3日目(8月24日・晴): やっぱり穂高は凄い!奥穂〜前穂〜岳沢〜上高地 穂高岳山荘前の広場から、正面に聳える常念岳の右側に昇る朝日を仰いだ。そして、山荘の朝食をさっと食べてから、5時15分頃、奥穂高岳の岩壁に取り付く。足場はしっかりとしていて、要所には鉄梯子もかけてあり、心配はない。佐知子もホッとしているようで、表情に微かな笑みがある。50分ほどの登りで小祠や方位盤のある奥穂の山頂3190mへ着いた。
奥穂高岳の頂上でたっぷりと時間を過ごしてから、南東へ向かって岩場の吊(つり)尾根を下る。道筋の所々にはトウヤクリンドウ、ウサギギク、モミジカラマツ、ハクサンイチゲなどが、数は少ないが、形よく可憐に咲いている。 奥穂から2時間ほどで紀美子平へ出た。ここは岳沢(だけさわ)方面の重太郎新道と前穂高岳の山頂へ続く道との分岐点でもある。かつてあの重太郎翁が若い頃、幼少の娘・紀美子さんをこの岩棚に寝かせて、妻のマキさんととともに難事業にあたった処であるという。若くして(23歳で)亡くなった紀美子さんを偲び、この岩棚を紀美子平と呼ぶようになったという。ちなみに、紀美子さんは(生きていれば)私達と同じ団塊の世代だ。実際、平(たいら)って云うほどの広い処ではないが、岩棚という言葉がぴったりとくるような、「物語」を感じさせる心地よい空間だ。そこにザックを置いて、前穂山頂を往復(正味約1時間)した。 この前穂高岳の辺りでは台湾から来ている10名前後の山岳ツァーの団体といっしょだった。彼らの多くは、なんとスニーカーや長靴で、急峻な岩場を飛ぶように登っていく。「お先にどうぞ」と云うと、たどたどしい日本語で「ありがと〜」と元気がいい。一昨日までが槍ヶ岳で、明後日からは富士山登山だ、と云っていた。登山装備ってなんだったのか、登山技術ってなんだったのか、と、その根源を考えさせられた。 一等三角点のある前穂の山頂は南北に細長く、ここも岩ゴロだ。展望は奥穂の山頂に勝るとも劣らない。井上靖の小説「氷壁」でおなじみの東壁を覗き込んでみたり、北尾根のかっこいいギザギザの岩場を感心して眺めたりした。岩陰にはイワギキョウがひっそりと咲いていた。 紀美子平に戻り、焼岳やその下方の上高地を俯瞰しながら、重太郎新道を岳沢へ向かって急降下する。ハイマツ帯では今日もライチョウに出遭ったり、お花畑ではミヤマセンキュウ、イブキトラノオ、アキノキリンソウなどの花を愛でたり、ダケカンバ林やシラビソ・コメツガ林へ入ってからは樹木の観察をしたりした。 途中、今春の雪崩で損壊してしまって再建中の岳沢ヒュッテの脇を通過した。経営者の死去といい、この岳沢ヒュッテの今年度中の営業再開は、やはり困難なようである。がんばってください、と、それしか云えない私達だけれど…。 樹林帯を歩き、上高地の林道(治山運搬路)へ出たのは午後2時を少し過ぎた頃だった。観光客でごった返す河童橋を渡り、バスターミナルからシャトルバスで沢渡(さわんど)まで行き、日帰り温泉施設で山の汗を流した。あれよあれよと云う間の下山ということもあったけれど、温泉に浸かっているときも、帰宅してからの暫らくも、長いこと「山ボケ」に悩まされた。それほど穂高岳は私達にとって強烈な印象を残した、素晴らしい山だった。 * 穂高岳の山名について: 標高順に、奥穂高岳3190m、ジャンダルム3163m、涸沢岳3110m、北穂高岳3106m、前穂高岳3090m、西穂高岳2909mなどの総称が穂高岳(穂高連峰)だが、それらの峰々の形が神事に使う御幣(ごへい)に似て見えたのだろう。昔は御幣岳とも云っていたという。人里から遠く離れた奥にあったから「奥岳」とも呼ばれたらしい。 穂高岳の穂は秀の仮字だそうだ。つまり秀でて高い山というのがその意味であるという。富山生まれの英文学の教授で、日本の登山史上の大先達でもある田部重治(1884-1972)は、その著書「涯てしなき道程-穂高山-(大正11年・第一書房)」の中で、梓川の岸辺から眺めた穂高連峰を 「雲を分け雲を抜け出づる穂高の秀(ほ)つ峰」 と感動して形容している。 日本山名事典(三省堂)、日本百名山(深田久弥)、週間日本百名山・穂高岳(朝日新聞社)、などを参考にして記述しました。 穂高岳Part2: この4年後に山の仲間たちと同コースを辿りました。 同地にある「さわんど温泉・上高地ホテル」については No.205槍ヶ岳の頁 を参照してみてください。
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