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No.42日和田山から物見山
平成9年(1997年)4月19日 薄晴れ

日和田山 略図
樹林に囲まれた小広い山頂
日和田山山頂


のどかな奥武蔵自然歩道を歩く

西武池袋線高麗駅〜巾着田〜金刀比羅神社〜日和田山305m〜高指山330m〜駒高〜物見山375m〜北向地蔵〜鎌北湖〜毛呂駅…新木鉱泉(泊)… 【歩行時間: 4時間40分】
 → ユガテを経由して東吾野駅へ下るコース も紹介しています。
 → 地理院地図(電子国土Web)の該当ページ(日和田山)へ


 昔、高麗(こうらい)からの帰化人が住んだという高麗(こま)の里。位置は、秩父山塊の東端(埼玉県日高市)、奥武蔵の入口、つまり関東平野の西の果て。一帯は高麗丘陵と呼ばれている。そこから私達は歩き始めた。
 高麗の里の、特異な地形の巾着田を観光 してから日和田山への登りに入る。少し登って、金刀比羅(ことひら)神社手前の岩場の辺りから振り返って眺めたその巾着田の景色が、何とも云えず美しくて印象的だった。左奥には関東平野が広がり、右手(南東の方向)には大岳山などの奥多摩の山々もよく見えていた。
 日和田山から高指山(たかさしやま)、駒高(こまたか)、物見山、北向(きたむき)地蔵と、所々自動車道とクロスしながらの穏やかな尾根歩き。芽吹いたばかりの若葉の淡い緑が目にまぶしい。
 下山路の鎌北湖から毛呂駅までのアスファルト道歩き(約1時間30分)は、少々アルバイトだった。
 毛呂からはタクシーと西武線を乗り継いで秩父に出て、今日の宿「新木鉱泉」へ。明日は金昌寺から丸山へのハイキング予定だ。

 35〜6年前、私達が中学生の頃、遠足で来たはずの鎌北湖の思い出のかけらを捜してみたが、思い出さえ思い出せないほど…、時間が経過していた…。

* 巾着田(きんちゃくだ) 蛇行する高麗川(荒川水系)に囲まれた、巾着のような形をした半円形の水田。現在では一部を残して休耕田となっており、コスモス畑や広場や駐車場などに利用されている。ヒガンバナ(曼珠沙華)の大群生地として近年つとに有名。
* 日和田山(ひわだやま)305m 山頂には四等三角点と大きな石塔(宝篋印塔)がある。西斜面に岩場(男岩・女岩)があり手近なロッククライミングのゲレンデとして知られている。
* 高指山(たかさしやま)330m 山頂にはNTT無線中継所の電波塔があって立入禁止になっている。ガイドブックなどのルビには“たかざすやま”と書かれてあるが、日本山名事典(三省堂)では“たかさしやま”となっている。いったいどっちがホント?
* 物見山375m 一等三角点の山だが檜林に囲まれて展望はそれほどでもない。南南東方面が僅かに開けていて、飯能市や入間市などの街並みが俯瞰できる。
* 北向地蔵の由来: 『天明6年(西暦1786年)、流行した悪疫を防ごうと野洲岩舟地蔵尊より分身として譲り受け、北の方、岩舟地蔵尊に向かい合わせ守護神にしたと伝えられる。丁度北を向いて立っているので北向地蔵の名で親しまれている。現在では男女の逢瀬をとりもつ縁起地蔵としても親しまれている。』 →現地の案内板を丸写し
* 鎌北湖: 詳細については下呂山町のホームページへ

