No.156 尾瀬ヶ原と至仏山2228m 平成15年(2003年)7月26日〜27日 |
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第1日=上越新幹線・上毛高原駅-《バス》-鳩待峠〜山ノ鼻〜尾瀬ヶ原(上田代付近)散策〜鳩待峠-《タクシー30分》-尾瀬戸倉温泉 第2日=尾瀬戸倉温泉-《タクシー》-鳩待峠〜オヤマ沢田代〜小至仏山〜至仏山〜鳩待峠-《タクシー》-上毛高原駅 |
午後2時のヒツジグサ |
アカモノ(イワハゼ) |
*** コラム *** しかし時代は変わった。「水を飲んじゃいけない」と云われていたのが「水分は十分に摂りなさい」というふうに山での常識が変わってきたように、それからの長い月日は登山をする人たちをして登山そのものの考え方を大きく変化させてきたように思う。各地の登山道が整備されてきたことにも一因があると思うけれど、特に大衆登山の領域において、その変化が顕著であるようだ。そしてその変化の結果は、嬉しいかな、私が若い頃に意図していたものでもあった。 近年の大衆登山の位置づけは、レクリエーションとして、子供から高齢者までの誰でもが、いつでも参加のできる、健康づくりに役立つ生涯スポーツ…、と云ったところだろうか。確かに、チャンピオンスポーツ(=競技スポーツ)にはない遊戯性や社交性を大衆登山はもっている。「登山」という単語から(死への)ロマンとかチャレンジ精神とか冒険心とか緊張感といったニュアンスがなくなってきてしまった、と云えばそれまでだけれど、その穏やかで安らぎのある風潮を私はとても良いことだと思う。登山は、本来苦しむものではなく楽しむものなのだから。 ここ数年、本項のような5〜15人程度のグループ登山をしばしば経験するようになり、単独行や夫婦登山では味わうことのできない「良さ」をしみじみと感ずるようになってきた。「団体」が悪いのではなく、登山に対する当時の一般的な考え方が私の意にそぐわなかっただけなのだ。まさに「目からウロコ」だった。都会ではときには鬱陶しいとさえ感ずる人間関係が、ここでは人間本性の温かい部分だけが凝縮されていて、とてもさわやかだ。 尤も、山中の大アクシデントなどで体力気力の限界付近にお互いがなったら、また違った側面も見えてくるのかもしれない。感性はアスファルトジャングルに逆戻り、なんてことになるかもしれないし、人間性の温かみがより強調され「火事場の馬鹿力」を発揮するかもしれない。それらもまた一興かな…。 その功罪についていろいろ云われているけれど、少なくも安心登山・安全登山の範疇で、他のハイカーに迷惑のかからない程度のメンバー構成ならば、グループ登山はおおいにけっこうだと思う。 * その危険性: グループ登山(ここでは2人以上の複数名での登山をさす)の一員と思われるハイカーが、かなりの距離を置いて離れ離れに山道を歩いている場面に出くわすことがよくある。そんな光景を見ていると私は決まって恐怖を感ずる。 複数登山でよくありがちで怖いのは、お互いが見えない距離まで離れてしまって、そのうちの一人かひとかたまりの数名が、たまたま道を外してしまったときだと思う。お互いの携帯電話が通じたりして連絡の取れるときはいいのだが、そうでない場合(ほとんどの場合だと思う)はお互いが捜しあって、無為に時が流れ疲労も蓄積される。つまり“遭難または遭難一歩手前”になってしまうのだ。誰にも告げず一人でキジウチやお花摘み(トイレ)へ行って、そのまま行方不明になってしまった、なんてことも集団登山ではよく聞く話だ。医薬品や食糧などの共同装備をザックに入れているメンバーが行方不明になったとしたら、残されたメンバーも相当にヤバい。 複数登山の歩くペースは最も弱い人に合わせる、というのは山の鉄則だが、その理由のひとつは隊列をばらけさせないためだと思う。どうしても別々に一人で(勝手に=マイペースで)歩きたいのなら単独行をお勧めする。そうすれば最初っから気構えや気合が違うし、それに伴ってザックの中身(装備)も違ってくる。道迷いなどによる遭難の確立はずっと低くなるはずだ。 山では絶対的な決定権を持ったリーダーは、それらを踏まえたうえで、色々な意味で常に神経を使わなくてはいけないのだけれど、メンバーの一人一人が常にリーダーと同じ立場で考えることのできるようなパーティーが理想的だと思う。地図もコンパスも持たずに、行き先の地名さえ分からないまま、ただリーダーのあとについていくメンバーだらけのパーティーは、はっきり云って「遭難予備軍」だ。リーダーだって間違うことはある。私などは自慢じゃないが、道などはしょっちゅう間違っている。しかし、その度にメンバーの誰かが、必ず声をかけて方向を修正してくれる。そう、私はメンバーに恵まれているのだ。 * 蛇足になるが、バスを連ねての何十人何百人の大パーティーというのは、是非ご勘弁願いたい。賑やかなのが嫌いということではない。狭い山頂などで景色を眺める隙間がなくなってしまう、ということでもない。(なんとなれば、マンウォッチングに専念する、という手がある。) 私が大パーティーを嫌う理由は一つ。細い山道で大パーティーに道を譲ったり譲られたりすることが、とても難儀だからだ。道を譲るときは長い時間が無為に過ぎ、道を譲られるときは気を遣って急ぎ足になり、どちらにしてもペースを大きく崩される。それが同方向へ進んでいるときで、しかもペースが同じくらいのとき、つまり抜いたり抜かれたりのときは、それはもう本当に大変なことなのだ。 * 単独行、夫婦登山、アベック登山(ちょっと古いかなぁ)、気の合った者同士のワイワイ登山、そしてグループ(集団)登山、等々…。それぞれにそれなりの楽しみやノウハウがあるとは思いますが、せめて山へ入ったら、老若男女のすべてのハイカーは善男善女でいたいものです。山で出遭う人たちはみんないい人たちばかり。それが「山」の良さのひとつであった、と私は記憶しています。そしてこれからも、是非そうあってほしいと思います。 |