「バイファム」私見

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目次


Vd: 2000.3.23

「銀河漂流バイファム」と「無限のリヴァイアス」

0. ただし書き

この議論の目的は「バイファム」ファンのための「リヴァイアス」紹介ではない。「リヴァイアス」の解説でもなければ、評価でもない。「バイファム」ファンが「リヴァイアス」を観たあとでは、「バイファム」をどのような作品としてとらえるか、つまり「リヴァイアス」を通じた「バイファム」の考察だ。ダシと言ってもいいかもしれない。
こういうスタンスは「リヴァイアス」ファンにしてみれば面白くない。それはご容赦を。
また「バイファム」ファンからすれば、なんで「リヴァイアス」なの?ということになるだろう。必然性はなくて、ただ僕にとってのきっかけだっただけのことだ。以下で"「バイファム」にないもの"について話すことになるはずだが、何がないのか気づくきっかけが「リヴァイアス」だったということだ。ただし、それなりの妥当性があることは本論を読めばわかる、はず。

1.1 今どきのTVアニメ

1999年秋は、TVアニメ界ではちょっとした異変の時期だった。なぜかSF/ロボットものに属する作品が大量に放映されはじめたのだ。既存のタイトルとあわせると、対象年齢が高いもの(オタク向けってこと)だけで6本はあった。低年齢層向けも含めると10本はあったんじゃないだろうか。
そのうちいくつかは1クールだったし、後番は別ジャンルだからどうやら一過的なものにすぎなかったようだ。だが、これだけ数があったためか、子どもを描くことを第一に狙った作品が2つも(?)あった。そしてそのどちらもが「バイファム」ファンにとっては耳の痛い作品だった。
その2つとは、1つが「今、そこにいる僕」、もう1つが「無限のリヴァイアス」だ。前者についてはすでに触れているのだが(「今さらの反論」の付記2)、必要上もう一度取りあげることにする。「今、そこにいる僕」はTVアニメ史上ではかつてないほどメッセージ性の強い作品だった*。この作品が提起している問題点は、
  1. 子どもでも適切な道具(たとえばRV)さえあれば、簡単に人を殺せてしまうのがどんなに悲劇であるか。
  2. 戦場の子どもは精神的に病んでしまうのではないか。
の2点に尽きる。「バイファム」ファンであろうとなかろうと、この2つに反論できる人はいないだろう。
だが、「バイファム」ファンである僕は、さらに「今、そこにいる僕」で、ナブカやブゥといった少年兵たちが、故郷の村に帰るためにしかたなく銃を持ち、割り切ろうとして割り切れずに苦しむのを見て、「バイファム」の子どもたちがその万分の一ほども悩まないのに、あらためて気づかされた。
ナブカやブゥたちは、誘拐同然でヘリウッド(舞台となる要塞都市)に無理矢理つれてこられて、戦争が終わったら帰してやると言われてしかたなく戦っているのだから13人とは違うと言う人がいるかもしれない。だが、13人だって「しかたなく」戦っているはずではないだろうか? それとも、両親を助け出すためには戦闘もいとわないという態度なのだろうか?
こういう批判はすでに「今さらの反論」で論じているように、放映当時からあった。そしてそれに対する反論もすでにおこなっている。ただし、「今、そこにいる僕」の問題意識が基本的に正しいことは認めざるをえない。とりあえず、これについては「リヴァイアス」とまとめて後で述べることにする。
さて本題の「リヴァイアス」は、戦争に関してはどちらかと言えば「今、そこにいる僕」の批判にさらされる側に属する。だが、もっと別な点で、より「バイファム」の本質に疑問を投げかけている作品だった。いや、むこうに投げかけているつもり(もちろん「バイファム」ファンだけに向かって、ということは絶対ないが)があるかどうかはともかく、こちらはそう受けとってしまう内容だった。それは、
  1. 子どもだけの世界は楽園などではなく、無秩序と放埒があるだけではないか。
  2. 子どもだけ孤立して生活していたら精神的に病んでしまうのではないか。
と言ったところだ。この2つが「バイファム」ファンにはより深刻なのは、説明するまでもない。これらについて論じる前に、「リヴァイアス」を観たことのない人のために、作品内容を少々解説しないわけにはいかない。それは次回に。

* 冗談抜きで聖書をアニメ化した「トンデラハウスの大冒険」(だっけ?)なみだった。

Vd: 2000.3.25

1.2 RE-VI-US ?

話は、主人公、相葉昴治(16歳)が航宙士の資格を得るべく東京の家を出て、宇宙ステーション、リーベ・デルタへ向かうところから始まる。それから何ヶ月か過ぎ、長期休暇をむかえたある日、リーベ・デルタは原因不明の事故を起こし、ゲドゥルトの海(後の章で説明する)に向かって沈み始める。
ステーションに残っていた教官たちは、沈降速度をゆるめるための船外活動で全員死亡。残された訓練生487名はリーベ・デルタに隠されていた外洋型可潜航宙艦リヴァイアスに乗り込み、かろうじて脱出する。
彼らは火星にたどりつき、そこで救助されるはずだったが、逆に軍によって攻撃を受け、あてどない旅が始まる。

というのが序盤の話。
第1話「きたるべきとき」の冒頭で、昴治は玄関で母親にしめてもらったネクタイを、門を出た直後にゆるめる。そして駅のプラットホームではすでにいつの間にか服を着替えている。列車に乗る間際、彼は思いがけず、幼なじみの蓬仙あおい(ヒロイン)に出会う。彼女は「相葉ハハ(母)」によろしくと頼まれていると言う。
ここまでを見た時点で僕はこの作品はかなり「バイファム」っぽい雰囲気を持っているという感触を持った。つまり、子どものそれっぽいしぐさを丹念に描いているし、これを続けていくんだろうと思った。「相葉ハハ」みたいな物言いをさせたことに、率直にやられたとも思った。第2話「よけいなこと」で教官たちが「大人には大人の責任がある」と子どもたちを助けるべく殉職した時点で、99年版「バイファム」なんだと確信した。
と同時に登場する子どもたちは、あまり「バイファム」っぽくないというふうにも感じた。昴治の母親を「相葉ハハ」と呼ぶあおいのしゃべりかたにしろ、ネクタイをゆるめる昴治にしろ、「バイファム」ではちょっと考えられない*1。またOp.*2の子どもたちの表情が「バイファム」に比べるとずっと暗いことから、もっとシビアな作風になるのだろうという予感はした。
おおよそ第11話あたりまではそういう見方がほぼあてはまっていた。たしかに「バイファム」と違うところは多々ある。まず13人ではなく487人であること。主要な子どもたち以外は「その他おおぜい」であるとはいえ、13人以外に子どもがいるのといないのとは話の進め方や全体の雰囲気からして変わってくる。そして15歳と16歳の子どもが圧倒的に多いこと。主要な子どもとしてニックス(13歳)とパット(8歳)がいるにせよ、もともと航宙士を目ざす訓練生なのだから4歳から15歳までというふうにはならない。
だがそこまで同じだったらまるきりパクリになってしまう。それより全体として子どもだけの世界で、かなりリアリティのあるセリフや行動の子どもたちが話を進めていくことに目を向ければ、「リヴァイアス」はまさに"RE-VI-US"と思えた。RE=再び、VI(FAM)、US=我々に。
それは二重に間違っている。まず"RYVIUS"が正しいつづり。そして第2クールの内容だ。第11話「まつりのあと」で子どもたちは学校の文化祭っぽいことを企画し、大いに盛り上がる。だが結果的には、ここが「バイファム」っぽい「リヴァイアス」の頂点だった*3。この後、艦内の規律が乱れはじめ、それを引き締めるために食料のポイント制(仕事量に応じてポイントが割り当てられ、その分だけ食事をもらえる)が実施される……という過程で「バイファム」っぽくないところが目立ちはじめる。というかほとんど「アンチ・バイファム」だ。
後半の話は基本的にこの路線がエスカレートしていくと考えて間違いない。「バイファム」ファンにとって何が余計にイヤかと言えば、前半あれだけ「バイファム」っぽかったのが後半になって急速に失われるという展開にある。
下着を持ち出せなかった女の子が、友だちから貸してあげると言われて、あんたのじゃ胸が入らない、とか、危機的状況で思い切って告白したらやっぱりふられた、とか、パットが「おうちにかえりたい」と言って泣く、という路線で後半も進んだってよかったはずなのだ。
これがはじめから殺伐としていたら、「バイファム」とは違う世界に身を置く作品として忘れることができたのだが……。

*1 バーツならネクタイをゆるめるかもしれないが、「バイファム」ではそういう子は少数派だ。逆に「リヴァイアス」ではそういう子が多数派だ。
*2 ちなみに、歌っている有坂美香はアメリカ帰りで、歌詞は全て日本語。ちなみに英語版もある。またこの作品にはア番が存在する。ただし本編の一部として組み込まれている。……なんていうところまで意識してしまう作品だ。
*3 だから第1クールだけ見るのは一つのテだ。