奥武蔵の入口です
物見山(左端)と日和田山
高麗駅のホームから撮影
H19年9月撮影
北向地蔵(後日撮影)
鎌北湖畔でお弁当
鎌北湖畔にて


再び  日和田山から物見山へ
平成19年(2007年)9月26日 曇り

巾着田の風景
日和田山から巾着田

ヒガンバナ(曼珠沙華)の咲き乱れる山里

高麗駅〜巾着田〜日和田山〜物見山〜北向地蔵〜ユガテ〜東吾野駅 【歩行時間: 4時間30分】

 再び同メンバーで(つまり夫婦で)、巾着田のヒガンバナを見物に、高麗川に沿って巾着型をぐるっと一回り、大勢の観光客に交じって歩いてみました。夏の晴天率が高かったせいでしょうか、今年は花の赤色が特に鮮やかだと、地元の人も云っていました。そのヒガンバナの大群落はニセアカシア、ケヤキ、エノキ、クヌギ、マユミ、ムクノキ、シラカシ、アラカシなどの高木が疎に生える林下に延々と続いています。一面が血の海のようなその様は、この世のものとは思えないほどの妖しい美しさでした。
 せっかく来たのですから、私達夫婦がそのまま(巾着田のヒガンバナ見物だけで)帰るはずはありません。十年前を思い出して、近くの日和田山から物見山へ続く山道へ足を踏み入れました。檜林がメインの山域ですから、フィトンチッドがいっぱいの、森林セラピーというか、森林浴にはもってこいのコースです。
 ちょっと気になったのが、日和田山への登路から振り返って見下ろした巾着田の景色です。10年前の山行メモ(上述)には 「何とも云えず美しくて印象的だった」 と書いてありますが、今回の印象から率直に云いますと、それほど“特異な美しさ”は感じられませんでした。当時の記憶がおぼろげで、その風景写真を撮っていなかったこともあり断定的な比較はできませんが、巾着田内のかなりの面積が駐車場や牧場(?)やコスモス畑になってしまったことが原因ではないか、と私達は推測しました。
 花は夏と秋の狭間でそれほど種類は咲いていませんでしたが、里の沢筋のヒガンバナの他にはミズヒキやツユクサやヤブミョウガなどがその花期を迎えていました。
 今回は北向地蔵から静かな山腹の小道を辿ってユガテへ下ったのですが、このユガテの集落が、見たことがあるような気がするけれどそれが何処だったのかは思い出せない…「山里の原風景」とでも形容したくなるほどの、心に沁みる美しさでした。そのユガテからアスファルトの車道をのどかに1時間ほどもさらに下ると、ここも矢張り閑静な東吾野駅へたどり着きます。安心感のある里山歩きのよさを充分に味わった一日でした。

呆れ返るほどの大群落です
巾着田のヒガンバナ
ここにもヒガンバナ
美しい山里の“原風景”(ユガテ)

* この翌年の秋分の日(平成20年9月23日・晴)、「山歩会」のみなさんをお誘いして同コースを歩いてきました。例年のことながら、ヒガンバナの巾着田は見物客で大賑わいでした。
 日和田山〜物見山〜ユガテのハイキングコースでは、檜林のフィトンチッドをたっぷりと吸って心身ともにリフレッシュ。物見山の細長い山頂に、ひとかたまりになって咲いていたヤブランの淡紫色の花も印象的でした。
物見山の山頂にて

*** コラム ***
ヒガンバナについての薀蓄(うんちく)

ヒガンバナ ヒガンバナ(彼岸花)はヒガンバナ科の多年草で、別名については曼珠沙華(まんじゅしゃげ)を始め各地にかなりたくさんあるようです。いろいろな謂われや面白い特徴があり、この花の話題には事欠きません。各種の図鑑類やネット検索などを参考にしてまとめてみました。

● 中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったようです。日本に存在するのは全て遺伝的に同一の雌株であり、三倍体だから種子で増えることができません。

● 花の後にロゼット状に線形の葉を出しますが、開花期には葉がなく葉があるときは花がないことから韓国ではヒガンバナのことを「相思華」とも云うそうです。

● 別名(地方名)が一番多い植物がヒガンバナとも云われています。一説によると1000以上の呼び方があるそうです。極楽花、天蓋花、灯篭花、狐のかんざし、などといったきれいな呼び方もあるようですが…、不吉であると忌み嫌われることもあり、地方によっては死人花、墓場花、盆花、地獄花、幽霊花、仏花、葬式花、厄病花、剃刀花、狐花、捨子花、鬼首花、歯っかけばばあ…などと呼ばれているようです。有毒植物なので毒花、舌曲、気触れ花、手腐れ…等々。家に持って帰ると火事になる花(火事花)とも云われ、もうボロクソです。なお、「曼珠沙華」は赤を表す梵語によるとのことです。

● 秋の彼岸ごろに咲くからヒガンバナ、というのは誰でもが納得できる名の由来だと思いますが、有毒なためこれを食べた後は“彼岸=死”、という説もあるらしいです。それにしても、日本各地のヒガンバナが等しくお彼岸の頃に咲く、というのが不思議といえば不思議です。すべてがクローンである(個体差がない)ということと関係しているのかもしれません。

● 墓地や田畑の畦に植えられることが多いですが、これは野犬、イノシシ、ネズミ、モグラ、虫などがヒガンバナの毒を嫌って近付かないように、掘り荒されるのを防ぐためでもあったとされています。

● 誤食した場合は、ひどい場合には死に至るほどの毒性(アルカロイド)があるらしいですが、長時間(何回も)水に晒せば食用になるとのことです。澱粉質に富んでいることからかつては救荒食とされたときもあったと聞いています。鱗茎からは石蒜
(せきさん)という生薬が作られ、利尿や去痰作用があるといいます。しかし、素人が食用や薬用に利用するのは大変危険であるらしく、まぁ、真似はしないほうが無難だと思います。
 かつて能登では毒抜きした球根の澱粉から作った餅(ヘソビ餅)を食べたそうです。岩手県では江戸時代の天明の飢饉で村民の7割が餓死したといいますが、彼岸花を入手できた村が餓死を免れたそうです。一説に、彼岸花さえ口にできず餓死した人を悼んで墓に植えた、という言い伝えもあるそうです。

● 花言葉は「悲しい思い出」「情熱」「再会」・・・など、けっこう“まとも”です。


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