No.283 シダンゴ山758m(丹沢前衛) 平成23年(2011年)1月20日 |
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小田急・新松田駅-《バス25分》-寄〜大寺集落〜シダンゴ山758m〜タコチバ山588m〜宮地山512m〜宮地集落〜田代向-《バス21分》-新松田駅…鶴巻温泉(途中下車・入浴)… 【歩行時間:
2時間50分】 |
大寺集落の茶畑 シダンゴ山の山頂 アセビの蕾 宮地山の山頂 田代橋から宮地山 |
シダンゴ山の山頂からの展望 |
宮地山のアブラチャン |
*** コラム *** ・・・乗客の半分(5割)近くは眼を瞑っている。携帯電話やゲーム機などをいじっている人が3割程度、新聞や本などを読んでいる人は1割程度。残りの1割は何か考え事でもしているのだろうか、虚ろな眼で中空をぼんやりと見つめている。平日のこととて、少数派のハイカーたちは会話に興じているか矢張り目を瞑っている。・・・車外の景色を眺めていたのはどうやら私だけのようだ。一体いつの頃からだろうか、この国の人が車窓からの景色を見なくなったのは…。 私達夫婦の長男が生まれた日…、それは36年前の今頃の風の強い日の午後だった。学生結婚でまだチョー若かった私は入職一年目。その日の東京の朝、通勤電車の窓から眺めたすっきりと聳え立つ白銀の富士山を、今でもはっきりと憶えている。その時の富士山を、もしも私に絵の才があるならば、寸分違わずに描き写すことが今でもできると思う…。 つい最近では、といっても1年半ぐらい前の、尻上がりにお天気が回復してきた日の、帰宅途中でのことだった。生まれて初めて見るほどのものすごい虹を、京急線の車窓から私は発見したのだ。それは東の空一面を囲むほどの、とてつもなく大きな半円形の美しい虹だった。私は狂喜した。誰かに教えたくて車内をぐるっと見回したので間違いないと思うが、そのとき虹を見ていたのはその車両の中では私だけだった。つまり私以外の誰もその虹には気がついていなかった、というか、誰も車外の景色を眺めていなかったのだ。…結局、なんか気おくれがして、車内の誰にも巨大な虹のことは伝えることができなかったけれど…。 そのときの巨大虹は20分〜30分の間、夕まずめまで、けっこう長い時間見ることができた。駅を降りて自宅に電話して、「とにかく、今すぐに東の空を見てみろ!」 と妻に伝えた。…あとから聞いた話によると、妻はその巨大な半円形の虹に感動して、近くに住む長女の家へ電話をしたそうだ。そして、長女や孫たちは2階の窓から東の空を眺めて 「スゴイね〜」 と、やっぱり感動したそうだ。その虹は、その日の夜のNHKニュースや翌日の朝刊でも紹介されていたほどの、滅多に見ることのできない素晴らしい虹だったのだ。 今の子供は…、子供でさえ、ゲーム機などに夢中でめったに車外の景色を眺めることがなくなった。私が子供のころ(昭和20年代〜30年代のこと)は、たいていの子供は電車の座席に座るとすぐにくるりと向きを変えて、後ろ向きになったものだった。移りゆく車外の景色に心がときめいたのだ。そしてそのあと必ず…、隣りの乗客に靴の泥をつけるからと、お母さんに叱られたものだ。 特にここ5〜6年前頃から、ドアーの窓際に立っていても、外を見ないで(携帯などを操作しながら)内側を向いている乗客が多くなったように感ずる。車外を眺めると、路線の近くにビルなどが多くなったので、目がチカチカしてしまうのだろうか。それとも、有名な人気俳優が有名なテレビや映画の場面でドア−の内側を向いて立っていたのだろうか…。ドアーを背にして内側を向くということは、他の乗客と顔を付け合わせることになってしまうということだが、それについては全く無頓着のようだ。車内の座席で化粧をする若い女性が目立つ昨今だが、“他人さまから見られることの恥ずかしさ”という感性が、いつの間にかこの国から消えつつあるのだろうか。ただ単に“他人の目を気にしなくなった”ということであれば、それはそれでいいことなのかもしれないが…。 無気味なり山手線の昼下がり あいつもこいつもスマホすりすり |