No.320 稲含山(いなふくみやま・1370m) 平成26年(2014年)6月17日 |
||||
→ 地理院地図(電子国土Web)の該当ページへ 竜ノ岩とも呼ばれる西上州の稲含山は、下仁田町と甘楽町にまたがる兜型の山で、「関東百山(実業之日本社)」と「関東百名山(山と渓谷社)」、そして勿論「群馬百名山」の一座でもある。もう18年も昔のことになるが、スーパー林道を利用して赤久縄山や西御荷鉾山へ行ったときに、北西の眼前に大きく目立っていた山で、ずっと気になっていた山でもある。しかし、下仁田や富岡などの(元首相中曽根康弘氏の実父が社長を務めたことがあるという)上信電鉄の駅から近くて、(多分)人がうじゃうじゃといる里山的で観光地的な山なんじゃないか、と思って、なんとなくずっと腰が引けていた。それがとんでもない誤解だったと反省した。この稲含山は案外と奥深く、不可解でミステリアスでとても静かで、つまり山の魅力を充分に備えた山だったのだ。やっぱり山は登ってみなければ分からない。 私達夫婦の自家用車(表現がちょっと古いなぁ…)は快調に早朝の都心を抜け、関越自動車道から藤岡JCTを経て上信越自動車道をひた走る。カーナビは富岡I.Cからのルートを示していたが、予定通りそこはスルーして進み、次の下仁田I.Cで降りる。下仁田の街を抜け、懐かしの下仁田温泉・清流荘の脇を通り過ぎ、やがて自家用車(マイカーのことです・念のため)は林道[稲含・高倉線]を上っていく。天気予報は“梅雨の晴れ間”で空は明るいが、モヤがなかなか晴れない。 佐知子は鼻歌気分だが、久しぶりのダートで、運転する私はかなりの緊張だ。日本中の道路がまだ殆ど未舗装だった時代の、父親の運転で田舎道をドライブした子供のころの思い出や、免許取りたての若き自分の(ダート走行の)武勇談などを、思わず口走って、「それってもう半世紀も昔のことよねぇ…」、と(やっぱり)揶揄される私だった。 標高約1070mに位置する茂垣峠(鳥居峠)下の駐車場から、案内板に従って(南へ右折して)歩き始めたのは9時半頃だった。ハンショウヅルの咲く林道っぽい広い道を7〜8分ほども登ると、再び道標がでてきて、ここから本格的な山道になるようだ。下仁田町栗山の標板によると、この地点(林道終点)が茂垣(もがき)峠であるらしく、同注意書きによると 「ガイドブック等に書いてある鳥居峠は間違いで茂垣峠が正しい」 となっている。…少し進むと赤鳥居をくぐることになるが、私達が使っている古いガイドブック(1998年に初版発行)には「金鳥居」と記されてある。ちなみに、1985年初版の「関東百山(実業之日本社)」の該当項には“(鳥居峠は)古くから金鳥居と呼ばれている”と書かれてある。何がなんだかよくわからなくてミステリアスだが、(多分、20世紀の後半に)赤く塗られたので「赤鳥居」と呼ばれるようになったのではあるまいか、と推測する。つまり、鳥居峠≒茂垣峠≒金鳥居≒赤鳥居、という図式だ。…まぁ、どうでもいいと云えばどうでもいいことだけれど…。ハルゼミやエゾハルゼミが悲しい声で鳴いている。 この(下仁田町側の)上りのトレイルには、登山口の注意書きもそうだったが、ラミネートされた手書きの貼紙があちこちに吊るしてある。「雷が鳴ったら安全な場所に逃げろ!」とか、「ペットの入山はお断り!」などといったものから、樹木名や奇岩の説明なども丁寧に書いてある。至れり尽くせりだ。周囲の植生は、ミズナラ、カエデ類(ハウチワカエデ、カジカエデ、ウリハダカエデなど)、フサザクラ、オオヤマザクラ、クマシデ、ホオノキ、オニグルミ、ツツジ類(ヤシオツツジ、トウゴクミツバツツジ、ヤマツツジなど)、サンショウ、リョウブ、アセビ、ブナ(少し)…などの天然林にヒノキの人工林が交ざる、といったよくあるパターンだ。