Vd: 2000.3.28

1.3 リアリティの話

はじめに断らなければならないが、「リヴァイアス」は何も後半ばかりが救いようがないのではない。前半から連帯のほころびのようなものはあった。ただ後半の遠慮のなさに比べれば「バイファム」とはテイストが違うんだなという程度ですますことができた。
「バイファム」との明らかな違いとして、「リヴァイアス」にはいわゆる「不良グループ」が存在する。バーツみたいなかわいいのではなく、「週刊少年マガジン」連載陣の一角を占めるようなあれだ。エアーズ・ブルー(15歳、本名かどうか不詳)率いる、チーム・ブルーの連中だ。いやまあ実際には見た目ほど手に負えない連中ではなかったが、彼らは、操船科のエリートであるツヴァイと呼ばれる生徒たちが船をしきっているのに不満を持ち、第6話*1でブリッジを乗っ取ってしまう(らしい)。
ただしこのときになりゆきでブリッジの通信員になった昴治がツヴァイとチーム・ブルーのかすがい的な役割を果たしたことや、ツヴァイ筆頭*2のユィリィ・バハナ(16歳?)がブルーにホレたことで、このまま両者が共生していくかに見えた。そして後に尾瀬イクミ(16歳、昴治の親友)が述懐したように、この時が一番艦内が平和な期間だった。
以下、あまりネタバレしすぎるのも不興をかうので大ざっぱに述べると、結局一部のツヴァイがチーム・ブルーをハメて追い出しにかかる。だがそれによって混乱は増すばかり、現状を直視できなくなった1人が……。一般的な傾向としては、規律を回復しようとして締めつけを厳しくして、ますますすさんでいくのだと考えてもらいたい。航海の行程は、太陽系連合(中央政府)から追われる身となったために、はじめ連合から独立状態の土星圏をめざし、その後同じような状態の天王星圏をめざすことになる。
では何故「リヴァイアス」と「バイファム」はこうも違う作品になってしまったのかを、登場人物の比較を通して考えてみたい。とか、では「リヴァイアス」と「バイファム」のどちらが、「子どもたちだけの航海」を描いた作品として、リアリティがあるのかを考察してみる。とかはあまり意味のない論だと思う。
「バイファム」の子どもたちができすぎなのは前から言われていた。その意味でリアリティが足りないと言うのは正しいかもしれない。和泉こずえ(16歳? イクミのガールフレンド)が、大人がいないためにタガがゆるんでしまうと言った点では「リヴァイアス」の子どもたちは、より子どもっぽいのかもしれない。
「リヴァイアス」と「今、そこにいる僕」は同じ時期に放映されていて、なおかつ従来のTVアニメが行わなかった描写をしているため比較されることがままある。だが、両者の最大の違いと僕が思うのは、「今、そこにいる僕」で描かれたことは世界のどこか、「今、そこ」で起こっていると我々は知っているのに対し*3、「リヴァイアス」で描かれたことは起きるかもしれないが、本当にそうなるかは誰も知らないことだ。同じように「バイファム」のようになるのかも知らない。
これはもはや主観的な問題になってしまうが、僕は「リヴァイアス」ほど悲観的な状況になってしまうとは思えない。僕からすれば「バイファム」にリアリティがないのなら、同じくらい「リヴァイアス」にもリアリティがない。
というよりリアリティは二の次だ。要するに「バイファム」と「リヴァイアス」で違うのは制作者のスタンスとか、描きたかったものだろう。極めて単純だが、この問題については僕の結論(これが結論のつもり)はそこにある。
二、三、つけ加えると、まずどちらにも同じくらいリアリティがないのに(ないのなら、だが)、それを選んだのは明らかに制作者の意図だ。そして「バイファム」は13人で全員親しくなれる人数なのに、「リヴァイアス」は487人でトラブルは避けられない、とか、「リヴァイアス」には性格的に問題のある子どもが多かったから破綻したのだ(逆も然り)といった考えかたも、そういう設定が制作者の意図によってどうとでもなるという事実を否定できない。もしこれだけでは不満なら、例えば、リヴァイアスの子どもたちは戦争に巻き込まれたわけではないのだからもうちょっと明るくてもよさそうだし、ジェイナスの子どもたちは逆にもっと暗くてもいいんじゃないかという見方をあげておこう(もちろん実際はそうではない)。要するに制作者のさじ加減だと言いたいのだ。
そんなありきたりの意見はここまで。話はまだ終わらない。

*1 唯一観逃した回。
*2 男塾みたいだ。僕が勝手にこう呼んでいるだけなので、念のため。ちなみに作中では1年生のことを1号生とは呼ばない。というか学年なんてない?
*3 監督の大地丙太郎(「あきたろう」と読むので注意)が少年兵を扱ったNHKのドキュメンタリーを観たのが制作のきっかけだそうだ。また、タイトルの「今、そこにいる僕」には上で述べたような意味がこめられているらしい。

Vd: 2000.4.1

2.0 子ども中心の作品として

拙作の英文による「バイファム」紹介(An Introductory Guide to ...)で、僕は「バイファム」の魅力を"utter positiveness"だとしている*1。"utter"という強意をうまく訳せないが*2、この場合、本質的にと言うか、根本的にと言うか、とにかく一番深いところでポジティブな作風だと言ったつもりだ。"Some say"とあるように、これは僕自身の意見ではないが、一緒に言われていた、ほかのリアルロボットアニメにはそういうポジティブさが滅多にないという言葉ともども、非常に的確だと言える。
そう考えると、「リヴァイアス」は雰囲気的にはリアルロボットものの正道を行っている。こうなったのは背景設定やキャラクター設定がこうだったからだ、はもちろん正しいのだが、それ以前に作り手がそういうふうに描きたかったからそういう設定になったのだ(これは「バイファム」についても言えることだ)ということを今まで述べてきた。
だから「バイファム」と「リヴァイアス」は本質的に違う作品だ。だが、それでもなお両者は、宇宙船で子どもだけで漂流するという設定をとり、子どもを作品の中心に据えている点できわめて似通っている。得られたアウトプットはもちろん異なる。以下ではこの違いを利用しつつ、「バイファム」について考察するが、その前にまず「リヴァイアス」のSF設定について述べる。これは1つにはこの辺で解説しておかないと、「リヴァイアス」を知らない人に不親切になってしまうからであり、もう1つ、実はこれも子どもを中心に描くことと関わってくる。

*1 この紹介は悪のりなしで、全く真面目に書いているのでご安心を。
*2 こう書くと偉そうだけど、日本語から訳したのではなく、はじめから英文で書いているので。

Vd: 2000.4.2

2.1 謎の遺跡と謎の少女

「リヴァイアス」の舞台となるのは2225年の太陽系だ。この時代、人類は太陽系全体に広がっているが、その外に定住してはいない。物語の始まる80年ほど前に、太陽から突如、大量のフレアが噴出し、金星は全滅、地球も南半球が壊滅的な打撃を受けた。この結果、太陽系は「ゲドゥルトの海」に沈むことになる*1。この高温・高圧のプラズマの海を航行できるのは可潜艦とか可潜艇などと呼ばれる宇宙船だけである。
リヴァイアスは可潜艦として極めて高い性能を有し、一般の可潜艦では不可能なほどゲドゥルト深く航行することができる。そうでなくともゲドゥルトの中ではそんな簡単に敵と遭遇することはないため、物語のかなりの時間、リヴァイアスはゲドゥルトの中を進んで行っている。
当然だがその間、リヴァイアスと外部の接触は(敵に襲われる以外は)なく、子どもたちは完全に孤立して漂流している。「ゲドゥルトの海」という設定自体が、孤立して漂流しやすいように用意されたと言っても間違いではないだろう。
リヴァイアスの中では1Gの重力が常に働いている。そのため多くの女の子はミニスカートを平気ではいている*2……はいいとして、リヴァイアスに乗り込んだ子どもたちは、この重力制御に驚いている。
完全な、しかも無制限の重力制御を実現しているのはリヴァイアスとその同型艦だけだ。この性能は、艦自体の推進、ゲドゥルトからの防護、敵への攻撃(重力波をぶつける)など、ほとんどミノフスキー粒子的に多目的に使われている。当たり前と言えば当たり前だが……。
しかし重力制御を担っているのはリヴァイアス自身ではなく、それに搭載されたヴァイタル・ガーダー(以下VG)であり、リヴァイアスや同型艦はほとんどVGを運用するための艦と言っていい。VGはMSとかRVのようなものよりは、「エヴァ」の使徒みたいなものだと思ったほうがいい。VGはそれぞれ固有の形状と能力(というよりは必殺技)を持っている。
VGは「一体もの」であり、量産はできない。構造は生物と機械の折衷的である。また人の形をしているのは、(作中に登場する限りでは)リヴァイアスに搭載されていたアインヴァルト*3だけで、ほかのは何とも言えない珍妙な形ばかりだ。
この時代、人形二足歩行ロボットは実用化されていない。そのためアインヴァルト(正確にはその模型)を見た昴治とイクミの反応は「誰だ、こんなもん作った奴?」、「すんげーバカ」というものだった。単なるタチの悪いジョークだと思って笑い転げていたのである……*4
このような設定は、どう考えてもプラモデルその他の玩具を売り出すことを考慮していない。結局、VGは全部で4体しか登場しなかったし、プラモ化できるのは(実際にしたかどうかは知らない)アインヴァルトだけだった。そのアインヴァルトですら、Op.ではシルエットで一瞬しか登場しない上、初出撃は第9話「ヴァイタル・ガーダー」だ。
VGは巨大で、アインヴァルトは200mもある。この大きさを収容することはできず、普段はリヴァイアスにドッキングして、船体の一部となっている。また運用するときには、リフト艦と呼ばれる小型の宇宙船から有線で遠隔操作する(実物の動きをトレースする模型が用意されているのも姿勢を直接見ることができないため)。
操作はプログラミングによって行う。あらかじめ用意しておいたモジュールにパラメータを与えていることがほとんどのようだが、あるいはその場でコーディング自体を行っていることもあるのかもしれない。当然、1人で行える作業ではなく、数人のメインパイロット(プログラマ)と、20人ほどのサブのプログラマが必要になる。必要な技能はプログラミングなので、子どもたちでも扱えるという寸法だ。また1ヶ所に何人かが集まることで、戦闘中の会話もスムーズに行われている。ちなみに、主人公の昴治はパイロットではなく、ブリッジの通信員だ。
VGの攻撃方法は(防御も)基本的には重力波であり、これだけあれば一般の宇宙船はまったくかなわない。後半でVG同士の戦闘が行われ、このときはそれぞれの必殺技が使われることになった。ただしアインヴァルトだけはそれがなく、かわりにリヴァイアスに搭載されているバルジ・キャノンを使った。これは1門だけで使うとイデオン+波動ガンにそっくりで、そのためかどうかほとんどの場合両手に1門ずつ2門持って使っていた。
さて、リヴァイアスとアインヴァルトが、この世界でも超高性能だというのはわかったと思う。実際、ほとんどオーバーテクノロジー気味の代物として描かれている。実はリヴァイアスは12年前に一度起動して「暴走」した後、二度と動かすことができないまま、教習ステーション、リーベ・デルタに隠されていた。
リーベ・デルタが事故を起こしたのは、リヴァイアスを奪取しようというもくろみのためであり、そのときなぜかリヴァイアスは再起動した。
こういう大がかりな謎は「バイファム」にはなかったものだ。「バイファム」では、リフレイド・ストーンが、謎であり、旅を有利に進めるための小道具だった。しかし物語の中でそれが占める意義――話の面白さにどれくらい関わるか、とか、どれくらいの頻度で描かれるかとか――はそれほど大きくないだろう。またジェイナスやほかの宇宙船でも重力制御が行われていたのにもかかわらず、その原理の説明もなく、また設定自体の使われかたもごく控えめだった。
このテの謎は「バイファム」にとっては邪魔とも言える。謎解きが話の中心になったら、物語の性格そのものが変わってしまう。例えば、それを解き明かすのに時間を使ってしまったら(かなり尺を割かざるをえないだろう)、エロ本事件とかはなくなっていたかもしれない。雰囲気も変わるだろう。
「リヴァイアス」の場合、全く別の方法で、謎の比重を軽くしている。まず、子どもたちはまるで謎解きに関わらない。普通に考えると、常識では考えられない船に乗り込んで、非常識な直立二足歩行ロボットを見たのだから、この船に隠された秘密を探ることが期待されるのだが、そういうことは全くなかった。
かわりに、リヴァイアス奪取にかかわる2つの勢力のボスたちの確執が時折描かれた。これは地球で行われているもので、リヴァイアスの中とは直接的には無関係だ。しかも、彼らのセリフは極めて説明的で、それによって陰謀や謎が視聴者にだけ一気にわからされてしまうという感じだった。おまけにリヴァイアスの航海の進行によって不明だった謎が解明されるわけでもなく、彼ら黒幕はそれらを物語の始めから把握していて、やろうと思えば1話を使って一度に全て説明することもできた。それなのに、あえて小出しにしているという印象はどうしても拭えなかった。
唯一、リヴァイアス再起動の謎と、謎の少女ネーヤ*5だけは子どもたちと密接に関わることであり、物語の進展によってのみ明らかになることだった。
「バイファム」のリフレイド・ストーンは、これに比べればささやかなものだったとは言え、子どもたち(とケイトさん)は石に対して関心を持っていたし、子どもたちと無関係にククトニアンの参謀本部を出して、そこで石の説明をするなどというやり方はしなかった。まあ、全くなかったとは言えないが、それはかなり石の秘密が明らかになってからだったし、そういう説明しかなかった「リヴァイアス」とは対照的だ。
結果としては、どちらも謎解きが副次的な意味合いを持つにすぎなくなったのは変わらない。ただし「リヴァイアス」は、2クールだったことは斟酌するにせよ、謎の大きさをうまく処理しきれなかったのは否めない。一方「バイファム」は、意味ありげなモノリスだったにしては存在感は中途半端だったし、ミューラァに奪われたりする最後のほうは処遇に苦しんでいた感がある。
こうした不備は、ある程度は個々の作品の固有の事情(物語の進み方や設定)に左右されてしまう。だからこの際、一般的にどちらがよいのかは言わないでおく。
また、「バイファム」と「リヴァイアス」に限って言えばどっちもどっちということになるだろうが、「バイファム」のほうが、かなり謙虚というか抑え気味だったと言える。一方で「リヴァイアス」が欲張ってしまったのは、スタッフがかつて(おそらく)視聴者としてリアルロボットアニメの洗礼を受けたからというようにも見える。

*1 この海は惑星の公転面に対し水平に広がっている。また各惑星はバン・アレン帯を人為的に強化することによって守られている(SFにうるさい人からはそんなことで守れるのかという疑問も)。
*2 一度重力が切れてしまい、目も当てられない状況になったが、TV東京は規制が厳しかった。
*3 ただし子どもたちはこの名前を知らず、ずっとただ「ヴァイタル・ガーダー」と呼んでいた。
*4 ちなみに、宇宙船同士の戦闘も「時間がかかるから非効率的」とされている。実際一度船同士がすれ違うと、戻ってくるのに惑星を1周するなど、1度の戦闘で半日くらいが費やされている。
*5 ポスターとかでよく見かけるメタリック・パープルの衣装を着た「私は謎です」と言っているような少女。

Vd: 2000.4.6

2.2 14歳と16歳

以下の内容は、本来念頭になかった話なのだが、下の表を作ったらもったいない気がしてきたので(テキストエディタで作るのは結構苦労したから)、この表から読みとれることを書いてみることにする。

表 「バイファム」と「リヴァイアス」の子どもたちの年齢分布
「バイファム」「リヴァイアス」
名前人数年齢人数名前
176ヘイガー、ラン、カラボナ、グランケヴィンブライアン
1617昴治あおいイクミこずえファイナ、カレン、エリナ、レイコ、明弘、マルコラリィユィリィルクスン、チャーリー、クライス、フー、ソン
スコット1156祐希アインス、チック、ブルーリュウ、クリフ
ロディ、バーツ、クレア3141ミシェル
マキ1131ニックス
12
シャロン、フレッド、カチュア311
ペンチ110
ケンツ19
81パット
ジミー17
6
5
マルロ、ルチーナ24
「リヴァイアス」の凡例: 最重要キャラ、わりとレギュラー、端役 (ただし個人的な見解)
「バイファム」の子どもたちの年齢は第12話ラストのスコットのセリフから。

一見してわかるのは、「リヴァイアス」の非常識なほどの人数の多さだ。これでほとんどの子どもは髪の色が黒かそのバリエーション、茶、金髪だけなんだからたまったものではない。むろん本当にストーリーに関わってくるのは強調表示された子どもと、カレンとチャーリーとクリフくらいだ。このうち後の2人はストーリーに関わるよりは、2人だけのストーリーがあったと言うべきか。
もう一つは、以前に述べたように「リヴァイアス」は年齢的なかたよりがいちじるしい。16歳の17人はそれだけで「バイファム」の13人より多い。そして17歳の連中は全員ツヴァイで、単なるブリッジ要員の性格が強い。カラボナとランも端役と見なしてかまわない程度の活躍だった。ヘイガーも、自分で自分を参謀タイプだと認めるほどで、(後半はともかく)地味なやつだ。またツヴァイの間に年齢による先輩、後輩のようなものはない。
15歳の連中のうち、ブルーはチーム・ブルーの頭として、そして第2代の船長として、16歳の子どもたちと対等以上の口をきいていた。祐希は昴治の弟で年齢差があらわれるような言動をしていたとはいえ、VGのパイロットとしてはイクミとタメ口だった。残りの15歳はツヴァイかチーム・ブルーの一員であり、仲間内ではほかのメンバーと同等であり、自然、年上の非メンバーとも対等だった。
つまるところ15-17歳は16歳を中心としたある種の塊を作っている。「バイファム」で言うなら14歳を中心にした年長組に相当するところだ。
しかし「バイファム」との最大の差は、その下がほとんど抜けていることだ。13歳のニックスはケンツ的な性格で、8歳のパットはマルロといちおう対応はつけられる。だが、「バイファム」のケンツやフレッドのように1回り年下の子どものグループがない。
この差は一つには本筋にからまなくて、かつ「バイファム」(「リヴァイアス」)の面白さの重要な部分をになう子どもたちがいるかいないかの差になっていると思う。ケンツ―シャロン、フレッド―ペンチetcは、他愛もないというか、結果的に何も生んでいないようなことばかりしていて、どうでもいいと言うのは間違いではないのだけど、それでいて多分それがない「バイファム」は「バイファム」とは呼べない。「リヴァイアス」で言うと、クリフ―チャーリーと、ずっと重要度は落ちるがラン*1―パットあたりに相当するんだろうか。ただ、これらに比べると16歳の(強調表示された)連中はあまりに活躍しすぎるというか、主題として占める位置が重要すぎて、クリフもランも本当にどうでもいいし、なかったとしてもやっぱり「リヴァイアス」であることには変わらないように思う*2
それから14歳のミシェルについてちょっと触れておく。この子はチーム・ブルーの1人で、クリフの妹。祐希と同じく年下という感じはあまりしない。外見は、緑色のショートヘアにツルペタ胸、華奢で細っこくて壊れてしまいそうな体つき。パンチラしても気にしませんという感じの元気いっぱいな子。一言で言えば、ロリ2萌え2。ただしこういう振る舞いはあえてしている。例えば、テンションを保つためにある種の薬を常用しているらしい。また必要とあれば、見知らぬ男でも年上なら「お兄ちゃん」と呼ぶが、呼ばれた彼がその後どういう憂き目を見たかというと……。
こういう人物造形は「バイファム」にはありえないし、そういう子もいないと「リヴァイアス」の多人数を描きわけきれなかっただろう。ただ、このことについて僕としてはこれ以上言うことはなくて、「バイファム」の子どもたちに性格的なかたよりがあるのは認めるとしても、それは作品の雰囲気をたもつうえで絶対必要だし、どうしても変えるわけにはいかない。