林床のコアジサイに花がつき始めていて、なかなか風情がある。所々に出てくる岩はチャート(堆積岩の一種)であるらしい。 丸太階段の多い、けっこうな急坂で、クサリを使わなくても済むクサリ場などもあったが、やっぱりあっけなく(茂垣峠下の駐車場から正味50分ほどで)栗山稲含神社に着いてしまった。手前の割拝殿の壁には何故か、近隣の小中学校の校歌をコピーしたものが掲示されている。境内に入り呼吸を整えてから、拝殿に向かって柏手を打つ。稲含神社には稲の神様が祀られているらしい。…ここから稲含山の山頂までは3分足らずの距離だ。 三等三角点のあるこじんまりとした山頂は1点360度の大展望だった。しかし生憎のモヤで、八ヶ岳や浅間山はまったく見えず、近くの西上州の山々を(心眼と心願も駆使して)じっくりと眺め回す。 山頂周辺にはアブラツツジ(花)、コメツツジ、(トウゴク?)ミツバツツジ、ナツハゼ(葉柄や新葉が赤くてきれい)、ヤシオツツジ、アセビなどのツツジ類が多く、それにヤマハゼ(ヤマウルシだったかも)やヤマグワのような木も交ざるが、何れも低木で、高木は(多分)展望のため伐ってしまったようだ。北側にはいじけた(矮小化した)ミズナラが、南側の奥には、なんと、矢張りいじけたブナの木を同定することができた。本来はこの地の極相種たる高木が、山頂部の厳しい環境や人的な剪定などによって、灌木化しているのが痛々しくも逞しい。まるで盆栽のようだ。その(矮小化したブナの)奥を覗き込むと通行禁止の小道があって、サラサドウダンがきれいに咲いている。思わず藪をかき分けて、その(花の)写真を撮ってきた。 そのうちにガヤガヤと声がして、数名の中年男性グループが登ってきたので、彼らと入れ替わるようにして山頂を辞した。あとから思うと、この(品の良さそうな)中年男性グループが、本日この山で出会った唯一のハイカーだった。 来た道を栗山稲含神社まで下り、そこから右折して、北側の山腹をトラバースする。両神社間の距離は歩行時間にして10分ほどだったろうか、境内を囲む数株の大きなスギが印象的な秋畑稲含神社に着いたのは11時15分頃だった。ここでコンロを取り出して、少し早めの昼食にする。今回は(佐知子の強烈な主張により)野菜たっぷりの玉子入り醤油ラーメンだ。私は(特に野菜たっぷりのときは)塩ラーメンのほうが好きなのだが。ぶつぶつ…。 うら寂れた感じの秋畑稲含神社から、満腹のお腹を抱えて下山の途に就く。ザックが軽くなったと佐知子は喜ぶが、総重量は変わっていないんだよ、と私が云ったら、それから暫くは大人しくなってしまった。林縁のコゴメウツギ(小米空木)が白色の小さな花序をつけている。 二の鳥居をくぐり、枝沢(神の水)を渡り、快調に下っていると分岐があり、右手の道標に「大ケヤキ・0.4Km⇒」と書いてある。下山地の林道も近く、全然歩き足りない私達は、これ幸いとその道標に従って右へVターンして、大ケヤキを見物することにする。 分岐から少し進むと皆伐された植林地帯を横切るが、伐採跡地の斜面にはヒノキの幼苗が植えられてあり、明るく開けた気分の良い処だ。道端には葉裏の白いオオイタドリが群生しているが、次の下草刈りのときには伐られる運命かも、と思うと微妙な感慨だ。そして再び森へ入り、暫く進むと上部が二股に分かれたサワグルミの大木があった。しかし、くだんの大ケヤキがなかなか見つからない。道型が続いているのでさらにトラバース気味に進んでみると、ようやく甘楽町の解説板(大ケヤキの認定書)が立っている箇所へ出た。しかしやっぱり、何処を捜してもその大ケヤキは見当たらない。佐知子を残して一人で先へ進んでみたけれど、道は荒れてきて殆ど行き止まり状態になっている。変だなぁ…と思いながら、あきらめて戻りかけたとき、佐知子が上部を指さして大声で怒鳴っている。 「あれじゃないのぉ〜?」 大ケヤキは、解説板の後方(山側)の、かなり離れた急斜面にあった。手前の樹木などが邪魔をして見つけにくくなっていたのだ。道なき急勾配を登り、ようやくその大ケヤキの根元に辿りついたときは、けっこう感動だった。解説板によると、樹高約30m・根本周囲約10m・推定樹齢約500年、2本のケヤキが密着して巨木になったところから夫婦ケヤキ、とも呼ばれているらしい。(急傾斜地なので)巨体を支えるための数本の(露出して板根状になった)太い根っこが特に印象的だった。二股の大きなサワグルミもそうだが、変形して(木材として)商品価値の低い個体が生き残っている、ということに哀感が漂う。 分岐まで戻り、一の鳥居をくぐり林道にドスンと降りる。その林道を左折してなだらかに登り、茂垣峠下の駐車場に戻りついたのは午後1時半頃。まだ陽は充分に高いので、これから甘楽町側へ自家用車を走らせて、4日後の6月21日には世界文化遺産に登録される予定の富岡製糸場を見学していこう、ということになった。それから「かんらの湯」へ立ち寄って…、と、下山後の帰路もいろいろと楽しみだ。 * 稲含山の二つの神社について: 区別する意味で、下仁田町側に建つのを栗山稲含神社(または下仁田稲含神社)、甘楽町側を秋畑稲含神社、と呼ぶことがあるようで、本項の表記はそれに従っている。当地における(かつての栗山村と秋畑村の)確執が…今も尾を引いているのかどうかは知らないが…ある、またはあったということが、私は面白いと思った。もしかして、この山のミステリアスな個性がそれに起因しているのかもしれず…、あれやこれやと考えてしまう。 秋畑稲含神社の境内に立つ甘楽町の立派な解説板には、「稲含神社の起源」と題した詳細な記述があった。僭越ながらそれを要約してみた。↓ ・稲含神社の祭神は養蚕と稲などの五穀の守神とされる豊稲田姫とされている。 ・豊稲田姫はインドから稲の種子を口に含んで(隠して)持って来たといわれている。 ・安政年間(1854〜1859)に神社の領有をめぐり栗山と争って、秋畑側が勝ったことを祝って奉納したのが神楽の始まりである。神楽奉納については、現在も正月と5月の上旬に行われている。 …う〜ん、なるほど、豊稲田姫が稲の種を口に含んで運んできたから“稲含”なのか。それにしても…、(甘楽町の)秋畑側が勝ったのに、何故、稲含山の山頂は(下仁田町の)栗山側に含まれているのだろう…? 神社は秋畑村、山頂は栗山村、という(玉虫色の)裁定だったのかな? 甘楽温泉「かんらの湯」: 私達夫婦が富岡製糸場を見学した後に立ち寄ったのがこの「かんらの湯」だった。上信越道吉井I.Cまでは車で約10分の距離の 「ふれあいの丘」に建つ甘楽町総合福祉センターに併設された日帰り入浴施設だ。内湯、外湯とも広くて明るくて衛生的で、ゆったりと時間を過ごすことができた。食堂はないが、広い休憩所があり持ち込み可で、お茶のサービスもあり、必要かつ十分だ。この日は平日で時間が早かったこともあり、施設内は何処も彼処も閑散としていて、それがとてもよかった。泉質はナトリウム-塩化物強塩冷鉱泉、加熱、循環、殆ど無色透明無味無臭、ヌルヌル感あり。(町外の)60歳以上の入浴料は400円(17時以降〜19時は200円)だった。 佐知子の歌日記より うす曇り突きぬけ走る関越道 東京脱出成功せり 五分咲きのオオバアサガラ房垂れて はじらうような白い妖精 春蝉の愛(かな)しい声がこだまする 緑の森の稲含山 極小の真珠咲くよな小紫陽花 白くほのかに山道飾る 頂上は深深もやの幕下りて 心で描く赤城と榛名
ホームへ |