*1 ツヴァイの1人でショタッ気がある。
*2 もちろん、(強調表示された)16歳のうち何人かを本筋から外れたグループにしたっていいんだろうが、「バイファム」の年下の連中は立場上明らかにしょうもないことができたわけで。

Vd: 2000.4.11

2.3 「過去は消せない」(昴治)

「リヴァイアス」の子どもたちは「過去」を持っている。昴治と祐希は何年か前の大喧嘩以来まともに口をきいていないし、その原因のおおもとはさらに昔の両親の離婚にある。2人の幼なじみであるあおいは彼らの仲をずっと見て知っている。イクミは姉に死なれたことを今でもひきずっているし、ファイナも故郷で何かあったらしい*1。さらにブルーとユィリィの生い立ちの不幸もわずかずつとは言え語られる。
「バイファム」にはこうした過去はほとんど存在しない。カチュアの生まれは、彼女がそれを知ったのが作中なので、過去というよりは現在の問題だ(ミューラァのようにはじめからそれを知って登場したならあてはまったのだろうが)。もっとも近いのはバーツが語る彼の身の上だが、これとて挿話にすぎないし、また「後づけ」の性格が濃い。
ほかの子どもたちの場合、彼らがジェイナスに乗る前がどんな風だったのかはほとんどわからないし、(わからないくらいだから)それが現在の行動に影響を与えているようにも見えない。わずかにスコットとクレアが幼なじみだったことが挙げられるくらいだ。しかしだからと言って、2人だけの秘密があるとかいったことはなかったし、スコット/クレアだから明らかにうち解けて話すなんてこともなかった(全くなかったとは言わないが)。
これに比べると「リヴァイアス」の子どもたちの行動は、ファイナみたいな言いかたをすれば、過去に縛られていると言えるほどだ。昴治も祐希もイクミもファイナ*2もブルーも、ある種の信念のようなものを持っているが、彼らのどの信念も、過去の経験から生まれたものだ。そしてその過去に対するわだかまり(後悔、トラウマ、etc)は遅かれ早かれ(遅いことがほとんだが)作中で決着を見る。
繰り返すが、「バイファム」にはこうした過去はほとんど存在しない。何故ないのか、理由の一つはわざわざ書くまでもない。話が暗くなる*3。わざわざ作中に出すような過去は暗いものと相場が決まっている*4
そして「バイファム」の子どもたちのいいところは、自分のしたことにあまり悩まないことだ(これから何をすべきかは悩むが)。ある人物についてわざわざ作中で暗い過去が語られるのは、その人が今でもそれを引きずっているからだ。
だが、そういう過去がないのは当然としても、「バイファム」の子どもたちには、本当に必要最低限の設定しか与えられず、しかもそれさえもある程度の指針でしかなかったように見える。キャラ設定の文章が実際に描かれた子どもたちと微妙に違うのは容易に見て取れる。また1クール目の彼らの芝居が、やはりそれ以後と微妙に違うし、しかもそれ以後も、特にスコットなどはちょびちょび性格が変わってきているように見える。
「リヴァイアス」の子どもたちがはるかに首尾一貫した行動をとっているのは、放映期間が2クールだったこととか、脚本のほとんどを黒田洋介が1人で書いていた*5ことも理由だろうが、キャラクターの設定が、あらかじめ過去を含めてかなり細かく決められ、かつ話の見通しも事前にある程度たてられていたからだろう。ただしこれは僕の推測。
そしてこれまた推測(とは言え確度は高いと思う)だが、「バイファム」のスタッフは、子どもたちが、どこで何月何日に生まれて、どこでどう育ったかは多分設定していなかったと思う。ムック本にあるのは、後からつけ加えられたもので、しかもそれは放映終了時の物語の結末で決まったんじゃないだろうか。そして、物語の落着点も、放映開始時には誰にも見えていなかったのではないだろうか。
はっきり言うと、キャラクターの設定も、物語も、とりあえず話を始めて成原、じゃない、なりゆき次第だったように思う(カチュアはのぞく)。そうじゃなかったら、ベルウィックから引っ越してきたばかりのペンチが、ベルウィックについて何も感慨を持たないなんてことはないだろう。子どもたちの出身地についてもかなりあやふやで、ムック本と本編のセリフ(最終話とか)の間には矛盾していると言わざるをえない点もある。
こういう対比は、テーブルトークRPG(TRPG)と国産*6コンピュータRPG(以下CRPG)のそれを思わせる。TRPG(典型的には"D&D")のシナリオでは、キャラクターの名前さえ決まっていないことが多い(プレイヤーが自分で名づける)。当然、キャラクターの生い立ちや経歴、性格なんてものもない。彼らは全員、冒険を求めて田舎を出てきた新米冒険者だ。それ以上は必要ない場合が多いし、もし必要なら、その場その場で即興で作られる。ストーリー自体も、キャラクター(プレイヤー)の行動次第で変化していく。無論CRPGにはストーリーを完璧にアドリブで変化させるなんてことはできない芸当だが……。
国産のCRPGの場合(と言いつつ、僕はやったことがないので伝聞と想像だが)、あらかじめ入念に設定されたキャラクター(暗い過去があったりするような)と、その設定が意味を持ってくる壮大なストーリーが用意されている、のだと思う。
TRPGに必要なのはノリだ。アドリブのセリフと、アドリブで変わるストーリー。プレイヤーにもゲームマスター*7にもノリのよさが要求される。
多分、「バイファム」のスタッフのノリは素晴らしくよかった。ただ、このノリは言うまでもなくその場限りのものだ。僕が何を言いたいのか、だいたいわかってきたと思うが、「バイファム」は、少なくともキャラクター設定についてはかなり白紙で、その空欄を埋めるのと、ストーリーの進行は一心同体というか渾然一体だった。ストーリーが進むにつれ、子どもたちの別の面が明らかになり、それによってさらにストーリーが進む(これをストーリーと呼んでいいのかかなり迷うが)。
これがうまく回転している間はいいのだが……というのが「13」の問題の1つではないだろうか。TRPGでは、1回の冒険が終わった後も、そのキャラクターを使い続けることは珍しくない。が、使い続けるときには、(前のシナリオが終わったのだから当然)別のシナリオが用意される。前のとは無関係なことも多い。
「バイファム」の子どもたちにも、もうある種の「過去」ができてしまったのだから、そろそろ「別のシナリオ」を考えるべきじゃないんだろうか。それとも、「バイファム」の面白さが、白紙を埋めていく過程そのものにあるんなら、話はもっと深刻になる。

*1 これは第23話「ちぎれたかこ」のラストで明かされるとおりだが、それをここでばらしてしまうのはもったいない。
*2 ファイナは聖母アルネの信者だから信念というか行動原則があって当然だが、ここではそうではなく、聖母アルネの言葉と言いつつ、ほとんど彼女自身の信念になっているもののこと。
*3 逆に言えば、「バイファム」が何故明るいかの理由でもある。
*4 明るい過去が出てくるのは、今が暗い場合に、その現在の暗さを昔と対比するときだけではないだろうか。
*5 2回ほど竹田裕一郎が書いた。ちなみにこの人はかつて「OUT」で1コーナーを担当していた。「世直し団」とかそんな名前。当然バカっぽいページだったので、この人の名前を「ガサラキ」で見たときはかなりショック(失礼)だった。
*6 海外産のCRPGはテーブルトークに近いので。海外産のCRPGでは綿密で壮大なストーリーは用意せず、ゲームをクリアする使命だけ与えて、中間はスカスカのことが多い。
*7 司会というか進行役というか、ゲームを仕切る人。

Vd: 2000.4.26

2.4 「全然グッとこない」(こずえ)

「リヴァイアス」の男の子と女の子の関係は、ほとんど恋愛関係だった。上のこずえのセリフは彼女とイクミが初めてキスした後の感想だ(第13話「ふれあうことしか」)。なぜかいまいち期待していたほどの感動がえられず、しかもその様子をニックスの隠しカメラがばっちりとらえていて、戻ってくるなりみんなに「おめでとう」と言われまくって、さらにショックだった。イクミはそうでもなかったりするのだが。
この2人のほかに、昴治―あおい―祐希の三角関係(この構図はほとんど「タッチ」状態)、昴治―ファイナ、祐希―エリナ、祐希とエリナが別れた後の祐希―カレン、チャーリー―クリフの純愛、ユィリィ→ブルー、脇役ではジョンソン→シャーロット*1、エマーソン―リリッシュ*2などのカップルが存在した。
昴治とあおいは2度キスし(1度は「事故」)、昴治とファイナは3回(多分)キスしている。昴治は二またをかけているのか。まあ、そういうことになる*3。こういう歯切れの悪い物言いをするのは、何とも説明しにくい複雑な事情といきさつがあるからで、それは本編を観て直接に知ってほしい。別れ話はたしかにある。 言うまでもなく、こうした恋愛関係は、子どもたちが「年頃」でないと成立しないから、「バイファム」の子どもたちのそれが「リヴァイアス」に比べればおままごとだったのは年齢相応と言ったところだ。
しかし、もっと大事なことは三角関係、二また(下世話な物言いだが)、そしてそれらに必然的にともなう別れ話の愁嘆場などの有無だ。ふつう、恋愛関係を扱う作品はこれらを描く。そうでなくても、なにがしかの障害が入る。つまり、ただ単にカップルが円滑かつ幸せに親密になっていくだけの話にはならない。
そうでないということは、すなわち行き違いとか、感情のもつれ、嫉妬、別れとかを描くことになる、描きかたに差はあっても。
そもそも「バイファム」で「別れる」とはどういうことだろうか? 逆でもいい。「リヴァイアス」では昴治とあおいは事故で(初めて)キスをした。まさに「バイファム」におけるロディとケイトさんだ。だが、ケイトさんは、ロディの思い出の中に生きる女、遠く時の環の接するところで……おっとっと、とにかく彼女は帰らぬ人となってしまった。
それに対して、昴治とあおいの仲は後半進むいっぽうだ(ゆえにあおい―昴治―ファイナの三角関係も生まれる)。事故じゃないキスも(そしてそれ以上も?)したわけだし。
こういうことは「バイファム」にはなかった。「こういうこと」は恋愛とそれにかかわることだけを指しているのではない。恋愛ということなら、すでに書いたとおり、「バイファム」の子どもたちには早すぎる、で終わってしまう*4
恋愛関係のみならず「リヴァイアス」の人間関係は一般に「別れる」(男同士でも……変な意味でなく)ことのありうるものだったと思える。
ある「バイファム」のムック本で、ロディとバーツがクレアを取りあう展開になると思っていたというような文があった。もし本当にそうなっていたら、「バイファム」の雰囲気はいま我々の知っているのとはかなり異なっていただろう。「リヴァイアス」ほど重苦しくなるかどうかは別にせよ。
そういうことがなかったことによって「バイファム」の人間関係がどうだったのかをもっと一般的に述べる。それは次回。

*1 ストーカー。
*2 馬男―鹿子カップル。高橋留美子作品にときどき出てくる感じの。「馬男サン、あなたはどうして馬男サンなの?」
*3 祐希の場合、カレンは彼が本気でないと知りつつつきあっていた。
*4 ただし後日談の続編なら、今度はむしろそうなるのが自然とも言えるわけで、個人的にはそういう13人を見たいだろうかという疑問があるために、13人を主人公とした後日談には懐疑的であり、だから「アーティファム」はああなのだ。ってどっかに書いたかも。

Vd: 2000.5.6

2.5 「相葉くん」(ユィリィ)、「昴治」(イクミ)

上のような呼びかたの差は、作品を通じて聞かれるものであり、「リヴァイアス」での友人関係の濃淡を端的に示していると言える。「バイファム」にももちろんそれほど親しくない同士もいた。しかし全員がファーストネームで呼びあう仲(中)*1での話であり、基本的に(少なくとも「リヴァイアス」との比較では)、13人全員が親しい同士であり、その範囲内での特に親しい同士とそうでもない同士という程度の差でしかないだろう。
さらに言うと「リヴァイアス」では、明らかに仲の悪い、もっと言うと敵対的な関係の連中がいた。ツヴァイとチーム・ブルーの間の溝はついに埋まることがなかった。「バイファム」で、ペンチとシャロンの2人を「敵対的」と言うと、単に冗談めかした表現にしかならないが、そういうことではなく、ツヴァイとチーム・ブルーは本当に敵対的かつ疎遠なのだ、ブリッジでともに過ごしたのにもかかわらず。
そしてもう1つ、両者の大きな違いは、「リヴァイアス」では子どもたちの関係が大きく変化することだ。これは前項でも述べたとおりで、「リヴァイアス」では友人関係が破綻しうるし、実際にそうなった。
もちろん「バイファム」でも変化がなかったわけではない。しかしペンチ―シャロンもケンツ―ジミーも、そしてロディ―カチュアも、それまでそれほど仲がよくなかった関係からより親しい関係へと移るだけで、その逆は1度としてない。非常に長期的に見て13人の関係は、旅の進行とともにより絆を深めていく方向性にある*2。あるいはこの3つが、まさにその方向性を示す例と言える。
それとは対照的に、「リヴァイアス」にあるのは方向性よりはむしろカオス的な状況だった。同じく前項で述べたように、この作品がある種の恋愛ものの様相を呈したこともあって*3、「昨日の友は今日の敵」とさえ言えた。前半でお互い気にくわないと思っていたイクミと祐希が後半で信頼を深めていったのに対し、前半で無二の親友だったはずの昴治とイクミは急速に疎遠になっていった。葵とこずえの絶交、チーム・ブルーの離散など、絆が浅まる(?)例が多すぎる。それに対して親しくなるのは子どもたち全員というよりは限られた――はっきり言えば異性同士の場合がほとんどだ。しかもその成就さえも、繰り返しになるが、「別れ」なしにはすまされないこともあった。
そもそもそうした人間関係の流転を支える根本的な要因として、「リヴァイアス」の子どもたちの「親しさ」が、「バイファム」の子どもたちのそれに比べるとはるかに浅いことが挙げられる。何と表現したらいいか迷うが、つきあいが表面的なのだ。あるいは腹蔵とか忌憚があるというか。
一言で言ってしまえば、「バイファム」と「リヴァイアス」では子どもたちの間の距離感が違う。その違いを具体的に示すのはなかなか難しいのだが、たしかに違う。
「バイファム」だけを観ているとあまり意識しないことだが、13人には独特の親密さ、細やかな情感の通いあいがある。なんていきなり書くとひかれそうだが……。しかし僕の言いたいことはおおよそそれに尽きる。ということでこれに関してもう少し述べることにして、いい加減次でしめる予定。

*1 ただし年少者が年上を呼ぶときに「さん」づけにするかはかなり曖昧で、なるべくならそういう状況を少なくしようとしていたように思える。ペンチが「バーツさん」と呼んだことがあったが(第13話)、かなり違和感がなかっただろうか?
*2 その絆は最終回でもっとも深まったが、これはある種の飽和状態を生むことになっているとも言える。その意味で「リヴァイアス」のような仲違いは、後日談としてやってみるのもいい気がする。
*3 そもそも企画は恋愛ゲームのための設定からはじまったんだそうだ。


Vd: 1999.9.16

常夏の星ベルウィック?

ベルウィックは暑い星である。少なくとも僕はそう考えていた。これは主に、いや完全に「バイファム」第6話のイメージによっている。しかしよく考えれば、クレアドより外側の軌道をめぐるベルウィックが、クレアドより多く太陽から熱を受けることはない。しかも、だからと言って即座にベルウィックがクレアドより寒い星であるとは言い切れない。一つの惑星上でも極地方と赤道付近ではまるで環境が異なるはずだからだ(地球がそうであるように)。
はたしてベルウィックは暑い星なのか、それとも暑いのは限られた地域だけなのか、そうした疑問に解答を出せるほどの知識は持ち合わせていないし、与えられている情報も少ないのだが、できるかぎりやってみようと思う。
まず、本編中から分かるベルウィックの自然環境について。 これらは、次に示す、ムックの解説・設定資料などによって補強されるかもしれないし、逆に食い違うかもしれない。しかし、TVの画面以外から手に入れた情報を用いるのは本来は邪道だし*、ムックの解説がどこまでオフィシャルなのかも問題になるので、まず、あえて本編中のみからの情報を挙げておく。さて、次は本編外からえられるベルウィックの自然環境の情報。 とりあえず今回はここまで。

* そうした情報に頼らなければ本編が理解できないのなら、その作品はカスだ。

Vd: 1999.9.24

その2

我々はベルウィックに海がないと考えていいだろう。第4話で見ることのできるアゾレックと反対側の半球には海がなかったのだし、アゾレック市も人造湖によって水源を確保している。
ただし、今後の論議のためにここで触れておくが、アゾレック市が赤道直下に位置する可能性はある。書くまでもないが、アゾレック市には夜がきているので、ベルウィックが天王星のように「横倒し」ということはないし、また昼夜の長さが極端に違うようには見えないこと、そして1日の長さも地球とそれほど変わらないようだから(無論、自転速度によるが)、アゾレック市の緯度がむやみに高いとは考えにくい。
しかしもっと大事なのは、ロケット(シャトルその他を含めて)を打ち上げる場合にはなるべく低緯度のほうが有利だということだ。つまり、赤道に立っている人は地球の自転によって1日に(約)4万km動いていることになる*1。いっぽう東京に立っている人が自転によって1日に動く距離は、赤道より緯度が高い分だけ明らかに4万kmより少ない*2。同じ1日で動く距離が長い方が、動く速度も速い。ロケットを打ち上げるときには自転速度を利用するため自転方向(東)に向けて打ち上げるのだが、赤道直下なら自転速度が一番速いのだから、一番打ち上げるのに有利ということになる(Q&A_ロケット参照)。
恒星間の航海や、板きれ1枚で重力制御できる2058年でそんなケチくさい考えが通用するか知らないが、いま述べたような理由でアゾレックは赤道付近にあるのかもしれない。もしそうなら少なくともあの付近は、ベルウィックでもっとも暑いはずだ(地形によるにせよ)。
以下次回。

*1 公転も考慮に入れればもっと長い距離を動いていることになるのかな……(しかしこの際関係ない)。ちなみに1mは子午線の長さの20000000の1。
*2 赤道の半径をr(約6400km?)として、緯度θ度における緯線の長さは2πrcosθ(だそうだ)。

Vd: 1999.10.14

その3

設定によると、ベルウィックの公転軌道は、かなりの部分ククトのそれの外に出ている。我々の太陽系で言えば、海王星と冥王星に同様な関係がある。
この設定は本編中でいかされることはなかった。また、ベルウィックの公転軌道がそのように歪んでいる理由は『バイファム大図鑑』に譲る。この際重要なのは、その設定によって(前に述べたとおり)、ベルウィックが(イプザーロンの)太陽から受ける光・熱の量が、公転軌道上での位置によって大きく変動することだ。いまうっかり「大きく」と書いてしまったが、「実際に」どれくらい変動するのかは神のみぞ知るところだ。ただし、設定図を見る限りでは、もっとも太陽に近づいたときの太陽までの距離を1とすると、もっとも遠いときではそれが2くらいになっている。光にせよ熱にせよ、距離の2乗に反比例して減衰するらしいので*1、相当違うことになる。これはベルウィック上では、季節の変化としてそこに生活するものには感じられるだろう。
地球においては、季節の変化は別の原因によってもたらされる。ケプラーの法則どおり、地球の公転軌道も楕円を描いているが、しかしベルウィックとは違って円と見なしてほとんどさしつかえない。地球の季節変化は、地軸が公転面に対して傾いているために、ある地点が受ける「光の量」*2が、公転軌道上の地球の位置によって変動するために起こる。
ベルウィックの地軸が地球と同様に傾いているかどうかは不明だ(昼夜がさっさと交代するから、天王星のように横倒しということはないにせよ)。しかしもし地球と同様であれば、季節変化をもたらす要因が2つできることになり、話がとてもややこしくなってくる。もし図1のようであるなら、
図1fig.1
ベルウィックの北半球は寒暖の差がとても激しいことになる。なぜなら、太陽に最も近づいたときに、太陽に向かって傾いた状態(地球で言う夏)になるからであり、逆に太陽からもっとも遠ざかったときに、太陽からさらに遠ざかるように傾いた状態(地球で言う冬)になるからだ。一方でしかし、南半球は寒暖の差がそれほど見られないだろう。
このような意図的なことがそう簡単にありうるのか僕にはわからない。が、もしこうであるなら、ベルウィックに入植する人は、北半球よりは南半球に住むことを選択するだろう。そして南半球に居住する限りは、大体常に一定の季節しか経験しえないことになる。
ただし、その場合に一つ問題が残っていて、その一定の季節が春夏秋冬のどれになるか、だ(春と秋はほぼ同じだが……)。そう、実のところ、ベルウィックがクレアドより外側にあることを考えると、「常夏」ではなく、「常春」になると考えるのがより自然であると見るのがより適当だ。もし(前に書き写した)「ジ・アニメ」2での解説を採るなら、必然的にそうなる。
もっとも、本編内でククトはカチュアが肌寒さを感じるようなシーン(第31話)があった一方で、ルチーナとマルロその他が水浴びをするほど暑さを感じること(第39話)もあったので、地理的な要因で局地的な気候の変化はもちろん想定しなくてはならないだろうが(それこそ高緯度地域と低緯度地域では差があるだろうから)。
もし(南半球が)「常春」だとすれば、僕にとっては困った結論になってしまう。今までの議論を踏まえた上で、なお「常夏」の可能性を考えるなら、ベルウィックはどうやら水の少ない星であることが糸口になりそうだ。それは次回に。

*1 違ってるかも。
*2 もっとかっこいい、もといふさわしい言い方があるんだろうけど。

補足

図1を「上から」見ると図2のようになる。
図2fig.2
つまり、図1は、ベルウィックの公転軌道の楕円の長軸で切って横から見た図だ。また、図2のa、bは面積速度一定(ケプラーの第2法則)を説明するために用意した。これはベルウィックでは冬が長いことを意味している。
図は、どちらもおおよその概略しか伝えていない=いい加減な作図である。特に図2の楕円は設定書のそれとはかなり異なっている。

Vd: 1999.10.18

その4

ベルウィックは不思議な星かもしれない。海がない(ように見える)。が、オアシスはある。そして雨もふる(第9話)。もしかすると地表が非常に平坦で、海ができるほど凹凸がないのかもしれない。もっとも、もし地球の表面をたいらにならしたら、多分、海だけの星になるだろう。そう考えるとベルウィックはやはりもともと地球に比べて水の少ない星なのだろう。
ここで「水」と言っているのは、液体のことで、太陽系で液体のかたちで水が存在するのは地球だけだ。ほかの惑星と違って、大きさや太陽からの距離など、色々な点で恵まれているためである。そのことを考えると、イプザーロンはもっと恵まれていると言える。クレアドとククトには海があるようだからだ。
地球はよく「水の惑星」と呼ばれている。地球の表面積のうち、約70.8%は海だ。そして地球上の水の約97.2%は海水である。水は温まりにくく冷めにくいことはよく知られている。反対に陸地は、温まりやすく冷めやすい。砂漠が昼は暑いのに、夜には急激に冷え込む描写は「バイファム」でもあった(第39話)。これは昼も夜も大気中にさえぎるものがないために、昼は地面が熱をまともに吸収し、逆に夜にはどんどん熱が放出されるからである。同様の理由で、海洋からの影響が少ない大陸内部は、夏と冬の温度差が大きい。
地球の気候には、大気中の水分、つまり雲や水蒸気も影響を与えている。先ほど述べた、砂漠の場合もそうであるように、雲は太陽からの熱をさえぎる役割を持っている。いつでも曇っているはずはないが、雲だけでなく水蒸気も同じ役割を果たしている。
雲は地上の水が蒸発することによって生じる。ここで、地上の水がそもそも乏しいベルウィックでは、大気中の水蒸気も少なくなるので、結果熱をより多く受ける――と言いたいのだが、その結論をはばむ問題がいくつかある。
一つには冒頭で述べたように雨が降ること。あれが珍しいことなのかどうか第9話で、バーツは何も言わなかった。第34話の回想がベルウィックだとすると、結構(地域によっては、にせよ)ひんぱんに降るのかもしれない。
もう一つは、オアシスがあること。オアシスの水が涸れないためには――そのままでは蒸発していってそれっきりだから――水が循環していなくてはならない。やはり雨が降るということだ。
雨がふる=大気中に蓄えられないほど水蒸気がたまった、ということだ。そのためにはある程度の水が必要だ。別の見方をすると、大気は常に可能な限り水を蓄えようとするはずだ。その余剰が雨その他の形で地表に降ってくる。
とどのつまりは、雨がふるくらいだから、地球と同程度にベルウィックの大気中には水蒸気が存在していると考えるのが妥当だ。もちろん、これはベルウィックの大気の組成にもよることではある(あまり水蒸気を受けいれられない空気かもしれない; と言ってもどのような空気なのか僕には想像できないが)。
しかし、やはり海がないことがベルウィックの気候に対して決定的な要因となるだろう。西岸海洋性気候とか、地中海性気候などは決してありえない。どこもステップ地帯か砂漠地帯、あるいはそれらに類似した内陸性(どこも内陸)の気候になりそうだ。台風もないかわりに、砂嵐、つむじ風が起こるだろう。海が吸収する分の熱も地面が受ける以上、少なくとも昼間はかなり暑い、と思う。ベルウィックと太陽の距離、そして太陽の大きさによるから、決して断定はできないのだが……。

Vd: 2000.6.17

番外編

『サイアス』2000年7月号(朝日新聞社が出している科学雑誌)の特集で、地球のような惑星が生まれる条件という記事があった。興味深いので、やや長いがしばらく引用することにして、「ベルウィックは暑い星なのか?」というそもそもの話題からは少しずれた話をする(原文の注は省略)。
 「地球のような惑星」とは一体どういう惑星なのだろうか? (中略)
 ひとつの考え方として、地球の特徴は液体の水の海を持ち、生命を宿していること、といえる。原始的な生命から高等生物への進化には穏やかな惑星環境がさらに必要となるだろう。(中略)
 惑星に液体の水が存在するためには、a 惑星が十分な量の大気をもつこと、b 中心星からの距離すなわち中心星の放射エネルギーが適当で、惑星表面で液体の水が存在できる音頭であることが必要であろう。
 aのためには、惑星質量が地球質量10分の1から10倍程度であることが必要である。10分の1以上というのは、十分な量の大気を重力的につかまえておくためである。
 いっぽう、地球質量の10倍を超えると惑星重力が大きくなり過ぎて、大気は惑星に落ち込み、巨大ガス惑星になってしまう。bを満たすのは太陽からの距離が0.8〜1.5天文単位程度の範囲にあるときである。(中略)
 惑星環境、グローバルな気候変動というものは複雑な要因をはらみ、単純ではない。ここでは天文学的な必要条件、c 惑星の軌道が円軌道に近く、その軌道が数十億年の間大きくは変わらない、d 地球の月のような大きな衛星を持ち自転軸が安定している、を考える。
 軌道が楕円にあると、近日点、遠日点で受ける放射の強さが大きく変わり、変化の激しい気候を生む可能性が高い。
 惑星が安定した円軌道を描いていても、惑星の自転軸が絶えず大きく変動すると安定した環境は得られない。(中略)
 シミュレーションによると、金星や火星の自転軸は100万年くらいで何十度も変動する。地球では数度しかぶれないが、これは月という大きな衛星(月は地球の80分の1の質量をもっている)が回っていて、地球の自転軸を安定化しているからである。
まず問題は、1.ベルウィックは人間が住みやすい環境なのか、それとも2.ベルウィックで生命は発生しうるのかのどちらを議論するのかだ。
1なら、上の条件c、dは必ずしも考慮していなくていい。生命の進化という長いスパンではなく、人類が生きていくだけなら、楕円軌道による1年の気候の変化や、自転軸の変動による気候の大変動にも耐えられるだろうから。
2ならc、dもケリをつけなくてはならない。しかしそれ以前にそもそもベルウィックにはそれほど水がないことをすでに指摘している。そしてさらに言うなら、上の議論は、水=生命がうまれる前提としているが、その、言うなれば「地球型生命発生モデル」は唯一のモデルなのだろうか? もちろん、現時点で我々にとってはそれ以外のモデルは実在していない。が、ほかの太陽系では別のモデルで生命が発生している可能性だってありうる(ただし、その場合でも進化の観点からすればc、dは必要だ。また、その場合、地球の生物とはおよそかけ離れた生物――生物の定義はおいておくとして――になる可能性が高い)。
さらにもう1つ、ベルウィックの生物はベルウィックで独自に発生して進化してきたのだろうか。ククトニアンがよその星から持ち込んだ可能性だってある。いちおうこの点に関して、ムック本ではベルウィックの生物はベルウィック固有の生物となっている。だが、本編中でそれがいかされてはいないから、その設定を絶対採用しなくてはならないわけでもないようにも思う。
とりあえずここでは1だけ考える。ベルウィックは4つの条件のうち、aは満たしていてbはまあ満たしている(というか、そのように描かれている)。cとdは満たしていない。この4つを満たしているのと住みやすいのとは(上でcとdについて書いたように)、必ずしもイコールではない。だが、そうであるにせよ、地球と同じように生命が発生する条件をそなえた惑星のほうが暮らしやすそうなのは想像にかたくない。
作中で描かれているベルウィックはたしかに荒れた星だった。しかし荒れた惑星という設定と、上に引用したような条件づけははたして結びついているのだろうか? 上の条件は、それほど専門的な知識がいるものではないから、当時のスタッフも考えつくことはできたろう。しかし個人的な推測では、ベルウィックの公転軌道が楕円なのは、単なる同心円の集まりよりは設定図が「カッコよく」見えるからであり、ベルウィックの環境が荒涼としているのも、ほかの惑星(クレアド、ククト)との差別化のためにすぎないのではないだろうか。楕円だから荒れた星にしたとか、荒れた星だから楕円にしたとかではない気がする、あまり根拠はないが。
しかしそれはどうであれ、地球人がイプザーロンで最初に進出した惑星がベルウィックなのは、ある意味で説得力がある。つまり、これがクレアドだったら(ククトは論外として)、ククトニアンも撤退せず、いきなり全面戦争になっていたのではないだろうか。ベルウィックという住みよいとは言えない星だったからこそ、ククトニアンも譲歩したと考えることは十分可能だ。そしてもちろん、クレアドまで地球人が進出(というか侵略に近いが)したからククトニアンの反撃が始まったわけだ。
この場合、ある意味でしか説得力がないのは、ベルウィック植民に対して世間で疑問の声があがらないのが不自然だからだ。誰だってクレアドやククトに移住したいだろう。ククトニアンの存在を隠していたのだからなおさら、この2つに移住する障害はない(ように見える)。情報操作でクレアドとククトの環境を隠し通すのは無理があるだろう(例えば、ベルウィックに住んでいれば、市販の天体望遠鏡でククトやクレアドの様子を十分観察できるはず)。
かと言って、3つの惑星が作中で描かれているように存在しているのは動かせない。地球軍からすれば、そして我々からしても、まずベルウィックから植民を開始するのはそれなりに妥当なのだから、あとはそれを世論にどう納得させるかだが、さてさて……。(続く?)

付記
その3の図、および仮定はあれで正しいらしい。北半球と南半球では夏(冬)が「一致しない」そうだ。それは地球―太陽間の距離が異なるから。


Vd: 1999.2.11

今さらの反論

『Out』1984年7月号は「バイファム」特集号だ。しかし(恐らくそれとは無関係に)「アニメ・ジュンの大発見」という連載で「バイファム」が否定的に取りあげられている。このアニメ・ジュンという人はかなり手厳しい人らしく、他の号(孫引きなので掲載号不明)では「今、一番退屈なテレビアニメは『南の虹のルーシー』である」という書き出しで批評を始めている。従って、「バイファム」も「子どもたちをほめないで―BYE-BYE バイファム」というタイトルのもとに辛口に論じられている。それを読んでいて、考え方や批判の方法が誰かに似ていると気づいた。他でもない僕自身だ。思わず苦笑してしまうが、何しろ僕は「バイファム」のファンだし、似た者同士はかえって反発したくなるのは、ありがちなパターンだから、今回もそれを踏襲しようと思う。上に掲げたように「今さら」なのだが。
この人が「バイファム」を批判する点は大きく二つある。まずはそれを列挙しよう。 で、反論。第一に戦争観のほうだが、彼(?)は「シビアだというなら(中略)子どもたちを、どうして戦闘現場での"殺人の自覚"に立ち会わせないというのか?(p.114)」と言っている。もっともと言わざるをえない。が、果たしていわゆるロボットアニメでそのことをつきつめて描いた作品があるのだろうか? つきつめるとは例えば映画『西部戦線異常なし』(レマルクの原作はちゃんと読んでいないので)とか、坂口尚の漫画『石の花』のことを言うのだ。そうなるしかないはずだ。他のロボットアニメだって結局は戦争やそれに参加する人々を妙に英雄化(=かっこよく)しているというそしりをまぬがれないだろう(ライバル同士、一対一で戦わせたりするなんてその最たるものだ)。そもそもロボットの存在からして、戦争をかっこよいものにしている。そういう傾向はテレビアニメどころかニュース映画の昔からあった。迫力あるシーンを撮るために、報道のはずが、やらせをしているなんてザラにあった。実際の戦闘を撮ろうとすると、危なくてとても近寄れない、遠くから撮影すると迫力に欠ける、それでは「つまらない」。これは人間の性向と言ってしまうしかないのかもしれない。
話が大きくなりすぎたので「バイファム」に戻す。「バイファム」だって最初の頃はささやかながら「殺人の自覚」を子どもたちに持たせていた。第9話で生身の敵兵を撃てないロディ、そしてバーツの「人殺しじゃない」という発言。それが話が進むにつれて、戦闘シーンは単なるドンパチに変わってしまったのは確かに残念だ。子どもたちの感覚が麻痺したのだとは誰も考えたくないし、かといってじゃあ何なのかと問われても黙るほかない。だがそれはもはやないものねだりと言うしかないのではないか。「バイファム」の戦争描写がいかにソフトにせよ、問題はもっと深いところに根ざしている。
彼の指摘で的を得ているのはバイファム(RVとしての)の扱いだ。メカ全体でなら(彼は「バイファム=メカ」と書いているので)、ジェイナスを筆頭に、彼らの冒険に欠かせざる道具だと断言できる。しかしことRVとなると、それはあてはまらない。RVが存在するのは、ムックの解説などではARVが存在するからだとなっているが、その説明はまずい。はっきり言って誰も納得させられない。RVもARVも等価、本質的に同じだからだ。この、ロボットアニメにおけるロボットの存在理由というやつも難しい問題だ。「バイファム」は本当は「銀河漂流ジェイナス」で差し支えないのだ。これについて作品内のレベルでの説明は、スタッフがまともにしなかった以上、僕にはできない。
ただ、一つ言えるのは、あの当時(こういう言い方はちょっとずるいが)もし何らかのロボットが登場しなかったら、「バイファム」は本当にうち切られていたか、もしくはそもそも企画が通らなかっただろうということだ。あるいは純粋に作業用としてロボットを設定することもできただろうが、多分それではテレビの前の子どもたちは満足しないだろう。逃げた話になっているが、「子どもたちを満足させる」のは決して無視できない要素のはずだ。RVが味付け程度の存在にとどまってしまっているのは、ロボットアニメとしては確かに疑問がある。(しかしこれはどのリアルロボットアニメも抱えている問題のように思うが……。)
次に子どもたちの描き方。こっちは彼の言い分にあまり納得できない。彼の言うように、13人の子どもたちは、その年齢にしては「優等生」だ。そして「子ども本来の姿でこの話を描こうとすれば、あっという間に子どもたちは泣きわめき、話は空中分解する(p.115)」だろう。だが、にもかかわらず、「バイファム」は子どもを描いた作品としてはもっとも成功した部類に入るだろうし、何より当時の多くの子どもたちが13人に共感したのは疑いようのない事実だ。はっきり言って、遠足よろしく大人に引率された冒険なんてものは誰も望んでいない。もちろん、子どもたちだけの遠足は実現不可能だ。しかし実現可能なものなら、テレビで見るまでもない、自分たちで実行してしまえばいい。そのほうがもっと面白いに決まっている。あり得ないことをさも本当らしく描く、それがフィクションの旨みではないのか。その点「バイファム」は子どもたちを巧みに描き分けて、手が届きそうな存在にしてくれた。そして「優等生」じみた部分も、視聴者の子どもたちの「なれないけど、なりたい」という(隠れた)心情をくすぐってくれたと思う(知らないけど)。話が前後するが、そのように考えると「バイファム」におけるRVの存在も、子ども――そこら辺にいる普通のガキ――がロボットを操縦するという、誰だって一度はやってみたいと思った(これこそ絶対不可能な)願望を一見無理なく形にしたという意味では、やはり必要な存在なのだ。
彼はその辺のウソが分かってしまうわけだが、それは好みの問題かもしれない。そこに目をつぶれるのかどうかだ。全くの憶測だが、彼はもしかすると「バイファム」よりは「イデオン」(おっとまたこれを出してしまった)を選ぶのたちではないかと思える。あのソロ・シップに乗っているのは全員18歳以下の「子どもたち」らしいのだが、僕にはとても受け容れられない。あれのどこがガキなんだ。今の僕(21歳)より年上なんじゃないか(ベスとかシェリルとか……)。でも、それをしっかり首尾一貫しているとして尊ぶ人がいても、理解はできる(共感はできない)。
最後に彼は「バイファム」の結末にメッセージが用意されているのかを危惧している。作品のメッセージ性を論じるのは僕も好きだ。彼は「今までそれ(=「何を描きたいのか」――上村)を作品に欠かすことのなかったサンライズだからこそ」と述べている。彼の不安は杞憂どころか現実になったように見える。
今、唐突に思い浮かんだのは「天空の城ラピュタ」だ(これもずるい)。「ラピュタ」=「バイファム」としたら、「今までのサンライズ作品」=「風の谷のナウシカ」になるだろう。「ナウシカ」の強烈なメッセージ性と違い、「ラピュタ」はパズーとシータの飛行石を巡る冒険の過程を楽しむ以外、観客は何も受け取らないだろうし、それで十分に満足できるはずだ。「バイファム」も子どもたちの「銀河漂流」の過程をハラハラ・ドキドキしながら楽しむ、そして最終回の別離にほろっとくる、そういう作品ではないだろうか。メッセージとかテーマは、作品にあったっていいが、なくたっていい。「メッセージのない作品=つまらない」とは限らない。逆に「メッセージのある作品=説教くさい=興ざめだ」ということだって多々ある。もっとも'84年当時の風潮ではテーマ性の強い作品がより評価されていたのかもしれないが……。
しいて「バイファム」のメッセージを挙げるなら――、おっとこれはまるで「少年ジャンプ」ではないか。

付記。「バイファム」のメッセージについて、僕は既に「13」放映終了に寄せて(4)で論じている。その中では、僕の論調はあたかも「バイファム」にはなにがしかのメッセージがあるかのようだ。しかしそれが何なのかについては明らかにしないままだ(これまたずるい)。自己弁護になるが、これは「13」にはメッセージがあるという、当時あった(あるいは今も)論を受けてのことである。「13」におけるメッセージの有無、あるいはあるとすればその妥当性はおくとして、「バイファム」(旧作)には上述のとおり、とりたてて言うほどのメッセージがあるようには見えない。そこに今さら「13」が何かメッセージを持ち込もうとしたら、やはり一筋縄ではいかないだろう、というのは身勝手な見方だろうか。

付記2(2000.1.28)。1999年10月から2000年1月にかけて「今、そこにいる僕」というTVアニメが放映された(WOWOW、ノンスクランブル; 参考: 今、そこにいる僕)。賛否両論かまびすしいこの作品だが、戦争という重いテーマに正面からとり組んだという評については、どの意見も一致を見るだろう。少年少女が戦争に巻き込まれたらどうなるのかを、(戦争場面に関して)娯楽性をここまで抜きにして描いた作品は、SFを題材にしたTVアニメでは今までなかったし、これからもそう簡単には現れそうにない。「今、そこにいる僕」は、率直に言って「痛い」アニメだった。たった1クールだったが、話が進むほどに直視しづらくなり、そのつらさは第12話で頂点に達した。とてもじゃないが2クール以上放映されたら見続けることができたかどうかあやしいものだった。
本当はこうなるだろう、というのは誰もが認めるだろう。しかしそういうアニメばかりではとてもじゃないが制作者も視聴者もやっていられない。「バイファム」が甘いのは認める。だがもし戦争の悲惨な側面を本当に扱おうとするなら、その時点で「バイファム」のような作品はそもそも成りたたなくなってしまうのではないか。なら制作するな、と言われればそれまでだが、――が、「バイファム」やそれに類似した作品がないTVアニメははたして面白いのだろうか??(面白ければなんでも許容されると言っているのではない。)


Vd: 1998.8.14

「バイファム」は成長の物語か

僕はOVA4巻でのケンツの軍服姿を見て絶句した[*1]。ただ安直なばかりでない。スタッフもずいぶんとむごいことをするものだと思った。彼が軍人になったら――どうも悲劇的な結末しか思い浮かばない。『帰らざる夏』(加賀乙彦)の省治や、『アドルフに告ぐ』(手塚治虫)のアドルフ・カウフマンのように。例えば、自分が参加していた戦場で、ガイが戦死したと後になって知り……、とか、自分が殺した少年兵がガイにそっくりな子で……、とかだ。ククトでガイと感動的な別離を見せた彼は「バイファム」での冒険行中、一体何を見、感じ、思ったというのか。もちろんそれはもとより承知の上で、あえて期すところあって軍人を志したとも考えられる。しかし「ケイトの記憶」での彼を見る限りとてもそうは思えない。
ひるがえってみれば、既に「バイファム」の中で描かれる彼も終始ほとんど変わらない。終了直前の第45話の彼ですら、物語当初と変わらずククトニアンをあしざまにけなし、戦闘に参加できないことに不平を漏らす。ここまでくると、(あえてきつい物言いをすれば)単純というより「死ななきゃ直らない」としか言えない。「バイファム」は確かに「2年間」[*2]ではなく半年ほどの物語だ。それにしてもその半年の間に心の成長をとげるには十分すぎるほどの体験をしたはずだ。
実はこのことは他の12人にもあてはまるのではないだろうか。無論スコットは様々な面で大きく成長した。しかしそれ以外の人間はどうだろう。ロディも確かに成長した。顔つきも変わったし身長まで伸びた。物語の中のレベルで説明するとすれば、「成長」ということになるだろう。しかし、「バイファム」を多少なりとも詳しく知っている人なら、それが成長というよりは、制作側による設定変更であることを指摘するだろう。さらにバーツ、マキ、カチュア、ジミーといった子どもたちに成長をみるのはほとんど不可能といえる。ただしカチュアは物語上特異な役割を担った子だから、そういうことはさせづらいということはある。
そもそも成長とはどういうことだろうか。スコットの場合、それは苦手・短所の克服だった。他の子どもたちにも短所はもちろんある。クレアのヒステリー、不器用、シャロンのつつしみのなさ、ペンチの潔癖性、ジミーのやや自閉症なところ、フレッドの心配性……しかしこれらはスコットのときほど大きく改まることはなかった。それはある意味当然である。シャロンがスカートをはき、ペンチがあけすけになる――そんなことになったら、13人の人間関係は著しく変わってしまう。ここまで極端に変わったらおかしいにせよ、事実彼女たちがおしまいまで同じ調子だったことには変わらない。「バイファム」では、シャロンは「下着をつけないで寝」なくてはならないし、ペンチはそれを糾弾しなくてはならない。クレア、フレッドは多少変化をみせたが(ただクレアは短所もあまり表面にあらわれなかった)、ロディ、マキ、バーツ、カチュアなどに至っては最初から目立った欠点がなかった(マルロ、ルチーナは残念ながらかなりステレオタイプな子どもに描かれていた)。
むろん、長所がさらに伸びるのも成長だ。だが、「バイファム」の子どもたちは、自分たちの得意な才能を、早い段階から大人顔負けで発揮していた。成長の余地がないほどに。フレッドとシャロンの器用さ、カチュアの賢いところ、マキの料理(これは取り立てて言うほどでもないか)等々。あえて指摘するとすれば、ロディとバーツのパイロットとしての才能だろうか。しかし自分が「パイロットじゃありません」と事あるごとに叫ぶ彼ら(ロディだけか)が「戦士として成長」を遂げたことはあまり強調されなかったように思う。冷静に観察すれば、めざましい戦果を挙げていることは確かなのだが、そもそも「バイファム」では戦闘自体がややもすれば軽く流されがちだったように思える。ロディがついにミューラァに勝つことがなかったことに端的にあらわれているといえばよいだろうか(このあたり異論があるだろう)。
もしくは悲しみや不幸を乗り越えるのも成長といえるだろう。が、これもケイトの死が彼らに長く影を落とすことはなかったように、「バイファム」ではほとんど扱われなかった。まして他の登場人物の死については今さら述べるまでもない。もし13人のうち誰かが死んでいたら、随分と変わっただろうが、制作側はそれを拒否した(それが悪いと言っているのではない、念のため)。
結局「バイファム」では13人の既にある性格を繰り返し描写することに主眼が置かれていて(それは大いに成功した)、その性格をいじるようなことはしなかった、あるいはやりにくかったのではないだろうか。「パフェークト・メモリー」の中で芦田豊雄が「(後半、ロディの設定を)最初計算しすぎて、崩せなくなった」というのはそういうことではないかと思う。13人の子どもたちを描き分けることは大変なことだ。短所は一面ではその子の個性であり、魅力である。それをいわば重ね塗りするように表現することで、一人一人の存在感を強めたといえる。ケンツについてもそうだろう。スコットについてつけ加えれば、彼の成長は物語上要請されていたということだ。 が、それにしてもケンツはもうちょっと何とかならなかったのだろうか。彼の成長はほかの子たちのそれと違い、「バイファム」の主題とも深く関わっている。彼のククトニアンに対する態度の変化をもっと大きく取り上げても、破綻をきたすことはなかったと思うのだが。現に描かれている分、すなわちカチュアへの接し方や、ガイとの友情は、どちらかというと彼の初めからの「いいところ」があらわれたときのように見えた。つまり、目の前にいるククトニアンと頭の中で描くククトニアンの像の間に乖離があるのだ。後者を前者にあわせられて初めて成長と言えよう。

*1 マルロがまるで楳図かずお(「うめ」の字がちゃんと出ていないかも)の某漫画の主人公みたいだったのもショックだった。
*2 Deux Ans de Vacances <『2年間の休暇』>――『十五少年漂流記』の原題。